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「真実」と題した今年の「SOLO-ist」が無事終了しました。
いらしていただいた多くのお客様と関わっていただいた関係者の皆様には深く感謝しています。ありがとうございました。

思えば5年前に、今やジャズ界のカリスマと言われる菊地成孔をゲストに向かえ始めた「SOLO-ist」の1作目は、パフォーマンスと して成り立つかどうかすらわからない、不安に満ちたものでした。しかしやり終えたとき、僕にとって「これ以外ない」と思えるほどかけがえのない重要な可能性の原石を見つけた気がしたことを記憶しています。

5年という歳月を経て、多くの共演者とスタッフの手により磨かれていくその原石の可能性を広げていく様は、チームとして作品をつくり続けていくことの素晴らしさを教えてくれました。

そしてこの1年は「真実」とは何か、と問い続けた1年でもありました。
原文、音、ビジュアル、あらゆるものが ぶれない作品を・・・、ということが今回最もこだわったところであり、もしそれが演出と言うのなら、僕が初めて演出をしたと胸を張って言える作品がこの -Truth- であったと思っています。

この「SOLO-ist」シアタートラム公演は1年以上の準備期間を要します。1年以上前から -Truth- というタイトルとコンセプトを決定し、動き出しました。昨年、僕がウィーンに滞在したときには既に出演者を初め、あらゆることが決まっていました。つまり、この作品はウィーンによって生まれたのではなく、僕の心にある心象風景がベースになっています。しかし、ウィーンで経験した出来事は、この作品の製作を進める僕にとって、まさに天からの贈り物のようでした。
偶然なのでしょうか? 偶然であれ必然であれ、あの経験がこの作品にとって大きな意味を持っていることはいうまでもありません。そしてウィーンの地で、のめり込むように構成を組み立てていったあの5日間を忘れることはないでしょう。

僕が1年かけて考え続けた「真実とは何か・・・」という問いの答えはパフォーマンスの最終章のドラムソロに込めたつもりですが、あえてそれを言葉にするなら次の「SOLO-ist」のテーマになるであろう「希望」であると思っています。
次の作品の準備はすでに始まっていますが、それはいずれまたお話しするとして、ここでは僕が絶大なる信頼をし、今回それぞれの力が、作品のあらゆるシーンで遺憾なく発揮されていたスタッフと出演者をご紹介するとともに、いかにして本番に行き着くのか、写真を通して見ていただきたいと思っています。

劇場入りから仕込み、打ち合わせ、リハーサル、ゲネプロ(通しリハーサル)、そして本番と、
カメラマン小澤秀之の追ったもう一つの「SOLO-ist」をご覧ください。 堀越 彰



06 SOLO-ist TRUTHを終えて

あの余韻が少しずつ記憶となってきている。
振り返るというよりはいまだ僅かに残っているその残響について自分の中でどうにか整理すべきかと考えてみたが、やはりまだ何か眺め渡すには距離が足りない気がする。なので断片的にでも整理へのきっかけとして、確信の有無、雑感をいとわず頭の中、体の中にたまったものを一度さらして並べてみる事にする。

2004年にSOLO-ist初めての劇場公演となる”WARCRY”を今回と同じくシアタートラムで終えた後は「少し大きな服を着よう」と思っていた。それまでの自分のスペックが変わったか、という気持ちからだ。今回はその服がどうにか体に馴染んでくれたのかどうかが気になっている。正直に言えば不安というか身構えというべきか、すくむような感触は今回の方が色々な心境が入り混じる中でのパーセンテージとして確実に大きかった。ただそれは(今にして思えば)制作過程での様々な葛藤からというものからではなく、むしろ自分の中である程度遠い目線の先にではあるが見つめようとする対象の輪郭が以前よりはつかめるようになっていたからかも知れない。

表向きには教会という普段馴染みの無い異空間に自分なりのイメージの外郭を合わせてみようとした。堀越さんが強くインスパイアされたというシュテファン寺院のそのシーンとは?あるいは時代や文化の差異を問わずして「TRUTH」という題材を扱うこととは?「祈り」をテーマとしてみて自分ではこれもまた普段使わない(でも実は使っていた?) 思考回路を手探ることに少し辟易しがちな時もあった。そんな中で(ふと)「宙(そら)へ」というキーワードが出てきた。自分としてのイメージの整理集約の基軸となった言葉だ。全体として今回の公演の主要素は「光」であったが、光源として捉えるよりもその光の粒子の波動が空間を伝わり染み渡り、その道筋にあるものを照らしながら真っ直ぐに進み抜けてゆく様態を主体と考えた。また何かを見つめてしまうことよりもぼうっと泳がせた視線がそれらの光線と交錯する瞬間に何を感じるか、と。 

