四、
五月に入ってからりとした乾季の日々が続くと、サモアの独立を記念する日が近づく。サモアは一九六二年一月一日にニュージーランド施政下の国連信託統治地域から独立した。六月の始めの週をその記念日とするいわれについては僕は分からない。ただ、この週を全国的に独立を祝うものとして定めている。
各村、学校ごとにその時期は一年中でクリスマスの次に大きな行事やイベントだらけになる。
最も知られているのが国家元首マリエトア=タヌマフィリ2世の御前でとり行われるパレードだ。朝早いうちから村単位、学校単位の行進隊が国会議事堂前の芝生の大広場にこぞって、午前八時過ぎから順番にならい、元首の前を行進する。ちょうど御前の位置まで歩みよって通りぬけるとき、一同はいっせいに立ちどまって元首のほうを向き、敬礼をする。このシーンは随時国営テレビで放映されるので、テレビ画面などにまともに顔が写ったりすると、村や家に帰った時などはかなり周囲にちやほやされる。目立ちたがりやのサモア人にとっては格好の見せ場になった。
しかし、彼らは基本的に礼儀や作法を重んじるために、パレードそのものにはどちらかと言うと厳かなムードが漂う。間違ってもカメラに向かってウィンクやVサインをしてはならない。
さて、音楽学校にもドでかい企画が持ちあがっていた。それは準備段階としては二月の中ごろから始まっていたのだけれど、ここに来てようやく実現しようかという運びになったものだ。そのシロモノとは、サモア初のオリジナル・オペラの上演だった。これまではキリスト教劇など、既製のオペラについては幾度となく上演されたけど、サモア人の手による、サモア人が主人公のオペラとなると、ただの一度も公けの場で演じられることはなかった。
台本と作曲を担当したのは、校長の旦那で、かつては合衆国の本場のジャズ・バンドでサキソフォーン奏者として腕を鳴らしたらしい、レレウアだった。
そのドラマの主人公はマリエトア=ファインガー。この何百年も前のサモア国王の名が広く知れわたっていたのには、特別な理由があった。
「マリエトア」とはサヴァイイ島から生まれた、伝統的な王族系の由緒ある家名だ。かつてのサモアには(サモアだけではなく、これはポリネシア人全体の慣習だったらしい)食人の文化があった。これはカニバリズムと呼ばれる。特に「少年の心臓を食べると永遠の命が得られる」という迷信は、キリスト教が入ってくる以前のサモアでは、深く民間に浸透していたと言われている。
物語は、この迷信をもとに進行する。毎日のように少年の心臓を食していた王、マリエトア=ファインガー。その姿を見て、実の息子ポルレウリンガナは心を痛め、父王に食人の習慣を止めさせようとする。自らが生贄を装って王の前に椰子の葉でつつまれた姿で現れ、「どうぞ私の心臓を食べて下さい。実の息子を生贄にする気分はどうですか。父上に子を思いやる親心があるのならば、どうかこれ以上人民の中から悲しむ親を出さないで下さい」と懇願し、ついにはファインガー王を説得、改心させて食人の文化に終止符を打つという経緯を描いた物語だった。
1. Malietoa Faiga, le tupu o Samoa
Tagi sisifo
tagi sasae ua lou malo gasegase
※E te tagi mai sau tausami, Faiga ea ua e manao lasi
人間の心臓ばかりを欲しがる
2. Nuu po, oe, e lei malamalama
Talofa Samoa
遠い昔、まだ人々が「いとおしいサモア」に気づかないでいるとき
O sauaga
Malietoa Faiga sa pologa ai talu lou saua ma le feai
マリエトア=ファインガーはただその残忍ぶりで奴隷たちをこき使っていた
3. Tualagi, le nuu sili le nofoaga na maliu fasia ai
王様が成敗されてからというもの、この世は最も住みよい場所となった
Talofa
Samoa, ua uma ona aso i le pologa saua ma le feai
「いとおしいサモア」よ、もう王様の非道ぶりに服従する日々は終わった
このレレウアが作詞と作曲を手がけたオペラの導入歌は、開幕前の舞台にようようと響きわたった。それはいかにもサモアにふさわしい、生き生きとした明るい旋律でつづられた歌だった。
場所は〈同胞と再会する〉という名の大ホールで、立ち見の客を入れると、一千人は収容できそうな教会付きの公会堂だった。
僕はあらかじめこの日の本番のためにドミトリィの掲示板には「お知らせ」を貼っておいた。
「六月一日、二日、三日、午後六時より、音楽学校主催、サモア初のオペラ『マリエトア=ファインガー』上演!場所は〈最後の水〉川近くの〈同胞と再会する〉ホールにて」
ひょっとすると、このA四版のコピー用紙の、即席でつくったちゃっちいポスターを見て、夏央理が見にきてくれるかも知れない。ひそかな期待に胸が躍った。
そしてオペラの初日、実際に彼女の姿が会場内のとある席でちらりと見うけられたとき、僕の鼓動はいつになく高なった。やっぱり思った通り夏央理は見にきてくれた。ポスターよ、お前はその役割をちゃんと果たしたぞ。
その日は南アフリカ共和国で開催していたラグビーのワールドカップ予選でサモア対アルゼンチンの試合がひかえていた。もと英国連邦に属していたサモアは、フィジーやトンガ同様にラグビーが一番盛んなスポーツで、なおかつ毎回ワールドカップでは八位以内に食いこむ実力を持つ。この国のラグビー熱はもの凄い。特に自国のナショナル・チームとなる『野獣・サモア』のゲームがある時間は国民全体がテレビに釘づけになるので、アピアの町は都市として機能しなくなる。仕事中でも誰もが手を休め、くい入るように眺める。この時、働かせている手を止めることができないのは手術中の医者くらいなもので、あとの者は全員テレビ中継やラジオ放送にほうける。
夏央理は看護婦・笹本裕子と一緒だった。オペラの前にはいくつか前座のバンドがプログラムに組みこまれていて、そのうちの一つに裕子の恋人松井幸司が鍵盤で伴奏して、紗絵の友だちだったフォウが歌う、という共演があった。それを考えると夏央理が参じてくれた理由としては、何も僕のポスターが功を奏したわけではなく、単純に幸司の舞台のために裕子が夏央理を誘っただけとも勘ぐることはできた。けれども僕にとっては彼女がここまで来た動機についてはさして大きなことではなく、彼女が来てくれたという事実だけが心を震わせた。僕の心臓はひな鳥のようだった。今にも初飛行に舞いのぼる直前の、浮かれ気分があった。
そうするうちに『マリエトア=ファインガー』の初幕が切って落とされた。それは待ちに待った、音楽学校としても四ヶ月越しの、無謀ぶりを恐れない本番だった。
伴奏は鍵盤二台だけで特に大掛かりなオーケストラが居るわけではない。出演者たちはファインガー王役を務めた役者をはじめ、ほとんどが西洋風のオペラの経験者だったので、危なかしい箇所はありながらも物語はとどこおりなく進行していった。
第一幕、ファインガー王の独唱。第二幕、民衆の嘆き。第三幕、王様の妃がこれ以上犠牲者を出さないようにと申しいれるが、ファインガーはこれを請けつけないで相変わらず若い男の心臓を食する・・・・・・
ここで伴奏の鍵盤にアクシデントが起こってしまった。拡声器用の被服電線が接触不良を起こして突然「ガガガガッ」というとんでもない雑音が舞台上に轟いた。役者はただ自分の役に夢中になっているので全くその異変に気づいていなかったけど、鍵盤を弾いていた二人は、冷や汗をかいて目をうるうると滲ませ、今にも泣きだしそうに震える手で顔を覆っている。とは言っても演奏を止めるわけには行かないので、かろうじて残っているほうの手でやぶれかぶれの演奏を続ける。そうすると、しばらくはまたもとの状態に回復したように思える。ところがまた「ザザッ、ザザッ」という耳障りな雑音が劇の進行を妨げる。
