一、
西海大のフェリーでの彼女のセリフを忘れない。サモア。その首都アピアに接する湾岸で、たまたま南太平洋まではるばるとやって来た西海大学のフェリー(それは彼ら海洋学部の「実地訓練」でもあったわけだが)の甲板で、日暮れに染まる港の色づく太陽光線を浴びながら、彼女、山本夏央理が僕に言いはなった言葉──「すんごいですね、藤井さん。今度是非ウチの学校に遊びにきて、サモア語で喋ってくださいよ。きっとウチの女学生たちにも受けると思いますよ。」
僕はそのたそがれ時、少し浮かれていた。憶えたてのサモア語と、それをさも使いこなせているような錯覚を起こした時の優越感に。
甲板の上には浴衣を着た日本人たちが居た。さらに、僕たちサモアに住んでいるJコープのメンバーがいた。僕らもまた、西海大の現役学生にお呼ばれされ、その宵の親睦会に出席していたのだった。
僕は久びさに見知らぬ大勢の日本人の集団というものを見た。というのも、サモアに居る日本人というのは、わずか百人にも満たない数なので、すべての人と顔は知っていたし、逆に言うとお互いに知られていた。ここで見知らぬ日本人というのは、つまりは浴衣姿の、いかにも日本人的発想の接待を兼ねた、西海大の学生たちだった。不思議なもので彼・彼女たちは、個々に見たときには目や鼻や耳のせいで別人に見えるのに、皆なが浴衣をまとっている、ということにおいては同じ顔に見えるのだった。
僕は彼らが日本から運んできてくれた、おすそ分けの日本製缶ビールを手にしていた。そのビールの味は、どことなく日本で覚えた味とは違い、おいしいというよりは、むしろまずかった。「サモアの気候がそうさせたんだ」僕は異国の地のそういった二次的要素が、僕らの知覚に変化を起こさせるという実体験を、観念的に教わった。確かに、僕らの舌は、すでに日本のビールをまずいものとして感じさせ、サモアの地ビールをおいしいものとしてなじませてしまったようだ。
「地震の話はもうお聞きになりましたか。」
搭乗員風の格好をした白髪まじりの紳士が、僕たちの仲間のやや年配の部隊員に声をかけた。
「はい。いくらサモアが離れ小島だからといってもさすがにそのくらいのニュースは届いていますよ。」
「あぁ、そうですか。ここは、そういった最新ニュースはどこから入ってくるんですかね。」
「ニュージー(ランド)からですね。向こうのテレビ局の流す毎日のニュース番組がサモアでも放送されるようになってるんですよ。だから今度の神戸の地震のことも、かなり克明に情報が入ってきます。」
ディナーとなるヴァイキング料理が出てきた。そもそもこのセレモニィの目的が日本を紹介し、親善をはかるものだったので、当然のように日本料理も並べられた。定番の寿司や刺身、天ぷらなどは、サモア人にとっては予備知識としても全くない、初めて見る食べものだっただろう。ものを一つつまんで口へと持っていく仕草もおっかなびっくりだった。
「これなーに?」
その場で親しくなった女の子が僕に尋ねた。その子はふだん、国立病院で働いていると話していた。彼女が指さしたものが鮭の切り身だったので、
「それは魚。」
と簡単に答えた。サモアの料理にも「オカ」と呼んで、生魚をココナッツ・ミルクであえたマリネのようなものがある。
かつては南洋漁業の日本の漁師たちが大勢マグロの魚影を追ってこのサモアまでやって来た。彼らはサモア人に生魚をわさびとしょう油で食べることを教えた。だから、町の売店ではたいていどこでも粉わさびとしょう油を置いている。もっとも日本の漁師たちは、二百海里法制定以後はぱったりと姿を見せなくなったが・・・・・・。そういうわけで刺身そのものには、彼らサモア人にとっても、食べることに抵抗感はなかっただろう。ところがテーブルの皿の上には、ハマチだの鮭だのと、ふだんサモア人が見なれないものまで陳列されていたので、病院に勤めるその子は、もの珍しげに眺めていた。
「食べてみなよ。」
僕がそう言うと彼女はぎこちなくハシを持って、「キャッ」と叫んでおどけた笑いをはじかせながら生鮭の切り身を口の中に放りこんだ。
それでもパーティ全体では他のメニュー、例えばスモークドビーフとか、サンドウィッチのほうがはけるのが早く、日本料理ばかりが不人気で残っていくのは、現地在住の日本人にとっては逆におあつらえだった。彼らにとって、今もしこのチャンスを逃したら、この次に日本食にありつけるのが、いつまた何処でのことか分からない。皆ながこぞって寿司や天ぷらにかぶりついているのを横目に、僕は青っぽい花柄の制服を着た女学生たちと、冗談まじりの嘯いた会話を楽しんでいた。彼女たちはその日の昼間、自分たちの学校にフェリーへの招待の話が来たので連れだってやってきたのらしかった。
サモア人は「嘘」が本当に好きな人たちだ。アルコールの酔いもまわり、だんだんと僕の口からもあーだこーだとサモア語の卑猥なエッチ語が出はじめ(その言葉はすべてホームスティの時に若者やちっちゃい女の子たちが教えてくれたものだった)、それが彼女たちを大喜びさせた。
「あなた、恋人いるの?いないのなら、この子なんかはどう?」
「駄目よ、この子がいいわ、ねぇ、可愛いでしょう。」
「あぁ、君と寝てみたいよ。」
僕もつい調子に乗る。それが彼女たちの爆笑をかうネタとなる。すべてのやりとりが「嘘」だと分かっているから、ねちっこくない。かえって爽快だ。
「ウァーッヒャヒャヒャ。」
歓声をあげると皆な口々に彼らの常套句を言う。
──「サモア語上手ね。」・・・・・・
「あなたがたJコープの活動なんていうのも大変なのでしょうな。外国だから言葉も通じないし、食べものだって口に合わない。」
「いえ、とんでもない。この国ではたいがいの所では英語が通じますし、食料はもちろんビールにだって困りませんよ。それよりも震災のボランティアの方々には頭が下がります。この間だって話をしていたんですよ、『こんな訳の分からん国に役に立つかどうかも分からないボランティアに来ているくらいだったら、我々も今すぐ日本に帰って神戸のボランティアをするのが先ちがいますか』ってね。全くですよ。」
「ほう、それはまたどういうことでしょう。」
さっきから西海大の白髪クルーと、年配のJコープ部隊員の立ち話がずっと続いていた。
その時だった。
「すんごいじゃないですか、藤井さん。」と声をかけて来た彼女、その人が山本夏央理だった。やや長めの髪はパーマをかけて光沢を帯び、小さな体を細い腰まわりがさらに強調していた。ドレスの袖からは、子供っぽい腕が、清楚に露わになっていた。
「彼女たち、おお受けでしたよ。」
「彼女たち?」
「さっき藤井さんと話をしていた女の子たち、実はあたしの学校の学生なんですよ。」