あるいは仕掛けることや打って出ることよりは待つことについても考えていた。至極単純な思考だが祈るとは視線を天空へ向けあるいは眼を瞑り俯き内なる宙を見つめ、全てをさらしかつ受け入れて待つこととしてみた。(この場合、願ったり信じたりという何か焦点を求める意識とは少し違うかも)自分を取り巻く環境の中で自己を意識しながらも自我をかざさずに鏡のようにそこにある一切を取り込み、やがてそれらに(じんわりと)染まりつつまた更なる次への変化を待ち受ける。違う言い方をすれば周囲環境と共振し、その共鳴点をあらわにすることによってあらためて自他への再認識を促すというようなフィードバックの構図を描き成立させるには各々が許容量の大きさに加え、様態を常に変化させつつも本質的基底部分に普遍性を持ちうるかがポイントだと思う。ある意味での柔軟性・適応力でもある。この点において今回の公演に関わる全てのキャスト・スタッフがその才を持ち得ていたことは大きい。単なる主張のぶつけ合いは時として偶然の発見や予期せぬ効果を得ることもあるが、全体像に収斂するための方法論ではない。また逆になれ合いや妥協については論を待つ用もない。コラボレーションという形が多少普及してきたようだが、本当の意味でそれを成し得たというためには相当な状況過程を消化していく必要があるだろう。もちろん自分たちにもそれなりの成果や自負はあるもののまだまだ詰め足りない。信念に基づいた柔軟性や適応力が無ければ何事に対しても「待てない」(=耐力がない)ということか。もちろん関わる全てを理解しようとする好奇心とその先に得られるであろう何かへの期待も必要だ。

元来私自身は何事にもスロースターターである。ただ単に待つというよりは案じ、練り、凝らすというステップに時間を惜しまない。あるいは念ずるという言い方にも近いかも知れない。作るものの形や見せ方についてはひねり出すというよりはそれこそ何かしらの啓示を受けたかのようなひらめきを常に求めているし、数少ないなりに幸運にもそのおぼし召し?が得られたときには大概スマートに形になっていく。さて今回はどうだったか?探ったり試したりという時間はそれなりに充実していたかに思える。実制作作業と劇場入りしてからの時間はそれと比べるとかなり短いがある程度やむを得ないところもある。多少なりの経験値と集中力・瞬発力で補う。問題は各人が用意してきた全ての要素を一堂にさらしてみた後にそれらが(じんわりと)溶け合い、共鳴していくのを「待てるか」だ。事前の打ち合わせやリハのあり方にも左右されるだろうが、私としては予定調和というだけでなく、良い意味で期待や想像を僅かにでも超えるハッとさせられる何かの出現を待ちたいという想いがいつも以上に強かった。

教会へ足を運ぶことは当面ありそうにないが、漠然とではあるが待つという行為の中に、祈りにも似た気持ちを意識することが何となくではあるが習慣になりそうな気がしている。ワインやチーズを適当に寝かしておくことで熟成(醸成)が進むことになぞらえるのは勝手すぎるだろうか?また次回までいくつかの想いを寝かしておくことにする。
オブジェ アーティスト 田中真聡

田中真聡氏について

田中さんと何度となく続いた打ち合わせの時間、パフォーマンスを終ってみるとあれが実に至極の時間のように思えてくるんですよねぇ。不思議なものです。やってるときは結構辛いんですけどねぇ。

荻窪のアフタヌーンティーとか、明大前のスタバとかでやるんですけど、互いにアイデアをぶつけ合い、そのままそれぞれが空想の世界に入って、イメージを膨らます。その間、20分くらい沈黙が続いて、遠い空間を見上げたり 「ウーン」なんてうなったり。 閉店の時間が過ぎてお客は僕たち2人だけになってんのになかなか立ち上がらない。時間切れで「宿題にしましょ」で解散。

そんな日々がキラキラ輝くかけがえのない時間に思えてくるんです。そのときに戻りたいような気もして・・・。どうせまたすぐやるんですけどねぇ。(堀越)