ここにきてようやく役者たちもそのトラブルに気づき、最初のうちは「何だろう」「劇中の効果か」と思っていた観客のほうもざわつき始めた(その中にはJICOのサモア事務所長も居た!)。国営テレビのカメラがこのぶざまな、羞恥に満ちた失態を職業的にくまなく収録していた。
「何をしているんだ」僕の心は恥ずかしさや焦りを通りこして、いっきに憤りまで達した。この程度のミスならリハーサルを徹底することで当然回避できたはずだ。直前の舞台試演ではその日の機材を含めたすべての装備を、必ず本番と同じ条件で行うのは鉄則だ。演出側、つまり音楽学校側はその鉄則を破った。いや、そういった決まりごとがあることさえも知らない風だった。先生たちはリハーサルで使っていた被服電線を本番では、理由もなくとり替えた(張本人は校長の長男のスティーヴだった)。とり替えなければならないという必然性はなかった。試演奏の時点では雑音などもなく、とりたてて問題はなかったからだ。今回のアクシデントは起こるべくして起こったもので、意味も無い被服電線の交換がその原因だった。
結局トラブルは幕が閉じる最終章まで解消されることはなかった。「ガガッ」「ザザザッ」という破裂音が物語の進行を邪魔するたびに、僕はドギマギし、他の先生たちも頬を引きつらせながら祈るように舞台を凝視していた。このまま時間が止まって、自分たちだけ動くことができたならと思う。そうすれば、観客に気づかれないうちにほんの一瞬で接触不良を起こしている現状の電線を取り替えることができる。
唯一の救いは役者たちが機材側の失敗に惑わされることなく、無難にそれぞれの役を演じきったことだ。彼らは経験が豊かだったこともあって、ほとんど雑音につられてセリフを間違えるようなことはなかった。
第四幕、とある村で結婚式をあげたばかりの若い男に、次の朝の王様の生贄に処せられるおふれが通達される。悲しみにうちひしがれた新郎は妻とともにトゥトゥイラ島(現アメリカン・サモア)へと逃避行する計画をたてる。夜のうちに逃亡してトゥトゥイラ島に渡った二人はそこで出会った家長に手厚く保護される。
第五幕、またもや王様の犠牲となることを強いられた別の夫とその妻が登場して、この世の不条理を嘆き悲しんでいる。そこへ王の寵愛する息子のポルレウリンガナが現れ、自分が身代わりとなる意志を二人に伝える。息子は自らが採ってきた椰子の葉の上に寝ころんで、左右対称に延びた椰子の葉と葉を結びあわせ、体全体をすっぽりと包んでもらう。
第六幕、ファインガー王の食事の御前に運ばれた、椰子の葉の包み。王が訝しげに葉っぱの結び目をといて行くと、何とその中からは実の息子が現れる。
「もうこれ以上、若い男の心臓を食することは止めてもらえませんか」――父王に懇願するポルレウリンガナ。犠牲となる人間が実の息子であることに戸惑いを覚えた王は、いったんは息子の出すぎた真似をそしりながらも、一変して自分が間違っていたことを認め、息子の覚悟の行為とその勇気を賞賛して、その後は彼に感謝の意を表する。
「もう二度と人の心臓など食さない」――ファインガー王はそう誓うのだった。
最後は出演者全員が舞台に登り、大合唱となる。
Logo atu le malo, ua
ala le tupu
御国に告ぐ、 王は目覚めた
Ua uma ona le aso o le
tupu
王様の時代は終わった
Amata atu le ao o le
Atua
これからは神様の夜明けが始まる
一八三〇年、サモアに初めてキリスト教が伝来する。持ってきたのはロンドン伝導教会の宣教師ジョン=ウィリアムスだ。その時、キリスト教団は半裸同然で生活していたサモア人に対し強制的に服を着させた。土着の原始信仰は穢らわしいものとして一掃された。特に食人の習慣などはもっての他だった。宣教師たちは無知(この場合は神《の存在》を知らないこと)から生まれた過去の信仰をすべてうち消し、神の絶対的な愛と、それを導いてくれるイエスに対してのみ祈りを捧げるよう、サモア人に教育した。そのため、キリスト教がやって来る以前を「Nuu
po(暗黒時代)」と呼び、それ以後は「Ao o le Atua(神の夜明け)」と呼ばれる。
宣教師ウィリアムスはまた布教のための主導権を握る目的で、強い政治力を利用した。つまりは土地の権力者たちと手を結んだわけだ。これは日本において、室町時代末期のイエズス会がまず九州の大名たちを味方にとり込んだやり方と全く同じだった。
サヴァイイ島の〈大酋長の地〉のマリエトア家はウィリアムスに〈ススンガ〉の称号を与え、変わりにマリエトア家を〈アフィオンガ〉の敬称で呼ばしめた。ともに現代でもサモアに残る敬称で、今では伝統的なカトリックの旧家を〈アフィオンガ〉、それに対して外国人や技術者、教師のことを〈ススンガ〉と名字の前に付けて呼ぶのが慣例となっている。
オペラは終わった。それは真しくサモアン・オリジナルオペラの初公演だった。出来栄えとしてはトラブル続きだったために、決して華々しいものではなかったけど、それでも入場者数は七百人を超え、興行的には一応の成功を収めた。
終幕後、バタバタと足音だけが板敷きの床面に響き、口数少なに後片付けをしているスタッフたちを横目に眺めていた僕の心は、どうにも収拾がつかないでいた。しばらくの間、僕は客席の隅っこのほうで呆然とつっ立っていた。
やはりあの雑音による失敗が許せなかった。だからといって、今後二度と同じ過ちを繰りかえさないとも限らない。その可能性についてもまだありえることだったので、先生たちを反省させ、改善策を練るように仕向けることが必然であるとも思われた。
ところがこと反省するとか改善策を談義して良い方向に持っていくといったことほどサモア人にとって苦手な分野はなかった。そのことで余計にいらだちが僕を襲う。そして「何を言っても無駄だ」という絶望感が僕に追いうちをかける。
もう駄目だ。彼らは何を言っても分かろうとしない。楽観主義は大好きだけど、それも度を過ぎるとただの怠慢でしかない。所詮は途上国なんだ。これが途上国の途上国たるゆえんなんだ。この国にはからっきし進歩などという意識は存在しない。そうだ、サモアは永遠に途上国であり続けるしかないんだ。――だったら何故、何のために僕は今、この国に来ているのだろう。
ムシャクシャした気持ちのまま、僕はホールをあとにした。教師という自分の立場を考えると、片付けが終わって、生徒たちが全員帰路につくまで居残るのが正道だったけど、サモアの習慣では、年上の僕が先に帰ることが許されていた。年下の彼らは最後の最後まで働かなければならない。しかし、家が遠い生徒はもうすでに居なかったし、残っていた連中はそのまま翌日にそなえて学校で寝泊りする手はずになっていたので、そのための引率は、校長の長男であるスティーブが担当していた。
僕が残らなければならない理由はなかった。そういえば気づかないうちに夏央理と裕子、そして松井幸司の姿も見あたらない。
路地に出てから、蛍光灯の品の無い街灯を頼りにぶらついてみたものの、どうしても僕はこのまま住居に帰る気にはならなかった。そこで〈最後の水〉川の橋を渡ると、JICOのオフィスを右手に通りすぎて「ラヴァーズ・リープ」に立ちよった。前にも紹介したけど、ここは大きめのショット・バァで、夕方にはアピア湾の落日を一望できる海岸道路沿いにある。殺風景さを無理やり色付きのライトで塗りたくったような雰囲気は、町にある他のバァやディスコとほとんど変わらない。ただ、ここにはカウンターだけでも十人は座れそうな広さがあって、暗がりの中で音のしないテレビがわめき、ちょっとしたステージがもうけられている隣りの空間では、客のうち何人かがいつもダーツや卓球をやって興じている。それでも手狭な感じがしないのは、よほど場所が広いのだろう。キャパの最大はスタンディングで四〜五百人、全員が座っていても七〜八十人は入れそうだ。
