十三、


Jコープの任期はたいていは二年だ。ただし本人が延長を希望した場合は、配属先がそれを認め、さらにコーディネータの推薦と本国事務局の許可がおりた時に限って、最長で一年の延長が可能だった。その一年後、再度の更新がある。あらためて本人の意思がきかれ、人によっては四年もの長期間にわたって活動する者も居た。
キーボーディストの松井幸司などはその最たる例だ(もっとも、この男はすでに任期を満了しているのというのに居のこっているが)。
そして一方で任期短縮、言ってみればカルチャーショックやホームシックに耐えきれないで、二年間の義務を全うできないまま帰国してしまう人たちも居た。
堂本やよいなどがこの例としてあげられる。この女の場合は本人の存続の意思が高かったものの、配属先のほうから「免職」を言いわたされてしまった珍しいケースだ。プライベートでは細田とのあの事件もあって、引率者・真木コーディネータの立場から見ても、やよいは煙たい存在だった。そこで職場を「クビ」になったということは、真木としてもやよいを本国に帰還するよう説得させるための、格好な材料になった。
ちなみに配属先を辞退する部隊員も少なくはなかった。
こういう人たちは必ず職場の「頭」やボスと喧嘩をしてから辞めるのだった。上役とのやり方が合わない、考えが違う、ウマが合わない、というのが主な理由だ。そして大声でサモア人を罵って捨てゼリフを吐いてオフィスを飛びだし、二度とそこに姿を現さなくなる。あの、西田紗絵もそうだった。
そう、我を強く抱いている人ほどよく喧嘩をして配属先から抜けだした。彼・彼女たちは気丈さを持ちあわせていたので、失敗してもすぐ次の仕事先を見つけてくるだけのバイタリティがあった。
本来なら職場を変更することは二国間取極で認可されていない行為だった。しかしまっしぐらで融通さに欠ける人間は、上司が気にいらないとすぐに職場を変えた。中には二年間で三つの仕事先を渡りあるいた女傑も居た。コーディネータもそこまでとなると、たじたじとなり、もう黙認するだけだった。
そしてここにも一人、ボスと喧嘩をしてサヴァイイ島を引きあげてきた男が居た。彼の気概から配属先のボスをどなり散らすはめになった。こういう時というのは、積もり積もった蟠りが爆発するものなので、日本人とサモア人で互いに怒号を放ちあうことになる。そして、言い合いになった直接の原因をきいてみると、実は些細なことであることが多い。
泊英樹、この九州男児が喧嘩に至ったのも、「ボスが部下の葬式に出席しなかった」という、何ともつまらないことを端に発していた。
泊はサモア行きの飛行機の中でプロのギタリストに間違えられた男だ。今でもピックアップ・トラックの荷台に乗って南十字星とニセ十字を見つけあった時の記憶が甦る。配属されて一年は我慢しながらも職場に出ていた。しかしこのところはアピアまで出てきていることが多く、もっぱらJコープのドミトリィ生活をしていた。そんな訳で週末ともなると、自然と僕や橋本と三人で呑む機会も多くなった。僕が松井幸司の妹と会った「カフェ・ノアール」へは山本夏央理と二人で現れた。
泊の場合は他と少し事情を異にしていて、職場を飛びだして以来「日本に帰りたい」ことをほのめかしていた。真木コーディネータはこれに「待った」をかけた。残りの任期が一年もある訳だし整備士という彼の職種上、じきにいい口が他に現れるだろう、と踏んだのだった。実際、整備士は引く手あまただったし、泊の腕は確かだった。
ところが二ヶ月、三ヶ月とただ待ちつづけるまま、本人にとってはひたすら怠惰なJコープのドミトリィ生活が過ぎていくだけだった。
六月に入ってついに泊は帰国を決断した。その理由として、日本に居るフィアンセのことがあったのも否めないだろう。真木もその時点ではもう引きとめなかった。「六月の下旬には日本に帰る」と泊本人から聞かされたとき、僕はこの事を山本夏央理にも知らせる必要があると思った。
そこで僕は「他言無用かどうか」を泊に尋ねたところ、「言ってもかまわない」という答が返ってくる。僕は夏央理には伝えるむね、泊から了解を得た。以前から泊も夏央理とは日常的な付き合いがあった・・・
この頃になると、僕は夏央理に電話をしなければならない用事があっても、何かこういった重大事を伝えるといった必要にかられない限りは、あえて電話をしないことにしていた。精神的にも彼女を遠ざけるためだ。
だけど、間もなく物理的にも離れてしまう日々がやってくる時のことを考えると僕は戦慄した。苔のように生えのこっていた恋心はこの矛盾を苛んだ。
「・・・あっ、山本さん?藤井ですけど、P.N.G.(パプア=ニューギニア)のもう一人の同期とも連絡がとれて、あなたをエスコートできるって返答が来たんだ。これでポートモレスビーからサウス岬までの間も安心して旅行ができるよ。」
