三、
復活祭に僕のホームスティ先だったマナセ村に帰る機会は逸していた。いや、正しく言うと、わざと行かなかった。というのもこの時期は他のサモア人も帰省するために、サヴァイイ島とウポル島との往来に大ラッシュが起きる。もちろん、ふだんは日に三便しかないレディサモア二世号も復活祭の間だけはピストン輸送の態勢で旅客を送迎するものの、それでも手一杯で、波止場は次の便待ちの人たちでごった返す。
僕はあえて、この混みあう時期を逃した。「ホームスティ先にはいつだって行ける。何もこんな混んでる時を選んで人の波にもまれながら行くこともない」──〈贈り物〉との約束は忘れていたわけではなかった。しかし、「今度行った時に彼女には謝ればいい。『復活祭にまた来る』と言ったことが、結果的に〈嘘〉になってしまったことを」くらいに考えていた。
音楽学校の新設ギター講座のほうはようやく回転し始めていた。僕の本来やるべきことも、少しずつ実現されていった。朝の授業では一般の生徒たちにギターの初歩の手ほどきをして、午後は個人レッスンの生徒に一対一で膝を突きあわせながら教える、といったカリキュラムが定まりつつあった。
そして、一番熱心な生徒の一人にセミィがいた。彼はサモアから五、六百キロほど北にあるトケラウ諸島からの留学生だった。ずっと前から音楽学校に在籍している男で、もともとは帰国した西田紗絵の生徒としてピアノを習っていたけれど、音楽的に高いセンスがあるのだろう、ギターを習得するスピードも他の生徒と比べて群を抜いていた。彼の場合、さらに本人の真面目さも加担してか、上達のレベルも高かったし、教える側から見ても理想的な生徒だった。
四月も終わるころ、紗絵から帰途変路中のバンコックでの絵葉書が届いた。表の写真は、バンコック郊外の涅槃像(寝釈迦)を足の裏の釈迦修行図から撮ったものだった。
「バリ島では、親切な現地の人にホテルやら何やら全部エスコートしてもらって助かりました。その後、ジャワ島に渡り、ソロ(スラカルタ)ではガムラン音楽の学校を見学、なんと日本人の留学生にも出会いました。彼が言うには、ガムランの音楽留学にもスカラシップが有効なんだって。一哉さんも試してみては?今、私はバンコクまで来ています。ホテルでトムヤンクン・スープを頼んだら、それが余りにも辛かったもので一息ついている所です。それでは、また。Sae」
セミィが興味ありげに脇から覗く。
「サエからですか。何と書いてありますか。」
彼は端正な英語でそうきいた。名前を呼び捨てにするのは彼らの習慣なので失礼にはならない。実の父母に対してでさえ、彼らは呼び捨てで呼ぶ。
僕は文字の一句一句を丁寧に英語に訳していった。するとセミィは動物的な丸っこい目を白黒させて、
「今言ったことが全部ここに書かれているんですか。」
ときいた。僕が「そうだ」と答えると、首を何度も左右に振る仕草をして、感心したように、
「日本語はなんと!これだけ小さいスペースでたくさんの意味を伝えることが出来るんだ。もしサモア語で今言ったことを全部こめようとしたら、葉書二枚分は必要になるでしょう。」
と言った。セミィが感嘆したのは、漢字という表意文字が産みだした賜物に対してだろうか。しかしこの男の驚きようときたら、尋常ではなかった。
ちょうど同じころ、JICO事務所の内部で、ある二つのスキャンダルが湧きおこった。一つは前園コーディネータの予算着服隠蔽事件で、もう一つが僕の同期の細田嘉章と堂本やよいが巻きおこした〈水を分ける=海側〉二十四番住居事件だ。細田は僕の同居人でもあった。一時は激しくも言い争いをしたけど、その後の彼にまつわる環境は、悪化を辿る一方だったので、逆に僕は彼に同情するほどだった。
まずは前園コーディネータの話から。
ある晩、僕は年配の噂話好きな部隊員たちとアピア湾の護岸に面する酒場、JICOの事務所からは三分も歩かないような所にある、「ドント・ドリンク・ザ・ウォータ」で呑んでいた。
「なぁ藤井君、きみは今前園さんのまわりで浮かび上がっている疑惑を知っているか。」
こうきいて来た部隊員は、あの西海大のフェリーの上で同乗した老クルーと妙に気が合っていたJコープだ。
「いえ、聞いたことありませんけど。」
僕は相手に調子を合わせてこう答えた。そしてそれは、実際に知らない話だった。
「そうか、まだ知らないか。」