──僕はあの青っぽい制服の女学生の一群のことを言っているのだなと思った。
「今度、是非ウチの学校に遊びにきて、またサモア語で彼女たちを笑かしてくださいよ。」
「サモア語といっても、俺のは憶えたてだし、全然たいしたことないんですけど。」
「またまたぁ、もう、ペラペラだったじゃないですか。」
「いやぁ。」
「きっとまたウチの女学生たちにも受けると思いますから、今度是非。」
──これは誘いなのだろうか。それとも修辞的な挨拶に過ぎないのか。どっちにしても、これ以上に印象的な文句は無いくらいの魅力的な言い回しで、夏央理は僕に介入しはじめた。
甲板の中央では、余興のわんこそば大会が始まっていた。七人の若いサモア人女性が一心不乱に食べほしたおわんを目の前のテーブルにちゃんと重ねていくところを見ると、事前に西海大学のクルーが下手くそな英語でわんこそばのルールを説明したことも、まんざらではなく、ちゃんと意味が通じていたようだ。勝負は「どうやってたくさん食べられるか」ではなく、「どうやってハシを上手く使いこなせるか」に左右された。実際、優勝した女学生はハシの使い方の要領の良さが際だった。彼女は喝采を浴び、賞品の日本製クォーツ時計を贈呈されるとき、戸惑いの顔つきを見せた。
「立って!」僕が彼女にそう叫んだ。
「立って!」、「立って!」──ほうぼうから僕に合わせて優勝した彼女に向けてかけ声がかかる。女は立ちあがり、慣れないつくり笑顔で時計を受けとった。あらためて拍手と、冷やかしの喚声があがる。女のまわりにはその友だちが群がり、たった今贈与された戦利品の品定めが始まった。
「昼間、わたしは町の中をぐるっと回ってみたんですがね。いやぁ、途上国とはいっても子供たちは実にいい笑顔をするんですね。」
両腕を組んだ老クルーが感心するように語った。
「そうですよ、全くその通りです。あのですね、僕はいつでも日本の援助の意義について考えてしまうんですよ。つまりODA(政府開発援助)は本当にサモアに貢献しているのかってね。この国は確かに貧乏かも知れない。でも今おっしゃったと通り、そのかわりこの国の人たちは素朴で人間的な笑い方をするんです。この笑いはとっくの昔に日本人が忘れてしまったもののような気がします。」
片方の部隊員が答える・・・・・・彼は奥さんはもちろんのこと、三人の子供も日本に残したままサモアに来ている。
たまたま息の合いすぎた、この二人の会話は船上で永遠に続きそうだった。
セレモニィの終わりは盆踊りでしめくくられた。最後は皆なで陸の上に会場を移し、船が接岸するすぐ横の、港の広場で『東京音頭』が流れた。ゲストのサモア人たちは見よう見まねで踊りの輪に参加した。手拍子で調子をとるとき、一拍めに手を叩く日本人の習慣は、サモア人のそれと一致したので、彼らも即席の盆踊りを身につけたようだった。
ところで僕たちJコープのメンバーは、盆踊りが始まった時点から早々と引きあげ、前園コーディネータの引率するランド・クルーザの中で徐々に待機の頭数をふくらませた。
僕自身も早めに引きこもった。自動車の窓から窺える日本人とサモア人の踊り(しかも日本人は皆浴衣を着ていた!)ときたら、これほど滑稽なものはなかった。
夏央理と僕のほか、何人かは同じ場所、つまりランド・クルーザの後部座席よりもさらに後ろ、荷物運搬用のスペースで、ひたすら盆踊りの早く終わることを期待した。他の何人かは、中々引きあげてこない部隊員たちを呼びに行った。
「それにしても藤井さんのそのサモア語はいつ?ホームスティの時に憶えたんかい?」
どぎつい四国弁丸出しの部隊員が唐突にきいてきた。
「はい、まぁ。でもまだまだ大したことはありません。」
「さよか、しかしそういう謙遜を言うところがまた憎いの。」
夏央理は僕とその人との会話に割りこんで、
「そうですよ。今度はウチの学校であの女学生たちを喜ばせてくださいよ。」
とさっきの甲板の上での言葉を念を押すように繰りかえした。
僕のほうは酔いがまわってか、さすがにおぼろげにつくり笑いでこれに答えるしかなかった。しかし、その日の僕は二度までも夏央理の誘惑を聞いたのだった。一度目は甲板の上で。二度目はランド・クルーザ車内の荷物用置き場で・・・・・・
──────────
──この島の宵はトロピカルな熱風を浴びて更ける、落日の軌跡だ。特に今は雨季に入ったばかりで、湿気がむんと肌ににじむ汗を狂乱させる。
サモアは南緯十七度、日付変更線のすぐ横に位置する世界の西のはての島国だ。人口は二十万人に満たないで、そのほとんどが1.サヴァイイ島と2.ウポル島に住んでいる。この二つの島がメインで、あとは周囲五キロ程度の島が二つ、ぽっこりとこの両島に挟まれて存在するだけだ。
1.サヴァイイ島は南洋の民族・ポリネシア人(サモア人もこれに属する)の故郷の島として謳われる「ハワイキ」の語源であるとも言われている。まるでダイアモンドのような形をしたこの島を一周すれば二百キロ以上あって、島の中心にはサモア最高峰のシリシリ山がある。この山は二千メートル級の休火山だ。
サモア人から言わせると、サヴァイイ島にこそいとおしいサモアが現存する。村々には家ごとに家長が居て、村の決め事はすべて家長たちの会議で下される。男は腰布一つで逞しい胸を露出させ、女の水浴びは、またこの腰布を胸の上から巻かれた状態で成される。
宗教は十割がキリスト教だが、このキリスト教は西洋人がぞくぞくとサモアを訪れた十九世紀以降にもたらされたものだ。それ以前は他のポリネシアの島々と同様、食人主義と刺青の習慣とをかかえていた。なお、食人主義はキリスト教の伝来とともに絶えたが、刺青の伝統はいまだに残っている。
日曜日、教会のミサのあとのご馳走はポリネシアに昔から伝わる石焼き料理だ。これは、主食である熟す前のバナナ、パンの実、タームー、タロ芋と、副食である鶏肉、魚、豚肉を火のように焼けた石と、バナナの葉っぱとともに土の上にくべる調理法で、彼らはこのご馳走のことを「トッオナッイ」と呼ぶ。
「パルサミ」はまたこの「トッオナッイ」の目玉の一つだ。これはタロ芋の葉を巻いて小さな容器状にしたものにココナッツ・ミルクを注ぎ、さらにそれをパンの木の葉で包んで覆ったものを石焼きしたもので、えも言われない甘辛さとまったりとした官能的な味わいを与えてくれる。
サモア式の家は実に独特で、他のどのポリネシア地域でも類いを見ない。それは基礎と柱と屋根のみで構成されたシンプルな造りで、つまりは壁というものを所有しない、羞恥という面で見ればこれほどプライバシーの欠落したものはない、開けっぴろげで無防備なスタイルの家だった。道端や車の往来からは、家の中は丸見えだ。