「ありがとう、今回は本当に。」
「それともう一つ。こっちのほうがビッグニュースなんだけど。」
「えっ、何?」
「泊くんがさぁ、いよいよ帰るってよ。」
「あ〜っそうなの?・・・え〜っ、それはまた急ね。」
「うん。でもね、本人が決めたことだからね。」
「あら、もう決定してしまったことなのね。」
・・・・・・何という未練だろうか。いや、僕はこれを未練とは呼びたくはなかった。でもくやしいことにこれは確かに未練だった。そしてその未練に追い討ちをかけるように、夏央理はとどめの、しかし背中をくすぐるような、なま温かい声をかけてきた。
――「そういえば藤井さん、あの話はどうなったの。」
僕はそのセリフを聞いただけで、夏央理が何の話をしだしたのかが分かってしまった。それでも僕はとぼけるふりをした。ここでじっと夏央理がほのめかす誘いをふり払わなかったら、またしても僕は堕ちてしまう。
「・・・あの話って、何かしたっけ。」
自分に嫁した責任を、のがれるための方法――僕はそれをずっとさぐっていた。その結果、ひとつの結論を無理矢理でっちあげた。
その責任のがれとは、夏央理のほうから僕のことを誘ったことにすればいい、ということだった。そうすれば「僕は身を引くつもりだったのが、夏央理がそれを制して近よってきただけだ」という言い訳を捏造することができる。
そして次に受話器の向こうから聞こえた夏央理の言葉で、眠っていた翼が僕の背中からむくむくと生えだした。
――「マナセの件は・・・・・・」
「あっ、あぁ・・・実は俺、今学校休みなのね。今週いっぱいまで。で、マナセ村には金曜から行こう、と考えてるんだけど、山本さんも来る?」
「金曜から日曜日まで行ってるの、そうなんだ。じゃ、あたしは金曜の夕方からおじゃましようかな。金曜の活動を終えてから飛行機で。誰かに声かけてみる、一緒に行ける人が居るかどうか。」
「オーケー、決まったら教えて。」
それから僕と夏央理はとめどもない長電話を始めてしまった。それは一時間、いや二時間と続いた。
・・・あの時、四人でサヴァイイ島を一周したとき、まさかと思っていた夏央理との再マナセ村旅行が実現しそうになった。何と無残なタイミングだろう!この日、もし僕が夏央理に電話することなどなければ、この夢は成立するわけもなかった。
夢?そう、夢だった。
『ロビンソン!』――僕はまたホームスティ先の近くのホテルの名を心の裡で叫んだ。『ロビンソン』のことを思いうかべると、それはいつも婀娜っぽいユラメキの中にあった。
夏央理と接吻する、あの何度もイメージするディスコでのシーン。ひょっとしてその舞台はディスコではなくて、ロビンソンでの出来事を予見していたのではないか!・・・――そう思うとたちまちイメージからはネオンと音楽が消え、夏央理からはソバージュと黒のドレスと口紅が消えた。紙芝居の背景がそっくりそのまま入れかわるようにたばこの煙にまみれた屋内はサモア式家の中になり、ブラックライトは月の光になり、ウィスキーボトルやジントニックは〈手の水〉ビールに早がわりした。
これはどうしたんだ、こんなことが起こりえるのか。
・・・・・・とそこで夏央理は突拍子もない話を電話の向こうでしだした。
「あたしって『それどころじゃない』っていう言葉が嫌いなの。それが何かの言い訳だったら最悪よ。だって、それどころじゃないって、じゃそれどころじゃないことをしている他の人たちはどうなのっていつも思うの。身も蓋もないじゃない。」
これは彼女らしい論理だった。僕は「なるほどね」と答えるだけだった。
夏央理は大学を卒業して半年近くOLを経験してからJコープに参加した。もしかしたらこの発言はこのOLの時期に得た考え方かも知れなかった。
僕たちが話をしているうちに外は薄暮からすっかり夜の色に落ちてしまった。そして、またしても夏央理が僕をくすぐるようなことを言いだした。
「ところで藤井さん、これからでも夕ごはんを食べに行きません?泊さんも誘って。そうだ、ちょっとしたお別れ会でもしましょうよ。」
「そうだね、彼は今はドミトリィに居るはずだけど、電話してみてもどうかな。」
「もし泊さんの都合がつかなかったら、二人ででもいいですよ。ドミトリィにはあたしのほうから電話してみるので。泊さんが来れないようなら、あたし一人でも行きますから。」
僕たちはその晩、急に「レムー」レストランで夕食を共にすることになった。このレストランは夏央理たちの住居から山側に車で四、五分ほど登っていった所にあって、丘の中腹を切り落とした形で聳えていた。
入り口のゲートを入ると、屋外の駐車場があって、その奥からはコンクリートの石段が建物までずっと続いている。最初はむき出しの金属だった手すりも、階段を登っていくうちに朱色で塗られるようになり、足元もコンクリートの裸からタイル張りに変わる。