彼は優越感を露わにして、もったいぶった口調になった。そして話を続けた。
「いや、実は今ある疑惑が浮上しててさ。教えてもいいんだけどなにせ人の動きに関係することだからさ。いや、疑えばそれこそキリがないんだけど、人によっては色々とあることないこと口にするからさ。事実がすりかえられちゃってるってこともあるしさ。まぁ、どう?知りたい?知りたいなら喋っちゃうけど。・・・・・・いやだな、藤井くん。俺のほうから語らせるわけ?これじゃ俺が一人だけ悪者になっちゃうじゃない。でもいいや、どうせ隠していてもいつかは表ザタになっちゃうことだから、こぉいうことは・・・・・・」
彼は得意顔になって話を続けた。
「・・・今さ、問題になってることがあってさ。要は金銭関係のトラブルなんだけど、去年の経費が合わないらしいんだよ。予算のほうと実際の総出費がさ、百万円も違うんだってさ。あわてて前園さんのほうで領収書を引っかき集めてるらしいんだけど、それに相当する分はまるで見つからないらしいよ。このままじゃ前園さんがごまかした、というような扱いになってしまうらしい。彼女がどこかで金をふんだくった、みたいな。しかしそれにしてもおかしいよね。百万も違っている、なんて。どうつじつま合わせても額が多すぎるよな。事務所の所長はすでに責任問題で前園さんを本国に帰すつもりでいるらしい。つまり、誰かが辞めて責任をとればそれで丸く収まる、という訳だ。」
余りにも短絡的なその解決法に僕は嘆いた。
「それで、前園コーディネータは日本に帰ることがもう決まってるんですか。」
僕の問いに対し、年配のJコープは、
「今後の彼女の出方にもよるんだろうけど、いずれにしても帰ることは間違いないだろうな。所長の言うには『誰か一人辞めればそれで解決するんだろう。今回は前園さん、彼女に辞めてもらうよう、すでに本人にも打診した』とのことだよ。」と言った。
「せっかく真木コーディネータが来て、『二人三脚で頑張ります』なんて前園さん、言っていたのに。いったいどういうことなんでしょう」──これは僕のセリフだった。だけど前園コーディネータの本国送還の話はその時点ではまるで現実味が無かった。
ところが、まことしやかに流れただけだと思っていたその噂が、どうやら実際問題として事が進行している様子を、その後数日間にわたって僕は垣間見てしまった。
「前園さんが帰る」──もちろん僕たちの言葉で「帰る」とは、「本国に帰る」ことを意味する。
当の本人の挙動は至ってこともなげだった。しかし彼女自身が部隊員たちを必要以上にかたくなに遠ざけたために、Jコープと前園コーディネータとの間に、本当だったら生まれるはずもない確執が出来てしまった。
それまでの彼女は部隊員とともに飲み食いをし、土曜日・日曜日のリクリエーション(僕たちはよく連れだってビーチへ行った)のたびに車で送迎してくれ、水曜の夜や土曜日の早朝恒例のテニスクラブにも必ず顔を出して、とても身近な存在だったものが、急によそよそしくなり、進んで僕らの会話の中にも入ってこなくなり、ついには自分とJコープとの間に壁を建ててしまった。
五月に入っていよいよ帰国の日が近づくにつれ、彼女は益々引っこみ思案になってしまった。
その前にこんなことがあった。──新部隊員の六人がやって来て、二週間のホームスティを終えたばかりのとき、名目的には彼らの歓迎会を装いながら、実際には前園コーディネータの追い出しパーティにしよう、という企画が持ちあがった。場所を〈げんこつの裏〉にある部隊員の住居の一つに定めてからは、いかにも彼女を騙すにはおあつらえ、という条件でその段取りが整った。
皆なが同じ目的のために〈げんこつの裏〉の一ヶ所に集まり、あらかじめ周知された通り前園コーディネータがその場に現れるものとして待機していた。ところが彼女の来訪を待たずに宴は始まってしまい、場が盛り上がったのでパーティの本来の趣旨が間延びしてしまった。そして、「来る」と言っていたはずの彼女はついに最後まで顔も出さなかった。
きっと僕たちの計画を察知したのだろう。その後、似たような趣旨のパーティは何度かあったものの、そういった席上には一切姿を見せなかった。
「もうJコープのメンバーとは顔を合わせたくない。全く信用ができなくなってしまったから」──これは前園コーディネータの傍白の言葉としてのちのちの部隊員の耳に伝わってきた。これは彼女自身の真意だったのだろうか。欠席を重ねたパーティが何よりもそれを証明しているのだろうか。