1.サヴァイイ島と約十七キロ隔てた東側に位置するのがこの国の首都アピアを有する2.ウポル島だ。なお、この両島を結ぶ海上に浮かぶのが前述の小島であるマノノ島(周囲約五キロ)とアポリマ島(周囲約三キロ)だった。
2.ウポル島は首都をかかえていることも手伝ってか、サヴァイイ島と比べると多少複雑になっている。──ここには腰布と刺青と裸足も存在するけど、そこにジーンズとTシャツとスニーカーも混在する。石焼き料理もあるけど、フライドチキンやカレーピラフも食べられている。サモア風の家もあれば、西洋風の壁のある家(ファレ・パーランギ)も、そして近代的な鉄筋コンクリートのビルも並立する。天の恵みである椰子の実を幹によじ登ってもぎ採ることもできるけど、市場でそれを買うこともできる。こうした天然の食材の無計画的(裏を返せば楽天的)摂取と貨幣経済の横行との同居は、1.サヴァイイ島でも見られる現象だったけど、2.ウポル島においてはよりその趣向が顕著だった。
そもそもどうして僕はこんな熱帯の島に来ているのだろう・・・・・・。僕は今、Jコープのメンバーの一人なのだ。Jコープ。正式には『日本国際協力部隊』と言う。これは日本政府の直下団体であるJICO・国際協力組織団(Japan
International Cooperation Organization)が発展途上国だけを対象に日本の若い人たちをボランティアとして派遣するもので、建て前は技術協力を目的とし、その技術分野(「職種」と言う)は、医療、土木建築、農業水産、教育文化と、多岐にわたる。
僕の担当職種は音楽だった。分野でいうと「教育文化」に属する。
子供の頃はずっと漫画家になりたかった。大人たちが思春期と呼ぶところの、「幼い」と表現するには余りにも青い時期の学校の僕の教科書やノートの隅っこには、必ず「パラパラマンガ」と称した手書きのマンガがあった。これは一頁ごとにちょっとずつずらせた絵を描いていくと、まるで「動画」のようにその絵が生き生きと変化する映像となるもので、時には、止まっている絵に息を吹きこむために、百ページ以上にもなる「大作」を描いた。もちろん、長くうざったい授業時間を費やして、だ。「パラパラマンガ」を描いていることが僕の創造欲を満足させる貴重な時間だった。そっけない級友などは、僕を「ヒマ人」と読んで嘲笑った。だけど、この嘲笑は実はとっぴようしもないことに汗をかくことのできる人間に対する羨望から来る、とても下手な賞賛のための表現方法だった。中学になると、学校からもらった国語や歴史の教科書が厚いのを見て、僕は胸を躍らせた。「大作」がたくさん描けると思ったからだ。そして僕はことごとくその教科書たちを「パラパラマンガ」で埋めていった。
しかし、中学もあと一年を残すころとなると、ポップスが漫画に替わって僕をトキメかせるジャンルになった。漫画は視覚で僕に刺激をくれたけど、ポップスは僕の肌に直接うったえて来た。そこにはまるであいだに空気の振動など介していないようだった。ポップスは時には僕に鳥肌をたたせた。僕はだんだんと「パラパラマンガ」を描かなくなって、その代償としての快楽をほとんど作曲というものにつぎ込むようになった。
高校に入り、両親にエレキ・ギターを買ってもらってからは、本格的に自作曲を量産した。
Jコープの選考試験を受けた時点で、僕の音楽暦はすでに八年を越していた。卒業した大学は普通科で、音大ではなかったが、その間に色々なバンドも経験して、年季が技量をカヴァーするようになっていた。
その辺がかわれたのだろうか、技術的には素人の域を越えていなかったものの、ともかくも、僕は南の島へJコープとして音楽を教えに、サモアの教育文化に寄与するために、派遣されることになった。
七十七日間の事前研修を通過したあと、僕を含めた同期・同派遣国の仲間たち五人で、成田空港を飛びたち、途中ニュージーランドに立ちよって在オークランドの日本大使に謁見してから、最終的に目的地・サモアに辿りついた。到着は深夜だったために、僕らの乗った飛行機は真っ暗闇の中、飛行場のライトだけを頼りにサモアの国際空港である〈城壁〉空港に到着した。
空港のゲートを抜けて外に出ると、突然先輩部隊員たちの歓迎を受け、首飾りを頭の上から儀式的に掛けられたけど、僕にとっては背中にねっとりと、Yシャツと肌とを気持ち悪いほどにくっつける、ネバネバした汗のほうに気が行っていて、詳しいことまでは記憶していなかった。彼女・山本夏央理も確実にそこに居たに違いないのに!
汗は、久びさに感じる熱帯の、あの蒸し蒸しした違和感に体が呼応した証拠だった。そして僕は確かに実感した──「とうとう来てしまった、この南の島に。」
道端を照らす電灯などは当然存在しないために、僕らの乗った、JICOの専属車はその車自身の放つヘッドライトの光だけで空港から首都アピアまでの道のりを走る。暗がりの中でぽつり、ぽつりと、電気の引いてある家だけが、中で談笑しているサモア人たちの姿を浮きぼりにさせる。彼らはそれぞれ足を伸ばしたり、寝そべったり、自由な格好をしながら就寝前のひとときを過ごしていた──「あぁ、家の中身が見える。あるのは、床と屋根を結ぶ柱だけだ・・・・・・──あぁ、腰布を纏っている。これが真しく話に聞くイエ・ラヴァラヴァというものだ。」
僕らの騎乗する車の行く手には、すぐ終わりそうでいていつまでも続く暗澹があった。それはさも、サモアに出発する前の僕に付きまとう、障害を暗喩しているようだった。
その障害とは、──僕には日本でつき合っていた女が居たということだ。いや、僕はつき合っているとすら思っていなかった。つき合っていると思っていたのは彼女のほうだったに違いない。その女は、深瀬真実と言った。身長がある女で、僕よりもはっきりと五センチは背が高かった。そしてそれに負けないくらいに軀が痩せていた。
僕は真実を「僕のカノジョ」とは呼びたくはなかった。だからいつも「フカセ」と呼び捨てにしていたほどだ。実際、僕が彼女を抱くとき、僕をよび起こす記憶は、小ちゃいころ、母のお腹にしがみついたときの、仄かな淡い甘美な匂い、柔らかな、弾力のある優美な肉体。迷子になった子供が人ごみの中からやっとのこと自分の母親を見いだし、歓喜にはしゃいでそのまま母に抱きつくような・・・子供にとっては母親のお腹こそが、抱擁できるすべての世界なのだ。僕は真実の臍を見ながら母のお腹のイメージとダブらせた・・・悦楽の喚起、それがたった今得た絶頂の快楽とどう違うと言えるだろうか。恍惚という名の麻薬は、しかし本物の麻薬とは違って、回を重ねるごとに量を増す必要もなく、ただ惰性にまかせて飽きもしないで繰りかえすだけだ。セックスに飽和を与えないものは摂理なのだろうか。ただその理由だけで、セックスに繰りかえしの力学を、実証させてしまうのだろうか。
