十一、

 僕の耽溺(たんでき)に新たな嵐が襲った。それは暗黒の渦を巻いてから忍びよってきた。その渦巻きは小脇に苦悩をかかえていた。

 その実、季節がら涼しいつむじ風が大手を振って横行するようにもなった。カエンジュの花はあとかたもなく消えてしまい、だんだんと寒くなっていくきざしが(うかが)えた。それでも真昼の炎天下では、すさまじい熱波を浴びることができた。日陰でも摂氏二十八度をもたらす日ざしは、決してあなどれなかった。
 四国弁を話す沢村のお父さんの帰国日があさってに迫っていた。彼は自宅を開放して僕たちと自分のための「さよならパーティ」を開いた。
 新部隊員の三人を交えて、その時は十人余りが顔を揃えていた。今は僕の同居人だけど、沢村が帰ったあとは、沢村の住居(フラット)を受けつぐことになった渡部、そしてそのカノジョのひとみ。――この二人は、沢村とともにシリシリ山登頂を成功させた。それから僕と夏央理。かつて沢村とは機関紙『マシナ』の取材のためにナイトクラブ巡りをしたし、マノノ島まで泳いで渡る計画にも参加した仲だ。そのほか、近くの〈げん( モト )こつ()( ト)(ゥア)〉に住むJコープやJICOの専門家たちが椅子を連ねた。
 沢村の日本での仕事先はJTT(日本電信電話株式会社)で、サモアでも、電話の維持(メンテ)と修理、そして電話線の普及のために努めていた。真夜中に突然起こされて、交換機点検のためにサヴァイイ島まで行かされたこともままあったと沢村は語る。彼はこの次の月曜にはもとの職場に出社しなければならなかった。十日前に任期満了していたので、本当はとっくに帰っていてもよかった。
 ・・・早々と日本に帰って温泉にでもつかってゆっくりと充電してから出勤するか、あるいはギリギリまでサモアに居残って、最後の最後までサモアン・ライフを満喫するか、沢村は後者を選んだ。

 もちろん、一番の目的はシリシリ山登頂のためだった。今、それを達成できた沢村は、満足げに「わざわざサモアに残留した甲斐があった」と言葉を(おど)らせた。
 彼がサモアで過ごした二年間で得たこと。――それは(たくま)しいサモアの子供たちから学んだことだろう。家の中やプランテーションで両親から課せられる労働に耐え、毎度の食事の分け前が一番最後にまわってくることにも我慢し、老人や老婆の我がままな使役にもぐっとこらえてそれに従う。そんな中でも決して素直さと豊かな感情表現を忘れない、偉大な子供たち。
 その姿には僕も心を動かされることがよくあった。もちろん悪さもする、生意気にいっちょまえな口をきいたりもする。でもそこは子ども特有の無邪気さなのであって、これは世界じゅう、どこの国の子供たちとも変わらない。
 「オレはの、藤井さん。オレの子どもにだけは絶対学習塾には行かせとうないんじゃ。世の中には塾じゃ教えてくれん大切なことがようけあるからの」――これは沢村の口癖だった。
 サモアでは、そうじ洗濯は若い女がやるものだった。そして(ファレ)づくり、漁と採集、料理は男の役割だった。もちろん子どもも含めて、だ。
 自分より年上には絶対服従だ。満員のバスに白髪の老人や老婆が乗ってきたら、若者は席を譲らないわけには行かなかった。もしも席を立たない若者が居たならば、乗客は皆なでそいつを私刑(リンチ)にするだろう。彼らはこれをこう呼ぶ。――〈サモア( ファッア)やり方(サモア )〉と。
 しかし近年になってこの〈サモア( ファッア)やり方(サモア )〉の伝統もやや崩れかけていた。より裕福な生活(もっとも「裕福な生活」に尺度などありはしないけど)を目指すサモア人は資金を獲得するために、ニュージーランドや豪州(オーストラリア)に出稼ぎに行った。この人たちは現地で市民権を得てしまうと、そのまま移住してしまうのだった。
 これではせっかくサモアの土壌で育った人材が、全く国家には還元されない。先端を進むサモア人たちはそれでもよしとした。家族や親戚が外国に居れば、とりあえずは目先の金品が仕送りされてくるからだ。
 親たちは躍起になって子どもに学校で英語を勉強するよう促した。将来、我が子を一家の稼ぎ頭にしたてたいためだった。そこに自国の未来に対する思慮は全くなかった。
 僕たちが途上国に入ると、まず初めにきまってこのギャップに直面する。我々は産業革命を体験して、近代重化学工業、精密機械の発達、そして数々の公害問題を克服しながらICの発明、現代のコンピュータ時代へと突入した。これは一つの川の流れのようにつながっていた。差があったとしても、せいぜい川の流れが速いか遅いかくらいだった。
 それに対して、例えば昨日まで土器を使って生活していた人々に、今日からいきなりコンピュータを教えること、それは上流の糸の細さほどの水源から、下流の幅数十メートルもある河口まで、いっきにワープするようなものだ。そのためには、中流の断絶されてしまった部分は、すべて教科書で疑似体験させるしかない。そしてその時に必要になるのが、残念なことに言語媒体としての英語だった。
 「銀行」はサモア語で〈お金( ファレ)( ト)(ゥペ)〉と言った。「郵便局」は〈手紙( ファレ)(メリ)〉だった。「カメラ」を何と言っていたか、〈()(ア )とる(プッエ )もの(アタ )〉だった。サモア語に「絵」と「写真」の区別はなかった。「テープレコーダ」は〈(ラッ)(アウ)とる( プッエ )(レオ)〉だった。
 サモア語の語彙(ボキャブラリ)だけで教科書をつくることは難しかった。大学のような最高教育を受けるには、まず何をおいても先立つものは英語の習得になった。
 僕たちがかつて〈木椀の魚(ターノア レ イッア)〉のグループにおそわったサモアの歌の中にはこういう一節(フレーズ)があったことを覚えている。
 ・・・Ua sola le faasamoa ――「サモアのやり方は消えうせてしまった」――この一節(フレーズ)には、近代化という大波にもまれて冷静な目を失い、金、車、テレビ、冷蔵庫、を欲しがるようになってしまった社会を嘆いて、昔ながらの、よき〈サモア( ファッア)やり方(サモア )〉を懐かしむ詩人の、やりきれない気持が(こも)っているように思えた。
 でも、それでもサモアの子供たちは陽気に笑いながら過ごしていた。日本の、都会のビルの谷間から、眼鏡づたいに大人や社会の虚しさを見すかしたような、塾帰りの子どもの孤独な目とはまるで違った、潤いのまなざしがサモアの子供たちにはあった。
 「しりとり歌がしたい。ねぇ、やっぱりしりとり歌をしようよ。」
