十、
                                    
 〈貿易風(トッエラウ)〉が再び激しく吹く季節が過ぎると、ある日、その風向きが急に変わって突然冷えた〈南風(トンガ)〉が押しよせて来る時がある。それは川の流れのようにとめどもなく肌の間をすり抜けていく。途ぎれることのない、涼しい風を浴びながら、玄関から出た所の吹き抜けのガレージで手洗いの洗濯を済ます。僕は乾季の到来を全身で感じる。
 その風は「春一番」のような疾風ではない。南半球にあるサモアでは、南から吹く風が逆に寒さを伝える飛脚にもなる。穏やかな、暑さをしのぐ、緑色の風がさらさらとそよぐ。――それが〈南風(トンガ)〉だ。
 音楽学校で、僕は本格的なギターの講座を開いていた。ハワイで購入したエレ・アコギターはよく役にたった。いちどきに何十人と教える授業は難しかったけど、毎日一人に対して二十分ずつレッスンすることで、なるべく多数の生徒をこなすようにしていた。
 同僚の成田京子は、女校長にくどき落とされて、ついに買うはめになってしまったC社のキーボード用ACアダプターの新品十三個が日本から届いたので、ようやくピアノの授業を学校のカリキュラムの上で稼動させていた。
 復活祭(イースタァ)のサヴァイイ島(めぐ)り、その顔ぶれが四人になることを夏央理から直接知らされたのは、彼女たちが企画したお別れ(フェアウェル)パーティでだった。
 そのパーティは「ル・ジャルダン」で開かれた。そしてその日の主賓、つまり今度帰国する部隊員の中には、沢村のお父さんがいた。彼は最後にひと(はな)咲かせようと、帰国直前の復活祭(イースタァ)休暇にはシリシリ山登頂の二度目の挑戦を予定していた。シリシリ山へは前回と同じくサヴァイイ島の〈夜明け(アオポ)〉村から入る計画になっていたので、僕と夏央理がたてたスケジュールともおり合うところがあった。うまく行けば、麓の〈夜明け(アオポ)〉でおち合って、彼らの戦果をきくこともできるだろう。
 パーティ会場の入り口で受付をする夏央理に、「藤井さん、あのあと決まったんですけど、河本(かわもと)さんが車を出してくれることになりました」と早口で報告された僕は、握る手の内側で汗を(つか)みながら、できるだけそっけなく「もう聞いたよ」と答えた。
 「あっ、もう聞いた?じゃ、(富岡)百子(ももこ)さんが一緒に行くことも?」夏央理の話が先へと進むのを制するように、僕は掌を軽く振って大きく(うなず)いた。その時、(にじ)んだ汗はかろうじて乾いていた。時節的に涼しくなった夜風とともに。
 河本(かわもと)(さとし)は、JICO本部事務局から赴任している職員だった。真木コーディネータと同室で執務をとっていることは、前にもちらっと出てきたけど、三十を過ぎた男盛りを迎える独身だった。職員なので、部隊員とは違って車の運転は自由だ。彼はプライベート・カーとしてのジープ型乗用車を持っていた。そのメタリックグリーンに光る車体は、ダークグレーの(ほろ)と対比して、河本自身のスポーティさをよく映えだした。
 百子は僕の住居(フラット)とは砂利道を、少し幹線道路のほうに進んだあの二十四番に住む部隊員で、派遣前に結婚を済ませていた。しかも籍を入れたのがサモアに来る二週間前だったと言う。新郎と新婦にとって新婚=離別になった。
 だけど百子はけろりとして喋る。「恋人としてサモアに遊びに来るよりも、配偶者になったほうが旅費の補てんがあるという話を聞いて、あわてて籍を入れたの。だって飛行機代が半額になるのよ」・・・二人の関係は結婚する前も後も全く変わらない、ただ法律上夫婦になっただけだ、と百子は言いきる。姓がいきなり大原→富岡になったので、まわりもびっくりしたようだった。
 パーティ会場に入ると、そこに河本が居たので僕は、「今回は(車のほうを)よろしく頼みます」と言って会釈をした。彼はいつでも腰の低い男だったので、つくり笑顔を絶やさないで何度となくこちらに頭を下げた。半袖の柄シャツからは、筋ばった腕がのぞいた。
 前のほうのテーブルに百子の姿がちらっと見えた。僕よりもかなり前から来ていたのだろう。
 僕が席に着くと、すぐにパーティが始まった。進行役が僕の到着を待っていたということに気づくと、少し遅刻をしてしまった自分を恥じた。
 夏央理は主催者側にいたので、忙しく接待係をふるまった。司会で次のプログラムのアナウンスを務めたり、食事の準備が整うと、ゲストたちをビュッフェへ導いたりしていた。
 ダンシングチーム「パレード」の舞踏をまた拝むことができたのは、夏央理のアイディアからだろう。そのショーは、きちんとプログラムの中に折りこまれていた。
 僕は「パラダイス」でのランデ・ヴを想いだした。その時の夏央理が眼鏡をかけていたことも。
 踊り子の訴えかけるような(なまめか)しさは、またしても観客の脳みそを焼き、僕を夢心地にさせた。
 パーティが終わったあとも、夏央理は会計の仕事に飛びまわっていた。彼女は僕に近づき、一言「先に二次会のあるディスコまで行っててくれないか」と頼むと、またレストランのオーナァのほうへと交渉のために早足でかけ去ってしまった。
 その二次会は「マウント・ヴァエア」、俗に現地人が〈(マウンガ)〉と呼ぶ所のディスコティックで行われた。
 「マウント・ヴァエア」は収容(キャパ)人数(シティ)が千はある人気ディスコで、その巨大さでは海岸(ビーチ)道路(ロード)沿いの「O.S.A.」にも比肩した。
 土曜日だったので千人は入っていなかったけど、確実に数百人は居た。
 ディスコに入った瞬間に味わうチープさは、他の場所と少しも変わらない。まずは煙草の煙の洗礼に咳こんで、(ほこり)まじりの空気に二度目の咳をする。学園祭の時のような色付き電球や蛍光灯が天井や壁に張りめぐらされ、それらは暗がりで呼吸するように七色に息づいている。
 縦長の建物の一番奥にステージがあって、バンドはそこで観客のざわめきとゆらめきをよそに黙々と演奏している。ドラムのリズムだけは機械に叩かせているけど、あとの楽器は全部人間による生演奏だ。
 ディスコでは常に客たちを主役にしなければならない。奏者は派手な衣装や目だつような動きをすることもなく、おとなしく弾いていた。だけどヴォーカルだけはいつでも観客を中央のフロアーで踊るように、(あお)るような声を張りあげる。
 僕たちは日本人だけでそのフロアーのすぐ脇に席を構えた。軽快な(チューン)が流れると、それに反応するようにメンバーのうち二、三人が立ちあがる。彼らはフロアーの片隅にとび移ったかと思うと、固まって踊りはじめる。
 オーダーしたドリンクが皆なに行きわたると、今度はチークタイムになる。バンドは旧世代のロッカ・バラッドをせつなく再現して、フロアーでは男と女が腕を背中にまわしてくっついたまま、ペアダンスにゆれる。