真実との間柄は、破綻しながら進行していた。彼女は僕のことを「お兄さん」と呼んでいた。僕は彼女とのキスを自分のペットにするようなキスとまるで同然のように考えていた。どうしてそれが、自分の妹にするようなキスほど高尚であったろう。一人っ子だった真実は、僕のことを「カレシ」とは言わないで、さも自分の兄であるように位置づけることによって、僕が彼女自身にとって特別な存在であることをうったえたかったのだろうか。
「結婚しましょうよ。」──僕がサモア行きを打ちあけたとき、彼女は僕にこう言った。最初から僕にはその気が全くない。
「駄目だよ。」
「なぜ?なんで駄目なの。」
──僕が彼女のプロポーズに接した日から、あれこれと言葉を濁しながら軽く流していると、僕にとっては最も恐ろしいこの詰問が弓矢のように飛んできた・・・そう、最後のデェトとなった下北沢で、その時の真実は焦燥感を、いかにもたぎらせている様子がありありと窺えた。
──沈黙・・・・・・これこそがその時は僕の味方だろうと思った。彼女もそれに合わせるようにこのしじまを守った。その呼吸が、何よりも真実から僕への愛情の一端を垣間見るきっかけにもなった。僕は少し優越感を覚えた。僕の目の前に立ちはだかる真実が、同時に目の前でひれ伏しているようにも見えたからだ。しかし二人の沈黙はそれほど長くは続かなかった。
真実は無言のまま、意を決するように、僕に背中を向けると、堂々と下北沢のネオンの中に消えていった。胸を張っ
た後姿が、タンクトップからむき出しになった白い両肩が(それは夏の終わりのことだったので)、きめ細やかな紺色のジーンズと、その中身の長い脚を誇らしげになびかせながら、下北沢の、渦巻く人並みの、ぼやけた繁みの中へと姿を消していった。
夏が過ぎ、Jコープのメンバーとなるための事前研修も終え、サモアに出発する日が近づくにつれ、僕はだんだんと後悔し始めていた。自分は本当は真実を愛していたのではないか。そして、あの時、下北沢の路上で彼女の後姿に向かってただ一言、「フカセ!」と呼びかけて引きとめることができたなら、真の意味で僕らは結ばれていたのではないか。サモアは、確かに新天地、新しい、全く別の、輝く土地としては僕を魅了した。だけど本当にこれで良かったんだろうか。
孤独という油がいっそうこの認めたくもない後悔の炎を膨張させる。寂寥とした十二月の東京の空を見あげながら、僕はひたすら虚無な気持ちに陥った。あと数日もしたら、今までに見たこともない熱帯の島に足を踏みおろしているんだ。その時までに僕は僕の心と体を再び接着することができるのだろうか。今はまるで魂が真実という墓に葬られてしまったかのようで、飛行機がサモアへ運んでくれるのは、僕の抜け殻だけのような気がする。
しかし・・・・・・カエンジュの鮮やかな紅い色の花は、僕の魂をいっきに肉体へと帰還させた。恐らく、カルメンの唇よりも赤いその花びらが、真実の体に巣をくっていた、病気じみた僕の精神をとむらってくれた。
サモアに着いて二日目の朝、前の夜の〈城壁〉空港から首都アピアに向かうときの闇夜が描いた、真実の想い出をすべて払拭するかのような、それはとても素晴らしい朝だった。
空気が生臭いとさえ思う湿気の中で、僕は目ざめた。そこは〈語りべ〉ホテルという、サモアでも一、二位を争う豪華なホテル(一泊がシングルルームで八十USドルもする)の一室だった。おしゃれなホテル用の家具、たとえば電気スタンド付きのテーブルや物書き用のデスクやクローゼット、テレビなどが南洋の朝のじめっとした光に明るさと陰影を映しだしていた。外からはポーン、ポーン、とラケットがボールを突く音が聞こえる。きっと誰かがホテル付きのテニスコートでテニスをしているに違いなかった(後になってから分かったことだけど、この時はJコープのテニスサークルの定期練習日で、要はその人たちがプレイしていたのだった)。
僕はその後、朝の散歩に出かけたのだけれど、そこでは想像を絶する刺激的な蒸し暑さを味わった。僕の肌などは敏感に反応してしまい、まるでアレルギー患者のそれのように赤くただれてしまうのではないかと心配した。暑さを避けるために木陰に入ると、今度は幾十もの蚊の来襲が待ちうけていた。あわててまた日なたに出て額に滲む汗をぬぐおうとしたとき、たった今まで居たばかりのその木を見あげると、それはとても不思議な木だった。幹や枝の形状は普通の広葉樹っぽく、やや灰色がかった褐色をしているけど、深緑色した葉っぱは、幅が二十〜三十センチもある、まるでカッパの掌のような形で、何よりも一番驚くのは、その木の実の形だった。それは淡い黄緑色をしていて、ちょうど赤ちゃんの顔くらいの大きさで、表面にはシワのようにキメ細かい文様が網の目のように施されているけど、皮は決して硬くはなく、むしろ柔らかそうだった。
僕にはピンときていた。「これが文献で読んだ、あのパンの木というヤツだ」この実のことをサモア人は「ウル」と呼んで、彼らの主食の一つなんだ。──僕たちは事前研修のときに、赴任する国の自然や文化については勉強していた。「ウル」については図書館のサモア関係の資料で概念的には分かっていたけど、その時は実物へのあこがれのほうが強かった。その「ウル」を今、こうして目の前にしてみると、奇想天外で独特な外見が、そのまま脳にインプットされてしまい、全く不自然ではないものとして、そこに存在するのだった。
その日に遅い朝ごはんを同期の細田部隊員と男同士で済ませたあと、ホテルのフロントでは堂本、小沢、古屋の女性同期部隊員とおち合い、僕たちの監督権がある前園ゆり子コーディネータのエスコートのもと、JICOの専用車でアピアの町中を案内してもらった。これは現地の大臣や、配属先への挨拶も兼ねていて、照りつける雨季の太陽になじむという面では、それなりに都合がよかった。
さて、前述のカエンジュの花は突然僕の目の前に飛びこんできた。それはいよいよ僕の仕事先となるはずの、音楽学校へと向かう途中の道端でだった。
走行中の車から見えたカエンジュは、たとえようもない深い新緑の葉のあい間を、連ねるように赤く淫らな花びらを咲きほこらせていた。余りにも艶やかなその花の赤を、僕は「これこそ南洋のハイビスカスの色に違いない」と早とちりした。
「あの花は何と言うのですか。」
僕は乗っていた助手席から運転していた前園コーディネータに尋ねた。
「あれはカエンジュ。俗に『タマネギの木』とも呼ぶのかしら。一年でも今がちょうど花を咲かせる時期なんです。」