夏央理が僕にこう言った。サヴァイイ島からの帰りのフェリー、タウサラ・サラファイ号の船上で盛りあがったあのしりとり歌合戦が、よっぽど夏央理のお気に入りだったのだろう。パーティの席上だというのに、夏央理はその場でとっぴょうしもない提案を掲げた。
 確かに、その時の僕と沢村との会話は堅苦しかったので、見方によってはその場をしらけさせていた。でも僕も沢村も重いテーマを語りあうことがかねてから好きだった。いや、むしろそれを趣味としていたに等しい。
 一方で夏央理は形式ばったことや、面倒なことを忌み嫌った。部隊員総会の実行委員を務めたときも、必要のない議題はすべてカットしたがった。彼女は話し合いというのがいかに無意味であって、そこからは何も生まれてこないことを主張しているようだった。
 ところが話し合うこと、その行為自体を好んだ僕は、沢村とはこれが最後とばかりに話しこんだ。沢村は公と私の区別を明らかに立て、その中で是か非かをはっきりと判断してものが言える人間だった。
 「ある時同僚のサモア人がの、仕事の内容が分からんもんて説明しちゃろ思うたらそいつが『ちょと待て』言いよるが。引っこんだもんて何持って来よるか思うとったら、ノート持ちだしてメモしだしよる。『忘れたらあかんから』言いよってオレの説明をひとつひとつ書きとめよったんじゃ。あの時ほど涙が出そうになったことはないの」――沢村がしみじみと語った。
 その同僚はいつもは怠け者で、もの覚えも悪くて沢村が言ったこともすぐに忘れてしまう男だったそうだ。沢村の帰る日が近づくとなると、人が変わったように熱心に耳を傾けてメモをとるようになったと言う。
 沢村はわずかながら彼なりの二年間の集大成をそこに見いだしていた。
「日本に帰ったらもう会えなくなりますね」――僕はこのセリフを本当は夏央理に向かって言いたかったのかも知れない。
「いや、そんなことはない。いや、そんなことはない。」
沢村は酔っぱらって呂律(ろれつ)の回らない言葉を二度繰りかえした。
「また日本に帰ったら必ず連絡入れるようにするわ。」
「そうして下さい、お願いします。」
僕は期待をこめてそう言った。
 ・・・・・・あさって沢村を〈城壁(ファレオロ)〉空港で送りだしたなら、この次送りだされるのは夏央理たちだった。夏央理と、同居する鬼頭則子(きとうのりこ)、そしてもう一人の男を合わせた三人。・・・その男は、僕の同僚である成田京子と交際しているあの男――二人して海岸(ビーチ)道路(ロード)沿いを自転車で並走していた――だった。
 沢村宅での「さよならパーティ」は別れを惜しむというよりは、いきいきと将来の再会を祝うような形でお開きになった。
 深夜、〈げん( モト)こつ()( ト)(ゥア)〉の道端で、あらかじめ電話で呼んでおいたタクシーを待つあいだ、夏央理と僕とが何とはなしに並んで立つような格好になった。国立病院を目の前に控えたこの地区は、静かな割には街燈が多く連立して、集団で移動する限りでは夜の外出も危険度が低かった。
 僕にはパーティに顔を出した時から夏央理にききたいことがあった。
 その日は水曜日だった。――水曜の夜といえば土曜の朝とともに〈語り(トゥシター)(ラー)〉ホテルのテニスコートでJコープが運営するテニスサークルの定期練習がある日だった。
 夏央理はその常連だったはずだ。想えばあの朝、サモアで初めて迎えた〈語り(トゥシター)(ラー)〉ホテルでの朝、僕は庭先でテニスをする日本人の嬌声(きょうせい)とボールを叩く音で起こされたものだった。あの時、僕のまだ知らない夏央理があそこに居て、その清軀(せいく)華奢(きゃしゃ)な腕でラケットを振るっていたのかも知れない。
 「・・・今日は、テニスはどうしたの?」
僕は質問の真意を悟られないよう、できるだけ何気なく夏央理に尋ねた。
「はは、テニスかぁ。ここ最近行ってないなぁ。」
 この返事はまず僕に優越感を与えた。なぜなら太田健二が幹事をしているテニスの定期練習よりも、沢村が僕たちと企画したパーティのほうを夏央理が優先してくれたことになるからだ。
 しかし、勝利の余韻は次の瞬間には悪寒となって背筋をぞくっとさせた。ふっとたちこめた疑念、それが僕の心臓を凍らせた。夏央理は僕たちのパーティをただ利用しただけではないか?「ここ最近」と彼女は今言った。太田がテニスサークルの委員長になったのは、ここ最近のことだった。つまり夏央理が、太田からの勧誘を断るために、「沢村宅のパーティに出席すること」を格好な口実として持ちあげたとしたら・・・・・・これは冷徹な策略とも(いぶか)れた。
                                    
 夏央理は露骨な敬遠のカーテンを太田との間にかけていた。その幕の色は、時に見苦しく、僕でさえも太田に同情することがあった。
 ――この女は都合だけで僕を引きまわしているだけではないか?ディスコ「マウント・ヴァエア」でデュエットダンスの相手として僕を指名したのも、太田から故意に自分の体を離れた場所に置くための手段だったのかも知れない。
 夏央理が僕という安全(パイ)を盾にして、自分と太田との間に線を引いていただけだとしたら・・・――そんな事情の中で夏央理に()れてしまった僕は、ただの生贄(いけにえ)でしかなかった。僕は燭台に囲まれて、いずれ(ほふ)られる運命にあるのだろうか。
 女は時として悪魔に変身することがある。夏央理にも、隠れた牙があったはずだし、尖った耳が顔をのぞかせる瞬間があるだろう。太田への拒絶、それは決して彼女の本心がやったことではなく、ただ彼女の細胞が魔性へと分裂した結果、生じた行為なのかも知れない。
 失恋の影が僕を(おびや)かした。それは(おぼろ)げな事象だったので、まるでひたひたとしのび寄る醜い怪物だった。
 やはりここは断念するしか手段がないのだろうか。僕自身の恋をどこかに(くら)ませてしまうこと。初恋の味のように暖めておくわけでもなく、熱情に打ち水をするように冷ましてしまうわけでもなく、ただそのまま心の奥底に収めてしまうこと。・・・しかし、蛇口のひねりを閉めてもさらに(したた)る水の粒が残るように、感情の漏洩(ろうえい)は絹色の想い出をしみ(、、)で汚すことになるだろう。
 付着したしみをつけたまま僕のサモアを終わらせるのか。漂白不能なこのしみは汚辱の勲章となってしまうだろう。
 沢村が帰国した次の日、新部隊員のために歓迎(ウェルカム)パーティが開かれた。場所は「マティーニィズ」、そう、〈オカマ(ファファフィネ)〉ショーで今や町じゅうの話題をさらっている屋外のショー・バァだった。ごつごつとした岩石を積みたてて出来た、幅のある高いステージを眺めると、そこは西田紗絵のお別れ(フェアウェル)パーティをやった場所でもあった。あの時、紗絵が歌った『仮面(マス)舞踏会(カレード)』の美声は、一年経った今でも耳もとで再生することができた。