・・・・・・五月の、乾季も深まったある日、前園ゆり子は日本へと発った。サモアに残るコーディネータは、これで真木の一人になった。
そして次に、〈水を分ける=海側〉二十四番住居事件。
僕と同居していた細田嘉章は青年スポーツ文化省に配属されていて、現地の若者のスポーツや文化的な催し物をビデオ・テープに記録として残し、それを保管することを主な業務としていた。場合によっては国営テレビの放映のためにフィルムを編集することもあったようだけど、彼の撮った絵が実際に放送されたという話は聞いていない。
堂本やよいは「家政」の部隊員として前にも出てきたけど、彼女は主に料理を女性事業促進部に伝授するためにサモアまでやって来た同期だ。やよいは僕たちの住居からもほど近い(歩いても一分くらいの距離だろう)二十四番住居に住んでいた。
事件はそこで起きた。
──二人が出会った時から、(それはもう九ヶ月前の東京まで遡るのだけれども)細田はやよいを自分と同属のように考えていたに違いない。同属・・・それはたとえば肌と肌がこすれ合った瞬間でさえも二人の感覚がマッチするもの、もっと言えば肌の表面のきめ細やかさやすべすべしたところが、あるいはカサカサさやねっとり具合が、毛並びの食いつき加減に至るまで、直感的にしっくりと落ちつき、何とも説明できない安らぎを得ること。これはただ二人の腕と腕とが接触しただけでも生じてしまう現象だ。そうだ、人はその時「自分はこの人と同属だ」と感じるものだ。──だけどそれは片方が一方的に相手を無視して「同属だ」と勘違いすることもある。
細田は真しくこの例に当たった。なぜなら堂本やよいのほうは彼のことを同属とはみなしていなかったからだ。


「細田さんなんだけど、嫌いなの。あたしが嫌がっていること、気付いてないのかしら。どうしてって?だって、細田さんて、よく吃るでしょ。あの喋り方が好きじゃないの。そのくせ押し付けがましいっていうか、やさしさの押し売りよね、あれは。それをあたしにしてくるの。」
やよいはよくJICOの事務所で通りがかりの僕を引きとめてはこう言った。だけど僕には不思議と、彼女が「嫌い」と言えば言うほど、「細田さんのことが好き」と訴えているように聞こえた。
それというのも、細田のやよいへの気遣いときたら、涙ぐましいものがあったからだ。やよいはああだこうだと色んな口実をつけては職場をよく欠勤したり遅刻する女だった。時には無断で休んだこともある。その理由については、誰もが知りえないところだった。そういう時、細田はよく二十四番住居に住むやよいに電話をして、途上国で暮らすということの気構えとか、力強く生活していくためのアドバイスを垂れていた。これは細田にとって、唯一無二の愛情表現だった。彼は昼・夜かまわず、一時間だって、二時間だって彼女に電話をした。細田がやよいを愛していることは、もうそれを疑うだけ野暮だった。
一方のやよいはよく他人を巻きこんだ。関係の無い他人を上手く渦中の人のように仕立てあげた。その小悪魔ぶりは天性の賜物だ。僕だって彼女の手の中で操られないように必死だった。
ある日の昼間、僕は住居近くの道ばたで彼女と出くわしてしまった。昼休みの合間を使って昼食を摂りに帰宅したあと、僕はもう一度午後の授業のために学校に戻る途中だった。そもそも白昼で、仕事中であるはずのやよいがその時間に〈水を分ける〉あたりをうろちょろしていること自体が不可思議だったけど、いずれにしても自転車に乗らない主義の彼女がそこを歩いていたという事実があって、自転車で通りすがりの僕を捕まえてこう言ったのだった。
「ねぇねぇ聞いて、細田さんの話。」
やよいはすがりつくようにハンドルを握る僕の右腕を引っぱった。
「うん、聞いてるよ。最近はアナタのためにかなり時間を割いてアナタのことを励ましてんじゃない?」
彼女が活動を休みがちになっている理由、それがカルチャーショックと語学コンプレックスにあるということ。この時点ではそれが周囲のJコープたちにも明らかになった。細田にとっては自分と同属であるやよいがそんなことで悩んでいるということ、それが居ても立ってもいられない原因になり、彼女を慰めるための原動力となっていた。
「今日、彼がウチに来ることになっているのよ。」