簡潔だけど、的確この上ない説明を受けてからもう一度カエンジュの木を見あげると、高さは、そう、十メートルくらいだろうか。車の速度とともに通りすぎてもまだ後ろをふり返って、僕はあらためてカエンジュを眺めていた。
──「この花は俺をサモアに迎えいれてくれてるんだ」・・・ふとそう思った瞬間、今まで分断されていたはずの僕の魂が、僕の肉体とともに今やサモアにあることを、はっきりと認識した。
その時までの僕は、たとえ空港で飛行機のタラップを降りても、〈語りべ〉ホテルの一室のボケた朝の採光を瞼の裏に感じても、パンの木の見慣れない木立を汗をぬぐいながら見あげてみても、「体だけがここにあるのであって、心だけは日本に残してきた」という悔悟に支配されていた。
ところがカエンジュは、「俺はサモアに居る、ここに居るんだ」という事実を感じさせた。落ちこんだ波長の僕の魂を、負極から正極へと転換させた。僕には、これから始まる二年間の任期が少し楽しみに思えてきた。
カエンジュは、英語の「フレイム・ツリー」をただ約しただけのものだったけど、アフリカ産の、いわゆる火焔木とは種が違ってオーストラリアを原産としたものだった。日本名を「豪州青桐(学名Brachychiton acerifolium)」と言って、「南洋サクラ」の愛称でも呼ばれているものだ。
その二日後、僕を含めた同期の五人は〈語りべ〉ホテルからJICO事務所のある〈最後の水〉まで移転した。移転といっても大袈裟なものではない。同じアピア市内での引越しだった。アピアは、日本人から見ると、少し大きめの村程度の規模でしかない。
JICOのアピア事務所は〈語りべ〉ホテルから約一キロ半ほど東にある、アピアの湾岸とは海岸道路をはさんだ、三階建ての白いビルで、そこの二階にJコープのドミトリィがある。ここはJコープのメンバーたちのたまり場だ。二回の奥にある談話室では、日本から届いた最新映像などをヴィデオで見ることもできるし、メンバー宛ての手紙は、すべてJICO事務所止めにしてあるので、自分宛ての書簡や小包を確認するためには、どうしてもこの事務所を利用しなければならない。
このドミトリィは、裏口から階段を登って北側に折れれば、廊下の左右にそれぞれ男用、女用の寝室になっていた。女用の部屋は六畳ほどの広さに二段ベッドがL字型に二台つながっている。男用の部屋の広さは十畳余りあって、こっちのほうには二段ベッド三台が間をおいて連なっていた。
いずれにしても、僕たちはこの小きたないドミトリィ生活を数日間は強いられることになった。なにしろこの寝室ときたら、四六時中蚊取り線香の匂いがぷんぷんとたちこめ、無造作に吊られた洗濯物用の干し掛けヒモには、所有者の知れない洗濯物が無作為に掛けられ(その中には柔道着やダイビング用のウェットスーツの類いまであった!)、よせばいいのにせっかくワックスがかけられた床の上には煙草の灰さえ散らばっていた。
朝から夕方までは、未知の言葉であるサモア語を現地の先生から学んで、夜には昼のうちにマーケットで買いだめをしていた食材で自炊をする。幸運にも同期の部隊員である堂本やよいは「家政」を職種としていたので、彼女のこしらえた真新しい南国の果物や野菜をあしらえた料理は、新鮮な味覚を僕たちに与え、よりいっそうサモアにやって来たという意識のピラミッドを積みあげるのだった。
いくらかサモア語を習得した僕たちは、それぞれのホームスティ先へと散った。これは現地の事前研修の最終目的であって、ホームスティ先のファミリーから、僕らは最大の文化的収穫を得るのだった。サモア人とともに寝起きをし、水浴びをし、その食生活になじみ、彼らと現地の言葉で表現をかわすこと。──これによって本物の「サモアのやり方」を身につける。
僕のホームスティ先はマナセという名の村にあった。マナセは、1.サヴァイイ島の北端にあって、首都からはバスとフェリーで行くのに半日はかかった。このマナセにこそ南の島の楽園があった!村のはずれには、ポリネシア風のリゾートホテルであるその名も『ロビンソン』があった。この『ロビンソン』のお陰で、僕のスティは真しく享楽の一語に尽きた!
週末ともなると、『ロビンソン』で催されるダンス大会の話でマナセの村じゅうが色めきたった。ダンスのある夜には生バンドの演奏家たちがやって来て、一晩中ダンスの華が繰りひろげられる。さてサモア人ほどダンス好きな人たちが他に居るだろうか。彼らときたら、ダンスの時だけは夫婦や恋人の境がなく、自由なパートナァを見つけては踊りの歓喜に耽る。そんな夜には、こんな僕でさえも踊りのパートナァが居た。
サモア人の彼女の名を〈贈り物〉といった。メアアロファは僕の純潔な踊りのパートナァだった。僕の相手はいつも彼女と決まっていたけど、メアアロファは、それ以上に大人びて僕を魅了するでもなく、それ以下に僕をあしらうこともなかった。・・・・・・こうしてマナセの夜は、まるで熱帯の熱情を比喩するかのように夢のようにうつろった。
空、──ランギ。島、──モトゥ。太陽、──ラー。月、──マシナ。風、──マタンギ・・・・・・ホームスティの期間中、昼間はただサモア語の単語を憶えることだけに没頭した。そして海・・・午餐のあとのひと泳ぎ。マナセのホームスティ先の裏の海、その奇麗さ。他にたとえようがない海の青さ。透きとおる浅瀬に寝転ぶ椰子の木の倒木でさえも、自然がわざとらしく描いた「脚色」だった。僕はそれらを噛みしめながら裏庭へと向かって歩く。憧れの海はいつでも、それをおもい焦がれていれば裏庭の向こうに存在した。その海は、かけがえのない少年の頃からの夢でもあった。
フェレニとコレティは初めてできた、ちっちゃなサモア人の友だちだ。六才と四才の兄と妹。スティ先の子供で、フェレニは「フレンド」がサモア語風に発音が変化したもの。コレティは「コレクト(集める)」がやはり同じようにサモア人の名前になったもの。二人は最初の朝、えらくかしこまっていた。突然客人として現れた〈外人さん〉=僕のことを好奇心いっぱいで五メートルほど離れたサモア式家の外側から、内側で目を覚ましたばかりの僕のことを観察していた。小雨まじりの中を、着ているものを湿らせてしゃがみ込んだ兄妹が、ベッドから半身を起こした僕の姿をじいっと眺めているのを見て、僕は「来て!」と声をかけた。思えばそれがサモア人に対して喋った、最初のまともなサモア語だった。
幼い兄と妹は、それを聞くとすぐに反応して家の中へと飛びのってから近よってきた。その時から僕は彼らのサッカーの、クリケットの、バレーボールの、空手ごっこの、そして午後の海水浴の遊び相手となった。