 サモアに来たばかりの部隊員に〈オカマ(ファファフィネ)〉ショーを見せることは、本人たちに強烈なカルチャーショックを施すことになるだろう。日本では滅多には味わえないもの、触れることさえできないサモアならではの文化や習慣を、昨日来て今日のニューカマァたちに見せつけるのが歓迎(ウェルカム)パーティの、言ってみれば醍醐味でもある。
 僕たちが主催した時は「アヴァ」の儀式が(まさ)にそれになった。〈オカマ(ファファフィネ)〉は「アヴァ」とはまるで反対側に立つサモアの文化であることは間違いなかったので、監督権のある真木コーディネータもさすがにそれを「俗っぽい企画」とさし押さえることができなかった。いやむしろ、真木自身が喜んで楽しみにしているようにも(うかが)えた。
 それくらいに「マティーニィズ」の〈オカマ(ファファフィネ)〉ショーはインパクトがあった。新人はまず「自分は間違った国に来てしまった」と感じることだろう。
 さてしかし、その晩のショーにはとんでもない演出が盛りこまれていた。それはJICO職員でサヴァイイ島巡りの運転役を務めた、あの河本(かわもと)(さとし)が女装をしてオカマちゃんの仲に混じって踊りを演じていたことだった。
 どういう意図があったのか、一種のドッキリ・カメラ的フェイクをてらっただけか、僕には分からないものの、ぎこちない河本の女装は不慣れな踊りの振りとあいまって、ピエロがさそうような笑いと喚声を観衆、特に女性部隊員から浴びせられた。
 彼の金髪の(かつら)はずり落ちそうになり、レオタードから延びたストッキングの脚には(おびただ)しい体毛が愛嬌たっぷりに吸いついていた。
 ・・・午後八時過ぎ、パーティが終わると、まるで機械的な勧誘が会場でははびこる。――「踊りに行こうよ」・・・その晩も、やっぱり「マウント・ヴァエア」へと、サモアのJコープのアフターファイブの象徴(シンボル)へと移行する雰囲気が漂った。
 「え〜、行かないのぉ?」、その一言で新部隊員はまず興味ありげな聞き耳をたてる。「サモアではねぇ・・・」――先輩の、いかにも知ったかぶった言い回しに、コロリとはまった新人たちはついついディスコまで足を運ぶはめになる。この時、彼らはすでに先輩たちからひとつのくわだて方を学ぶ。一年後には自分たちが「え〜、行かないのぉ?サモアではねぇ・・・」とその時の新参者をきっと(たら)しこんでいるのだった。
 太田健二が遠くのほうでしつこく夏央理を誘っているのが気になった。出入り口となるゲートの近くで、太田は外に出ようとする女を取りおさえるように、言いよっていた。恐らくは「マウント・ヴァエア」へ強引に連れていこうとしているのだろう。
 夏央理がどう応えるか、僕の耳は自然と二人の会話へと傾いた。いや、正しくは「夏央理が今日は何と言って断るか」を確かめたかった。
 「――頭が痛いので、今日はちょっと遠慮したいんですけど。それにあそこは暑いし、何だか気分が進みません。」
 夏央理の口実が僕には情けなく聞こえた。そう言われた側の太田は、「あっ、そう。じゃ、仕方ないよね。・・・また今度ね」と答えるしかない。
 僕たちは真木コーディネータの白いランドクルーザに乗って「マウント・ヴァエア」へと進路をとった。僕の隣りに夏央理が座った。夏央理の住居(フラット)はディスコへの通り道にあったので、途中まで送っていくことになった。
 その車の中で夏央理は、終始うつむいたまま何も喋らなかった。この女はいったい、演技しているのか、本当に頭が痛かったのか、分からなかった。もし仮に演技だとしたら、つくづく(おぞま)ましい女だ。ロングスカートの裾は、小高い膝のラインから真っ直に足首のほうに垂れおちたままぴくりとも動かない。
 彼女の丸まった背すじが愛くるしく見えたので、僕はよっぽど「大丈夫?」と声をかけたかった。そうすればいつかの夏央理の目のように、(きら)めきをひき戻せるかも知れない。夏央理の、あの白く薫るプアーの花のような目を。
 だけどこれが彼女の芝居だったとしたら、僕はまんまと術中にはまることになる。
 僕はその時何と思ったか、「――夏央理がしくんだことならば、最後まで自分で面倒を看るべきだろう。あなたが頭が痛いと言うからには、(たとえばそれが演技だったにしても)今日はずっと頭痛持ちであり続けなければならない」・・・僕はその場でしら(、、)を通しきった自分が恐くなった。何と陰険な打算が腹の奥底に秘められていたことか!
 ある距離までは近づきたい。でも接触するには距離を保ちたい。恋焦がれる気持は太田も僕も同等だ。その晩は太田の請願をむげに()ちきった夏央理のことが何となく小憎たらしかった。太田の立場を察すると、僕自身も同じ被害者のように、あたかも翼を折られたような気分になった。
 僕の愛する夏央理は嘘をついてはならなかった。女の理想と実体が離れていくとき、その恋に初めて亀裂が打たれる。僕はこのまま夏央理の実体に、感情移入し続けてもいいのだろうか・・・・・・
 真木のランドクルーザが止まった。夏央理の住居(フラット)の前だった。夏央理は皆ながディスコへと向かう途中で下車した。同居人の鬼頭則子も一緒に車を降りて、家の中へと入っていった。
 夏央理は偽りの頭痛を装っていたのだろうか。
 ・・・――それから数日間というもの、幾重もの懊悩(おうのう)が重く僕にのしかかった。実際、僕の心は悶え、塩を浴びたなめくじのようにのたうち回っていた。
 僕は愛すべき人に恋したのではなく、希求していた生身の偶像(アイドル)を姦通したかっただけなのかも知れない。かつての、深瀬真実(まみ)の姿を想いうかべる。夏央理は背こそ高くはなかったけど、真実(まみ)の身代わりには充分になり得た。そもそも夏央理のことを真実(まみ)似姿(にすがた)として慕うようになったとしたら、だとしたら僕はあの時の真実を愛していたということになる。いや違う、それは認識外だ。真実はただ通過していっただけの女だ。事実、手紙もあれっきり一度だって交わしていない。
 夏央理を切に思う気持は実在していて、これは真実へのそれとは全く両極にあった。「・・・答えを見つけてみたい」――僕は即物的にこう考えた。黒と出るか白と出るか、あとは敢行した結果に賭けてみるしかない。
 最後にもう一度、夏央理をデェトに誘ってみよう。サヴァイイの旅行の時言いそこねた告白文の中にもそういうフレーズが入る予定だったじゃないか!