やよいの語気が強まった。
「あたしの相談に乗ってくれるらしいんだけど・・・」
僕はこれ以上巻き添えを喰ってはならない限界を感じ、「あぁそうなんだ、じゃ」とだけ言って自転車のペダルを漕ぎはじめた。――そうなんだ、これだけ事情を聞けば充分だ。あとは何が起こるか、起こってしまうのか、そんなことは知ったことではない。ともかく、今日、この晩、細田は彼女を訪れる。その時どんな会話が成されるのか、あるいはどんな行為まで成されてしまうのか。僕はこの二人の危険さをやきもきして傍観しながらも、明日の知らせ、今夜の結果を聞くことが楽しみになった。
細田の教科書には理性という言葉があるのだろうか。今夜それが確かめられる!自転車のペダルを早めに漕ぐ。自然に高まる鼓動をごまかそうとする。ドラマには必ずそう展開していくという予兆がある。〈水を分ける=海側〉二十四番には、真にその兆しがひそんでいた。
いつものように僕は夕方四時過ぎにはその日の授業を終え、帰宅する。細田の帰ってくる時間はまちまちだったけど、その日はさすがに早かった。五時を過ぎた頃だ。彼は玄関の扉を開くなり、続きの居間のソファーでエレキギターのか細い生音をかき鳴らしていた僕に「俺あてに電話はなかったか」ときいた。僕は「なかった」という事実を伝えた。
細田は「そうか」とだけ言って電話台のほうへと向きを変えた。そして受話器を上げると、ダイヤルをし始めた。かけた相手が誰なのか、他に詮索のしようがあるものだろうか。堂本やよいその人意外に考えられるものだろうか。
僕はただ縮こまって、その時湧きでた遠慮心が自分の体を居間の外へと移動させた。つまり僕は奥の自分の部屋へと引っこんだ。それでも居間との間は廊下とカーテンとで遮られているだけだった。
細田が長々と電話する声が聞こえる。厳しい言葉で、それでも彼としては最大限の思いやりをこめて喋っているのだろう。だけどその皮肉的な口調には変化が乏しく、あくまでも教科書を棒読みしているようだ。吃りがちな発音、いったん喉の奥に言葉を溜めてからいっきに吐きだすような話し方は彼自身の堅固な信念を表現していた。
「藤井、お前は性格を変えなきゃ駄目だ!」――かつてこう言って僕に噛みついた細田の言葉は、今電話口ではこうなっていた――「き、君はもっと自分自身から現地の人に馴染んで行こうとしなければならないんだよ。しゅ、習慣が合わないって?合わないんじゃなく、合わせるんだ。自分を変えて行こうと思わなきゃ。ぼ、ぼ、僕を見てよ、普段から職場でも、休みのときでも、いつもサモア人のやり方に合わせて彼らとは接している。つ、付き合い方なんて、こっちの気持ち次第なんだ。えっ、こっ、言葉?そんなのは君の努力だけで充分に克服できる。僕だって暇さえあればサモア語を勉強している。辞書はもう買った?まだだって?なんなら僕が貸してあげるってこの間から言ってるじゃないか。面倒くさい?嫌だって?き、君ねぇ、甘えちゃ駄目だよ。僕たちは国民の血税という恩恵があって初めてここに来させてもらってるんだ。その金をドブに捨てるようなことをしちゃ、申し訳ないじゃないか・・・・・・」
細田は口数が多かったけど、それは行動力もともなうものなので、どちらかというと理想家ではなく実践派だった。仕事には過剰な真面目さで、他のどの部隊員にも負けないくらいに打ちこんでいたし、このところは夜を徹して仕事場でビデオの編集をする日も珍しくはなかった。彼の気概には、あらゆる中傷をもうち砕いてしまう力があった。彼の孤高は、甘やかされた欲望や一般人の抱く煩悩を絶対に許さなかった。細田は強い人だ。しかし自らが封印した邪念が、揺らぐこともなくはなかった。堂本やよいと話すとき、彼のプライドが閉ざしたはずの印の顔料が表面に滲み、とろけていく様子を僕はまじまじと観察したのだった。
いつの間にか細田の声は僕の部屋まで響いてこなくなっていた。電話は終わったようだ。エレキギターの、おもちゃのような旋律。音階練習のための指の動きに夢中になっていた僕は、ふと我に帰ったとき、居間ではもう話し声がしていないことに気付いた。