サモアに来て最初のクリスマスも、僕はスティ先で経験した。「メリークリスマス!」十二月の二十五日ともなると、国民の十割がキリスト教徒であるこの国の人たちは、ふだんとは違う挨拶をかわし合う。そしてクリスマスのミサ直後
に出される食事は、一年を通じて最も貴重な石焼き料理だった。鶏肉のもも焼き、焼ビーフン、パンの木、バナナ、そして一番喜ばれるタロ芋。
僕はクリスマスの贅沢を無条件でうけ入れた。ファミリーで出される伝統のサモア料理の風味こそ本物だと思い、椰子の葉で編まれたお盆の上に置かれたこれらの〈ご馳走〉をむさぼり食べた。
『清しこの夜』『ウィ・ウィッシュ・ユア・メリー・クリスマス』『もろびとこぞりて』『神の御子は(O Come O Ye Faithful)』『・・・・・・』
数知れないクリスマス・キャロルが、この南海の孤島のちっぽけな村の中でも響いた。彼らときたら、昼夜かまわずヴォリュームをフルアップでご自慢のステレオをわめき鳴かせる。この調子は、クリスマス後新年明けても、まだしばらくは続く。クリスマスは単に聖なる御子が誕生した記念日でしかない。赤ん坊が生まれたその日だけしか我々は祝わないものだろうか。いや、それから数日のあいだは、誕生の喜びの余韻に浸るものなのではないか。その日、つまり二十五日だけしか祝わない、というのはいかがなものだろう。サモア人は、クリスマスの後も「救いの御子」がこの地球上に現れたことを「おめでとう」と言いあうのだった。
ホームスティの期限である二週間が過ぎた。僕は再びアピアに戻らなければならなかった。〈贈り物〉はこのとき泣いていた。彼女は僕のつきそい役であり、面倒見であり、良きサモア語の話し相手だった。昼間は食事中の僕にまとわりつく蝿の追い払い役であって、週末のダンス大会では僕の踊り相手だった。
別れの時の高ぶる感情をこれほど純粋に露わにできる、そ-れは素晴らしいことであって、僕はメアアロファの涙を美しいと思った。文明は僕たちを不感症という病気で犯している。悲しみをかみ殺すことができること、これこそ文明がもたらした美徳であって、それがいかに人間の本質=悲しいことを素直に悲しいこととして受けいれ、自然な行為としての涙を流すことを何と妨げていることか。──これは文明の罪だ。僕は今その罪を背中にしょってしまっている。なぜなら、メアアロファとの別れをちっとも悲しいこととは思えなかったからだ。
「カズヤ、また戻ってくるの?」
奥二重の輝く目もとから涙を流す彼女は僕の名を呼んでこうきいた。
「そうさ、戻ってくるよ。」
僕はそう答えた。
「いつ?」
「多分、復活祭の時に。」
キリスト教の復活祭というものを、ぼくはそういう時になって初めて知った。それが四月にやって来るということも。新年を明けたばっかりの今からは、それまでには三ヶ月ばかりあった。
後で分かったことだけど、メアアロファは僕のファミリーの家長の姪であって、ゲストとしてやってくる僕のためにわざわざあてられた、「お手伝い」だった。僕がアピアに帰ると同時に彼女は実家へと戻った。
僕は朝一番の、夜明けまでにはほど遠い、波止場行きのバスに乗ってホームスティをあとにした。マナセから港のある〈水の吹き出る所〉村までは約二時間を要した。途中〈男岬〉の溶岩台地を眺めながらうっすらと赤らむ朝日を見ていた。〈水の吹き出る所〉村では、港の船着場の建物の中で、2.ウポル島へと連れていってくれるフェリーの到着まで待機した。建物は煩雑なものの、モルタルで出来たかなり立派なつくりだった。クリーム色と水色の安っぽいペンキで塗りたくられた十五アールの二階建て・・・・・・日本の援助金で建てられたもので、混んでいる時などは、数百人も収容できそうだった。
午前六時、レディサモア二世号が鈍いエンジン音をたてて重々しく港に接岸した。この船は、一日に三度1.サヴァイイ島と2.ウポル島とを行き来する。片道の所要時間は海流の関係で、往路と復路とでは十分ほどの差が出る。2.ウポル島→1.サヴァイイ島は追い潮のために六十五分で済むけれど、反対の1.サヴァイイ島→2.ウポル島は向かい潮で七十五分もかかってしまう。船のキャパは二百四十人くらいだろう。八百トン級のこの船・レディサモア二世もまた、船着場の建物と同じくODA(政府開発援助)すなわち日本からの施しだ。ポンコツと言われながら、この船はサモアにとっては一つの賜物だった。
その日の朝の海はいつになく穏やかで、前々から脅かされていたほどには向かい潮で船は揺れなかった。それでも甲板の上で前夜の短かった睡眠時間を埋めようと横になった僕の眠りを、船の揺れが妨げた。甲板では横になったサモア人が大勢いたけど、彼らも船の上での熟睡までには相当てこずっていた。
午前八時、2.ウポル島側の波止場〈最後の土地〉へと辿りついた。湾岸に隣接したバス停からは、船の到着時刻に合わせて首都アピア行きのバスが幾重にも立ちならぶ。そのうちの一台に乗って一路アピアへと舞いもどる。そのためのバスの所要時間は一時間強だった。
こうして朝四時、ホームスティ先を出発した僕は午前十時過ぎにはJコープのドミトリィに着いていた。
僕は同期の連中と、ホームスティというサモアに来て味わう最初のカルチャーショックまたは文化的融和について話しあった。僕の同期は五人だったけど、それぞれが全く別に二つの島に渡ってまんべんなく分配され、各々のスティ先へと向かったのだった。それは一つの試練だったと言ってもいい。その時のサモアの第一印象は結果的にその後の現地生活を左右してしまう。僕たちはホームスティの時点で「サモアという国が何であるか、サモア人というのはどういった人たちなのか」を観念づけなければならない。その使命はこうしてサモアに来たとたんに言いわたされるのだった。
僕がまず話をしたのは、サモア国立銀行でシステム・エンジニアをやることになっていた、小沢基子部隊員とだった。彼女は僕の居た1.サヴァイイ島の、島の反対側、つまり南岸沿いの村にスティしたのだった。基子の話で興味を引いたのは「潮吹き穴」のことだった。──1.サヴァイイ島の〈袋〉という村には、海岸の岩浜をえぐった海の波が、岩に出来た穴から威勢よく海水を噴出する「潮吹き穴」がある、とのことだった。
「日本人?たくさん来たよ。山本さんもその一人。一緒にブロウホールを見にいったんだ。山本さんなんか、噴き出た潮で帽子を飛ばされちゃって大変だったんだよ。だってすごい時なんか、しぶきが十メートルも噴きだすの。着ている服なんかもびしょ濡れ。」
僕は「山本さんて誰だろうか」・・・・・・と短かすぎるサモアでの記憶を巡らせたけど、ついに山本さんという人の名を、はっきりと誰のことであるかまで認識するに至らなかった。この時僕が将来彼女のことを愛惜することになるなんて、当の僕自身もまったく予期できないことだった。