 夏央理がもし来てくれたなら、僕はそのまま本能の趣くままに爆走しよう。もし、彼女が来なかったなら、今度こそはあらいざらいの情念をかなぐり捨てて撤収することにしよう。もともと諦めるつもりだったものだ、踏んぎりはついている。
 ただ、何を(えさ)にして、どこに誘うべきか。僕は格好の題材が表れるのをしばらく待っていた。
 仄暗(ほのくら)いブラックライトの中で、夏央理のソバージュ髪を撫で、紫色に反射する歯の位置を確かめると、僕の唇は夏央理の頬づたいに彼女の体温と呼吸に触れる。髪の隙間から(のぞ)いたパールの耳飾りが揺れるたびにきらりと紫色の光を放つ。
 それから僕はぬめりとした粉っぽい女のルージュの感触を味わうと、深々と相手の歯の間に舌をさし込み、口蓋(こうがい)とうごめく舌先の奥でさまよう溜め息を舐めつくす。
 二人はディスコの黒いテーブルで太腿をすり寄せて座る。ダンスミュージックが蒸れた恋心を煽動(せんどう)する。
 ――これはタヒティでも思いえがいた夏央理との憧れのシーンだ。こんな心の中のスクリーンが、本当はいともた易く現実のものになるんじゃないか。そう、僕の勇気ひとつで。
 一方で「頭が痛い」と言って帰っていった夏央理から、一週間も音沙汰が無いところを見ると、「やっぱり俺には望みがない」と思うのだった。
 ところでその一週間もたたないうちに好機が訪れた。僕が昼間の音楽学校で住み込みの仕事をしている男と一緒に、町で話題の〈オカマ(ファファフィネ)〉ショーのことで冗談を飛ばしながら話しこんでいたところ、その男が来週の水曜日にも〈語り(トゥシター)(ラー)〉ホテルで特別な〈オカマ(ファファフィネ)〉ショーがあると言う。「――これだ、これしかない!」僕はふるい立った。
 夕方、家に戻るとすぐに電話機の横に腰をかけて僕は受話器をとった。古びて黄色がかった住所・電話番号録を見ながらダイヤルする。素人が万引きをする時の感覚とはこんなものだろうか。欲求を満たすための、うしろめたいスリル。その実、これはくじ引きにも似ていた。吉と出るか凶と出るか、その中間はなかった。
 右耳にあてた受話器の向こうからはね返ってくる呼び出し音を、僕は真空の中で聞いているような気がした。
                                    
 夏央理自身が電話に出た。
 「山本さん?どう、調子は。」
僕はまずこう切りだした。最初の一声は、学校から帰る(みち)でもう決めていた。この言葉には、もっと長い文章が隠されていて、「あの晩は頭が痛いと言って帰ったけど、どう?今の調子は」がフル・センテンスだった。だけど夏央理がそこまで深く意味を取ったかまでは分からない。
「ん〜・・・――まぁまぁ。」
少し間をあけて、夏央理はこう答えた。
「実は今日はお誘いをしたいことがありまして、お電話しました。」
「何ですか。」
(かす)かに夏央理の声が笑った。
「うん。来週の水曜日なんだけど、〈語り(トゥシター)(ラー)〉ホテルでファファフィネ・ショーがあるというので、行けないかな。」
「来週の水曜日・・・――二十四日ね。」
それから僕と夏央理は時間と都合について二、三の言葉を交わした。
 「いいですよ、その日、あたし、行きます」――夏央理の答えを聞いて僕はひとまず安心してから電話を切った。
 しかし受話器を置いたあとの静寂(しじま)は、これから先起こるであろうろう猜疑心(さいぎしん)と良心との葛藤を予感させた。「俺は胸を張ってその呵責(かしゃく)に耐えなければならない!」・・・何ともいえない重圧が両肩に掛かった。
 ひとまずデェトの約束をするところまでは漕ぎつけた。しかしまだいくつもの障害が待っている。
 このデェトは「ランデ・ヴ」でなければならないと思っていた。だから、夏央理がほかの人に呼びかけて、誰か別の人が一人でも入ったら、その時点で僕は「失敗」とみなすことにしていた。
 もちろん夏央理を誘ったことは、日本人はおろかサモア人の同僚にも他言しないつもりでいたけど、夏央理のほうはどうだか分からない。
 何かがきっかけで話が洩れて、太田まで伝わってしまったら、きっと太田は横槍を投げてくるだろう。
 そしてJコープ内で広まる色めいた噂が、邁進(まいしん)しようとする僕の足枷(あしかせ)にもなりかねない。
 僕はじっと待つことにした。獲物を狙う四つ足動物のように、息をひそめて、黙って時の流れを(うかが)った。
 JICOの事務所に近づけば日本人と顔を合わせる確率も高くなる。僕は極力海辺、そして町の中心部からは遠ざかった。しばらくは学校と〈水を分ける(ヴァイヴァセ)〉を往来するだけで、住居(フラット)にひき(こも)ってはまるで隠遁者(いんとんしゃ)のような生活を送った。
 ところでこのとき、渡部はすでに〈げん( モト )こつ()( ト)(ゥア)〉に移りすんでいた。帰国した沢村のあとを継いで、職場である国立病院の近くに引っこしていた。通勤時間が十五分から二分に短縮されたことを、渡部は声をあげて喜んだ。
 そして僕はと言えば、細田が住居(フラット)を出ていったとき以来、サモアで二度めの一人暮らしを始めていた。それがまた自分が世捨て人にでもなったかのような錯覚をひき起こした。
 それでも、どうしてもクリアーしなければならない事務所訪問が、下界見参の使命が、一つあった。交通委員会が施行する自転車の定期点検。――僕を含めて自転車を貸与されている部隊員は必ずこの点検日に自転車で事務所まで参じて、合同で点検を受けなければならなかった。
 これを怠ると自転車没収の厳しいペナルティがあったので、点検日に出頭することは、避けられない義務だった。
 その実施を前に僕は日どりを確認するためにJICO事務所に立ちよった。Jコープの公けの告知や部隊員情報などは、二階の奥にある談話室の掲示板に提示された(僕がオペラ『マリエトア=ファインガー』の宣伝文を貼ったのもこの掲示板だった)。
 そこには、次回の点検は四月二十一日にとり行われるむねが記されていた。それはそれで、日どりについての意義は何もなかった。
 だけど、そのすぐ横に貼られていた、夏央理の手書きの告知を、僕はあきれないまま読まずには居られなかった。
 「四月二十一日、シアポ(タパ)造りに出かけてみませんか。サモア古来よりある伝統工芸にあなたも触れることが出来ます。集合は午後一時、事務所脇のカフェ、『熱帯(レインフ)雨林(ォレスト)』から送迎があります。主催・山本」
 重大なことを読者に告げていなかった。交通委員会の委員長も太田健二が兼任していたことを!