 こんな健全なデュエットがあるものだろうか。サモア人は不思議なモラルを握りながら抱きあっていた。そこにはふしだらな淫靡(いんび)はなくて、神聖な陶酔があるだけだった。
 デュエットの相手は、人妻でも他人の恋人でもかまわなかった。夫や連れがそれを承知すれば許されたのだった。この精神は、キリスト教が育てたのだろうか。それとも元々サモア人の体内に()みついた考え方だったのか。彼らはチークの時だけ生まれる即席カップルを冷やかしたりもした。しかも冷やかす者の中には、別の男と抱きあっている妻を面白がって眺めている夫がいたりさえした。
 あちらこちらで二杯目のドリンクをオーダァするような時間になると、日本人の女に興味を示したサモア人たちが彼女たちを誘いにやって来る。一緒に踊ろうと言って、相手を求めてくる。女たちはそれを拒むこともできれば受けいれることもできる。夏央理などは、喜んでそれに応える女の(たぐ)いだ。僕たち男性部隊員には、そのサモア人の行為を遮る理由が全く見つからないだろう。
 ・・・・・・そのうちに、夏央理が姿を現した。僕が席を横にずれて、長ベンチに彼女を迎えいれるためのスペースをつくるような格好をとったので、女は吸いこまれるように僕の隣りに座った。
 「今日はお疲れさん」――僕が(ねぎら)うと、夏央理はこんなにも遅れた理由を会計にまごついたことで弁解した。オーナァが提示した額面は、最初に予算を見つもってもらった時よりも相当高くなっていたそうだ。あわてて金をそろえるためにかなり奔走(ほんそう)したようだった。
「もうあそこの店には行きたくない」――夏央理はこんな言葉まで洩らした。そこには、この前にも「映画の上映がある」と(だま)されたくやしさが含まれていたのかも知れない。
 僕は夏央理を(なだ)めるようにつとめた。「暑い」・・・彼女はいらだたしげにこう零した。そして掌の指先をそろえてパタパタと手首から折りまげる所作を繰りかえした。自分の顔に向けて風を送るこんな女性特有の仕草さえ夏央理がそれをすると、優雅な情景になるのだった。
 さっきから強烈な視線を感じていたので、奥の席のほうに目をやると、太田健二がじっと僕らの様子を窺っていた。
 太田の、例の懐疑に満ちたぎょろりとした目。それは薄暗がりの中から煙草のヘイズの漂いをつき抜けて届いてくるメドゥーサの目のように、僕と夏央理を今にも石のように固めてしまいそうな迫力があった。
 でも僕のほうは(にら)まれれば睨まれるほど肩の力が抜けて、むしろ太田の嫉妬心を燃えたたせようと悪戯ごころにそそられるのだった。
 「暑い」――夏央理は同じ形容詞をまた繰りかえした。最初は本当に暑いのだろうと思っていた僕は、ふと夏央理が別の意味でこの言葉を使っているのではないかと勘ぐりだした。
 つまり夏央理がそう言うのは、太田のまなざしのことを気にして、「暑い」という風に表現しているのではないか、ということだ。
 バンドは、前の曲が終わってからこの夜二度目となる『マカレナ』を()りだした。「ヒョウ!」・・・・・・ディスコ全体から喚声が(みなぎ)ると、フロアーの上では『マカレナ』を踊るための列が出来た。
 他の場所に居たサモア人の男が夏央理に向かって声をかけて来たけれど、珍しく彼女はその誘いを断った。
「いいの?踊らなくて。」
僕がそうきくと、夏央理はただ首を横に振った。
 今夜は気分が乗らないのか、それとも一次会の金銭交渉のトラブルが尾を引いているのか、夏央理はだまりこくっていた。
 中央のフロアーでは、百人を越える人影が一定の動きを何度も続けてうごめいていた。
 僕は明らかに僕らをまじまじと眺める太田の視線を意識しながら、わざとらしく夏央理の左耳に口を近づけてこう言った・・・・・・
「――これで俺らが山本さんたちを見送るパーティをすればいいだけだ。あと四ヶ月だね。」
「そんなこと言わないで。」
夏央理はきっと結んだ口を開いて、鋭く言葉をつき返してきた。
 あと四ヶ月もない、山本夏央理の任期満了について僕が触れたので、女はそれを制したのだった。「もう残された時間はない」――それは脅迫観念となって僕に襲いかかってきていた。
 実際、僕がつくったあの告白文もいくらかは書きなおさなければならないほど、事情は変わってしまった。
                                    
 「頭が痛い。」
夏央理が(つぶや)いた。僕がこの言葉に気をとられていると、その時彼女は細い指を立てて僕を指名した。フロアーでは次の曲目がかかったのだった。そり曲がった女の人差指に誘導されるように、僕は立ちあがる夏央理のあとについて行って、両足でフロアーを踏みしめた。
 『マカレナ』が終わると、客の大半は席に引きあげていた。次の、南洋のレゲェ調の曲に乗って僕らは、この間、つまり「ル・ジャルダン」での踊りの続きを演じた。夏央理は頭痛を忘れたように明るくふるまい、僕は手足を大仰に振ってダンスに興じた。
 これは一つのパフォーマンスだった。観客は一人、そう太田だけだった。僕らが睦まじそうなポーズをとればとるほど、背中から太田の歯ぎしりが聞こえてくるような気がした。そこに音楽は、あってないようなものだった。
 「ごめんなさい。」
今、開かれたスポットで自由を得た夏央理が殊勝な口ぶりになった。
「何で?」
僕は謝られた理由が分からなかった。
「・・・勝手に今度の旅行のメンツを決めてしまって。テニスの帰りに話をしているうちにそうなっちゃったの。」
「あぁ、いいよ別に。だってあなたにまかせるって言ったのは俺なんだし。」
 そもそも二人で旅をすることなど、ここでは不可能に決まっていた。それがただのぬか喜びになることなど最初から予測していたし、その計画がしおれた花びらのように散ってしまうのを残念がる未来の自分の姿さえ、ちゃんと描いていた。
「また何かあったら、電話を下さい。休暇までは、あと一週間あるし。」
 曲はエンディングを迎えたので、僕らは動きを止めて席に戻ることになった。
 夏央理は、「やっぱり無理をしないで今夜はウチに帰る」と言った。頭痛は僕が想像していたものよりも、相当ひどかったのかも知れない。
 同居人の鬼頭則子を捕まえて二言、三言声をかけると、夏央理たちはその場の皆なにお辞儀をするなり、二人して人の影に紛れていった。退場するためには、幾重もの雑踏をかき分けていく必要があった。夜が深まるにつれて、客の数は際限なく増えていたからだ。
 ――「じゃ、藤井さん。電話してね」・・・・・・皆なに背中を向ける直前、夏央理は僕の注意を引きつけると、またしてもそう言ってから消えていった。
 ――それは何かの暗示だったのか。彼女が他人を持ちあげて、その人のことを「好き」とか「嫌い」とか言うことのできる天賦(てんぷ)を持ちあわせていれば、これほど深い難問にぶちあたることもないのだろう。