そして次に若い養護婦の古屋ひとみ部隊員とスティでの想い出を語りあった。僕は『ロビンソン』ホテルで見た、サモアの踊り、特に男たちの踊りの素晴らしさについて説明した。
「野郎たちの踊りを観たんだよ。良かったなぁ。」
「へぇ、どういうの?」
「何か分かんないけど、男たちが皆な体じゅうをビシビシ叩きながら踊るの。太鼓が居てさぁ、皆な太鼓のリズムに合わせてパターン通りに踊るんだよ。同じ動きで。」
「あぁ、そうなんだ。へぇ、どういうのなのかあたしも観てみたいなぁ。」
サモアの踊りは「パテ」という打楽器の細かいリズムに合わせてパターン通りに踊るのが主流で、重要なのはぴったりと動きを複数でそろえることだった。たまに女の独舞が加味され、その他に女たちだけの踊り、男たちだけの踊りも演出される。
中でも最も男らしいサモアの踊りが『手拍子を合わせる』と呼ばれるところの、全身を平手でピシパシ叩きながら躍動する「モスキート・ダンス」だ。掌ではもちろん、肩や脇や足の裏までも平手打ちをつづけながら進行するサモア独特のこの踊りを初めて見た大航海時代の西洋人たちはこれを「モスキート・ダンス」と呼んだ。
サモア人が踊るとき、彼らが大切にしていることは「笑顔」だった。
「笑え、笑え!」・・・・・・踊りの間じゅう、そうやってダンサーたちにはやし立てるかけ声が会場を賑わす。
「あの男たちの踊りは是非、俺もいつかやってみたいな。」
それは僕がひとみに語ったひそやかな抱負、いや希望だった。
「そうね、あたしも踊りを覚えてみたい。」
彼女自身もそんな「うわ言」に近い展望を、目の輝きでうったえるのだった。──これから先、任期中の二年間を無駄に過ごさないためにも・・・・・・。
細田部隊員は同期の部隊員だったものの、彼の話となると、少しばかり厄介になる。
ホームスティも終えて、あとは配属先に出勤する初日を待つばかりだったある日、僕は彼と口ゲンカをした。それはとても些細なことが原因だった。僕がドミトリィの汚さに対して不平不満を先輩たちに漏らしたところ、その時の言い草が細田の癪にさわるところになったらしい。「もっとやわらかい口のきき方はないか」──そう彼は非難するのだった。
「ふ、藤井、お前は性格を変えなきゃ駄目だ。そうでないとこっちが気を使ってしょうがない。昨日だってそうだ。俺はどうやって先輩たちの反感をかわないでその場をしのごうか、一苦労したよ。」
「自分は生まれつきこういう性格なんだ。この性格を変えることはできない。」
僕はまっこうから細田の命令をつっぱねた。「性格を変えろ」──この言葉は僕の過去をもまるごと否定していた。なぜなら、今の自分の性格は過去の自分が造りだしたものだからだ。僕は過去を大切にしていた。過去を打ち消すわけには行かなかった。
細田には「押し付けの道徳」があった。彼にとっては、教科書に書いてある通りの生き方が最も正しい人生の歩み方、美学だった。ただ、その美学は彼の心の中だけて運行させておけばよかったのに、彼は彼の美学を他人にまで押しつけた。それはまるで「イエスを信じない?駄目です。イエスを信じなさい」と促すキリスト教信者にも似ていた。
「俺は教科書通りに生きている→だから俺は正しい→皆なも俺の生き方を真似するべきだ→なぜなら俺の生き方は正しいのだから」──この奇異な発想が自分の先導する道へと他人を誘おうとする。絶対無二の自分が造りだした道(もちろんこの道は教科書の筋道にのっとった、正しい道でなくてはならない)へと巻きこむ。それは細田式に言えば他人への「良心」のつもりだった。
僕は教科書というものの産みだした罪というものを考えた。「こうでなけらばならない」と設定することは「それ以外のものはすべて駄目だ」ということを決めつけてしまう。確かに教科書は間違ったことは言っていない。だけど実際には、教科書に載っていること以外にも選択肢はたくさんあるのであって、それが絶対ではないはずだ。
細田はここを誤解していた。ほかの選択肢の存在を正面から認めてはいなかった。いや、時にはそれが尻尾を出して彼の目の前で見え隠れしたこともあっただろう。しかしそれを心にとめようともしなかった。
文明の罪、教科書の罪。文明は我々に豊かさをもたらす良いものだったはずだ。教科書は知識と正しい生き方を与えてくれるたのもしいものだったはずだ。ところが現代ではこの二つが僕たちの生活を犯し、形式主義と特定の価値観への執着を産みだしてしまった。僕らは「人間らしい」生き方を求めて失敗したんじゃないか。だって文明や教科書からはほど遠い所に居るサモア人のほうがよっぽど「人間らしい」姿を僕らに見せつけていたんだから。
マナセ村のホームスティから帰って二週間もたつと、ようやく僕たち、新しくサモアにやって来た部隊員にも住宅が与えられる。僕は当面の間は細田と二人で、政府住居に住むことになった。その住居はJコープのドミトリィから三キロほど南東に位置する〈水を分ける=海側〉という土地にあった。一月の半ば、ちょうど自転車が配給された直後に、僕は細田と、サモアに着いてから二度目の引越しをした。一度目は〈語りべ〉ホテルからドミトリィへ、二度目が今度のドミトリィから〈水を分ける=海側〉へ・・・・・・。
引越しは、前園コーディネータの厄介になった。彼女がピックアップ・トラックを回してくれて、なんとか無事に終わらせた。貸与されたばかりのマウンテンバイクもしっかりと荷台に乗っけていってくれた。
細田との二人暮しは、百平方メートルの平屋と、二百平方メートルを超える庭の中で始まった。その時は、数日前の彼との口ゲンカのしこりはすでに消えていた。ただし、生活環境という意味では、〈水を分ける=海側〉の政府住居は、下の下まで落ちたといってもよかった。仮に〈語りべ〉ホテルからドミトリィへの移転を王様の寝室から召使い部屋への転落に譬えるとしたら、ドミトリィ→政府住居は地上から地下への沈没だった。お湯のシャワーや快適なエアコン、テレビ・新聞・雑誌の視覚的情報の恩恵にはおさらばし、じめじめした薄暗いシャワー室での水浴びで我慢しなければならなくなった。その足元にはよくゴキブリが這いまわっていた。あのげじげじとしたゴキブリ特有のひっかくような脚が僕の足の甲の上を素早くすり抜けると、悲鳴をあげて足をぶらぶらと振り、追いはらうしかなかった。