 四月二十一日に太田が取りしきって自転車点検が行われる。同日、夏央理は全く別の場所で関係のない企画を持ちあげて、各Jコープのメンバーに参加を呼びかけている。――これは夏央理がバッティングをあらかじめ意図したものなのか、判断はつきにくいけど、故意であることを疑われても仕方がない、過剰行為だ。
 さらにつけ加えなければならないのは、夏央理自身は「自転車は不要」として貸与されていた自転車をかなり以前に委員会へ返却していたことだ。つまり点検日は夏央理にとっては全く関係のない行事ということになる。
 その後、シアポ造りには十人以上のメンバーが参加するらしい、との話がまわって来た。それは僕が二たび太田に同情する時だった。太田は顔をゆがませながら、「点検日は午前の部と午後の部に分けることにしよう。シアポ造りに行く人には午前の部に出てもらおう。そうしたらかち合わなくても済むから、ねっ」と言った。その姿はまるで自分で自分を説得させているかのようだった。

太田は夏央理のやることすべてを許していた。この男があの女をどれだけ好きかがよく分かる。そして「仕方がないよ」、これはいつしか彼の洩らす口ぐせになっていった。
 土曜日に住居(フラット)の電話が鳴った。真っ昼間(   ぴるま)だった。呼び出し(ベル)が悲しげだったので、何となく嫌な予感がした。
 受話器をあげると、夏央理の「山本です」という声が聞こえた。
 僕は「しまった」と思った。きっと予感が的中してしまったんだ、夏央理は何かを口実にたてて、水曜日のデェトを断るために電話してきたに違いない!
 「今度の水曜日のことですけど・・・」――ほら、来た。「・・・実はJICO事務所の現地職員宅のパーティにお呼ばれされてしまったの。」
 夏央理のこの言葉に、僕は絶望に(ひん)した。
 JICOの事務所では、現地の職員を何人か雇っていた。受付嬢から始まって事務所長の現地補佐官、コーディネータの助手、メイド、警備員、運転手などがいるうち、一人だけ日本人の婦人が政治・文化担当の役職についていた。この婦人はサモア人の夫を持ち、二十年近いサモア在住歴があった。
 夏央理は他の女性部隊員とともに、婦人からホームパーティの誘いを受けたのだった。
 「でも、パーティといっても、ただお茶するだけだと思うから。あたし、遅れてしまうけどファファフィネ・ショーにはそのあとから行くので、藤井さんだけ先に行っててもらえます?」
 そんな無茶なスケジュールが成りたつのだろうか。もしパーティが長びけば(パーティというのは長びくものだ)、そんな移動は不可能だろう。これは事実上のダブル・ブッキングではないのか。どうして「その日は用事がある」と婦人に断ることができなかったのだろう。
 でも夏央理の立場になると、せっかくの厚意を軽率にあしらうわけにも行かなかった(そこらへんは夏央理の性格の良さが表れている)。僕にとっても、もし都合よく解釈すれば、誘いを断った時点で夏央理はその理由を問われることになる。彼女はその晩、僕と会うことを婦人に隠したことにもなる。
 夏央理が〈語り(トゥシター)(ラー)〉ホテルに一人で来ようとしていることは、彼女の言葉尻からも明らかに読みとれたので、半分腹立たしく思いながらも、ちょっとは嬉しい気持も交差した。
 ただ、この時点で僕はある程度の覚悟をした。つまり今度のデェトがおじゃんになってしまうことを。そのくらいに彼女が頭で考えているスケジュールには難があった。
 「かまわないよ。」
僕は動揺を()みとられないようにそう答えた。すると夏央理は、

「ところで二十一日に予定している、シアポ造りのことなんだけど・・・藤井さんも来れます?」
と話題を急に転じた。それはさも、こっちの用件のほうが重要で、電話をかけて来たのも、このことをきくのが本当の目的だったかのような喋り口だった。
 僕は「どうして自転車点検日にあてつけたのか」と詰問したかった。だけどその(とが)めの言葉は、どうしても(のど)から外には出てこなかった。
 何という従順さだろう。僕は二つ返事で「参加する」と言ってしまった。
 結局、そういうことだ。僕も愛していた・・・・・・夏央理のことを。
 そしてその二十一日が来た。僕は自転車の点検をJICO事務所の一階、広いガレージになっているような所で済ませた。日曜日だった。その日は日本の小春日和(こはるびより)彷彿(ほうふつ)させるような、さわやかな青空が澄みわたっていた。
 昼食を済ませたところで、夏央理が事務所に姿を現した。ふと夏央理の(あご)のところに、僕は一粒の面皰(にきび)を見いだした。夏央理はもともと面皰(にきび)(づら)ではなかったので、それはよく目だった。
 何かに悩んでいるに違いない。そういえば、心なしか(まぶた)腫れぼったく(は    )なっている。
 「藤井さん、本日は参加されますか。」
夏央理はすっとんきょうなことを、しかも馬鹿丁寧にきいて来た。
「行くって言ったじゃん、この間電話で。」
「え?うん、そうだけど」――この会話は何だろう。その日の夏央理は妙に気が抜けていた。
 僕たちは海岸(ビーチ)道路(ロード)に出た所の、角にあるカフェ「熱帯(レイン)雨林(フォレスト)」からピックアップ・トラックと乗用車の二台で、ヴァエア山のほうに登った。
 わりと山奥に入ったところに、そのシアポ造りを体験することができる場所はあった。そこには小規模ながら陶芸工房などもあって、こじんまりとした文化村みたいなものだった。
 背の低い熱帯雨林を切り開いて、十人くらいが座れる(ファレ)が二、三建っていて、僕たちはそのうちの一つで、サモアの老婆が実演するシアポ造りを見よう見真似で挑戦した。
 シアポは樹木の内皮を叩いて造る樹木布で、日本ではポリネシア産の「タパ布」の名称で紹介されている。この樹木布は熱帯の各地で見られるものだけど、ポリネシア地域では特に重要な役割を果たしていた。
 原料としての樹木はカジの木を使う。日本のカジの木も、かつてはポリネシア方面から入ってきたと伝えられる。それは古来から和紙の原料としても用いられてきた。
 まず木の外皮を()いで、むき出しになった内皮をさらに剥がす。この白っぽい内皮が(まさ)にシアポの元になる。剥がされた内皮を水につけて柔らかくし、濡れたまま木製の台版に載せ、木槌(きづち)を使って叩きながら薄っぺらく延ばしていく。