 僕には夏央理の気持ちをあらかた読みとれることがあった。でも肝心なその奥底を精通するまでには、ついに至らなかった。
 夏央理が僕のことをおちょくるのはかまわない。それによって自虐的な満足を得ることもあっただろう。今、僕にとって恐ろしいのは、夏央理が僕のことを何とも思っていないということを知ることだった。
 「いや、そんなことはない。そうだろうか?そうだ、それで間違いないはずだ」――僕は(じゅ)するように何度も自問自答した。
 復活祭(イースタァ)はクリスマスに次ぐキリスト教の行事だった。しかし、そもそも何故これをもって祝日とするか、日本人にとっては馴染みが薄いことだろう。
 クリスマスをイエス=キリストの降誕祭(こうたんさい)(期限は冬至直後に日が長くなったことを祝うローマのサトゥルヌス祭〈農業神の祭、「謝肉祭(カーニバル)」とも言う〉)とするならば、イースタァは、死んだはずのイエスが活きかえったことを祝う「復活祭」だった。
 聖書によると、イエスはユダヤ教の「過越祭(すぎこしさい)」(ユダヤの暦ではニサンの(つき)十四日にあたる)の次の日に殺され、三日後の満月の日に甦ったことになっている。その復活を祝うのがイースタァだ。
 現代のカレンダーでは、春分の日から数えて最初の満月の夜が来た直後の日曜日をイースタァに当てるのが一般的だった。だから三月の最後の週から四月の中旬にかけての、いずれかの日曜日がそれに当たることになる。
 ところで、その年のイースタァも例外なく四月の第一日曜日、つまり七日にやって来た。そして日曜日を挟む土曜と月曜も祝日、つまり連休となるのが慣例だった。
 夏央理は「電話をくれ」と言っていたけど、僕には電話をする理由も用件も見つからなかったので、結局彼女にはワンコールも入れられないまま旅行に出発するその日がやって来てしまった。
 六日の土曜日に河本の運転する車で、僕たちはアピアの町からとりあえず〈城壁(ファレオロ)〉国際空港へと向かった。その日は、任期満了となった部隊員が二名ほど帰国の途につく予定だったからだ。
 僕は河本の隣り、つまり助手席に着き、夏央理と百子は後部座席を占めた。ジープ型の乗用車の中はわりとコンパクトに出来ていて、手狭な感じがした。
 さて、その日の夏央理の格好ときたら、まるで日常を逸脱していた。彼女は(だいだい)、ピンク、黄緑の布地でつくられたツーピースのサモアンドレスを身につけていた。ホスト・ファミリーの娘さんが仕立ててくれたものらしかった。そのドレスを着て遊びに行くことで、ファミリーの皆なを喜ばせるのが目的だと彼女は照れた表情で自分の派手な身なりを説明していた。
 陽だまりにつつまれた昼過ぎの空港に着くと、そこでは見送る者、見送られる者の絵図がちゃんと出来かかっていた。
 見送る者は、こんな時にしか喋ることができない、あらたまった修辞句を並べていたし、
見送られる側は、未練と宿命との葛藤に疲れきった表情をかくせないまま、薄笑いでなんとかその矛盾を克服しようとしていた。
 見送られる者のうち一人は、憶えているだろうか?・・・・・・そう、かつて「ラヴァーズ・リープ」でのパーティのあと、夏央理と二人で歩いているところを、校長の長男が運転する車の助手席から目撃してしまった、あの相手だった。
 そしてもう一人は、ファーストフード屋に夏央理と二人で入ってきたところで出くわした、相手の男のほうだった。
 本当はそこに沢村のお父さんも居あわせるのが自然だったけど(沢村と彼ら二人は同期だったので)、彼は最後のシリシリ山登頂に挑戦するために、すでに昨日のうちからサヴァイイ島に渡っているはずだった。
 空港ロビーに最終の搭乗案内がアナウンスされると、僕たちは人の()をつくって、去っていく人たちとあらためて別れのための握手を交わす。そこには男も、女も関係ない、人間対人間の賛辞がある。
 「また、日本で会いましょう」――その言葉の裏には途方もない非現実感がさまよいながらも、本心では日本で再会してみたい、という気持ちに全くの虚偽はない。
 でも、この時の僕の偽善ぶりは、道化師の失笑をかうほどしらけていただろう。
 言うまでもなく、僕はあまり慎重に別れのための修辞句を用意していたわけではなかった。それどころか、彼ら二人が帰ることで、むしろせいせいしていた。
 「これで邪魔な(はえ)を追っぱらうことができる」――しかしこれは無限の勘ぐりで、その実彼らは(はえ)でも何でもなかった。それでも、つまらない邪推が、僕の中で太田と同様に彼らを煙たい存在にしてしまうのだった。
 僕はたてまえとしての儀礼句を二人には述べただけになった。「日本に帰ってもお元気で」――こんな簡単な文句ほど、中身が重いものはない。隠された思いがたんまりとこもっているからだ。
 彼らは午前十一時のフライトで、予定通り()っていった。
 空港からサヴァイイ島に向かうフェリーの波止場(ウアフ)がある〈最後(ムリ)( フ)土地(ァヌア)〉までは、ほんの五キロほどの距離しかない。次のサヴァイイ行きは十二時に出航予定だったので、まだ少し時間があった。
 僕たちは波止場(ウアフ)よりもう少し先にある、出来たての「サモアン・ヴィレッジ・リゾート」を覗いてみることにした。
 観光資源の乏しいサモアでは、観光業というものが成りたちにくい。もっとも何を持って観光とするかを考えると、「(けが)れていない自然」というかけがえのない財産がここにはあったし、「泊めてくれ」と頼めば、どこの民家でも歓迎してくれるホスピタリティがあった。こういう、外部からやって来た人間を大いにもてなすという風習というのは、キリスト教伝来以前からサモア人が備えていた気質だった。考え方によってはこれこそ本当の「観光」と呼べるものかも知れない。
 しかし、営利を目的とした、いわゆるホテル業などの観光は、誰の目から見てもたち遅れていた。
 そんな中で、ここ近年、島の中でもあちこちで目ざとく新しいタイプのリゾートホテルが建設されるようになっていた。オーナァたちのほとんどは白人か、白人とサモア人の混血で、彼らはサモアという風土の特性を残しながらも自国で学んだホテル産業のノウハウを活かして、独特な経営体制をそれぞれでとっていた。
 「サモアン・ヴィレッジ・リゾート」はその中でもウポル島南部の「シナ・レイ・ホテル」と並ぶ、新興高級リゾートだった。オーナァはハワイ出身の白人だ。一年のうち半分をサモアで過ごし、半分をハワイで過ごすのだそうだ。
 海岸線に沿って建ちならぶコテージは、タヒティの水上コテージのように海を犯しては居ない。なるほど、このほうが地球環境にとっては柔らかいのだろう。サモアの海は、サモアが火山島である分、タヒティの海ほど美しく透きとおってはいなかったので、何も橋げたを海の上に引いてまでそこにコテージを造る必要はなかった。