サモアは湿気が多い。クリスマスを越すと本格的な雨季の到来となる。湿度はゆうに九十パーセントを超える。そうなると、カビ、ホコリ、水道から流れてくる泥水との奮闘になる。カビはアレルギーをひき起こす。ホコリと泥水は傷口や蚊に刺された跡を化膿させる原因になる。衛生的な生活とは言いにくい。サモアの子供たちときたら、蚊に刺されて、そのままそれが膿んでしまって、体じゅうがそんな傷跡でいっぱいだった。そして蝿どもが調子よくその傷口へとたかってはしゃぶりつく。蝿の持つばい菌がまた傷口を毒していく。田舎のほうに限らなくてもサモア人の脚を見ると、必ず蚊に刺され、蝿に犯された夥しい傷跡の密生があった。
〈水を分ける=海側〉にうつり住んでから一週間もたたないある日のこと、細田が「聞いたか、聞いたか?」と興奮しながら職場から帰ってきた。彼はその時、何だか真新しいコピーを手にしていた。
「日本では大変なことになっているよ。ドミトリィにいる先輩たちも関西方面から来ている人たちは、知り合いと電話連絡が全くできないのでやきもきしてる。」
細田は日本で配られた『号外』のコピーをものものしく持ってかえって来た。僕は雑巾を片手に椅子の上に乗って家具の水拭きをしていた。その時は家じゅうのホコリやゴキブリの死骸を廃除するのに精一杯だった。越したばっかりの住居はまるで廃墟のようで、とても人間の住むような環境ではなかったからだ。
『関西地方に大地震襲う!数千人に被害』──号外の見出しにはこう書いてあった。
しかし、そんなことよりも、僕にとっては眼前の処理すべき汚れのほうか一大事だった。それだけではない。
・・・・・・そう、それだけではない。その週は僕がいよいよJコープとしての任務を果たすべき音楽学校の授業が始まったのと、よりによって同じ週だった。
初日、──登校すると校長のティティ・セイウリ・サポル(彼女とは東京で一度顔を合わせていた)に呼びだされ、僕の目の前には半分以上ぶっこわれかけたギターが五本、並べられた。
「これが我が校にある全部のギターよ。あなた、これで何ができる?」そう聞かれてから五本のギターをそれぞれ手にとって検証してみると、本体にヒビが入っている致命的な一本を除いた残りの四本は、修理のほどこしようによっては楽器として音楽を奏でる機能をとり戻せそうだった。ただし、サモアにギターを直す職人などはいない。自分が部品を取りそろえて即席の技術家にならなければならない。
「直してみます。でもそのためにはどうしても必要な部品がいくらかある。楽器屋さんはどこにありますか。」
僕の質問にティティ校長は大き目をぎょろりと天井に向けたあと、もう一度こちらに視線を送って、
「この国に楽器屋はないのよ。ただ、心当たりの店がニ、三軒ほどは・・・・・・。息子のスティーヴに案内させるわ。だから、カズヤ、あなたもこのギターにできる限りのことをして!」
スティーヴは校長の長男で、それからすぐギターの部品が手にはいりそうな店へと車で案内してくれた。
一軒め。それは中国人が経営する中古屋で、主に家電製品ばかりが陳列されている中、店のほんの片隅に数本のエレキ・ギターが飾られているだけだった。しかしここにはお目当ての部品はなかった。必要なのは「ナット」と呼ばれるギターの首にあるほうの弦を支える箇所と、「ブリッジ」と呼ばれる本体側にある弦を支える箇所となる部品だった。
二軒め。こっちのほうが店としてはまともだった。スペースの半分をステレオなどのオーディオ製品で占め、残り半分がスピーカー、アンプ、ミキサーやキーボード、エレキ・ギター、その消耗品である弦やピックまで置いていたけど、やはり「ナット」と「ブリッジ」を取りそろえているほどではなかった。
仕方なくここで僕は決断した。「日本から取りよせよう。信頼の置ける僕の友だちにナットとブリッジは郵送してもらおう・・・・・・」
学校に行ったその初日から、僕は頭をかかえてしまった。楽器屋の存在しない国、そこに音楽の先生として赴任してしまった自分。これから先、部隊員としての任務をまともに果たしていけるのだろうか。
喜び勇んで、ある意味で「誇り」さえ胸に秘めながら南の島へやって来た現実。日本の楽器店でならどこでも置いていそうな部品が手にはいらないという非現実的事実。この矛盾に対して、僕はどうやって心の中を整理するべきだろうか。
皮肉だ。ギターを教えにきたために、僕の活動は壊れたギターを直す職人としてスタートするはめになってしまったのだから・・・・・・
──そんなこんながたてこんだある日の夕方だったので、日本で起こった大災害に対しては、うっすらとは憐れみを覚えながらも、特に叙情的に精神をかき乱すこともなかったし、またそうなる理由も見あたらなかった。この時、もう深瀬真実と日本とは結びつかなかったのだろうか。少なくとも「真実はどうなのだろうか」と彼女の安否を気遣うこともなくなっていた。
映像とは即物的な効果を波及させる、一種の魔物だった。死者の数が日を改めるごとに千人ずつ増えていくニュースを聞いて、さすがに僕も無視ができなくなった。そして僕はついに眺めてしまった。映像というものが産みだす概念の全滅を。アギィグレイス・ホテルのフロント・ロビーで流れた、視覚的魔力。それはニュージーランドから輸入され放送されたニュースの一場面だった。遠い国、平和が繁栄する日本。しかしそのイメージが創りあげていた城はすでにガレキの山となっていた。崩れて倒壊した高速道路のうしろでは余りにも美しい青い空が人間の築きあげたコンクリートのシンボルの瓦解にシニカルな嘲笑を与えていた。
「これが日本なのか!これが俺のあとにして来た日本の、今の姿なのか!」僕は心の中で何度も叫んだ。頬のあたりには引きつりを覚え、それはやがて全身を震撼させるための導火線となった。体じゅうにしみ渡った戦慄をどうすることもできずに、僕は呆然とテレビの前で立ちつくした。唯一の救いは、その時のフロント・ロビーには僕以外誰も居なかった、ということだけだ。
一月の二十五日のこと、昼過ぎごろに前園コーディネータから音楽学校に電話があって、「本日夕刻五時より、アピア湾に接岸中の西海大学フェリー上で歓迎セレモニィがあるので来られたし」とのことだった。住居に戻ると細田部隊員は「日本がこんなことになっているのに、パーティごときで浮かれている場合ではない。何千人も死んでいるんだ。俺は喪に服す。藤井、お前一人で行け」と言ったっきり部屋に閉じこもった。
この日のフェリーの上での山本夏央理が発したあの言葉が、僕に少なからずの変革をもたらし始めたことはあえて繰りかえす必要はないだろう。あれは打ち上げ花火に点火するような派手なものではなく、線香にかすかな火をともすような言葉だった。
恋の始まりと呼ぶには程遠いけれど、恋をいざなう道へと辿る、足元を照らす松明だった。
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