 広く延ばされて、繊維状の厚紙のようになった内皮は、次に板の上で乾燥され、造られる過程で表面に穴があいてしまった個所、部分的に薄くムラになってしまった個所には別の、こま切れになった樹皮布をあてがって補修する。そうやって継ぎはぎしながら目的の大きさになるまで布と布とを合わせていく。布自体の粘り気があるために、この時の吸いつき加減がまたしっくりきている。
 最後にポリネシア的幾何学模様が版画のように刷られる。模様の図案が彫られた木製の型版に、乾燥させた樹皮布をあてがって擦りこんでいく。この時の顔料は、ローム状の赤石を削りだして粉状にしたものが使われる。
 仕上げは、河岸などで獲れる黒石から抽出して出来た墨でもって、版画の模様がいっそう引きたつような絵柄を筆を使って塗りこんでいく。
 この段階まで要する時間はほんの三、四時間だった。僕たちはそれぞれ自作のシアポを持ちかえった。
 この布きれは、今でも手元に残っている。これを見れば、僕はいつでも南の島にトリップすることができる。あの、気高いまどろみ、いとおしい太陽の光と影の中へ。果物の豊富な、(けが)れのない楽園の風へと、はばたくことができる。
                                    
 さて、その三日後、ついに僕はサモアを、夏央理との残された二ヶ月と二十一日の月日を、決定づける日がやって来た。
 それまでの三日間は露命(ろめい)のような生活を好んで、ひたすら刻苦(こっく)に励んだ。つまり日常的に職務としての学校の先生をこなし、二十四日の夜のことだけを心待ちにして、ひっそりと暮らした。
 当日も厄介な子供たちを何とか電子キーボードの前に座らせて、だだっこの我がままに付きあい、夕方いったん住居(フラット)に戻ると、薄暗い黒カビだらけのシャワー室で水浴びをした。狭いシャワー室の床には簀子(すのこ)がわりに幹の太い切り株がタイルの上に置いてあった。このうえに乗ってシャワーを浴びる時の足の裏のぬめぬめとした感覚。そして飛沫(しぶき)を顔に受けながら、いついつゴキブリが足もとを徘徊しないかを危惧する。
 (ひげ)を剃ってから、僕は顔のまわりにオ・デ・コロンをぬった。「これは気まぐれでぬるんだ。今夜の夏央理に会うためにぬるんじゃない」と思いながら丁寧にぬり延ばす。
 襟付きのアロハシャツに着がえると、僕は近くのタクシーステーションまで足を運んで、車を〈語り(トゥシター)(ラー)〉ホテルまで向かわせた。
 この晩のアピアの町は次の日のアンザック・ホリデーを前にして、各地で記念式典が催され、いつになく華やいでいた。〈語り(トゥシター)(ラー)〉ホテルのファファフィネ・ショーもそうしたイベントの一環だったのかも知れない。
 アンザック・ホリデーとは、一九一五年四月二十五日にオーストラリア・ニュージーランド軍団が決行したトルコのガリポリ半島上陸作戦にちなんだ休日だった。サモアは独立する直前はニュージーランドの管轄になっていたため、休日もそのままニュージーランドのものを受けついでいることが多かった。
 ファファフィネ・ショーは定刻よりも二十分遅れて七時二十分に始まった。
 夏央理は八時半ごろまでには来ると言っていたけど、もちろんそれは、JICO職員宅でのホームパーティが八時過ぎに終わればの話だ。 
 〈語り(トゥシター)(ラー)〉ホテルのナイトクラブ専用の会場は、天井の高い木造モルタルで、サモア式の壁がない造りになっていたけど、何せ巨大だったので、こうしたイベントの時は三、四百人は席を並べることができた。その日もステージの中央から花道がせり出したようなセッティングで、客も三百人は入っていただろう。
 ホテルにはもう一つレストラン用の大きな(ファレ)もあって、今夜はそちらのほうでも何か特別な式典がとり行われているようだった。
 ショーが始まって驚いたのは、まずはこれがいわゆる普通の見世物ではなかったことだ。それはミス・コンテストだった。つまり十人ばかりの候補が居て、その中で誰が一番のファファフィネかを競うという。
 観客の中にはV.I.P.席もあって、よく見ると政府の要人などの顔もある。いかにサモアにおいてオカマの地位が確立されているかだ。
 司会者として、わざわざオーストラリアからエンターテイナァが来ていた。彼は真っ赤なジャケットをはおって軽快に進行役を務めた。ときに闊達な英語を駆使して、ときに出演するファファフィネたちとデュエットダンスでからみながら。生演奏のほうを見ると、バンドでベースを弾いているのは何と同僚で校長の長男のスティーヴだった。
 ステージに登場したオカマちゃんたちはどれもこれも見事に、そしてセクシーに女に扮していた。歌や踊りを披露するのはもちろん、知性を表現するために司会者が出題するなぞなぞを解いてみたり、好みの男性(、、)のタイプや結婚したらどうするか、子どもは何人欲しいか(会場は大爆笑)などのインタヴューまでもが盛りこまれていた。
 時計を見る。すでに八時半を越した。夏央理は現れない。でもこれは予期していたことなので、じっとこらえて待つことにした。
 それでも出入り口のほうにちらちらと目をやる。いつ来てくれるのか、このショーの終りまでにはせめて間にあってもらいたい。
 座って並ぶ観衆の影から、男が一人僕にアイ・コンタクトを送った。それはサモア人独特の挨拶表現で、視線だけ相手から()らさずに、自分の(あご)をしゃくり上げるものだった。
 彼は僕のギター講座の生徒で、学校に住み込みで音楽の勉強をし、その合い間に校長やスティーヴの使い走りのようなことをしていたので、今夜あたりもさしずめ荷物運びなどをさせられていたのだろう。
 九時をまわっても夏央理は来ない。デェトとパーティのかけ持ちなど、所詮は無理なはずだ。不可能なことを約束してしまった夏央理を責めたい。待ちわびることからの焦燥で、僕の頭は次第におかしくなってきた。まるで轆轤(ろくろ)の上で回されている土器になったように、うつろになったり、正気になったりをいびつな軌道を描いて繰りかえした。こんな時に夏央理が現れたなら、きっと僕は声帯がはちきれんばかりの大声で彼女をどやしたことだろう。
 憤りを癒すかのように、ぼやけた空気の中で僕は給仕(ボーイ)に新しいジントニックを注文した。これが四杯めになった。僕の生徒はそれを見て「先生は飲みすぎだ」というようなゼスチャーを見せた。
 ステージ上では、審査員が集計をとっている幕あいの時間で、大道芸のようなものが始まっていた。模型のように小さな自転車に乗る軽業師、ナイフや剣を口から喉の奥までつっこむ芸人、それなりのパフォーマンスに観客からは喝采が沸いていた。