僕はギターをベッドの上に放ると、今度はゴルフバッグの中からパットとゴルフボールを取りだして誰も居なくなった居間を抜け、台所のある玄関から戸外に出ると、パッティングのお遊びを始めた。そこは駐車用に屋根が付いたコンクリート張りで、前と後ろが吹き抜けになった、乗用車二台分のガランとした空間だった。二世帯が入居できるようになっていた僕たちの住居は、もう片方が誰も住んでいない上に我々はもちろんJコープの部隊員既約で乗用車を持つことができない。つまりその空間はいつでも自由だった。
コンクリート上でのパッティングはパットの角度を身に付けるのにいい勉強となる。当然、タマ足が速くなるのでちょっと手元が狂っただけでも右に左にずれるのが、打った直後にはっきりと判別することができる。さらに、表面の凸凹による微妙な筋の変化があって面白味があった。
日暮れ近く、サモアに来たばっかりの雨季の熱風とはうって変わって、夕風がさらりと肌に心地よく、それは椰子の葉の間をそよそよとすり抜けてはカサカサと音をたてる。向こうの庭陰でドサという音がしたのは、きっと熟れたパパイヤの実が地面に落ちたのだろう。細田は受話器を置いてからはそのまま自分の部屋に閉じこもったのだろう。家の中のほうは奇妙なほど静かだった。ただ、ゴルフボールが転がってコツコツとコンクリートを連続して叩く音が儚く、やさしげに響いた。
宵の口の室内では蚊とり線香の匂いがたちこめていた。この国の生活では一年中この仄かな煙を絶やすことはない。もちろん、エアコンを装備している家だったら話は別だけど、Jコープの中でエアコンを持っているメンバーは今のところ一人も居ない。
僕はちょっとした玉遊びもやめて、すでに居間のソファーでくつろいでいた。傍らには地ビールの〈手の水〉のボトルがあって、もう呑みに入っていた。夜の七時が過ぎると、案の定、細田は自分の部屋から出てきた。建物の構造上、外出するにはどうしても居間に居る僕と顔を合わせなければならない。通りすがり、彼は僕の目の前でぞんざいに立ちどまってわざと目を逸らしながら(相手のほうを見ないで話をするのが細田の癖だった)、
「ドミ、ドミトリィに行く。多分、今日も徹夜になると思う。帰ってこないと思うから、と、戸締りしちゃってていいよ。」
と言った。
ドミ、ドミトリィに行くのか、おかしい。やよいが住む二十四番に行くんじゃなかったのか。すると、昼間のやよいのセリフがまるで虚言だったことになる。いやいや、そんなことはない。二人は二十四番で会うつもりが場所を変えてドミトリィで会うことにしただけなんじゃないか。そのほうが女のやよいの立場としても都合がいいはずだ。ドミトリィなら必ず他の誰かが居合わせているので、賢明な策になる。僕は細田の言葉をそのまま信じた。
細田が出ていってからは、不思議なことにその晩は彼とやよいのことが僕の頭の中からぬけ出て飛んでいってしまった。酒が入って上機嫌になっていた僕はまたしてもパットをもち出して、今度は室内でボールを転がしはじめた。床面は青色地のPタイルだったので、タイルのつなぎ目の線に沿ってパッティングの軌道をキープする訓練には格好の材料となった。
それからシャワーを浴びて一息つき、呑み直しのウィスキーグラスを傾けているときに突然、電話のベルが鳴った。僕としては、軽い寝酒を済ませてから、あとはベッドに入るだけのくつろぎのひと時をぶち壊され、少し興ざめの呼び鈴だった。壁かけ時計を見るともう十一時を超えている。誰なんだろうか、こんな時分に。
受話器を上げると女の甲高い、心なしかかすれた声が僕の耳に介入してきた。
「一哉さん?あたし、分かる?二十四番の堂本です。」
まぎれもなく、それはやよいだった。
「今細田さんがウチに来てるんだけど、『帰って』って言っても居座ったままなかなか帰ってくれないのよ。一哉さん、お願いだからウチにすぐ来て。細田さんを連れて帰って欲しいの。」
えっ、どうしてドミトリィに、つまりはJICO事務所に向かったはずの細田がやよいの住居に居るんだろう。確かに、やよいの住む二十四番は通り道にあたったので、ドミトリィに行くにしろ、どこかへ出かけるにしても必ず彼女の家の前は横切ることになる。
「・・・どぉいうこと?」
要領を得なかった僕はやよいに詳しい説明を催促した。
「だからぁ、今細田さんに『帰って欲しい』って言ったんだけど、中々言うこと聞いてくれないでそばから離れようとしないのよぉ。何とかして頂戴。あなたが来てくれたらきっと帰ると思うの。」
「そんなことないって。き、君はいったい何を言ってるんだ。」