てっぺんまで登ると、寝殿風まがいの、朱色と黄色を基調にした御殿が現れ、恰幅のいいサモア人のウェイターが「イラッシャイマセ」とレストランの中へ導く。フロントの両側には松明が銅製の三脚で支えられて焚かれている。建物の中は板敷きであるものの、意外に西洋風だ。木製の椅子とテーブルが並んでいて、座敷などはない。東向きと北向きの奥は野外のテラスに砂利が敷きつめられ、崖端に沿って花壇が並べられている。
このテラスからはアピア湾が一望できるようになっていた。オーナァは日本人で、僕たちJコープの遠い先輩でもあった。だから店員も「イラッシャイマセ」と「アリガトウゴザイマシタ」だけは使えた。


夏央理は泊と泊の同期の橋本と体育教師を率きつれて現れた。彼女自身の臍を露出し、胸の下のところで切れているシャツと、白いGパンを履いて・・・・・まわりはこの格好を冷やかしたけど、本人はまるでそれを気にもとめていない様子だった。
僕は派遣国外旅行での、タヒティの若い女の子のファッションを想いだした。彼女たちはパァレオを纏っているか、もしくはちょうどこの時の夏央理のような格好、つまりお臍が丸出しになる原色のシャツを着ているかのどっちかだった。
僕たちは隅の一角に固まり、ニュージーランドから届いたばかりとオーナァの言う、鮭の刺身に舌鼓を打ちながら想い出話に耽った。帰国寸前の部隊員に必要なのはサモアでの楽しい回想録だけだ。お別れ会のしんみりとした雰囲気を避けて通るように、僕たちは言葉を選びながら帰国の決まった泊のことをねぎらった。
「この一年はオレにとって何やったんやろか・・・」
泊は僕たちにも聞こえるような声で自問自答した。
「・・・――まぁでも、色んなこと体験させてもらったんだし、色んな人にも出会えた訳だから、有意義な一年でもあったんやろ思います。」
そしてこうもつけ加えた。
「とりあえずオレは先に帰ります。これ以上、真木さん(コーディネータ)が見つけてくれる口を待っとれんし、たとえ新しい職場に入ったにしても、結局また同じことの繰り返しになると思うんですわ。そこでまたサモア人と喧嘩してハイ終わり、みたいに。」
僕に泊ほどの甲斐性があれば、とっくの昔に音楽学校を辞めていただろう。今までだって校長やその長男とは何度か火花を散らしたわけだし、文句を言いあったこともあった。そのたびに味わう屈辱を、いつの間にか僕は妥協の中に溶けこませてしまうようになった。それを融合させる術はマナセ村への逃避だったり、それこそ夏央理への恋慕にあったのかも知れない。
泊は六月の最後の週にハワイ経由で帰ることになった。
その二日後、僕は再び「レムー」レストランで今度は古屋ひとみと会食をすることになった。
これはデェトではない。本当は小沢基子も来る予定だったものが、体調を悪くしたために、ひとみと二人だけになってしまったものだ。
これは目的のあるミーティングだった。夏央理や鬼頭則子など、七月に帰国する人たちのためのお別れパーティを企画して、店の貸し切りの交渉に「レムー」まで顔出しをしていたのだった。
今回の企画にはすでに帰国した堂本やよいと、「事件」を起こした細田嘉章は含まれていなかった。一年も前になる〈水を分ける=島側〉での歓迎パーティ企画者の顔ぶれからは人数が減っていた。
細田などは自主的に仲間からはずれた。彼の言い草はいかにも細田らしい。「国民の血税をそのような宴会のためにドブに捨てる企画には加わりたくないから辞退する」と言うのだった。これはいつかもどこかで聞いたようなセリフだったけど、彼のような潔癖主義者には通俗的な意見などいっさい解しえないのだった。
結局、僕とひとみ、そしてシステム・エンジニアの小沢基子だけが残ってしまった。
いくつかのパーティ候補地があがったのちに、僕たちは「レムー」を選んだ。そして表向き客を装って最終的な下見と金銭交渉のために集まったのがたまたまその日だった。
店側が提示した金額は、僕たちが呑める範囲のものだった。そして貸し切りの日どりとしては七月第一週めの土曜日を希望した。こういった日本人間のパーティは、土曜日にとり行われるのが通例だったからだ。
僕たちはサモア語を使わないで、あえて英語だけで慎重に契約を交わした。こういう重要な決めごとをやりとりするときは、必ず現地語は使わないのが鉄則だった。
交渉はどうやら成功した。「あとはオーナァに了解を得るだけよ」と言ったサモアの婦人は、オーナァの日本人を夫にしていた。夫はその夜、出かけて居なかった。
僕とひとみは出てきた日本食っぽい料理を頬ばりながら、しばらくは当日のプログラムや椅子とテーブルの配置、ステージやスピーカァをどこに設置するかなどの打ち合わせをした。
そういった会話の合い間には、シリシリ山登山の感想などをきいたりもしたけど、僕のほうからひとみに渡部との交際について触れることはなかった。