 コテージの中は広かった。炊事ができるようにキッチンまであるところがいかにもポリネシア風だ。タヒティなら一泊三百米ドルは下らない料金だろう。ところがそこは、わずか八十五ドルだった。
 小さめながらスイミングプールもあったし、ジャグジー風呂まで装備されていた。僕たちはプールの傍らにあったバァで一服をとった。
 「また来てみたいですね。」
夏央理はバレンシアオレンジのグラスのガラス棒をかきまぜてこう言った。そして「ねぇ藤井さん、あのプールで泳いでみて」などとおちゃらけていた。それにしても彼女のドレスは、まるでその日の太陽を召使いにでも従えたかのように目立った。
 波止場(ウアフ)に戻って車両進入許可がおりるまでの間、僕たちは白塗りのコンクリートブロックでつくられた客船待合場で昼食としてのケケ・プアッアを頬ばった。
 ケケ・プアッアは日本で言えば豚肉まんじゅうみたいなものだ。「プアッア」とは「豚」のことだったけど、中身の具は羊肉(マトン)であることもたびたびあった。
 サモアの羊肉(マトン)は「マモエ」と言って食肉用の羊ではなく、ニュージーランドからただ(、、)同然で輸入される、老いて使えなくなった羊毛用の羊肉だった。値段は確かにクズのように安かったけど、味のほうも耐えられないくらいにお粗末だった。
 部隊員同士のホームパーティでも、この「マモエ」の悪味(まず)さはいつでも笑いの種にできるほどだった。
 その日のケケ・プアッアの中身も脂身たっぷりの「マモエ」で、丸ごと食べてしまったらげっぷが出てきそうな感じだった。
 
                                    
 そのうちにレディサモア二世号がぬっと巨体を海上に現し、そのまま車ごと僕たちをサヴァイイ島まで運んでいった。一時間くらい船体といっしょに揺られていると、もうサヴァイイ島側の波止場(ウアフ)がある〈( サ)( レ)吹き出る( ロ ロ ン )(ガ )〉だった。
 後ろ向きに停泊した船のハッチが開いて、その鉄の扉が港の地面と重なると、いよいよ三十台はある乗用車やトラックがエンジンの始動音を撒きちらして次々に陸の上へと踊りだす。
 僕たちを乗せた河本の車も、それらに肩を並べてタイヤを地面に滑らせた。さぁ、これからが待ちこがれたサヴァイイ島巡りの旅のスタートだ。
 サヴァイイ(いち)のマーケットを横目に走りぬけて、T字路になったつき当たりを、河本はハンドルを左に切って車を旋回させた。僕は最初の予定通り、サヴァイイ島の南回りを指定した。そのT字路で右に曲がれば北方面への道だった。
 夏央理のファミリーは南側の〈(サ )(マタ)( イ)山側(ウタ)〉、僕のファミリーは北側のマナセ村なわけだから、どっちの村へ行っても、辿(たど)りついたその日の夜はそこで泊めてもらうことになっていた。
 もしここで北側を行く道を選択すれば、一泊めは必然的にマナセになったのだろう。でも今回は南側、つまりその晩は〈(サ )(マタ)( イ)山側(ウタ)〉の夏央理のファミリーに泊まることにした。
 日の光がさし込む角度のせいか、サヴァイイ島は南側と北側では、全く違う風景になる。島の斜面に繁るジャングルの緑色の濃さがが変わるので、南と北では、まるで別の植物体形がなされているような錯覚さえ起こす。それもこれも島の中央を東西に貫く千メートル級の山脈が南北を見事に隔てているのが理由だった。その山脈の最高峰がシリシリ山だ。
 南側の植物は太陽が直接当たらないせいか、葉緑素が少なく薄い緑色をしていた。そして海は、島自身の山脈が影をつくってしまうために、どことなく陰気だった。ところどころでは浅瀬の(しょう)も見られるものの、海岸線はきり立った岩肌にそのまま外海の強い波が打ちつけている所が多く、そういう場所では珊瑚(さんご)(しょう)をつくらないので、波打ち際からいきなり深海に(くぼ)んでいるのだった。
 潮吹き(ブロウ)(ホール)(まさ)しくそんな条件が重なることで生まれた自然現象だろう。はるか昔の連続した火山活動で、溶岩が固まった結果出来あがった平坦な海岸線に、長い時間かけて海からの波が(たた)きつけると、波力が柔らかい火山岩の地中をえぐって、やがては平面状の岩浜にいくつかの穴を貫通させる。
 ついにこの人の頭ほどの大きさの穴から、波が寄ってくるたびに潮が噴きでるようになる。それが潮吹き(ブロウ)(ホール)だ。
 〈(タンガ)〉村には、サヴァイイ島でも有数な潮吹き(ブロウ)(ホール)があった。僕たちは予定の行程を少しだけずらせて、こいつを見物することにした。
 車両で近づける限界の所まで進むと、すでに眼前ではすさまじい勢いで水煙がわき立っていた。フロントガラスは飛沫(しぶき)を浴びて、もうワイパーを()ける必要があるほどだった。
 四人で車を降りて間近に歩みよると、波の呼吸に合わせるように、もの凄い破擦音(はさつおん)をたてながら穴という穴から潮が噴きあがった。水は鋭角に、登り龍のような線を天空に描く。そして霧のシャワーとなって僕たちの肩を濡らす。その時舌先に感じるしょっぱさが、潮の香りの余韻を残すのだった。
 水柱はときには十メートルを越すことがあった。そういう時は、さすがに眺めていた者たちの喚声を誘った。なるほど、これならば夏央理が帽子を飛ばされたというのも(うなず)ける。
 「前にも来たことがあるって、言ってたね。」
僕は夏央理にそうきいた。
「うん、小沢さんがこの近くでホームスティしていた時にね、彼女と一緒に来たことがあるの。」

「それって帽子を失くしたときのこと?」
「そう、あっ、よく憶えてますね。飛ばされちゃって、気に入ってた麦わら帽子だったんだけど、どっかに消えちゃったのよ。くやしかったな。」
 僕が初めてのホームスティから帰ったとき、このいきさつについては小沢基子との話で記憶に残っていた。想いかえせばあのとき、基子が称した「山本さん」と夏央理とはまるでつながらない別個の人物だった。今、この猛々(たけだけ)しく舞いのぼる真っ白な潮を見ながら、クロスワードパズルの最後の一句が解けた瞬間のように、やっとのことでその話の全体像が浮かびあがった。
 僕が最初に山本夏央理の名前を耳にしたあの日から、もうすでにこんな風になることはしくまれていたのかも知れない。パズルの作成者がひっかけることを意図して解読者を翻弄させるように、僕はただ惑わされていただけで、初めから答えが宿命的に決められていたとしたら・・・・・・。あの時の僕はすでに彼女の名前に()かれていたことになる。
 太田健二の出現で書きかえの必要性に迫られていた例の告白文は、結局ちょっとした文句をつけ加えることで、僕の趣旨と夏央理の立場とに(さわ)りのない程度の訂正をほどこしただけにとどまった。