電話の裏で細田の声がかろうじて聞こえる。
「ね、細田さんたらねぇ、ひどい事してくるのよ。」
「何もしてないじゃないか。あぁ、これじゃ、何もかも台無しだ。」
受話器の向こうの、二人のやりとりはスリルを極めた。しかしそれからそれ程間を空けずに、やよいの話しぶりは和らいだ。


「あっ、もう大丈夫みたい。今帰ったわ。ほら、ウチの扉を開けて自転車に乗ったようだから。いい?今から細田さん、そっちに向かうわ。」
「そう、じゃもういいんだね?」
僕は念を押した。
「うん、平気みたい。じゃ、あとは頼むわね。もう一分もしたらそっちにつくわ、細田さん。」
その一分は、拷問とも思えるほど長かった。女の所で、具体的には何をしたかは分からないけど、とにかく何かをしでかそうとした細田が、今ここにやって来る。彼はどんな顔をして玄関に現れて、逆に僕はどんな体をして彼を迎えるべきなのだろうか。そして会った時の第一声として、彼はどんな言葉を吐くのか。それに対して僕はどんな風に受け答えをしようか。あぁ、もし二度と細田の姿を見ないで済むことができたなら、いやそれよりも玄関で顔を合わせた直後に奴がするであろう弁解を聞かないまま過ごすことができたなら・・・。だけどその一分間は余りにも短か過ぎた。
「やぁ、どうも。」
――やはり想像していた通り、罰の悪そうな顔つきの細田が、僕のほうは直視しないで、玄関に入ってくるなりそう言った。
僕が「お帰りなさい」とだけ言って部屋へ引きあげようとすると、細田は僕を押さえるかのように「あの後、彼女とどんな話をしたのか」ときいてきた。
「別に何も話しませんよ。」
僕はそう言いきったけど、それがかえって居間に変な余韻を漂わせた。細田の声は一層焦燥を帯びるようになった。
「な、何か俺のことについて誤解をまねくことを言ってたな。『帰ろうとしない』とか何とか。」
「でも自分は何も聞いてませんから。その後すぐに電話を切ったんですから。」
「そうか、本当に何もやりとりは無かったんだね。だ、だったら別にいいんだ、だったら。」
僕たち二人はそれっきりお互いの部屋に入った。
ベッドに寝そべった僕は、細田という教科書が今夜初めて嘘をついたことに気がついた。それまでは細田は絶対に偽りを言わない人間だった。それが今夜に限って「ドミトリィに行く」と言っていたのに本当はやよいの家に行っていた(やよいの昼間会った時の話のほうが本当だった!)。「徹夜する」と言っていた割には実際には十二時前に住居に帰ってきた。教科書が説くものは必ずしも真理ではない。模範や鏡などというものは所詮あたかも美観を写しだすようにゆがめられた虚像であって、もし実在したならこれほど滑稽なものはない。
ところで今夜の細田の行動がどれだけ今までのような堅固な信念をともなうものだったかはかなり怪しい。どうやら彼の抑止力は彼の本質に負かされてしまった。それにしてもこの二面性はお互いに接点のない筋道なので危険な物質だ。ゆがめられた虚像に走るにしても、抑止力をうち負かした本質がさし示す道に進むにしても、彼の運動にはいつでも爆発力が秘められていた。堂本やよいがいつそれに火を点ける起爆剤になるとも限らない。
――僕はそのまま眠りに就いた。酔っ払いの眠りは深いかわりに翌朝の目覚めにはぼやけた不快感を与える。頭が金属の塊になったかと感じるくらいに重い。
昨晩あったことが夢だったかのように、細田と僕とはふだん通りの挨拶をしてからお互いの出勤時間に家を出た。
すべてが何の変化もなく、もと通りの日常が回転しはじめる予定だった、僕としては・・・。しかし、歯車がかみ合う時の音のきしみが、現地の日本人社会に不穏な振動を送りはじめたのは身近なJコープの部隊員のほうからだった。
彼らは「事件」、特に強調したい時には「二十四番事件」という大袈裟な呼び名をつけて、あの晩の出来事を話の種にした。「君、『事件』のことは聞いたかい?」「ねぇねぇ、知ってる?『二十四番事件』のこと?」ドミトリィの談話室で、部隊員同士の電話口で、こんな囁き声が飛びかった。
「やよいの仕業だな」と僕は直感した。でなければこんなにも早くあの事がまわりに広まるわけがないし、何よりも事件の当事者しか知りえない情報が、噂という形になって部隊員間にははびこっていたからだ。そうだとしたら、やっぱりやよいが直接皆なに漏洩したに違いない、あの夜のことを!