そう、僕は意識して紳士的に振るまった。すると、フロントのほうからJコープの集団が入ってきた。JICO職員の河本や、太田健二の姿が目に入ったので、テニスの練習を終えた連中だとすぐに分かった。考えてみれば今日は水曜日だ。
太田が僕たちの存在に気づいて「あ、デートしてる」と言った。これには皮肉がこもっていた。「お前には夏央理という好きな女がいるのにこんな所で別の女と一緒にいてもいいのか」という意味が、言葉の陰に隠れていた。
そして連中の間に、夏央理の姿がよぎったのをはっきり確かめたきり、僕はわざとらしく夏央理のことを直視しなかった。
彼らは僕たちのテーブルの脇を流れていって、そのまま屋外のテラスへと腰を落ちつけた。総勢で十人強は居ただろう。テニスサークルは日没の六時に始まって、八時に水銀灯が消されるまで行われる。そのあとは、たいてい町のレストランに移って皆なで食事をとる。その場所はいつも不確定だ。その日の気分次第で行き先が決まる。
誰が「レムーにしよう」と言いだしたのか、僕とひとみが別の目的で来ているところに、あとから大挙してメンバーでおしよせて来た、それはただの偶然だった。
その中にふと夏央理が混じっていたのも、何かのめぐり合わせだった。
ひとみとは、思いのほか長く話しこんだ。店までやって来たことの目的を果たせたこともあってか、僕たちは普通の客になり戻って何とはなしにお互いにとって興味をそそる話を絶やさなかった。
派遣前の国内研修の話、サモアに来たときの印象、ホスト・ファミリーの話、もちろん配属先での出来事とか、僕とひとみは共通の話題には事欠かなかった。それは二人とも同期の部隊員だったことにも由来しているのだろう。
そこには異性という枠組みを越えた友情というものがあるようにも見える。そう、明らかに僕はひとみを女としてではなく、一人の人間としてグラスを酌みかわした・・・
――さて夏央理を含むテニス組が店を捌けたあとも、僕とひとみの対話は終演のタイミングをはずしたまま夜の十時過ぎまで続いた。
店の客が僕たち二人だけになったとき、ひとみは女に戻っていった。
彼女は時計を見て、「そろそろ帰りましょう」と言った。僕はそこに渡部との密約を見てとった。きっとお互いに深夜、電話のやりとりがあるのだろう。
店で呼んでくれたタクシーに同乗すると、ひとみは僕が彼女の住居まで見送ることを断った。それには何も嫌味がなかったので、むしろ僕は喜んで自分だけ先に〈水を分ける=海側〉で車から降りた(ひとみの住まいはさらに数キロ先の山奥だった)。
彼女には気遣いがあったし、何よりも養護婦がそなえている、あの独特な思いやりに満ちていた。僕にはひとみへの義理立てがいっさいいらなかったわけだ。もちろん、彼女にしてみれば恋人である渡部への対面もあったのだろう。
僕が住居に戻ると、ほとんど間をあけずに電話が鳴ったので、出てみると相手は夏央理だった。
「金曜日のマナセ行きの話なんだけど、まだ飛行機の予約がとれない状態なの。もしかしたら船を使うことになるかも知れない・・・」
夏央理はこのあと一緒に連れていくのがある女性部隊員になったこともつけ加えた。
それにしてもこの電話は、さして内容のないもので、どうしてこんなことを告げるためだけに、十一時を過ぎた深夜(サモアでは十一時はもう真夜中だ)にかけてくるのかが分からなかった。
電話を切ったあと、シャワー室に向かう時もこの不可解が僕の唾液を濁した。
・・・・・・さっきまで僕も夏央理もレムーに居た。もし用事があるなら、彼女が帰りしなに僕とひとみのテーブルに寄ってきて喋りかけても全く不自然な光景ではない。用件がくだらないことだったらなおさらのことだ。
「そうか」――冷たいシャワーの水を頭の先から垂らして、いやでも鳥肌がたつ乾季の行水をしながら僕は呟いた。
電話は玄関に入るなりすぐに鳴った。ということは、夏央理はずっと僕の住居にかけ続けていたことになる。そうだ!――何とも言えない優越感が体じゅうに注がれた。歓喜の水滴が、それを含むなり淀んだ口の中を漱いでいく。
夏央理が僕とひとみに嫉妬した!僕はこの嫉妬を何と清らかに思ったことか。体の汚れや外皮に滲んだ汗が、あらいざらいに落とされていく。
きっとそうだ。――今夜先に帰った夏央理は、僕が何時に帰宅するか、電話をして確かめたかったんだ。でなければ今日のうちにかけてくる理由はない。金曜日までにはまだ明日、木曜という日が残ってるじゃないか。
すっかり酔い覚めしてしまった僕は寝巻に着がえると、居間で呑みなおしをした。
蛍光灯の光がダークブルーのPタイルを薄っぺらく照らし、黄金色の酒がウィスキーグラスの中で揺れた。
白塗りの大きなテーブルの上には洗剤や剃刀、ハンドクリームといった雑貨が、日本から送られた海苔や昆布、だしの素といった食材が規則性もなく放置されている。