あえてつけ加える必要もないけど、音楽は四六時中、けたたましいビートとともに流れている。南洋調のメロディとハーモニィに、カリビアンなレゲェ調の拍子が融合したものだ。
オーダーするものはもう決まっている。〈手の水〉の小ボトルかジン・トニックだ。メニューだけ見ると、多彩なカクテルが各種並んでいるけど、実際に頼んでみると「今日は無い」だとか「今日はできない」というボーイの返事がほとんどで、要は表向きだけ種類も豊富に構えているだけだった。だから〈手の水〉(これだけは間違いなく置いている)かジン・トニック(カクテルの中ではこれが一番人気で、他にはラム&コークならたいていやっている所が多い)ということになる。一人で一つのテーブルを占拠していると、見慣れた顔ぶれが通り道から店の入り口へと入ってきた。僕はその中にはっきりと夏央理の姿も認めた。
やって来た三人組は、何てことはない、さっきまで〈同胞と再会する〉ホールで居あわせていた松井幸司と笹本裕子、そして夏央理だった。彼らは手に手にグラタンやクッキーなどのつまみとなるものを引っさげて登場した。僕と目が合って、声を交わすとどうしてこの場に参入したのかを幸司のほうから説明しだした。
「今日はこれから『野獣・サモア』のワールドカップ・ゲームがあるんだ。対戦相手はアルゼンチンだよ。全員で見れるようないい場所をあたってみたんだけど、呑み屋でテレビを置いているのはここだけだろ。もちろん、試合が始まったらチャンネルは衛生中継に変えられるだろうから、この『ラヴァーズ・リープ』でワッと盛り上がりましょうってことで、場所を移してここにつまみを持ち込んだって訳さ。」
幸司が言っているのは、ラグビーの世界選手権のことだ。南アフリカ共和国では現在四年に一度の熱い戦いが繰りひろげられていた。サモアの試合は、たとえ予選であってもニュージーランドを中継して必ず放映される。
マヌ・サモアの公式戦は、国民行事みたいなものだ。前述したように、それが昼間の労働時間と重なっていたりしても、サモア人は仕事どころではない。政府や官僚を含めた国そのものが全く機能しなくなる。チームが試合に勝とうものなら、お祭り騒ぎだ。たとえ負けたとしても余り悔しがらないのがサモア人の気質で、後くされが無い。
ところで呑み屋への持ち込みにはあまりうるさくはない国だ。バァから別の料理屋に出前を頼んだって構わないのだから、こういった感覚には、いわゆる西洋式のマナーにかぶれていない、サモア風の味があった。
「今日はごくろうさん。色々と大変だったようだけどね、いつものことながら。」
幸司は話題を僕のほうに振った。
「どうでした?『マリエトア=ファインガー』。なんか、オリジナル・オペラというのはサモアでも初めての試みだったようなんだけど。」
僕は夏央理と裕子に伺いをたてるように答えを求めた。
二人はもの言いたげに互いの顔を見つめて、うなずきを挟んでから笑みを零すように、
「サモア語でやってたから、全然話の内容がつかめなかった。」
と裕子が先に答え、後を追うように夏央理が、
「そう、せめて英語でやってくれたら、まだよかったんだけど。」
とつけ足した。
それでも二人の言葉には謙虚さが見られた。そう、考えてみれば居合わせたこの四人は、西田紗絵がサモアを出発する前に、彼女の家に集まった顔ぶれと全く同じだった。もちろん紗絵を抜いての話だけども・・・・・・
テレビ中継が威圧的に始まった。
「相手のアルゼンチンというのは強いんですかね。」
僕は幸司にきいた。
「強いというか、まっ、独特なプレイをするんだよね。だって彼らにとってみればやっぱサッカーのほうがスポーツとしては人気がある訳でしょ。アルゼンチンのラグビー選手っていうのはそういう事情でサッカーからの流れ者がほとんどなんだよ。だからキックだけとると強いし正確だよ。球回しは、世界的に見るとまぁまぁ並ってとこかな。」
そんなことを話している間にもアルゼンチンは難易度の高いペナルティキックをすでに一つ決め、早くもサモアチームをリードした。
対するマヌ・サモアも負けてはいない。古典的な、チームワークを活かしたボール運びでアルゼンチンチームを追いあげる。
「イエス、『野獣』!」
サモアチームがボールを持つと、夏央理もトーンの高い力強い声でこの言葉を連呼した。
夏央理の声はセクシーではなかったが、繊細だった。柔らかく甘いケーキというよりは、ほの酸っぱい苺のような声だった。鼻にかかった発音には、幼さを帯びた青みがあった。それは熟する前の果実。僕は彼女の声という果実にはライム色の香りを添えてあげるべきだと思った。
ゲームは抜きつ抜かれつの展開で後半戦に突入する。しかし先取点をとられたサモアのほうが押され気味で、不利な戦いを強いられた。
アルゼンチンはことごとくペナルティキックでゴールを決め、小刻みに得点を重ねて行く。
後半残り十分余りでアルゼンチンがまたまたペナルティゴールを成功させると、バァのあちこちではサモア人たちの舌打ちが鳴った。もう逆転をするには相手に点を許すわけにはいかない。しかも味方はトライを決めて、さらに次のゴールキックもポールの内側をなぞらせない限り勝ちはない。
五分後、「ラヴァーズ・リープ」に居た大勢の客たちがかたずを飲む中で、テレビはマヌ・サモアの三回目のトライのシーンを映しだした。そのまま皆なが一心に祈る静寂の中、胸の高鳴りの間隙を縫うように、楕円形のボールがゴールバァの内側をえぐった。トライの後のキックによる得点、それはサモアチームの逆転の瞬間だった。
「やった、やった。」
バァは喜びで一体になった。連鎖的に見知らぬ客同士で握手をし合うために、まわりの人たちが嬉しさのあまり踊りだすと、さながら笑いが渦をつくっているように見えた。僕たちも一緒になって体をくねらせ、彼らと酔いしれるような時間を共有した。
試合終了の笛が鳴るときには、もう僕たちは手をとり合って狂い踊るための準備をしていた。ホイッスルが聞こえる。アナウンサーがサモアの勝利を告げる。
「ラヴァーズ・リープ」では歓喜の怒涛が舞いあがった。「やった、やった」という声がしぶきのように飛びちった。
サモア語の「マーロー」には「勝利」という別の意味もある。「俺たちが勝ったんだ!」彼らは両手の拳を天に突きあげて口々にそう叫んだ。
僕は夏央理の顔を見る。彼女の頬は笑みでいっぱいだった。僕もつられて口もとをほころばせた。
「連休はどうするんですか。」
――明々後日以降、僕たちはしばらく独立記念がらみの祝日に入る。彼女はその間、僕に何をする予定なのかきいてきたのだった。
「あぁ、ホームスティのホスト・ファミリーに遊びに行くつもりです。」
「藤井さんのファミリーって、確かマナセでしたよね。すごい、いい所だって聞いたんだけど。」
「そうですね、気に入ってます。『ロビンソン』ホテルもあるし。」
「いいなぁ。そうだ、じゃ、今度連れてってもらえませんか、マナセに。」
「別にかまいませんけど。」
「きっとですよ。」
どうせ気を引くようなことを言ってくれるのなら、もっと囁くように、媚びた声で喋って欲しかった。夏央理がそこに居る幸司や裕子にも聞こえるような声で話しかけてきたので、逆に僕はがっかりした。だけどその間、彼女はずっと笑顔を絶やさなかった。
僕にマナセ村のファミリーがあるのと同じように、彼女は〈目の土地〉という村にホスト・ファミリーを持っている。それは同じサヴァイイ島にありながら、マナセとは反対側の南海岸沿いにある村だった。彼女自身、自分のファミリーには誇りがあって、特にそこで出される料理について話す時の夏央理ほど活き活きとした口ぶりはなかった。「ウチの食事は最高ですよ」と言う時の夏央理の声には、力がこもっていた。それを聞くたびに、僕のほうでは「それじゃぁ、いつかはそこに行ってみよう」と思っていた。