 それが終わると、ノミネートされた十人のファファフィネが再びお色直しをして壇上に昇った。いよいよ最終審査があるようだ。
 結局、夏央理はその時にも居なかった。場内のどこかで僕を探してさまよっているわけでもなかった。
 優勝したファファフィネは、おおかたの予想をくつがえすことなく、歌も踊りも上手で機知にも富んだ、美貌(あふ)れるジュディだった。
 いつも思うのは、いったいこのファファフィネと呼ばれる新生物は何なのだろう。ジュディは当世一代の人気をアピアの町で誇っていた。彼は女ではなかった。まして男などでは決してなかった。しかし男と女の、人間的なものとはかけ離れた、絶対的な超美(シュペールボテ)を所有していた。それは、例えば我々が薔薇を見て「美しい」と思うのに似たような、純粋な感覚だった。
 ショーは十時前には終わった。とうとう夏央理は来なかった。僕の生徒は近よって、「どう(ウア)だった( アー)か」ときいて来た。会場では後片付けが始まって、新たなセッティングのために、ホテルのスタッフがいそいそと動きまわっている。これからディスコにでも早がわりするのだろう。ステージではドラムセットが真中に組みたてられている。
 「よかった( マーナイア)( ア)()」――生徒は僕に同意をおし付けてきた。それからもう一度、「先生( アー )(アリ)どう(ッイ )(ウア)した( アー )(マイ)?」ときいた。
かったるかった( レー ラヴァー オナ)よ、ずっと(ファッア)(タリ)( ソ)こと(ッオ イ)( ラ)待ってて(ッウ テイ)()」――僕は冗談めかすつもりでこう答えた。
「ウホヒャヒャヒャヒャヒャ・・・ウホーィ!マーロー、カズヤ。」
彼は腹をかかえて笑った。この時の「マーロー」には「でかした」というよりも「そいつは面白いや」くらいの意味があったのだろう。
 遠くのほうでスティーヴが彼を呼んだ。僕らは「じゃ、あさって」と言いかわしてその場で別れた。多聞に漏れず、次の日は音楽学校も休みだった。
 間もなく生演奏が始まって、会場はディスコと化した。僕はどうしたものか、身のやり場に困った。このまま、確率が限りなくゼロに等しい、夏央理の出現を待ったものか。でも、もうファファフィネ・ショーは終わってしまっている。僕は彼女をディスコに誘ったのではなくて、ショーのほうに誘ったので、すでに目的は果たせないまま頓挫(とんざ)したことになる。
 時計の針は十時過ぎを指し、ついに僕は帰る決心をした。
 バンドが次の曲を演奏し終えたら会場を去ることにしよう。それが僕自身に与える最後のチャンスだ。
 ・・・・・・しかし、無情にも夏央理は最後まで姿を現さなかった。これで一縷(いちる)の望みも砕かれてしまったわけだけど、不思議と僕の足どりは軽やかになって夜の妖しい〈語り(トゥシター)(ラー)〉ホテルの狂おしさに背を向けた。
 手ごろなタクシーを拾って自宅へと向かわせている時も僕の顔はほころんで、ドライバーと卑猥な会話を繰りひろげては二人して馬鹿笑いを狭い車の内から外気へと(こぼ)していた。
 住居(フラット)について、二段錠のかかっている玄関の扉を押しあけて、入り口のところにある台所(キッチン)へと入りこんだときにも、僕は腹の底からこみあげて来るおかしさにもだえていた。
 実際、僕は嬉しかったのかも知れない。なぜなら、すべてが豁然(かつぜん)と開けてきたのだから。ずっと求めていた答が出たのだから。
 ふっきれた、とはある意味ではこういう精神状態を指すのだろう。その時にじみ出た表情は、怒りでも悲しみでもなく、笑いだった。
 居間(リビング)のソファーにべったりと腰を下ろして、もう一度僕は「ファッハハハ」と高笑いをした。肩の力がすぅ〜っと抜けていった。
 よかった、これで一つの難題が解けた。夏央理のことはこれできれいさっぱりと忘れよう。忘れた先に、僕のもう一つの未来が見えてくるはずだ。今度はそれに賭けていくことにしよう。すると電話の呼び出し鈴が激しく鳴った。まさか夏央理ってことはないだろう。余りにもタイミングが良すぎる。
 ところが受話器を上げてみると、相手は夏央理だった。
「藤井さん?ごめんなさい。今さっき行ってみたら、もういなかったから。」
「えっ、来たの?〈語り(トゥシター)(ラー)〉に。俺も十時二十分ぐらいまでは居たんだけどな。」
夏央理と僕はほんの数分のすれ違いだったようだ。
「本当にごめんなさい。パーティが・・・」
「いいよ、仕方のないことだもんね。」
僕は夏央理の弁解を聞きたくなかったので、話を(さえぎ)った。彼女の言い訳を聞いて、それをのみ込んであげている時の自分を想像するのさえ、耐えられないことだった。
「また今度誘って下さい。」
夏央理はいつも以上に殊勝にこう言った。それはせがむようでもあった。
「そうだね、そうすることにするよ。」
――こう言いながら僕は二度と誘わないことを心で誓っていた。
 電話を切る。また僕はにやりと一人笑いをした。食卓の上のウィスキーボトルの麦色が(つや)めいている。呑みなおしにオン・ザ・ロックの氷をとりに台所(キッチン)へと向かう。さぁ、乾杯だ。
 今夜の出来事は神が(つか)わした天使の悪戯(いたずら)だったのかも知れない。だとしたら神はなんというありがたい御使( み つか)いをよこしてくれたのだろう。僕にとり()いた病気は晴れて、僕は諦めの中で正気をとり戻した。
 明日から僕は別の何かに打ちこまなければならない。それがまた恋愛の病魔に襲われないための予防法になるだろう。
 何だ?何にだ。何に気を紛らわそうか。僕の即効性ワクチンになってくれるものは、何だ。
                                    
 ――それにしても今日という日の、何という劇的さだろう。夏央理はよく電話をかけて来てくれた。彼女は努力をした。約束を守ろうと〈語り(トゥシター)(ラー)〉ホテルまで来てくれたんだ、夏央理を許してあげなければ。
 グラスを片手に、酔いがまわって朦朧(もうろう)とした僕の目に、居間(リビング)の片隅にたて掛けられたゴルフバッグがようようと写った。
 僕はふらふらと立ちあがると、ゴルフバッグからパターとゴルフボールをとり出してPタイルの床の上でパッティングをし始めた。久しぶりにパットがボールに当たってはね返る時の感覚を味わう。カツーンという、この、とぎすまされた柔らかい手ごたえと、ボールが心に描いた通りの線をたどる時の快感。
 「これだ」――僕は思った。こいつに託すしかない!