傍らには、真っ赤なハンドマイク。流線を描く円すい形をしたこのシロモノは、暴徒が入りこんで来た時のために、事務所から各部隊員宅に配られているものだった。
今、これら一つ一つのものにさえ、サモアの生活がしみこんでいる。
「でも。」
僕はそのテーブルの縁に片腕を凭れて、二度めに呟いた。そして改めて自分の意向を固めた。
「この恋は隠さなければならない」――何度も自分に言いきかせながら、オン・ザ・ロックのウィスキーを口もとに運ぶ。
天使はもう一度悪戯を僕にしかけてくるかも知れない。その罠にうっかりはまってはならない。僕はそこで誘惑に討ちかたなければならない。信念を貫くためにも。
そう思いながらも動悸はいつまでもおさまらなかった。僕は本当はとてつもなく嬉しくて仕方がなかった。隠しようもなくこの週末を楽しみにしているのだった。このまま何ごともなく金曜日を迎えられることをただ心待ちにしていた。
しかし熱情のおもむくまま漲る本能を、理性という縄で縛りつけようとする、この精神の二面性をどう説明するべきだろうか。驀進するネガティブと撤退するポジティブ。両者の同居は僕の心房をはち切ってしまうかも知れなかった。


その金曜日は静かにやって来た。
僕は朝一番で町から波止場へと大衆バスで向かった。ウポル島発レディサモア二世号の第一便に乗船することができれば、午前十一時前にはもうマナセ村についている。
「夕方に女の子が二人遊びにくる。」
僕はファミリーに到着するなり、ファファフィネ好きのロニーにこう伝えた。
「大変だな、カズヤ。今夜は二人をベッドでお相手するのかい。」
サモア風にからかうことを彼は絶対に忘れない。
「違うよ。」
「ウ・ソだ。」
僕はまともには話に乗っからない。・・・サモア人と打ち解けた話をすると、どこまでが真面目でどこまでが冗談なのか分からなくなってくる。
その日夏央理たちは夕刻に飛行機とバスを乗りついで来ることになっていた。アピアの町はずれにある〈酋長の港〉空港(そこは僕が派遣国外旅行で乗り降りした空港でもあった)からサヴァイイ島のマオタ空港までは毎日五回の定期便が往来している。飛行時間はわずか十五分足らずだったけど、運行費が一人三十三ターラー(約千五百円)もしたので(船だと六ターラー《約二百七十円》)、Jコープにとっては、そう頻繁には利用できないものだった。
ぼくはまだ時間がたっぷりあったので、家を出て気にかかっていた場所へと足を運んだ。
読者は憶えているだろうか。〈贈り物〉のことを。あのサモアの純真な乙女のことを。
いたいけなほど柔らかい白砂の上で三、四分も足を滑らすと、すぐにも彼女の実家に辿りつく。そこは僕のファミリーにとっても、分家の関係にあった。
「あら、カズヤじゃないの。前から来てたの。」
「うん、朝っぱらにね。」
当然サモアの家々には垣もなければ門もない。アロファの家の敷地に入るなり、彼女のいとこにあたる女が僕に声をかけた。名前と顔は村じゅうに知られていたので、マナセのどこを歩いていても僕は必ず呼びとめられた。
「分かった、アロファに会いに来たのね。でも生憎なのよ。彼女はもう村には居ないの。ニュージー(ランド)に行ったわ。」
「えっ、本当に?」
「あぁ、お前さんは、いつぞやの外人さん。」
家の中から声が聞こえてきたので覗いてみると、古ぼけた皮製のソファーの上にはポーニウ=彼女の実父が座っていた。
「マーロー。」
「マーロー。」
「アロファが行ってしまったというのは。」
「その通りじゃ。あの子は頭がいいからの。家の中の仕事に使わしておくのはもったいないんでニュージーに勉強に出させたのさ。そんな訳で、今は居ないんじゃよ。残念じゃの。」
サモア人は労働や勉学でいったん外国に出てしまうと、よっぽど裕福な家庭でもない限り、軽く一年や二年は帰ってこない。〈贈り物〉にしても、少なくとも今度のクリスマス休暇まではまず帰ってくることはないだろう。そのクリスマスまで僕はサモアに居る予定がない。
僕の任期満了は十二月八日だった。すなわちそれは、もう二度とアロファに会うことはないことを意味した。こんな縁の切れ目もあるのだろう。僕は彼女の純粋無垢な、褐色の靨と奇麗な奥二重から零れる涙を想いうかべた。体裁だとか、道徳的規範にとらわれない人間の溢れる感情から産まれる喜怒哀楽の何と美しいことか。
それでも、僕の欲情はアロファのすでに居ないことをむしろ良しとした。今夜夏央理がやって来る。アロファと夏央理は、同じ村に存在してはならなかった。
僕はファミリーに引きかえして、七才と五才になったフェレニとその妹コレティと夕方六時に通過するはずの、夏央理たちの乗っているバスを、家の土台の部分に設けられた階段の上に腰をかけながら待ちわびた。
今ここに夏央理が訪ねてくる。――そんなことを想像するだけでも股間が疼いた。