サモア人は見知らぬ人でも、ゲストとして寛大に受けいれる。旅人も異邦人も、寝床はもちろん食事に至るまで、彼らの惜しげもない施しを享受することができる。閉鎖的な自分の国からやって来た文明人などは、まずサモア人のおおらかなもてなしぶりにびっくりしてしまうのだった。
だから僕たちが友人をファミリーに連れていっても、全く構うことはない。たとえそれが突然の訪問であっても、彼らは広い心で歓迎してくれるのだった。
深夜十二時も過ぎたというのに、勝利の美酒に浸るべく、「ラヴァーズ・リープ」では、いまだむせ返るような熱気が充満していた。僕たちは帰宅しなければならない時間を悟ってから、バァの入り口の前で別れた。幸司と裕子、そして夏央理は帰る方角が同じだったので、僕とは別のタクシーに乗って帰った。僕は一人でナンバーに「T」の字がついた車(タクシーには車種やペイントの規定はなく、ただナンバーの一番左側のアルファベットが「T」であることだけが義務づけられていた)を見つけると、手をあげて、そのドアが半分こわれかけたようなボロタクシーを拾った。
ドライバーはにやりと笑いかけて「どうも」と言った。その「マーロー」は「勝ったぜ」という意味にもなったし、同時に「よくやった」というサモアの選手たちを讃える言葉も兼ねていた。語彙の少ないサモア語では、一つの単語を懸詞のように幾重にも広げて解釈することができた。
ドライバーはやっぱり上機嫌だった。客である僕に気兼ねもしないで鼻歌を唄っている。僕のほうもスカッとするようなサモアチームの逆転勝ちで、気分が爽やかになっているので、隣りの運転席でされる鼻歌も何の苦にもならない。もうオペラでの失敗と恥じかきのことは頭からはふっ飛んでいた。
暗闇の向こうから対向車がやって来る。町はちょっと奥まると街灯もまばらになるので、そこではお互いの車から発行するライトで存在を確かめあわなければならない。僕の隣りの髭をはやしたドライバーは、相手とすれ違う前に「プププププップープップー」とクラクションを鳴らせた。
疑いもなくそれは対向車に向かって「マヌが勝ったぞ、お前も聞いていたか?」と問いかけたのだった。向こうもすかさず「プップープププププップー」とやり返してくる。「もちろんさ兄弟、さぁ、勝利のための祝砲だ」と言わんばかりの軽快なホーンだ。このやりとりを車がすれ違うたびに繰りかえすのだから、町中はもちろん、洒落た家々が建ちならぶ郊外に至るまで、睡眠を遮るクラクションの音だらけになってしまう。尤もこれを不快に思うサモア人は一人もいないだろう。むんむんと湧きでる熱狂はいっこうに冷めやらず、車のクラクションがさらにそれを助長して、人々にご機嫌な不眠を、リズミカルな快楽をもたらしている。――そんな夜が更けていった。
――――――――――
「 前略
日本は夏本番を前にそろそろ梅雨に入るころでしょうか。もうすぐうだるような暑さがやって来ますね。反対にここサモアは空気もカラッと乾燥し、日に日に涼しくなっています。訪れた当初から比べるとだいぶ過ごし易くなりました。それでも昼間日なたに出たりすると、強い日ざしに頭がくらっとする時があります。常夏の国サモアでは、一年を通して水浴びです。熱い湯船につかることはありません。およそコートだとか、掛け布団だとかいったものには縁の無い生活です。海水浴が出来ない季節はありません。
うらやましいと思う?でも人間というのは我がままな生き物で、こう、変化のない毎日ばかりが続くと、逆に花咲く春が、燃え狂う夏が、実りの秋が、厳しい冬が、そう、日本の四季が恋しくなるものなのです。日本にいた時はあれ程南国の光に憧れていた俺だったのに!
それでも、娯楽的なものが全く無い訳じゃなく、例えばこの間なんかはオーストラリアから本格的なジャズバンドがやって来て、コンサート(と言えば格好いいが、実はただの演奏会)をやって帰った。それは仲々素晴らしい音楽で、面白かったです。あやうく飛び入りで俺も演奏するハメになりそうだったけど、何だかんだ言って、その危機だけは逃れることが出来ました。
それから、何と言っても人気が高いのがディスコ。驚くなかれ、曲は全部生バンドによる生演奏なのだ。CDやレコード盤によるDJはまだポピュラーではなく、カラオケもあるにはあるが、市民権を得るまでにはまだまだ。
ディスコに入ってまず目を引くのが「ファファフィネ」です。「ファファフィネ」とは、今風の言い方をすると「ニューハーフ」のこと。要はオカマちゃん、「おとこ女」のことです。
彼ら(彼女らと言った方が失礼ではないかも)はディスコだけではなく、サモアじゅうの至る所、村の単位まで出没する人種で、適当に話をするだけなら何も害はないんだけど、深入りし過ぎると、あやしい関係にもなりかねない。
そういった意味ではあまりお近付きしたくない人たちです。中には、非常に美しい、巧緻とも表現出来るファファフィネもいるけど、おぞましい、吐き気を催すような人もいます。その人たちは、化粧はしているんだけど、ヒゲがやたら濃かったり、スタイル的にどうしても男だったり(いかつい肩、太い腰つき、がに股など)するので、有益と言うよりも有害なんだろうけど、不思議と愛嬌があったりします。仕草が大仰で、女よりも女っぽいものだから、ついつい目を奪われてしまうのです。
ところで日本の方はどうですか。阪神大震災だとか、O教団のサリン事件とか、ぶっそうなニュースばかり飛び込んで来るけど大丈夫なんでしょうか・・・・・・」
――僕はファミリーの開けた家で手紙を書いている。壁がなく、柱があるだけのこのサモア式の家の片隅には、板で組みたてた手造りの机兼食卓を設置してもらった。吹き抜ける緑色の風があまりにも気持ちよく頬を舐めていくので、くつろいでペンを操る僕の心にやすらぎを与える。うっとりとするような西日が家の床(といってもコンクリートを平に打っただけのもの)に斜めに差し、白い、珊瑚が細かく砕けた砂が銀色に反射する。トタン屋根のサビ止め塗料の赤黒さや、前庭に気高く聳えるパンの木の淡灰色の幹と大型の手袋のような形をした深緑の葉っぱの群れ・・・村をつき抜ける舗装道路のアスファルトと、道路標示のための白いペイント・・・こういったものがすべて朧ろに混ざりあって、夕刻のこんもりとした一瞬一瞬を描きだしている。
手紙の宛て名は真実だった。彼女にこんなにも親しげではない文章を送りつけるのが、かえって馴れ馴れしい行為だと僕は思っていた。これを読んだ彼女はきっとサモアに遊びに来るに違いない。だからわざと女のことは一切書かず、ただ色事めいた題材として「ファファフィネ」のことを取りあげたのだった。
「ファファフィネ」は「ファッア・ファフィネ」がつまってこう発音されるようになったもので、もともとは「ファッア(〜する)」「ファフィネ(女)」つまり「女する(女の真似事をする)」という意味から来ていた。
さて、真実をサモアにおびき出す目的は彼女と寄りを戻すためではなかった。もともと僕らの関係はつぶれながらも吸いつく磁石のようなもので、最初から愛のかたちなどは存在しなかった。それは子ギャルと彼女たちを買う中年男よりも下衆で、ときに真の兄妹同士のそれよりも神聖だった。
告白すると、やはり山本夏央理の存在が大きかった。僕は夏央理の気をひこうとしていただけだった。つまり真実を使って彼女に嫉妬心を起こさせようとした、いかにもスノッブ的な、僕の心理操作に過ぎなかった。
だけどこれはただの思い上がりだったかも知れない。何故って、今までの夏央理の言動だけでは彼女が僕に気があるという確証はまるで掴めなかったのだから。