僕はかかわり合いたくなかった。そしてできるだけこの恋愛沙汰にまつわることからは遠ざかった。もし口を出したらきっとやよいは僕を巻き添えにするだろう。そうなったら、僕は醜い人間関係の渦の中で溺れないように四苦八苦するだけになる。
それよりももっと大きかった障害は、僕が二人の仲に口を挟むことによって、細田との関係に支障をきたしてしまうことだった。細田は同居人だ。同居人と気まずく暮らすことほど不快な私生活はない。そんな事態になってしまうことを恐れた僕は、事件の話に触れることを意識的に回避した。
やよいに冷たく足げにされてからも、細田は執拗に彼女の住む二十四番へと通った。しかもその行為は深夜に幾度となく繰りかえされたので、ほとんど夜這いと言っても過言ではなかった。細田は僕の目を盗んでいたつもりだっただろう。でも僕には分かっていた。
夜、僕たちはそれぞれの部屋へと引きこもる。僕のほうは決まって夜の十一時過ぎには寝酒の心地よさにかまけて消灯するのだけれど、細田のお忍びはそれからが本番になる。自分の部屋から出てきた彼の足音が廊下の便所の前を越し、居間を抜けて台所まで到達したのが分かる。それから微かではあるけど、玄関の扉が開いて閉まる音がする。「また行ったんだな、バレバレなのに」――僕は彼の忍び歩きを黙認していた。そして彼がいつ住居を出ていこうが、二十四番でどんなことをしでかしてようが、何時に戻ってこようが、知らんぷりしていた。
一週間くらいはやよいの顔を見ないで済んでいた。ところがまたもや白昼の路上で彼女と出くわしてしまった。この間の時と全く同じ状況で、僕は自転車にまたがり、彼女は〈水を分ける〉の路上を歩いていた。
やよいの姿を確認し、彼女が振りむいて僕に気付いたときからがすでに動揺だった。なぜ、こんな時分にこんな場所でばったりと彼女に鉢合わせするのかさえも、理解の範疇を超えていた。
「一哉くん。」
「こんにちは。」
「待って。ねぇ、話があるのよ。聞いて。」
素通りしようとした僕をやよいは引きとどめた。住居の真ん前の路は未舗装でガタガタなので、自転車に乗っていた僕は徒歩だったやよいにすぐに追いつかれてしまった。
「堂本さん、仕事は?」
僕はわざとやよいにとっては問われたくない質問で声を返した。彼女の返答次第では、その場をしのぐこともできるだろう、と踏んだからだ。
「え?あぁ、昼からお休みをとっているのよ。この間のことがあってからどうも気分がすぐれなくって・・・。」
やよいは口実を量産する早業では天才だ。この女と一緒に生活することは至難の極致だろう。細田は恋愛に関しても過激だけど、惚れた相手がまずかった。つい一ヶ月前までやよいは、別の女性部隊員と二人暮しをしていた。ところが、その人はすぐに別の場所に引っこして行った。やよいとの一つ屋根の下は苦痛の権化だったのだろう。
僕は「あっ、そうなの」と言ってかわそうとしたのが、逆に彼女との会話のとっかかりをつくってしまったことを悔やんだ。・・・・・・やれやれ、またまた僕のために仕事をサボるためのくだらない言い訳をつくってくれてご苦労さん。今回もよくもまぁ瞬時に嘘と嘘をつなぎ合わせてくれましたね。早引きしたって?気分がすぐれないからだって?それがこの間の事件に起因してるって?これは傑作だ。そう、この女は懲りもしないでまた悪さを働こうとしている。今度はどうやって僕にあの事件の共同責任をかぶせてくるのだろう。その仕掛けの言葉は何なのだろう。
「あのね。もう皆なからも聞いてると思うけど。」
「いや、知らない。何も聞いてないよ。」
「そうなの。」
「今から授業に行かなくちゃいけないんだ。生徒を待たせる訳にもいかないし。」
「ひどいのよ。あの晩、細田さんあたしに何をしたか分かる?」
「あの晩って、電話してきた日のこと?さぁ、分からない。一体何をしたんだ。」
「レイプしようとしたのよ、細田さん。」
「え――っ!」
僕としては大仰に柔らかい反応を示したつもりだったけど、内心はその時の激昂で震えた。ウソだろう、と僕は思った。
「信じて、本当なんだから。」
「ふ――ん、じゃ、また。」
にわかに僕は冷静になった。・・・・・・やっぱりウソだろう。レイプなどというものは、あくまでもされた側の論理であって、した側がそれを和姦だと確信していてもされた側が強姦だと思えば、それでレイプになってしまうものだ(細田は最後まで和姦を求めたに違いない)。
――僕はこのところの細田の挙動不審を見まもりながら、心の奥底ではまだ彼のことをかばっている面があった。
「あ、待ってよ。まだ話は終わってないの。」
「急いでいるんだ、今度またゆっくり聞くよ。」