ところが、一台めのバスが客を降ろしたときに夏央理の姿はなく、二台めのバスの降車客の中にも、夏央理ともう一人の女性部隊員の影は全く認められなかった。
夕刻のバスは二台しか走っていない。つまりそれは夏央理たちが今日じゅうに来ることはない、という意味だった。
僕は立ちあがったまま唖然としてしまった。
「どうしたの、カズヤ。カオリは来ないの。」
放心した僕を案じるようにフェレニが声をかけた。復活祭のとき遊びに来て以来、カオリの記憶はフェレニの頭にも強く残っていたのだろう。このちっちゃな男の子も夏央理が訪ねてくると聞いて昼間から心待ちにしていた。
「きっと急に来られなくなった理由が何かあったのだろう」――そう言いきかせようと思えば思うほど、僕はだんだんとムカムカしてきて、ついに荒ぶる心を宥められなくなった。
母屋の家まで戻ると「来なかったのか」と夕食の仕込みをしていたロニーがきいた。
ココナッツ・ミルクをいつもより多めに造っていたロニーの手つきを見て、申し訳ないという気持から、ついに怒りを爆発させてしまった。
――「駄目だ。嘘をつきやがった。嘘つき女どもだ!」
「・・・大丈夫だ。こういうこともあるだろう。女の嘘はいつものことさ。」
だけどロニーはひょうきんに笑いながらいらない分のミルクを別の容器に分けた。
夕食を終えて、憂さ晴らしに『ロビンソン』まで出かけてからも、落胆と憤りと、「許してあげなければ」がスロットマシーンの表示が入れかわるように交錯した。
どうして来ないのか。来ないのならどうして水曜日なんかに電話してきたのか。急に来られなくなったのなら、何で一報を入れてくれないのか。
そう、ロビンソン・ホテルまで行ったのは、もうひとつ理由があった。村で一本しか引っぱっていない電話線は、このホテルにしかないのだった。
夏央理は必ずロビンソンに連絡を入れてくれるだろう。そうでなければ彼女の流儀に反する。
しかし僕の名前を呼ぶボーイやウェイトレスはいっこうに現れない。カウンター・バァに一人で腰かけたまま、注文したビールのボトルの数だけがただ嵩んでいく。僕はよっぽどホテルのスタッフをつかまえて、「自分あての電話なりメッセージが入ってきてないか」を確かめようとしたけど、結局何もしないままその場を過ごした。
ふと、この前の長電話のとき、夏央理が話していたセリフを想いだす。――「それどころじゃないと言うのなら、それどころじゃないことをしている他の人はどうなるの」というものだったことが夏央理の強い語気とともに甦る。
今、僕がここでこんなにもやきもきしていること、これこそが夏央理たちにとっては「それどころじゃない」ことかも知れなかった。
というのも、何かが絶対に起こったはずだった。夏央理たちが今ここに居ないのも、それが原因だろうと察せられた。それでも、たとえそうであったにしても、とめどもなくこみあげてくる激昂を、僕は押さえつけることができなかった。
家に戻って、寝るために蚊帳の中にもぐってからも、憤慨の湧き水は栓が抜けたように項からはしたたった。
次の日の朝一番のバスが通過していっても、夏央理たちを降ろしたような形跡はなかった。こうなると、いったい来るのか来ないのかさえ分からなくなる。まさかとは思うけど、何かの事件に巻きこまれた可能性も疑う必要が出てくる。
しかし夏央理たちは昼下がりに訪れた。それはレディサモア二世号の第二便の時間とも少しずれた、不思議な時間帯だった。彼女たちはバスを止めるタイミングを外したようで、だいぶ先のロビンソン・ホテルのほうから歩いてやって来た。
女が二人して並ぶその光景を、村の一本路のアスファルトは蜃気楼のように写した。だけどその幻影らしいものを見ただけで、僕のいらいらは一瞬にして安堵に変わった。
「遅かったですね」――僕はいきなり厭味から言った。
夏央理ともう一人の女性部隊員は近よってくるその時も苦笑いをしていたし、さらに僕のこの第一声ですまなそうな照れ笑いがはじけた。
「ごめんなさい。レディサモアの調子が急におかしくなっちゃったらしくて、昨日はついに夕方の便が出なかったんですよ。」
「えっ、俺が昨日の朝乗船したときには何ともなかったのにな。」
「そう、それでせっかく波止場まで行ったのに、もう一度町に引きかえすはめになっちゃって、大変だったんですよ、ホント。」
彼女の話は真に寝耳に水だった。
「・・・っていうか、飛行機で来るんじゃなかったの?」
僕が豆鉄砲でも喰らったようなすっとんきょうなきき方をすると、今度は夏央理が間を割って喋った。
「あぁっ、はは。それはもう、とうの昔に駄目だったのよ。やっぱり最後までチケットはとれなかったの。キャンセル待ちで粘ったんだけどな。」
「そういうことね。それじゃ仕方がないよね。そうか、それでこんな中途半端な時間になった訳か。だっていつもはこんな時間にバスなんか通らないからね。・・・まっ、何はともあれいらして頂いてよかったですよ。早速紹介しよう、俺のファミリーをね。」