「君はとても社交的で、好奇心が旺盛で可憐な人だね。僕は君のそんなところがとても好きだよ・・・・・・でももう僕たちには残された時間がないから、君が帰国してしまう前に一度くらいはデェトをしようよ」――僕はこの文章を、この旅行中に、もっとも言うのにふさわしい場所で、絶対にタイミングをはずさない一瞬を選んで、夏央理にぶつけようと心に決めていた。
 〈(タンガ)〉村を離れて、夏央理のファミリーに到着した時は、すっかり日が暮れてあたりは真っ暗になっていた。どうやら皆なして僕たちの来訪を待っていた家族の人たちは、「遅かったよ。待っても待っても来なかったものだから心配してたんだ」と言いながらも、その叱責の唇は喜びのために(ゆる)んでいた。
 本当はうれしい気持ちでいっぱいだったのだろう。いったい、見知らぬ客をこんなにも盛大に迎えてくれる国が他にあるだろうか。しかも彼らの本心にはまるで偽善というものがない。これをサモア人は「ファッアウオー」と呼んだ。直訳すれば「仲良くする」という意味になるけれど、僕にはこの「ファッアウオー」という言葉が、表面上の形式ばった文句以上に、人間の「生善」という生来の本質が、サモア人という媒体を通して(あら)わになっているような気がした。
 我々には本当は見ず知らずの人たちと仲良くしたいという欲求があるけれど、社会的な規範、道徳、宗教、それらがつくり出す体裁や自己防衛心が働くために排他主義に陥っているだけで、サモア人の心は燦々(さんさん)とした白日のもと、むき出しのつやつやとした褐色の肌を(あら)わにするように、自分自身から生えでた純粋さで照り輝いていた。
 そしてそのうららかな心情は、夜になれば踊り(シヴァ)の中で熱情的に(うた)われた。村で寄り合いがあれば、しめ(、、)踊り(シヴァ)になるものだった。そこでは若者と年寄りの区別なく、歌と踊りが(はな)やいだ。サモア人はこれを「フィアフィア」、つまり「お楽しみ会」と呼んだ。
 だけど、僕たちが夏央理のホストファミリーに着いた夜はしんとしていて、むしろ(おごそ)かなムードが漂っていた。夕食のあとは〈家長(マタイ)〉や婦人会の人たちで教会に集まって讃美歌を合唱する。キリスト復活の前夜だったからだ。
 夏央理ご自慢のファミリーの夕食は、〈(サカ)〉したヒラメをココナッツ・ミルクであえたものを主に、パンの実(ウル)青バナナ(ファッイ)、それから西洋風のスープが添えられていた。
 次の日の〈ご馳走(トッオナッイ)〉に備えてか、心なしか簡素な食事を済ませると、僕は〈腰巻き(ラヴァラヴァ)〉を自宅に忘れたことに気づいた。これがないと水浴びの時に困る。道路から丸見えの場所でシャワーを浴びるサモア人は、男も女も必ず腰巻きを(まと)ったままで体を洗う。僕たちもホームスティ先ではその習慣に従っていた。
 幸い夏央理のファミリーには三方を覆う囲いのあるシャワー室があったけど、扉がついていなかったので、一方は開放されたままだった。
 夏央理は彼女風の気遣いから、「それならあたしの腰巻きをかしてあげる」と言ったが、僕はつまらない配慮から、それを断ってしまった。
 ひとつには、泊まらせてもらうファミリーから借りるのが妥当だろうと考えたこと。もうひとつには、僕が汚したものをあとから彼女に使わすことになるのを僕の膚身(はだみ)厭がった(いや     )ことにあった。
 だけど、あとになってから僕には後悔の念がこみあげてきた。僕は夏央理の優しさを折ってしまった。彼女は盛んに「あたしは二枚持ってきたから大丈夫」と言っていたのに。
 このしこりが旅行中、あとあとまで尾を引かないことを、僕はひたすら祈った。
 次の日、ファミリーがご馳走してくれた〈ご馳走(トッオナッイ)〉をいただくと、僕たちは早々に車を走らせて、島を時計回りに旅を続けた。途中、「恋人岬」と呼ばれる断崖を観て通り、「サンセット・ポイント」(世界で最後に沈む夕日を拝むことができる)を遠目に仰いで、ついに島の北側に入った。
 するととたんにきめの細かい採光が熱帯雨林の中で木漏れ日となって(あふ)れ、彼方に眺める水色の海が重なりあう宝石のように太陽の光を反射しだした。北側の色濃い森の緑は、生き生きと美しさを誇負している。
 昼を過ぎてから、いったん山路に進入して〈夜明け(アオポ)〉村に到達した。道路条件は最悪になるけれど、それは仕方がない。マナセ村の方面に抜けるには、その未舗装道路を通るしか他に道がなかったからだ。
 〈夜明け(アオポ)〉村はサヴァイイ島にただ一つだけとり残されてしまったように(たたず)む村だ。他のほとんどの村が海岸線に沿う形で存在するのに、この村だけは、丘にぽつりと置かれていた。海は近いところにあった。だけどこの海はきり立った絶壁からまっすぐに落ちていった所で怒涛とともに荒れくるっていた。
 うっそうと繁った森林や草むらを、人間の手で切りこんだり、刈りこんでいきながら造った村、不思議と人工的な匂いがするのは、村のあちこちで見られるモルタル製の水槽タンクのせいもあるのだろう。
 この水槽タンクはほったて小屋ほどの大きさもある円すい形をしていて、ひとつずつ青いペンキで「J-corp」というアルファベットと、通し番号か何かの数字がふられていた。
 数年前、村落開発普及員としてこの村に住んだJコープがもたらしたこの水槽タンクの功績で、長年水不足で頭を悩ませていた村民たちの生活が潤った。
 だけど、夜に大挙して襲ってくる蚊への対策は、いまだに練られていない。潮風の吹かない〈夜明け(アオポ)〉は、蚊にとっては絶好の栄養吸収源だった。
 沢村のお父さんたちは、Jコープのホームスティ先としても馴染みがある老エッエタウ家長(マタイ)(ファレ)でしんみりとくつろいでいた。
 村は東西に延びて細長かったので、僕たち四人はあやうく老エッエタウの(ファレ)を見過ごすところだった。あわてて車を引きもどし、すれ違いを回避することができた。
                                    
 (ファレ)に上がらせてもらうと、登山部隊の四人とも顔を揃えていた。そのメンツは沢村に始まって、僕の同居人の渡部晃、同期の古屋ひとみ、そして四人めとして細田嘉章(よしあき)の姿も見られたのでびっくりした。細田は強制的に〈水を分ける(ヴァイヴァセ)海側(タイ)〉から追放されたあとは、アピア湾近くの〈( ヴ)(ァイ )起きる( アラ )〉地区にうつり住んだはずで、元同居人の彼と再会するのは僕にとっても久しぶりのことだった。
 サモア人の家族の一間を借りて、僕たちは四人対四人で対侍するような、不思議な格好になった。女性部隊員でも、サモアで一年も暮らせばすっかり胡座(あぐら)に慣れてしまう。夏央理も百子も、そしてひとみも日本に帰ったら親に叱られるだろう、と心配するほど胡座(あぐら)姿が板についている。