ともかく、僕はペンを進め、真実への誘惑の詞を選びだすことに時間を割いた。何と書けば彼女の心をくすぐることができるか、もがきながら思案した。その時、すでに真実と僕が睦まじくいちゃつくシーンを夏央理が目撃して焼餅を焼くという構図まで想定されていた。
どうして自分をごまかすことができるだろう。そのような夢想に陥ること自体、僕がすでに夏央理のことを恋愛の主体に置いているという歴然とした証拠だったのに。だけど、僕自身がそのことをはっきりと自分の中で認めるまでには、まだしばらくの時間を要した。
「カズヤ、何書いてるの?」サモア人のちっちゃな友だち、フェレニがすり寄って聞きにくる。六才の誕生日が過ぎたばかりのやんちゃ坊主は、話すことがだいぶいっちょ前になってきた。僕のもっているペンが気になるのか、それを奪いとるスキをずっと狙っている。それを無視して黙って僕はペンを進める。ついに妹のコレティまで姿を現し、僕の手の動きを邪魔しようとしている。彼女だって最初会ったときは四才になる前で、ろくに言葉もおぼつかなかったけど、今ではまともなサモア語を使って僕をからかう。
「見て見て、カズヤ」コレティは村のど真ん中をすり抜ける舗装道路のほうを指さした。
「〈贈り物〉よ。」
僕は思わずふり向いた。メアアロファ、彼女と再会することはファミリーに帰る時の楽しみの一つだった。どこでどういう風に広まった噂か知らないけれど、「僕と彼女が恋仲にある」という話が、村の若い連中には広まっていた。それを聞いたフェレニやコレティなどの子供衆は、メアアロファが僕の近くを通るたびに冷やかしたてたけど、僕もまんざらじゃなかったような気がする。
ポリネシアは、恋愛が自由な世界だ。「恋人はどこ?」という言い回しが、そのまま「やぁ」とか「元気?」といった挨拶の代わりになったりもする。
その時、狙われていた僕のペンがついにフェレニに取られてしまった。
「ウホーィ、カズヤ。このペンもーらいっ!」
誇らしげに胸をはり、突きあげたほうの片手でペンをかざすフェレニ。本当の目的は僕の気を引くことで、要はかまってもらいたいだけだった。
「アロファが彼女なんだろう?カズヤ、追っかけっこだよ。彼女の家まで僕を追っかけてきな。」
メアアロファとはつくづく素敵な名前だった。サモア人は人の名前を縮めてそれをニックネームとするとき、たいていは単語のあとのほうの発音をとって使う。つまりフェレニはあだ名では「レニ」だったし、コレティは家族の間では単純に「レティ」と呼ばれていた。メアアロファのことを村人たちは「アロファ」の名で呼んでいた。サモア語の「アロファ」には「愛」だとか、「好意」といった意味がある。つまりメアアロファとは「愛のもの」、「ご好意の品」という直訳になった。
フェレニは都合の良い口実をつくってくれた。これで彼女の家へ何のためらいもなく訪ねることができる。子供の遊びにつきそって行くようなふりをすれば、開放的なサモア人は当然のように歓迎してくれる。本当はそんな口実をたてる必要は全くなく、単独で乗りこんで行っても大いにもてなしてくれるのがサモア人なのだけど、村の若者(特にティーンエイジャー)に会うたびに「アロファとの間柄は?」というのを話の引き合いに出されてしまうので、僕はいまいちはっきりとした行動をとることができなかった。
メアアロファの家族は僕のファミリーと親戚関係にあったので、彼女の家に上がりこむことなどは、そう、実は訳もないことだった。僕がフェレニと追っかけっこをするようなふりで、家の基礎となるコンクリートの土台(地上から股下くらいの高さだろうか)に上ると三十平方メートル余りのそれほど広くはない開けた家の上にはメアアロファの姿は見あたらなくて、そのかわり彼女の両親と一番幼い弟、そしてアロファにとっては義理の兄にあたる男が夕暮れ時の他愛もない談笑にふけっていた。
彼らにしてみれば、僕とフェレニは突然の来客だったけど、特別驚いた風でもなく(このように身内同士の来訪は、サモアでは日常的だった)、当たり前のように「よくいらっしゃった」と迎えいれた。
「これはこれは、ンゲセの所の外人さんではないか。」
――ンゲセとは僕のファミリーのおばあちゃんの名前で、すでに他界していたおじいちゃん(ドイツ人だったらしい)の後を継いで家長を務めている人のことだ。ちなみにンゲセには「とろい」とか「もたもたした」といった意味がある。
「本日はいかがしましたか。」
「いや、何ともないんですが。」
僕は恐縮したまますすめられた古いソファーに座った。伝統的な造りの家には、何ともミスマッチな皮製の横長椅子だった。
僕は妙にへりくだって無口になってしまったが、会話が無いなら無いなりに笑顔だけで意思疎通ができるのがサモア人の良さだ。僕は彼らの笑顔を見るたびに日本人が意識的にするつくり笑いのぎこちなさを嫌った。サモア人は愛想笑いの心理というものを知らない。その代わりに彼らの笑いには自然発生的なものがあった。それは全く僕の気を使わせないもので、同時に僕の心をリラックスさせるものだった。彼らの微笑みは無害で、海の潮騒とよく似ていた。
フェレニも、さっきまでのいたずら小僧ぶりはどこへ消えたのか、下を向いて随分とかしこまっている。目上の前ではできるだけお喋りは控える、たとえ話すときでも大声ではなく、声を極力小さめに言葉少なに話す、それがこの国のしきたりでもあった。こんな幼い子供であっても、そういう習わしだけは肌の隅々までしみ渡っているようだった。
「この男はアロファのことが好きなんだよ。」
アロファの弟の鋭い発音がその場の焦げついた沈黙をぶち破った。かたわらでフェレニは「はっ」とするような顔をし、居合わせたメアアロファの両親と義兄の頬はにわかにほころんだ。
「ほーぅ、あいや、何と言ったっけかな、外人さん、名前は。」
「カズヤです。」
「カズヤか。あー、カズヤよ、今この子が言ったことは本当かい。」
僕は返答に躊躇した。するとそれほど間を空けずにその小さな伝達者は、
「本当だよ。だって村じゅうで噂していたのを聞いたんだ。この男とアロファが恋仲にあるって。」
「それはそれは、初耳だったな。」
義兄にあたる人がこれを受けて話を続けた・・・
「――ところでカズヤ、あんたは今何才になる?」僕が二十五だと答えると「うーん、アロファは、あの子は確か十六だったよね、ポーニウ?」
ポーニウはメアアロファの実父の名前だ。このようにサモアでは身内の者を(親であっても)呼び捨てにするのだった。
「そう、十六になるね。今は初等学校も終えて家で働かせているが、将来は外国で出稼ぎさせようかと思っているのだ。ああ見えてもあの子は頭がいいし機転がきく。だが・・・・・・あんたがアロファを嫁にもらいたいと言うのであれば話は別だ。十才ほどの年の差のある夫婦はサモアでも大して珍しいことではない。どうなんだ、カズヤ。本気なのか。」
「・・・本気なのか、それとも違うのか?」念を押すように義兄のシーオは言葉を反復させた。
母親のルタはさっきから黙って会話の行方を追っている。パンケケと呼ばれる、小粒な揚げパンのようなお菓子をかたわらに置いて、一切れずつそれをむさぼるように口に含みながら、僕たちの対話を眺めている。
僕は戸惑った。即答には応じられないことをどうやって上手く説明できるか、考えあぐねていた。
ここで一言「そうだ」と答えれば、何の障害もなくこの父と母が結婚まで運んでくれるだろう。サモア人にとって外人と結婚することは都合の良いことだった。経済的に家族の大きな支えになるからだ。
相手が白人ならば申し分ないところだけど、日本人でもまったく構わない。「日本人は金持ち」というイメージは、サモア人にも広く認識されていた。その象徴として、サヴァイイ島の〈背骨〉村には日本の援助で建てられたマリエトア病院があった。この病院は平屋ながら現代風な設計でできていて、南国の太陽は肌色にペイントされた鉄筋コンクリートの建物をまばゆく写しだした。それは砂漠の中のオアシスのように、サモア式の家と家の間からいつも忽然と姿を現すのだった。