「あたしは、二回目なんだけどなぁ。」
夏央理が言葉を鋏んだ。
遠くからフェレニとコレティがかけ寄ってくる。子供たちは夏央理の名前を連呼した。「――カオリ、カオリ、来て。海で泳ごうよ!」
水着に着がえてから、僕たちは家の裏のビーチに出た。軽く海水浴してから、もう一人の部隊員(名前を洋子といった)だけは沖のほうまでシュノーケリングに行ってしまった。
泳ぎに自信のない夏央理は海岸に近い所で仰向けになって水面にたゆたう練習をしている。その姿は何とはなしに僕を魅きつけたので、自然と夏央理の近くに吸いよせられた。
彼女が体勢をくずしたとき、僕はまた気づかうために夏央理のそばまで水を掻きわけた。
また?そう、まただった。
僕はこの場面に遭遇して、二ヶ月前に起こったことをまるでビデオの一シーンを巻きもどして観ているような気分になった。ただ、決定的に違うことが二つあった。それは二ヶ月前の夏央理は、この瞬間にコンタクトを目の中でずらせてしまったことだ。
もう一つは僕の心情があの時とは移りかわってしまったことで、告白の遂行のためにさんざん血を騒がせていた二ヶ月前とはうって変わって、今や全く反対の方向を精神の針は指していた。
僕はぞっとした。夏央理は濡れてしまった顔を両手で拭って笑顔を見せてくれたけど、二ヶ月前の僕だったら、この状態では喋っていたに違いない。――あの、あらかじめ用意していた告白文を!
だけどこの二ヶ月には、色んなことがあり過ぎた。そして今では、体裁であるとか恥ずかしさとか躊躇といった他の要因が、僕の本能を思いとどまらせるよう働いた。
「カズヤーッ、カオリーッ。」
浜辺でフェレニが叫ぶ。片手には、前の時と同じように夏央理が持ってきていた浮き輪を掲げて、大きく手を振っている。
フェレニはそれからその浮き輪に乗ったり引きまわしたりして、またしても夏央理と戯れた。
・・・このシーンも二ヶ月前の再生だった。それは驚愕に値した。ただ違うことと言えば、夏央理の水着の柄くらいだった。
僕は魔女の指で自分の鼻毛を抜かれているような気分になった。それは恐ろしいほどに魂を脅かして脊髄をぞくぞくさせたのだった。


夕食後、本当は洋子も含めた三人で遊びに行くはずだったロビンソン。しかし洋子は「疲れているから」ということを理由に同行を拒んだ。そして早々と一人だけ蚊帳に入りこんでしまった。
僕は「どうしようか」と夏央理にきいた。
「藤井さんはどうしたいの?」
この時の夏央理はしびれるほど健気だった。
「・・・俺は遊びに行きたいよ。」
「じゃ、行こう。」
僕は夏央理と一緒にロビンソンへと足並みを揃えた。二人は幻想の浜辺を徘徊しているようだった。実際にはアスファルトの、人工的な路の上をそぞろ歩きしているだけだったのに・・・・・・
ホテルの照明が夜霧に溜め息をついたようだ。
ロビンソンの藁葺き屋根のレストラン。――もちろんサモア式に壁はない。柱があるだけの吹き抜けだ。
ここに夏央理と二人きりで訪れることがあるなんて。
僕はいつものカウンター・バァの一人席へは目もくれず、木目のテーブルのほうへと夏央理を導いた。
「俺がホームスティに来たころは、毎晩のように踊りや歌があのステージで演じられていたんだ。でも、そのうちに週三回になって、ついに週一回しかやらないようになっちゃった。それがちょうど昨日だった。」
僕は舞台のほうを指差して言った。昨夜のこと、しかし昨夜の自分は、それこそ音楽やポリネシアの踊りなどを優雅に眺めていられる心境ではなかった。
・・・それっきり、僕は無口になった。口を開けば、きっと声がうわずってしまうに違いない。
「・・・どうしたの?今日の藤井さん、なんか昼間からおかしい。やっぱり遅れて来たこと怒ってるんですか。昨日、結局船が出なくって、町に引きかえしてからもずっと気になっていたのよ。ここのホテルにも電話してみたの、もしかしたら居るんじゃないかって思って。そしたら、思うようにフロントの人に英語が通じなかったみたいで、とりついでもらえなかったの。」
夏央理のする言い訳を僕ははらはらしながら聞いた。しかしそれはもっともらしく響いた。それにたいする問答を二、三やりとりすると、僕はまた黙ってしまった。
「この恋は力ずくで消滅させなければならない!」――この語句が踏み切り信号のように、頭の中で何度も点いては消えた。
そのたびに僕は態度に落ち着きをなくし、目は変色したように焦点が定まらなくなって、夏央理が何をきいてきても口ごもってしまった。
「どうしたの?」
彼女はもう一度同じことをきいた。その実、彼女から見ても、無言のまま嫌にソワソワしている僕の姿は奇異に写っただろう。
だけど、何ということだ!・・・表面上のドギマギさとは裏腹に、僕の内心は冷静だった。