 向こう側に居る養護婦のひとみは渡部との交際をすでに始めていた。アピア駅伝のあと夏央理と四人でピッツァリアに行ったことが今では懐かしい。きっかけと称するものがあったとしたら、想えばあの会合がこの二人のロマンスの引き金になったのだろう。――二人の趣味は登山ということで一致していた。そう、あれから一週間もたたないうちにひとみから電話があった。出たのは僕のほうだった。
「――渡部さんは居ますか?・・・」
(つや)のあるその声を聞いたとたんに、僕ははっとピッツァリアでのひとみの輝きを想像して、すぐにその電話の意味を悟った。
 ・・・・・・あれから半年、シリシリ山登頂はもう絵空事ではなかった。
 にもかかわらず、今、沢村のお父さんは対侍する僕たちに向かってこう言った。
「――いやぁ、すごい悪天候での。(あきら)めて途中で引きかえしたんじゃわ。今回も失敗でオレは残念じゃ。」
 そう言われてみるともうこの時間で下山してきているのには確かに矛盾があった。予定では「下山は本日夕方」と聞いていたので、僕も夏央理も、「ひょっとしたら〈夜明け(アオポ)〉での会見は無理なのでは」と気にかけていたくらいだ。
 だけどそう発言する沢村の口もとからは満足感からくる笑みがこぼれていたし、他の三人も背中のほうから「やりとげた」という威光を発していたので、僕はその嘘をすぐに見やぶった。
 しばらくは沢村の口調に合わせるようにかたくなに落胆している演技を続けていたものの、沢村本人が話をはずませるうちに「いや、山頂で・・・」と口をすべらせた瞬間、わっとその場に笑いがはじけた。そして一行は登頂の成功を白状したのだった。
 それから先は、登山部隊四人組の武勇伝がとめどもなく(あふ)れだした。
 彼らは、初日、つまり昨日の夕方には頂上まで辿りつき、もう下山し始めたのだと言う。昨夜は山の中腹でビニールシートを使って簡単な屋根を引き、その下で寝袋に入って休んだ。雨で服を濡らせてしまった沢村は、浅い眠りしかとれなかったようだ。二日めの朝、つまり今日の日の出とともに再び下山を始め、十時の〈ご馳走(トッオナッイ)〉には間に合うように帰ってきた、とのことだった。
「わしらはそんな急がんでもよろしかろぅて思ぅたんじゃが、ガイドの兄ちゃんがサモア人なもんで、ようけ飛ばしたの。おおかたご馳走(トッオナッイ)が目当てやったんじゃろ。おこぼれにあぶれるとなると、せっかくのイースタァも台無しじゃから」――沢村はこういった不満さえ楽しそうに話していた。
 老エッエタウのファミリーは紅茶を用意してくれたけど、僕たち四人はすぐに暇を乞いた。実際、僕たちは急いでいた。日が傾くころにはマナセに着いていなければならなかった。
 〈銀白(サシナ)〉村まで出ればまた舗装道路が始まる。サモア、特にサヴァイイ島の道路条件(コンディション)は太平洋随一だとも言われていた。道幅こそ広くはないものの、きめ細かいアスファルトが真っ平に施されていて、日に三往復の公衆バスが時速百キロものスピードでも行き来できた。
 伝統的なサモア式(ファレ)、そしてところどころに点在する西洋風(ファレ パ)()(ランギ)売店(ファレオロア)・・・目立つ建物は必ず村の教会だ。教会だけはコンクリートブロックや煉瓦(れんが)でしっかりと出来ていた。プロテスタントのものは切り妻屋根の簡素なつくりの教会がほとんどだったけど、カトリックのそれは、ステンドグラスをあしらったりして、ゴシック様式もどきの、そのまた贋物(にせもの)のような、ただ図体だけがやたらと巨大な建物だった。
 ひとつの村が途切れると、道路の両側は岩肌だけになったり、椰子の木やパンダナス、そしてバナナの繁殖するプランテーションになったりした。海は青く、常に左手を彩っていた。
 〈花咲く(サ フォトゥ)〉村を過ぎた。次がマナセ、つまり僕のホスト・ファミリーのある村だ。今度は火山岩の岩浜がずっと続く。岩の表面が気泡だらけなので黒光りはしていない。ただどす黒く、太陽の熱を吸収しているようだ。
 道路の両側に『ロビンソン』ホテルの看板が見えてくると、もうマナセだ。この道はファミリーの幼な子、今はもう七歳になった()かん坊フェレニとその二才年下の妹コレティを連れて、よく歩いた道だった。
 間もなく、僕たちは河本の車で僕のファミリー、老婆ンゲセの(ファレ)の前の白砂の庭へと乗りつけた。そこには村で一番大きいパンの木(ウル)があったので、格好の目印になった。サモア人には家のまわりを塀で囲う習慣がないので、村の子どもたちはさっそうと入ってきて停車したメタリックグリーンのジープ型にひかれて走りよってきた。
 「うわぁ、きれいな所ね!」
夏央理が感嘆の声をあげた。前にも書いたけど、マナセは村自体が白砂の上に乗っかって出来ていた。ごつごつとした黒岩なんて影も形もなく、ただ太陽が細やかな砂に当てる光の反射につつまれている村だった。
 僕が自慢にしていた所を夏央理が褒めたので、つい嬉しくなった。家族に軽く挨拶を済ませると、僕らは水着になって裏のビーチへと踊りでた。
 「あ〜、きれい。藤井さん、こんな家でホームスティできたなんて、贅沢よ。」
夏央理は百子と一緒になって、恨めしそうに僕を責めた。
「でもこの家にはテレビも冷蔵庫も車もないんだ」――僕はつまらない比較を持ちだして弁解した。
 そう、Jコープのホスト・ファミリー先のほとんどは、サモア社会では裕福な部類に属していた。昨夜泊まった夏央理のファミリーだって、車はあったし、冷蔵庫はもちろんのこと、ボックスボード式の冷凍庫まで置いていた。
 ・・・最初四人は浜辺で水あそびをしていたけど、そのうちに百子と河本はシュノーケリングセットと足ヒレ(フィン)を持ってきていたので、二人して沖のほうに向かった。
 日ざしは傾きかけていて、昼間のじりじりとした熱波から、夕暮れ時の優しい採光にちょうど移行しようとしていた。彼方では小さく波濤(はとう)がこぼれ落ち、白泡の筋をつくっている。そこまではラムネの瓶の色のように澄んだ南太平洋の(しょう)がのどかに延びている。
 僕と夏央理は海岸でとり残された感じで座りこんだまま百子と河本の影を追っては、そういった自然の成すスペクタクルに見いっていた。
 夏央理はずっと黙っていた。何か考え事をしているようにも見えた。僕はむしょうに夏央理が考えていることを知りたかったけど、それが気の利かない詮索になることは分かっていたので、あえて僕も無口になって地球がつくった本物のディオラマにただ目を奪われているような振りをした。
 その間も二人は何度か目を合わせては笑顔を交わした。そのうちに僕はとんでもなく重要なことをうっかり忘れていたことに気づいた。――今こそ告白のチャンスじゃないか!