メアアロファは確かにかわいい娘だ。褐色の、柔らかそうな口もとからこぼれる白い、整った明るい歯の並び。鼻梁は鋭く通っていないものの、決しておごることはなく、愛嬌のある形をしている。魅力的なのは目だ。くっきりとした二重瞼で、媚びるところがなく、純粋さを彩りながら白眼は喜びを、黒目は熱帯の悦楽を浮きたたせていた。
僕は無意識のうちに日本人のやり方でつくり笑いをしている自分に気づいた。すぐに答を出しても良かったのかも知れないけど、とにかくこの場はシラを切ったまま通すことにした。そんな安易な所作を選ぶ自分に嫌悪しながら。
「まぁゆっくり決めなさい。あんたもアロファもお互いにまだ若いんだからねぇ。」
初めて母親のルタが口をきいた。それは彼女がじっくりとその場のやりとりを聞いて判断したもので、タイミングもよかったし、話の的も得ていた。
僕の心中からは戸惑いと苛立たしさが消える反面、ちょっとは残念な感じがした。南の島で若い麗しい女と暮らす・・・――何と人為的に描かれた夢だろう。でもそれはメランコリックな憧れに過ぎない。冷静になれば。
「あ、カズヤ、アロファが来たよ。」
もじもじとしていたフェレニがいきなりうわずった声を向けたほうを見てみると、確かに、プラスティック製のバケツに海の水をいっぱいまで注いだものを両手で運びながら歩いてくるのはメアアロファだった。海水は石焼きにする前の食材をこれにつけておくと、ほどよく塩分が効いて、味がまろやかになる。ポリネシア女性は骨太だ。掌や足の大きさなどは、日本人の男ほどのデカさがある。メアアロファは心なしか細めの体形だったけど、水がたんまり入って重いはずのバケツをたくましくも手なずけて立ちどまってから笑顔で我々のほうに目を向けた。半年前よりも腰のあたりがほんのりと女らしく肉づき、背も少し延びたようだ。
「カズヤ、ずっと居たの?」「いつ来たの?」「またいつ行っちゃうの?」
サモア人は久々に知り合いを迎えると、まずこの三つを問いかける。メアアロファもたて続けにこの質問を僕に投げつけた。それは言ってみれば、ただの挨拶がわりだった。
彼女の笑顔を見ていると、ずっと前、別れの晩に彼女が流した涙のことを思いだした。僕は、悲哀と歓喜という二つの相反するべき人間の感情が、まるで一つの単体になったような錯覚を起こした。この二つは表と裏に分かれているわけじゃなく、水彩画の絵の具のように滲んで混ざりあっていた。渾身の笑いと痛烈な悲愴はもとは同じ一つの激昂なのかも知れない。サモア人は真に色々なことを教えてくれる。
教会の鐘が鳴ったので、僕はフェレニを連れてやもめのおばぁちゃん、ンゲセの家に戻った。歩いても五分とかからない、ほど近い距離だ。毎日、日が暮れる前にマナセ村には一つだけある教会が二度にわたって鐘の音を鳴らす。鐘といっても、空になったLPガスの使用済みタンクを荒々しく棒でぶったたくだけだったけど、これが意外にも村じゅうに響きわたる音色になる。
一度めの鐘には「さぁ皆さん、お祈りの時間が近づきました。家に帰って準備をしましょう」二度めは「お祈りの準備は整いましたか、さぁ始めましょう」の意味があった。一度めの鐘と二度めとの間には十五分くらい空くだろうか。
二度めの鐘が鳴る頃になると、あちこちの家からそれぞれ別の賛美歌が聞こえはじめる。野太い、男の低音。ソプラノを歌う女の裏声。幼い子供たちの、たどたどしいカン高いコーラス。ここでも自然の中から体得して磨かれてきた彼らの和声のセンスが光る。サモア人は西洋人が入ってくる以前から、理論抜きの、独自の和音感を身に付けていた。初めて彼らの合唱を聞いた宣教師たちはその洗練されたコーラスの技巧に驚いたと言う。一人が歌いだすと、二人目はすぐそれにハーモニィをかけ、三人めはさらにその上の和音を重ねる。四人目が歌の下地を支える重低音を加味すると、歌は調和を持って息をしだす。
完璧に四重唱で歌っている家族もあれば、我が家のように、おばあちゃんのンゲセとフェレニ、コレティの幼な子、それに若い衆二人をたした程度の家族では、まとまりのない、ぶざまな歌を周囲にまき散らしている。だけどそこでは歌の上手・下手は問題にならない。目的はお祈りのほうにあるのだから。
老婆の「お祈りをしましょう」の合図とともに、家族の者は皆頭をもたげて、続きの文句を待つ。毎晩の決まりきった行事でありながら、この時だけは心を入れかえて聖らかにするのが通例なのだろう。
「・・・・・・聖らかな、聖らかな、聖らかな日、神はこの地にイエスをもうけ給うた。イエスは救世主であり、神が召したこの救世主の名こそ、イエスだった。真にイエスのご加護のもと、父が子を産み、またその子が子を産み、我が家族は永遠に繁栄し続けるのだ。ありがとうイエス、この家を、この着物を、この安らぎを与えてくれて。ありがとうイエス、今日もこのようなご馳走にめぐり合わせてくれて・・・」
夕食前の礼拝は五分で終わることもあれば、十五分くらい続くこともあった。大事なことがあった日ほど、それは長く誦えられた。最後に一同が目をつぶり、声を合わせて祈りを捧げる。「アメネ」――日本語では「アーメン」と発せられるこの言葉には「そうありますように」という感情がこめられている。サモアでもやっぱり「アメネ」で合唱の最後は綴られる。
それが終わるといよいよ食べ物にありつけるのだけれど、やはりここでも独特な慣習があった。サモア人は家族全員で食卓を囲むようなことをしない。そもそも椅子とテーブル自体が西洋から入ってきた文化だったので、よほど西洋かぶれでもした家でもなければ、たいていは「ファラ」という、パンダナスの葉で編んだ筵を敷き、その上で胡座をかいて(女でも胡座で座るのが基本だ)食事をする。食べ物は、「ラウラウ」と呼ばれる、椰子の葉で編まれた盆の上に盛られる。今の時代は陶器やプラスティック製の皿を使うけど、本来だとバナナの葉が皿の役割を果たして、ラウラウの上にのせられた。バナナの葉は石焼きをする時も重宝する。どうやらこの葉には消毒や殺菌の作用があるようで、これこそ生活の知恵だった。
食べる時は両手を使う。右手や左手で適量を引きちぎったり、つまんだりしてそれを口の中まで運んでいく。もちろん熱い汁物などはサジを使って飲む。また、ナイフやフォーク、そしてハシなどを操る場合もあるけど、いずれにしてもこれらの器具はここ数十年の間に入ってきたもので、古くからあるものではない。
さて、一番我々を驚かせるのは、食べる人の順番がはっきりと決まっているということだ。まず家長が食べる。家長が「お腹いっぱい」と言うまでは、家の者はたとえどんなに空腹でも、辛抱して家長に給仕しなければならない。その次に家長の息子とその嫁などが食べる番になる。子供も含めて若い連中はただ指をくわえて、さらに自分たちの順番が回ってくるのを待っていなければならない。この時に家長のほうは、たいていもう食後のお茶をすすって満喫している。
年配連中が全員「お腹いっぱい」と言って初めて年下が食べる番になる。彼らは親たちが残した食べ物にこぞって喰らいつく。これが前にも記した、サモアでは家族全員で食卓を囲むようなことがない理由だ。
それでは僕のような居候の外国人はいったいいつ食べるのかというと、僕たちの扱われ方はあくまでも「お客様」なので、ゲストは家長と食事を共にするのが習わしだった。だからホームスティ先に居る限り、僕はンゲセおばぁちゃんと一緒に、家族の他の者をさし置いて食事を始めるのが常だった。
しかし我が家では徐々にその伝統が崩れかけていた。フェレニとコレティは本当だったら食べるのが一番最後になるべきなのを、ンゲセはそれを嫌い、最初から食べさせていた。これは一種のモダニズムとも言えたし、もしかしたらドイツ人だったンゲセの亡夫の意向を引きついでいたのかも知れない。