僕は自転車のペダルを全力で漕いだ。そしてやよいのことを振りかえらないようにして学校を目指した。その日の彼女の服装ときたら、いつものことだけど、白地にハイビスカスのデザインをあしらえた派手な花柄のワンピース、そしてつばの広い真っ赤な帽子を被っていた。それにしても何と少女趣味な格好だろう。実際の年齢とは錯誤したこのファッションに細田の頭はイカれてしまったのか。細身で背の低いやよいは、ワンピースの腰紐の結び目まで可憐に、そして幼けにふるまっていた。これが細田を狂わせるキューピッドの矢が当たった月見草の雫になったのか。ともかく、彼は彼女に一目ぼれしたのだった。幻惑した森の女王タイターニアが目覚めてから最初に見たロバ顔の男に恋をしてしまったあのシェイクスピアの『夏の夜の夢』のように、細田は常にやよいが近くにいないと、落ち着かない状態になった。
男は足繁く、ほとんど毎晩のようにやよいの家へと通った。扉を開けて中に入れてもらえるはずも無い二十四番住居に。・・・・・・夜十二時近く、細田が玄関のドアをそろりと開け、家を出ていった音がする。「またか」僕はそう呟いた。とめどもなくこぼれてくる湧き水のように、男の愛は押さえる手段もなく、ただ熱く焦げつく太陽みたいに繰りかえし進行していく。
この、男にとっては余りにも神聖な恋心を、どうして僕が口出しすることができるだろう。僕は一方で細田のことを蔑みながらも、密かに彼を応援しているところもあった。
「事件」があってから二週間ほどたったある晩、僕はJICOの事務所からほど近い「ラヴァーズ・リープ」という大きめのショット・バァで、年配のJコープたちと呑む機会にはめられた。以前、同じ通りにある「ドント・ドリンク・ザ・ウォータ」で例の前園コーディネータの極秘話を明かしてくれた中年部隊員がまた僕に言う。
「ところでどうなんだい、細田のほうは。あいつも口ばっかり達者でロクなことをしてくれないね。実は我々の間では、今あの夜の話題でもちきりなんだよ。でも実際のところは、ねぇ、藤井くん、えぇ?あの男、やっちまったんだろう?しかも半ば無理やりに、彼女を。」
「さぁ、どうなのか分かりません。」
僕はシラをきった。
「やよいちゃんは『襲われた』とだけ言っていた。しかしあの時二十四番には奴とやよいちゃんしか居なかったんだから。男と女が同じ部屋に二人っきりで、何も起きない訳がないじゃないか。」
「それは最初っから二人に何かあったことを前提として、彼らを疑ってる発言じゃありませんか。」
「その通りだ。だって、この話をJコープのメンバーというメンバーにばら撒いてんのは、何を隠そう、やよいちゃん本人なんだから。」
「彼女の話を何から何まで信じるんですか。」
「当たり前だ。細田のやり方は百パーセント気に喰わない。そこいくとやよいちゃんはどことなくほら、いつでも愛嬌があるし。藤井くん、どうだ、君も反細田の同盟を組んで我々の仲間に入らないか。なぁ、藤井くん。」
「来た」と僕は思った。そして大人がつくり出す俗っぽさに嫌気がさした。下らな過ぎる、はっきりと答えるべきだ、そんなものは明瞭に断るべきだ。
「細田さんがどんなことをしたにしても、僕にとって彼は大切な同期の部隊員なんで。国内の事前研修の時から寝起きを共にした友だちに背中を向ける訳には行きません。僕は今回は細田さん側に立つことにします。」
その研修所では、細田独特の毒舌と(それは食事に関することから、日常的な礼節に至るまで、あらゆる生き方に対しての痛烈な教義だった)価値観が築きあげた哲学を周囲やメディアに惑わされることなく遂行する姿には定評があった。皆なは細田を「先生」呼ばわりし、畏敬視していたものの、彼は自分の殻をつくるような人間ではなく、いつでも自分の教義を拡散させ、それを他人に強要し、彼自身の唱える「正しい生き方」を励行するよう周りには勧めた。かつてこのことが僕の癪にさわったこともあった。
ただ、今回の堂本やよいとのいきさつについては、細田が自分の教科書の条文を穢してまで決行した事件だったし、やよいが周囲に細田の悪業を言いふらしているところから考慮しても細田のほうが分が良くない。やよいへの嫌悪感から僕は細田側の見地に立つようになった。
「そうか、それならそれでいい。もう君のことは誘わんから。そのかわり、これからどうなるか知らんぞ。おい皆な、聞け。藤井は細田のほうに付くらしいぞ。」
――このおやじ部隊員は、ふだんはJコープのメンバー同士のしがらみを倦むような発言をしておきながら、今こうしてその行為を全く反目することなく、繰りかえしている。これは醜態ではないのか。しがらみが嫌だという奴は、本当はしがらみこそ彼の好物なのかも知れない。
「ラヴァーズ・リープ」のオカは辛めのピリリとしたところが名物だ。「オカ」とは生魚、特にマグロをココナッツ・ミルクであえたサモア料理のひとつで、たいていは玉ねぎとかも混ざり、マリネのような感覚で味わえる。ここのオカには、さらに赤唐辛子が加味されていた。
とろけるような甘辛い刺身を口に含みながら、今夜の盃で他の部隊員と僕との間に微妙なひび割れが生じた。しかし、それはじきに修復され、思っていたほど後に尾を引かなかった。
住居に戻ると、細田は今夜も居ない。きっとまた二十四番界隈をほっつき歩いているに違いなかった。
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