 今を逃してはならない。もし今言えなかったなら、こんな所にその他の二人まで引きつれてまで夏央理を誘いだした意義が消滅してしまう。
 「泳ごうよ。」
僕は立ちあがって夏央理を水面へと導いた。
「えっ、でも・・・」
彼女はすこし(おび)えた口調で躊躇した。泳ぎに自信がないのだろう。
 「大丈夫、海での浮き方を教えてあげるから」――僕は強引に女を波の中へとおびき寄せた。
 夏央理の水着姿、その日僕はそれを初めて見た。
 胸はない。だけど写しだされた乳房のラインは絶品だった。それは上半身に形の良い二つの山をもっこりとつくっていた。そして驚いたのは芸術家の筆で描いたようにくびれた腰の曲線と、そこから自然の実りのようにたわわに広がるヒップだった。それは彼女の華奢(きゃしゃ)(からだ)つきにしては不釣合いなほどふくよかな肉づきで、お尻のたわみからは骨細の長い脚がすらりと延びていた。
 僕は夏央理の右の太腿に赤茶色したひっかき傷のようなものを認めた。それは瘡蓋(かさぶた)になって、クレヨンで描かれた弧のように刻まれていた。
 それから二人は腰の下までもつからないような浅瀬で戯れた。僕は興奮して自分の額の水が汗なのか海水なのか分からなくなった。
 「ほら、こうするんだ。そうすると何もしないでも浮くんだよ。プールじゃこれはできないんだ。塩水だからできる技なんだよ。」
僕は仰向けになって海面に浮いてみせた。天空が霞んで見えた。
 夏央理は意外にも上手にそれを真似した。海というエアーマットの上に全身をゆだねるように漂っていた。
 でもその姿勢を長時間保つにはまだ慣れが必要だった。そのうちに彼女の顔はバランスをくずした上半身といっしょに海の中に埋もれてしまった。
 あわてて近よった僕に向かって、すぐに体勢をとり戻した夏央理は「大丈夫よ」と笑顔で言った。
「山本さん。」
僕は夏央理の名を呼んだ。

――この時・・・・・・この刹那が僕にとっては告白の、没落のあとの夜明けを待ちわびるような、生まれ変わりのための、天使が与えてくれた最も愛に近い、尊くそして(きよ)らかな瞬間じゃなくて、ほかの何だっただろう。
「あっ。」

女が吐息を零した。
「えっ。」
僕はドキリとした。夏央理が顔をゆがませて涙目になったからだ。
「コンタクト・・・」――彼女はそう言うと両目をぱちぱちさせた。
「コンタクトがとれちゃったのかい?」
「ううん、たぶんずれた(、、、)だけだと思う。」
「泳ぐときはふつうはめないものだけど。」
「だってこれをしてないと、あたし何も見えないの。でも心配だな、もしかしたらとれちゃったかも。」
「俺が見てあげるよ、どっちの目?」
「こっち。」
夏央理は左目を指差して、しり(、、)目を向けた。
 僕は位置がずれて白眼のほうにそっぽを向いているハード・コンタクトレンズを確かめた。
「大丈夫、ちゃんとついてる。落ちてないよ」――その時、明らかに僕は気になっていた。彼女の唇を。二人は互いにそれを意識するほど顔を近づけていた。彼女の放つ息吹、甘い匂いを僕は自分の唇の届く所に感じていた。
 地球が二人だけのものになって欲しいとどれだけ思ったことか!僕はその時、夏央理に接吻してしまえばよかった。
 だけど気がつくと、遠方で泳いでいたはずの河本と百子がすぐ側まで戻ってきていた。彼らに声をかけられて、僕は夏央理との会話を中断しなければならなくなった。
 そのことは悲しくも僕の告白の失敗を意味した。もうあの文章は、廃棄するべき無用の長物になった。
                                    
 「カズヤーッ!」
浜のほうからフェレニが僕の名を叫んだ。この悪戯(いたずら)っ子はさっきから夏央理が持ってきていた浮き輪に惹かれていた。サモアの子供たちは、浮き輪やゴーグルといった遊び道具を珍しがった。大人さえそういった遊泳用具は持っていないものを、子どもが持てるわけがなかった。
 「この(オ アイ)( レ )(イン)(ゴア)( オ)名前( レ テイ)(ネ )(レア)?」
「カオリだよ。」
「カオリ・・・」
そう(イオ)()。」
「・・・カオリ、来て(サウ)!」
夏央理とフェレニは沖に駆けだして、替わり番()に浮き輪の中に乗っては片方が曳きまわすという遊びを繰りかえした。そこで百子はすかさず浜辺まで持参したカメラを手元に寄せて、その様子をシャッターレンズの中に収めていた。
 ともに笑顔があって、何ともおかしみのある光景だった。
「いい所ですね、藤井さん。」
隣りで眺めていた河本が声をかけた。日々の仕事に追われ、国から派遣されている専門家たちの機嫌とりに時間を割かれ、政府高官たちとの接待のパーティでは愛想笑いに神経をすり減らし・・・彼のJICO職員としての生活というのも一筋縄ではなかった。加えてプライベートでは大失恋があったとの噂を僕は聞いていた。河本はそんな鬱憤を吐きちらすためにこの旅行の運転役を買ってでたのかも知れない。彼が目を細めて、口もとから(こぼ)れた白い歯からは、すがすがしい満足の色がのぞいた。
 その日の晩、夕食をいただいたあと、僕たちは『ロビンソン』へと散歩に出かけた。そこのカウンター・バァに僕はかつて何度腰をかけたことだろうか。そしてこれから先、帰国する十二月までに、あと何回座ることになるのだろうか。いつもは僕一人でただ孤独の酒を味わっているものだった。仲間がいたにしても、それはフェレニやコレティ、村のちっちゃな子供たちだった。
 けれども今夜は百子が居た。河本が居た。そして夏央理が居た。
「是非また来てみたいですね。」
・・・夏央理はそんな希望を、束の間の線香花火のように言いはなった。
彼女の帰国するまでのあと三ヶ月余りの間に、またこんな場所まで遊びに来るなどということは、ほとんど夢物語だった。
 何故?三ヶ月ということは十二週間、つまりあと十二回も週末があるってことじゃないか、と読者は思うかも知れない。ところがJコープのイベントやパーティは決まって週末に集中した。早い話が、この次の土曜日ひとつをとって見ても、明日の日付で新しく派遣されてやって来る部隊員の歓迎(ウェルカム)パーティで僕たちの予定は埋まっていた。