「カズヤ、今夜は『野獣・サモア』の試合があるのを知ってるか。」
ココ・サモアという、現地産の甘いココアを飲んで、食後の一服をしている僕に、家族の一人、ンゲセにとっては長男にあたるロニーがきいて来た。
「ラグビーのワールドカップかい?」
「そうだ。相手は南アフリカだ。強豪だよ。」
「でもウチにはテレビが無いじゃないか。」
「大丈夫、『ロビンソン』ホテルを知ってるだろ?あそこのラウンジにはでかい奴が一つ置いてあるから。今夜、これからでも見に行こう。」
「よし分かった。だけど相手が南アフリカか。勝つかな。」
「もちろん勝つさ、『野獣』がね!」
独立記念祭の時にアルゼンチンに勝利を治めたことで、マヌ・サモアは決勝リーグに進んでいたものの、決勝では負けがこんで、たとえ今夜南アフリカを破ったにしても最高で五位というのがすでに確定していた。もし負けるとなると、「七位決定戦」行きまで転落してしまう。
・・・・・・『ロビンソン!』――このホテルの響きを僕はいつだってトキメキを沸かせながら聞いた。マナセ村に居る間じゅう、ほとんど毎晩のようにここに通いつめた。村人たちも露骨に『ロビンソン』と呼ぶのは艶しすぎるのだろう。彼らは「ロブ」とか「ロビィ」などと(照れ隠しもあってか)称していた。あるいは「トゥア」とも言った。「トゥア」には「裏」とか「背中」といった意味がある。「〈裏〉に行くのかい」がそのまま「『ロビンソン』に行くのかい」という隠語にもなっていた。
その『ロビンソン』のラウンジは異様に大きい、サモア式の開かれた家をかたどっていた(もっともサモアのほとんどのホテルというホテルは、こういった形のラウンジを有していた)。土台の縁となる所には一・五メートルおきに柱がぎっしりと並べられ、基礎の円周からぐるりと屋根を支えていた。広さは二百平方メートルくらいだろう。
そこには卓球台やビリヤード台があり、ソファーや安楽椅子が配置されて、隅のほうでは大きなテレビがどっかりと腰を据えていた。村人たちが数人、そろりと顔を出した。今夜のマヌの試合を大きめの画面で拝もうという魂胆だ。ホテルの客は、その場には一人も居なかった。恐らくまだレストランで夕食に興じているのだろう。リゾートでの食事は朝も晩も遅く、そしていつもより時間をかけるものだ。
南アフリカ対サモアの試合は夜八時前に始まった。もし南アフリカチームが勝つと、勝ち点次第では優勝が決まった。一方、それを阻止し、何とか六位以内にくい込むためには、マヌは負けるわけには行かなかった。
しかし、前半戦から実力と体重で劣るサモアチームは中々自分たちのペースに持っていくことができなかった。鮮やかなパス回しで押そうとするマヌに対し、南アフリカは力でその勢いをねじ伏せて、直線的な攻撃を強行した。マヌも何度かはトライに成功したけど、一度トライすれば二度トライされ返す、といった具合で点差はどんどん開くばかりだった。
「畜生!」・・・トライをされるごとにいらだちの小声がそこここで湧きたった。後半戦に入ってマヌはたて続けに二本のトライを決め、一時的に盛りあがったものの、その後が全く続かなかった。結局、前半の得点差も響いてあっけなくサモアは負けてしまった。
こういったとき、サモア人は至ってサバサバしている。くやしがるでもなく、「あー負けだ、負け。なーに、運がなかっただけだよ」くらいにしか感じていない。勝った時のあの狂乱ぶりほど、敗北を慟哭したりはしない。
ところで試合も終わり頃になると、二、三の西洋人の客もラウンジに上がってきて、快楽とけだるさが交差する熱帯の宵とそれが増振させる心の豊饒に浸っていた。時間が遅く流れているのを感じれば感じるほどとこしえというものの存在が身近にあることに、彼らは気づくのだった。
その西洋人たちにとっては、遠い国で行われているラグビーのワールド・カップのことなどはどうでもよく、ましてたまたま訪れたサモアという国のナショナル・チームが勝とうが負けようが知ったことではなかった。テレビの中継はちらちらと喚声が発するごとに目をやるだけで、なにげに始めた卓球やビリヤードばかりに気持ちのほうが向いていた。
マヌ・サモアが敗北すると、僕をそこまでつれて来たロニーをはじめ村の若者たちは早々と自分の家へと身をひいた。
僕は手持ちのビールがまだ残っていたので、場所をレストランのほうに変えて一人で呑みなおすことにした。ラウンジからレストランまでは、わずか二十メートルくらいの小路で結ばれているだけだ。その小路の天井は椰子の葉で葺かれ、雨よけの屋根が続いている。その屋根を支える柱には、いちいちポリネシア風の半彫刻が幾何学的に施されている。ホテルのオーナァが言うには、トンガから彫刻師を呼んで彫らせているとのことだった。
レストランとはいっても『ロビンソン』のそれはサモア式家屋を基調にしているので、例によって壁の無い、柱と屋根だけのもので、かたわらのカウンター・バァと一体になっていた。その一角にはショーをとり行うための舞台が設けられていて、毎晩のように踊りとか演奏が催されていた。歌とコーラスがこの二つにからむことは言うまでもない。
その日もマナセ村の若い雇われ男性コーラス部隊が、ギターと打楽器を伴奏に美しいハーモニィをかもし出していた。ギターはもちろん西洋人がもたらした楽器だったけど、南太平洋の音楽にはこの和音楽器が一番馴染んだ。ハワイで生まれたウクレレはサモアではそれほどポピュラーではなく、ほとんどが鋼鉄製の弦を張る仕様でアメリカのフォークギターのタイプがよく出まわっていた。それらはすべてが輸入品で、アメリカン・サモアの親戚が送ってきたものだったり、豪州やニュージーランドに出稼ぎに行った身内のおみやげだったりした。米国製のギターは上等な部類に入り、中には「Made in
Taiwan」と刻まれた、シロモノのギターもあった。打楽器は逆にサモア独特のもので、太鼓の中でも小・中規模のものを称してそう呼んだ。木製のものもあれば竹製のものもあり、掌に乗っかってしまうようなサイズもあれば、脚が付いていて、スタンディングでバカバカ叩くようになっているのもあった。これに対し「ラリ」と呼んでいる大太鼓がある。これは丸太をまるごと一つ、でんと置いたもので、それを太い棒の先を使ってズンと突くような格好で音を出す。太鼓というよりは、銅鑼に近いような響きをたてるものだった。ラリを鳴らすと、その振動は一キロ先まで届くような感じだった。打楽器にしろ、ラリにしろ、普通は胴体の芯がくり抜かれていて、その穴が音をいっそう増幅させる働きをしている。
僕はゆるやかで揚々とした演奏を横目に、カウンター・バァの切り株で造られた席の一つを陣どった。
目の前にはすぐに女がつく。女といってもウェイトレス兼バーテンの女給だ。昼間はホテルのシーツを取りかえたり、掃除をしたりするメイドをやっているらしい。聞くと彼女は隣村の〈花咲く所〉から来ていると言う。旦那がいると聞いてさらに驚く。見た目は全くのうら若い生娘に見えたからだ。


「名前は何ていうの。」
彼女の問いに僕は「カズヤだ」と答えると、すぐに女は僕の名前を記憶した。つくずく名前を憶えるのが早い民族だった。その次には決まってこういう質問がかかって来る。
「カズヤ、彼女はどこにいるのよ。」
・・・・・・僕はすかさずこうきり返す。
「君だよ。僕の彼女は君じゃないか。」
・・・すると女はカラカラと笑って細い眉毛から媚態を滲ませた。
ポリネシアの男女はいつだってお互いにひとときの恋人同士になることができた。だけどその恋愛はいわゆるフリーセックスとは概念が違ったので、僕たちが彼女たちの戒律をよそに一線を越えることはなかった。それはこの国に売春宿というものが一軒も存在しないというだけでも窺える。