   ――――――――――




 五月に入った。町のキーボーディスト、〈寝床(レウル)( モ)編む(エンガ)〉村の理数科教師、松井幸司の妹がはるばるとサモアまで遊びに来ていた。知り合いでも居ない限りこんな南太平洋の秘境までやって来る日本人はいない。
 もちろん学者や漁師は除いてだ。学者は秘境という秘境を飛びまわる冒険者だ。そして遠洋漁業が花ざかりだったころ、つまり二百海里法の施行以前は日本の漁師にとってサモア近海はマグロの宝庫だった。同じ頃、韓国船もよく出まわっていた。日本人はわさびと醤油で生魚を食べる「サシミ」を、韓国人は「キムチ」を、サモア人に教えて帰った。
 松井幸司・・・彼の恋人・笹本裕子(ゆうこ)は年明けにデング熱を(たずさ)えて日本に帰ってしまった。この二人にあったのは物理的な別れであって、愛情の離別がそこにあったとは思えない。だけど日本とサモアの隔たりが、二人にとって事実上の離別へと結びつくことも大いに危ぶまれた。これを「自然消滅」と呼ぶ。
 幸司はまわりのJコープが逆に心配するほど平然と暮らしていた。裕子がまだ居たころ、彼は自然に裕子と付きあっていた。そして裕子がサモアを離れる時も悠々とその事体を迎え、裕子がいなくなった今も、寂しい顔をひとつも見せずにただただ普通に生活していた。
 「二人は別れたのだろうか」――噂好きのJコープの間では、ときあるごとにそんな話題がのぼった。
 その幸司のもとに日本から女性が訪ねてきているというので、ほとんどの部隊員はそれが裕子であって、「やっぱり二人はまだ続いていた」と早とちりしていた。そう、それは裕子ではなく、幸司の妹だった。そのことがはっきりしたのは、ファーストフード「マクデニーズ」からほど近い、「カフェ・ノアール」でのことだ。
 その日、幸司が歌手フォウを引きつれて「カフェ・ノアール」でライヴをやるというので、夜になってから僕は店に顔を出してみた。
 そこはわりと古くからある西洋料理屋で、最近店をリニューアルしたばかりだった。緑色の枠縁のガラス窓に、大理石風の床面、丸テーブルに原色の肘掛け椅子が置いてあるところなどは、確かにパリのカフェ風でもある。
 店内に入ると、蛍光灯や照明灯などで中は明るく、開放的な清潔感でいっぱいだった。それというのも、入って右手奥にあるキッチンがフロアーとはカウンターでしきられているだけで、客は料理人の腕さばきをカウンターごしに拝むことができるような造りだったからだろう。
 幸司たちの演奏はもう始まっていた。ステージは特に設置されていない。マーブル色の床の上に、じかにスピーカァやキーボードを立てるだけで、客と同じ目線で弾いている。
 ピアノとヴァーカルだけのシンプルな編成だったけど、しっとりとしたジャズは耳につくことなく流れ、場を贅沢にさせていた。
 町で西洋料理を食べるということは、三十ターラー(約千四百円)以上の出費を意味する。Jコープにとっては容易ではない額だったけど、月に一回や二回だったら、残りで露命をつなぐこともできた。
 そのうえ料理に豪華さを添えるジャズの演奏があるとなっては、条件としては申し分もない。恐らくはこれがサモアでできる至高の食事になるだろう。僕は三色カレーセットというのを頼んでみた。三種類のカレールウが少しずつ楽しめるのだそうだ。
 左手奥の、演奏をしている一角のあたりで、女が一人、テーブルに腰かけて幸司の弾く姿を見つめている。どうも日本人らしいところをみると、彼女がサモアに来ているという幸司の妹なのだろう。顔は余り似ていないものの、ほっそりとした容姿は、兄の(からだ)つきと共通していた。
 出てきたカレーセットは、円盤型の銀皿が百二十度ごとに三つにくぎられていて、それぞれに西洋風、インド風、タイ風のカレーが盛られているものだった。演奏が一段落したところで、幸司は妹を僕に紹介してくれた。
 すでに僕は食後で、ワインを味わっていたけど、グラスごと彼女のテーブルに移ってから三人で、僕たちは地元の人間が旅行客とするような会話を始めたのだった。
 と、その時だった。夏央理が(とまり)英樹とともに店内に姿を現したのは。
 夏央理を見た瞬間、心臓から発した高電圧の波は背中のところで二つに分かれ、片方は尾底骨のほうへ、もう片方は骨髄を通って上部の頚椎→頬骨→脳へと直撃してそこで激震を起こさせた。くやしいことに、その衝撃が「お前はまだ彼女のことが好きなんだ」と自分に再認識させてしまうのだった。
 夏央理と泊は、店内の僕の存在に気づくと、二人とも身じろぐように引いて、泊などは「いやぁ、せっかくデートだと思っていたのになぁ」と照れ笑いをしながら片手を(うなじ)に当てた。
 泊はサヴァイイ島で整備士をしていたが、事情があってアピアに戻ってきていた。いつか、そう、あれは橋本を含めた僕たち三人がJICO事務所の玄関先で、色恋話(いろこいばなし)を咲かせて酔い覚ましをしていた夜、初めて僕が太田健二と夏央理の関係について知ったのも、この男が発した言葉からだった。
 夏央理は機材の片付けをしている幸司の姿を確かめると、「もう終わっちゃったんですか」と尋ねた。
「えっ、あ、うん。実はこのスピーカァ、今日は借り物で、九時までに返す予定なんだ。あっちも九時からこれを使うみたいだから・・・機材だけ彼らに返したらまた戻ってくるよ。」

 夏央理もまたその晩のライヴに幸司から誘われていた様子だった。幸司は夏央理に妹を引きあわせて、島をエスコートしてくれるよう頼むつもりだったらしい。
 そのために自分の妹もあらかじめ「カフェ・ノアール」に呼んでおいた。夏央理のほうは「一人で行くのも何だから」ということで、ドミトリィでぶらぶらしていた泊をつかまえて「カフェ・ノアール」へやって来た。
 するとそこにたまたま「僕が居た」だけだった。それ以上に勘ぐるべき作意は何もなかった。むしろこの日は僕のほうが「部外者」だった。
 そのまま僕たちは残された四人で幸司の帰りを待つことになった。
 泊はつい先日、日本からゴールデンウィークで遊びに来ていたフィアンセが帰ったばかりだったので、夏央理と何か深い裏があるはずもなかった。
 だけど、僕のはらわたは三度煮えくりかえった。どうして夏央理はこうまで僕のことを裏切ってくれるのだろうか。「ラヴァーズ・リープ」の帰り(みち)、町のファーストフード屋での一件、そして今度はこの「カフェ・ノアール」で。
 しかし、僕が「裏切られた」と思うこと、それは夏央理のことをいまだに同属であると解釈している動かない証拠じゃないか!鳥肌が背中に伝染した。
 何ということだ、僕はいまだに肌と肌がこすれ合う、あの瞬間を心待ちにしている。駄目だ、このままでは全く見込みが持てない。
 この女を嫌いになるには、この女の股間の匂いさえ嫌悪感を覚えるようにならなければならない。これを成しとげない限り、元の木阿弥(もくあみ)だ。僕の決断や天使がくれた運命を台無しにしてしまう。
 でも、彼女を忘れるために必要となる厖大(ぼうだい)な時間のことを思うと、僕はぞっとした。
 僕たちはそれから小一時間ほど喋り、呑み、デザートをオーダァしたりした。夏央理はその間、僕の左側に彫刻のように相談した。この夏央理は本物の夏央理で、僕の愛した偽者の夏央理ではない。
 思えば恋愛の成就とは、この本物と偽者の同化、あるいは一体化だった。今の僕の使命は、偽者を殺して本物を嫌いになることで、そこに必要なのは惑星の運行のような、太陽に対する従順さだった。僕は「夏央理を諦める」という行為を、この惑星の運行にはめ込んだ。
 幸司が戻ってきたところで、話のきりがよくなったために、その晩偶然顔を揃えただけの僕たちは四散した。
                                        
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