 今度またここに来るには、その日どりを今日のうちに決めておかなければならない。逆に今日の時点で決まっていない約束は、任期満了まで残り少ない夏央理にとって、まるで快楽主義で彩色された絵空事でしかない。
 「そうですね。」
――僕は曖昧な返事だけを残した。
 ・・・・・・ンゲセお婆ちゃんは四人の日本人のために(ファレ)の中に柔らかい床を敷いてくれた。恐らくそれは今は亡きドイツ人のお爺ちゃんが寝床としたマットレスなのだろう。その夜、僕たちは潮騒が与えてくれる安らぎの賜物(たまもの)につかりながら睡眠をとった。
 次の日、旅客船タウサラ・サラファイ号の臨時便でサヴァイイ島からアピアのあるウポル島へと僕たちは帰っていった。タウサラ・サラファイ号はレディサモア二世号とは格段に劣る小型船で、車は四、五台乗せれば手いっぱい、定員も八十人がせいぜいだったけど、復活祭(イースタァ)の混雑を見計らってレディサモアと二隻でその日の帰省客をピストン輸送していた。
 僕たちは甲板(デッキ)上に設けられた、船客用の縦四列に並んだ木製のベンチに固まって座った。
 船は、海流に逆らって進むのでよく揺れた。夏央理が、船酔いを嫌がったので、僕は彼女の気持ちを紛らわそうと、船上でしりとり(、、、、)歌合戦を始めた。
 それは攻を奏したようで、すっかりしりとり歌に気分を奪われた夏央理は、終始ベンチから()びあがらんばかりに喜びをあらわにした。
 そういった合い間を()って、夏央理は気にかけるように太腿の上の瘡蓋(かさぶた)に指をなぞらせた。
「どうしたの、この傷は?」――百子が夏央理に尋ねたことは、僕のほうがずっと知りたいことだった。
 夏央理はこれに答えた。それは彼女の実直な性格が愛嬌たっぷりに映えた瞬間でもあった。
「猫にひっかかれたのよ。たちの悪い猫に。」
夏央理の太腿を傷つけた犯人は、〈げん( モト )こつ( オ )( ト)(ゥア)〉で飼われていたJコープの持ち猫だった。傷跡を発見してからというもの、何とはなしに僕の気をもませていたヴェールはここで()げおちた。
 それから僕たちは自分たちの視力の話をした。百子も河本も目はよかった。僕はひとつだけ夏央理に尋ねた。それは、どうしてもきいておかなければならないことだった。
眼鏡(めがね)とコンタクトだと、どっちのほうが良く見えるの。」
「コンタクト。」
――いともあっさりとした夏央理の答えが、次には僕の心臓に激震を巻きおこした。
 だったら最初のデェトの晩、あの「パラダイス」のダンスショーを観にいった日、この人はどうして眼鏡をしていたんだろう。ショーをよく観たいのなら、コンタクトをするべきだったし、それ以前にあれは男としての僕の立場を害した行為だった。
 僕は夏央理に女としての最高の姿で居て欲しかった。それが最初に二人きりで()う晩だとしたら、なおさらのこと彼女の美を側に置いておきたかった。そして、僕の心情を察してくれなかった夏央理を責めたてたかった。
 もしあの時、麗しさに(あふ)れる夏央理が隣りに座っていたなら、僕は告白してしまったかも知れない。すでにタヒティでそのためのセリフは充分に練っていたわけだし、太田の精神的な介入も、あの時なら全くなかった。
 僕を尻ごみさせたのは夏央理の眼鏡のしわざ、それだけのことだったのかも知れない。
 僕たちは下船して、車に乗りかえてからもしりとり歌を続けた。
 今回の新部隊員は早朝にもサモアに着いているはずだった。もちろん彼らは、サヴァイイ島に旅行する直前に見送ったあの二人や、来週中にも帰国する予定にあった沢村のお父さんの替わりにやって来た人たちだ。
 アピアの町に入ったところでまず河本は夏央理の住居(フラット)に向けてハンドルを切った。まだ日暮れ前だった。僕たちは夜六時にもう一度「マクデニーズ」で待ち合わせすることを決めてから、それぞれの住居(フラット)まで河本が送っていってくれた。
 「マクデニーズ」は町の中心に出来たばっかりで、アメリカ産ファーストフードのフランチャイズ店だ。店舗の敷地内には子供用のアスレチックが設けられ、ガラス張りの店内に、カウンター上のレジがたち並ぶ風景は、そこだけがまるでアメリカだった。客はまずこのレジごとに並んで「持ち帰り」か「店内で飲食」かを店員に告げるのだった。
 僕たちがもう一度「マクデニーズ」で集合した理由は、その夜〈語り(トゥシター)(ラー)〉ホテルで催されるミュージック・フェスティバルを観にいくためだった。僕が家で着がえて、一息ついてから「マクデニーズ」に立ちよると、十人近いJコープがすでに群をなしていた。行ける者全員で顔を揃えてから〈語り(トゥシター)(ラー)〉に行く手はずになっていた。
 あとから来た夏央理は、装いをあらたに白いGパン姿で、しかも眼鏡をかけていた。まわりの日本人も、見慣れない夏央理の眼鏡姿に、まるで別人を見るかのように目をぎょっとさせた。
 旅行中の三日間、ずっとコンタクトをつけっぱなしにしていたものだから、目の負担を和らげるために、いい加減はずして眼鏡にしたのかも知れない。・・・――それを考えると、「パラダイス」で夏央理が眼鏡をかけていた理由も、本人から「それまで長時間コンタクトを装用していたので」と説明されれば納得がいった。
 〈語り(トゥシター)(ラー)〉ホテルで、僕たちはサモアに来たての新部隊員に出くわした。彼らはそこで逗留していたわけで、当然その晩のホテルの余興に顔を出していてもおかしくはなかった。
 ミュージック・フェスティバルは、近年組織されたサモア人によるミュージシャン組合が主催するコンサートだった。その晩、組合員のジャズやR&B、ポリネシア音楽の演奏は深夜まで延々と続いたようだった。僕だけは、旅疲れがあって睡魔に耐えきれなくなったので、早めに一人で退散した。夏央理には、一声かける余裕さえ残っていなかった。
 隣りに居たJコープのメンバーに帰ることだけ告げると、僕はその会場を立ちさった。
                                       
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