多くの読者は「タブー」という単語がポリネシア語源だということに関心を注がないかも知れないけど、サモアではそれを「タプ(許され得ないこと、禁止)」と発音していた。
夫がいる女性に手を出すことは、やっぱりサモアでも「タプ」だった。でも、ここで彼女のあの挑発的な目つきをどう説明しようか。開放的な気候が産んだ、うつろう真昼の日ざしのような、刺青みたいなまなざしだった。僕は片手の〈手の水〉ビールを飲みほした。もう一本オーダーしても良かったけど、迷ったあげく、その晩の盃はそれで打ち止めにすることにした。
街灯。――夜の闇の中のあかりがすでにマナセ村でははびこっていた。それは文明の光と呼ぶには淡白で味気なさ過ぎた。椰子の木には九十九通りの活用方法があるというのに、街灯には足元を照らすという、ただ一つの利用価値しかなかった。
『ロビンソン』からンゲセおばぁちゃんの家まで戻る間には、ほんの五分ほどの時間しか必要なかったけど、その短い帰路の途中だけでも二人の村人に僕は「やぁ、カズヤ」と声をかけられた。彼らの目は動物的によく効き、しかも暗闇を苦にしなかった。まるで森のフクロウのように夜目が発達していた。
僕の寝床はいつも道路に近いほうの開かれた家に設けられた。サモア人は、日本人も西洋人のように椅子とベッドで生活しているものと勘違いしていた。彼らに畳や布団、そして胡座や正座のことを説明するには骨が折れた。パンダナスの葉で編まれた筵の上で胡座をかく、彼らの生活のほうがずっと我々の習慣に近かったはずなのに。
ファミリーはいつも道べりにある開かれた家を僕の生活空間として提供してくれ、ベッドとしては空気マットレスを用意してくれ、その周りを覆う蚊帳まで装備してくれた。
道ばたから家までは白砂が我がもののように横たわっていた。いや、マナセ村というのは、村全体が浜辺の砂の上に存在した。その白砂は純粋に珊瑚が細かく砕けてできあがっていたので、きらびやかな美しさは恐らく日本のどの海岸でも拝むことのできない逸品だった。それは絵の具だったとも言える。村の風景を演出する色彩の一つだったとも言える。
柔らかい砂の上を歩く。足でそれを踏むたびに砂は呻くような声を「ズザッ、ズザッ」と返してくる。砂は足の裏を吸いこむようでいて、吸いこまない。足が少しくい込んだ程度でぴたりと、砂ゆえの固さでそのまま砂中に引きこまれてしまうのをくい止める。
僕が自分の家まで辿りつくと、そこには珍客が一人折り膝をするような姿勢で座っていた。
――ファファフィネだ。男にしてはかなり細身で、女の仕草モロ出しの、まぎれもない、その人はオカマちゃんだった。この国では見ず知らずの人が唐突に家の上まで上がりこんでくることがよくあったので(事実、昼間の僕がメアアロファの家を訪れたのも、何の予告も無しでだった)、僕はただ自分を落ちつかせようとした。
そのファファフィネは、こんな村に居るにしては不思議なくらい、立派な英語で話しかけてきた。
「さっきまでロニーと一緒にいたんだけど、彼ったらあたしを置いてどっかに行っちゃったのよ。」
「ロニーを待っているのかい?ロニーだったらさっきまで俺と『ロビンソン』でテレビを見ていたけど、奴の方が早くこっちに戻った筈なんだけどな。」
「違うのよ。あたしをこんな所まで呼び出しておいて、『ちょっと用事があるからここで待っててくれ』って。『もうすぐ外人さんが帰ってくるから』って・・・・・・あぁ、外人さんって、あなたのことだったのね。前々から聞いてはいたわ。『ロニーのとこには外人さんが来ていて、接待している』だとか何とか・・・」
にわかに夜風が強く吹いて、雨の降る兆しが近づいた。大雨の予感が、僕のそり立つ鳥肌に囁いた。それは、乾季にしては珍しい、スコールを呼ぶ前ぶれの風だった。案の定、ものの十分もたたないうちに、家の中は雨粒がトタン屋根を打ちつける雑音だらけになった。・・・もの凄い通り雨だ。
「ひどい雨ね。」
オカマちゃんが呟く。外見は全くの男だ。髪だってちゃんと短く刈られている。黒っぽいTシャツを着て、下は腰巻きをはいている。黄色い地に真っ赤なハイビスカスが描かれている、最も一般的な柄のラヴァラヴァだ。ただ身ぶり手ぶりが、何よりもその声が、譬えようもなく女めかしだった。その仕草は歌舞伎の女方の振る舞いを想起させた。外見にはみ出した内面的魅惑・・・ファファフィネには性欲を超越した潜在的な人間の本能をくすぐる何かがあったに違いない。彼らの人工的笑顔は造られたものではあったけど、少なくとも僕らの心を揺りうごかす要因にもなった。
早くも僕の名前を憶えたファファフィネは、急に馴れ馴れしく喋ってきた。
「カズヤ、あなたはヴィデオは見ないのかしら。」
「余り好きじゃないんだよ。東京にいた時からね。」
「トーキョウ?それじゃあなたは日本人なのね。」
「そうだよ。」
「ねぇ、面白いことがあるのよ。」
「面白いこと?」
「そう、とっても気持ちいいこと。ヴィデオで見るようにね。」
彼は脚を折りたため、蚊帳のほうにすり寄ってからいかにも誘いをかけるような、婀娜っぽい仕草をした。それは、僕の嫌悪感をくすぐるコケトリィだった。
「雨は嫌だけどこいつがあるから熱帯の猛暑もしのげる。だけど今夜は妙に寒い。」
話をそらそうとした僕の言葉は、雨音にかき消されてオカマちゃんの耳には完全に届かなかったらしい。
彼は「え、何?」と言ったまま片耳をこっちに向け、横顔から鋭い目つきで窺うような視線を投げてから、膝先をもじもじするように太腿をこすった。
「カズヤ、お喋りはもういいから。ほらぁ、こっちに来なさいよ。一緒に気持ちいいことしましょうよぉ。」
――かつて味わったことのない戦慄が僕の背筋を蛇行した。
これは最悪の事態をまぬがれ得ない状況かも知れない。普段だったら、家と家との空間に外気があって、家の中で何かが起ころうものなら、すぐに他の村人たちが「何ごとか」と駆けつけただろう。だけど今夜は雨が外界との接触を遮断していた。
「しつこい雨だな。」
「雨ならそのうちにいつか止むわ。それよりも、ねぇ〜ったら、聞こえてるの?いいから、こっちにいらっしゃいったら。」
僕とファファフィネはほんの狭い空間に二人だった。世界にあるのは、じめっとした匂いとトタン屋根を叩くけたたましい雨音と蚊帳、木製のテーブルに椅子。蚊帳の中にはエアーベッド、それからいくらかの衣類をつめこんだ布製のスーツケース。箪笥や調度品らしいものは一切ない、裸電球の薄明かりだけが唯一の光源の、それだけがすべての三次元だった。
そこへひょっこりと現れたロニーの姿を、僕は裸電球では計ることのできない光明として崇めみた。
ファファフィネは態度を一変させ、家に戻ってきたロニーとありきたりの会話を成立させ、さも今まで何もなかったように装った。
「ひどい人ね。」
「悪い悪い、ちょい用で顔を出したところが先方でつかまっちゃってさ。雨も降ってくるし、引き止められた所で、素直に雨宿りしていたのさ。」
「嘘よ。」
「本当さ。」
「嘘に決まってる。でもまぁ、いいわ。おかげでこの外人さんと暇つぶしができたから。」
「カズヤ、こいつが何か厄介しなかったかい?」
「大丈夫よね、あたしが迷惑かけることなんか、するわきゃないんだから。」
二人は現地語で、しかも早口で短いやりとりを済ませると、ぶらぶらと小雨が残る闇の中に消えてしまった。僕にお辞儀だけすると、二人して夜の中に姿を晦ませてしまった。
間もなく雨もあがって、たちこめる夜霧の中、僕はぞくぞくしながら床に入った。もし、あのままロニーが来てくれなかったら、どうなっただろう。それを考えると、なかなか寝つけなかった。
その時僕は一度死に、そしてもう一度生まれ変わるほどの精神的打撃を受けただろうか。それとも、それまでと全く変わらない生活を続けられただろうか。

Copyright©Keita.2000