「・・・せっかく天使が恵んでくれ気まぐれな恩寵に対し、確かに今の俺は裏切り行為で応えようとしている。だけど、いつかはここで告白しなかったことを良かったな、と回想する時が来る。その時こそ、時間というものを俺の思うがままに手なずけてやろう」――これは、穢れた信念だった。
――――――――――
泊英樹の帰る日が来た。僕たちは大勢で〈城壁〉空港につめかけた。ハワイ行きのエア・ニュージー(ランド)は真っ昼間のフライトだった。
「いやぁ皆さん、大変ご迷惑おかけしました。とりあえず僕ぁ一足先に日本に帰ってます。それから、僕のためにわざわざお別れ会まで開いてくれて、ありがとうございました。」
泊はこう言って、出国直前の挨拶をしめくくった。
それから一人一人の握手が始まる。
僕の番がきたとき、泊は「また漫才やりましょう」と言って手を差しだした。二人はあたりに笑い声をまき散らして握手を交わした。
ちょうど三日前にあったお別れ会のときに、僕は泊と二人で部隊員のモノマネを題材に漫才をやったのだった。それは大いに好評を買った。泊は身近な人間のモノマネをするのが上手かった。
「お〜い、同期よ。お前らはあと十ヶ月の任期を全うしろよ!」
――泊は最後にそう言いのこすと背中を向けて、出国審査のあるロビーの扉の向こうに消えていった。
彼の胸中をうかがい知ることはできない。だけど悲劇にしろ喜劇にしろ、幕がおりる時は必ずやって来るものだ。今日の泊が妙にすがすがしかったのは、一つには、とりあえず大きなことに決着がついたという、満足感から来ていたのだろうか。・・・しかし日本に帰ったところで、彼を待っているのは元の職場に復帰するという、前進することのない日常だった。
僕たちはそれから見送り客専用に設けられた柵のあるほうへと移る。この柵ごしに、もう一度泊が飛行機まで歩いて、タラップを昇っていく様子を眺めるためだ。
乾季の真っ只中であることを教えてくれるように、その日は快晴だった。ジェット機のエンジン音が空気を震わせ、空港の路面のところどころから生えでている雑草は風に揺られながらも力強く生命を謳歌している。薄黄色した太陽はたなびくすじ雲を淡く白く染めていた。
泊が再び目の前に現れる。こっちに向かって手を振っている。声は届かないけど、お互いの存在は確かめられる。向こうから見れば、僕たちは檻の中から馬鹿面さげて格子にしがみつく日本人の集団だろう。
タラップの頂きで立ちどまると、泊はもう一度手を振ってから機内へと消えていった。やがて飛行機はゆっくりと車輪をまわし始め、滑走路へと離陸態勢を整える。
僕のすぐ隣りでは夏央理がこの行方を見守っていた。前にもこんな情景をどこかで見たような気がした。
飛行機はいったん空港の建物の影へと視界から去っていった。ニュージーランド行きとは反対の方向から滑走するためだと無線士・橋本は説明した。彼はそう、この空港が配属先だったので、そのことを当然のように知っていた。
あの時はニュージーランド行きの飛行機を見おくったことを僕は想いだした。しかも時間帯は深夜で、飛行機の中にはオークランドに向かう西田紗絵が居て、その時、山本夏央理が僕の隣りで「きれい」と言った。
今、夏央理の髪が風圧でぶあっと舞った。その黒髪は太陽光線を反射してきらきらと揺曳している。
そういえばマナセ村から帰ってくるとき、大衆バスの中でも僕はこんな光景を何気なく眺めていた。彼女のおぼろげな視線は遠くのほうを見やっていた。
夏央理は何をすかし見ていたのだろうか。日本のことを、過去のことを。いや、もしかしたらそんなことはあってはならない、昔の交際相手のことを(もちろん我々がその人のことを知るよしもない)!
「・・・こういうのを帰国隊員症候群っていうのかなぁ。今、それに陥ってるの。」
――傍白のセリフを吐くように夏央理が呟いたので、僕は現実に引きもどされた。
彼女はまだ滑走路を遠くに眺めている。
僕が何も答えないでいると、ついに夏央理は僕に向かって小首を返した。
「このごろあたし、サモアを離れたくないって思うの。」
この言葉を言いはなった瞬間、夏央理の顔が歪んだ。
思わず耳を覆いたくなるような爆音が通過していく。その音は機体の影とともにしのび寄って、あっという間に東の空に抜けていった。
飛行機が目の前をもの凄いスピードで横切った刹那、僕たちは強制的に口を閉ざされ、浮上していく鋭い鉄の塊を耳鳴りの衝撃にしびれながら見おくるしかなくなった。
誰もが言葉を失って呆然とする中、ジェット機は魂と肉体を天空へと運んでいった。間もなくそれは北に進路を変えて空色の中に隠れていった。
夏央理と僕の間には何も起こらない。
ロビンソンに行った日も、その次の日も、そしてこの日も。
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