平山正仁氏について

平山さんだけコメントがいただけませんでした。「SOLO-ist」の公演後、関西からドイツへと行ってしまいました。 直前は、数日前までボローニャ歌劇団の日本公演に参加されていました。平山さんは一流を渡り歩く日本一の舞台監督です。それだけに怖い。でも、はっきりダメ出しをしてくれるから、僕はあらゆるリクエストをぶつけることができます。2001年、THE CONVOY のダンサー舘形比呂一氏のツアーで会ったときから舞台監督はこの人しかいないと思っていました。

僕と田中さんかつくったパフォーマンスの流れを大胆にも自分の感性や体内時計に置きかえて、ここしかないというタイミングでキューを出してくれるのです。確信のもとに出すタイミングであるから修正が利く。僕はドラマーであるから、曲が終り、次の曲のカウントを出すタイミングやテンポ、拍手や照明とのあわせにとても気を使うのですが、音と照明で構成されているこのパフォーマンスではより綿密な時間感覚が重要なのです。現場の演出家であり、監督である。劇場入りしたら、あとはすべて平山さんの手中にあると言ってもいいでしょう。(堀越)




「SOLO-ist」はみんなの遊びの空間だ

何か解らないうちに 良いようにみんな

操られ 足りない所を補っているような気がする

これも 堀越 彰の人柄か・・・


水江英俊氏について

確かに、僕にとって「SOLO-ist」は遊び場です。
同時に、関わるすべての人にとっても遊び場であるのならうれしい限りです。でも、ただの遊び場では満足しないくせ者たちが集うこの現場で、遊びはチャレンジを意味すると思っています。

伊集院さんが踏むタップボードの音をいかにして撮るか、オーケストラのダイナミクスを、あるいは大聖堂の荘厳なる空間をいかにしてつくるか、水江さんならではのこだわりが発揮される瞬間です。

土門が言いました、「ここだけは譲れない」と。そして水江さんも、「普通の音響セットなら別の人に頼むべきだ。僕がやりたいのはあの空間を大聖堂に変えることだ」。うれしいことです。

そう、「SOLO- ist」はみんなの遊びの空間だ。 (堀越)





僕がこのSOLO-istプロジェクト?に参加させて頂いたのが今回で3回目になります。

前回よりも、今回のTRUTHの方が明かり(照明)に対する堀越さんの思い入れが強く大きくそれを理解しプランに起こすのがかなり大変な作業になりました。

その期待に応えられたのかはわかりませんが大変、勉強になりました。

これからも SOLO-ist と最高の仲間たちと共に僕も成長して行きたいと思いました。

堀越さん、田中さん、皆々様 お疲れ様でした〜!!
                         照明 土門一成


土門一成氏について

この公演にとって、照明の持つ役割は大きい。

すべての時間の流れ、つまり構成を音と照明によって展開させている。さらに言えば、僕と田中さんのリクエストは一般的なコンサート照明とはかけ離れている。

シンメトリックを嫌い、均一な放射線を嫌う。

今回も土門には、彼が参加している他のどの現場よりも苦労をかけたのではないかと思っています。それだけに、ほかでは見たことのないライティングショーが実現しました。

真実のシーンでのリクエストは、 「ドラムの加わった所からステンドグラスから差し込み始める太陽光。それはゆっくりと確信を持って地上に差し込まなければならない。光と光の交差は、そこにもくもくと立ち上る煙と重なることによって光の固まりとなる。まるでそこに神が宿っているかのように。」

お疲れさまでした。次の公演まで、少しだけ解放してあげます。(堀越)





 今回は、SOLO-istに参加させていただき、本当に有難うございました。

堀越さんのパワフルなプレイと、作品全体にあふれる精神性に、僕も啓発されました。ピアノの深町さん、バイオリンの渡辺さんの繊細さと力強さを兼ね備えた演奏には、本当に心を衝き動かされました。

フラメンコという枠を超えた作品に参加させていただいて感じたことは、ジャンルを超えても、芸術にとって大事な要素、目指すものは同じなのでは、ということです。個々が自己の技術を磨き上げたうえで、共演者とのハーモニーを生み出していく喜びの大きさを、改めて実感させられました。

また、舞台、照明、音響をはじめとするスタッフの方々の本当の意味でのプロフェッショナルな仕事ぶりにも、感動させられました。

またみなさんと一緒にお仕事をさせていただく機会がありましたら嬉しいです。

どうもありがとうございました。
               フラメンコ舞踏手 伊集院史朗
伊集院史朗氏について

僕が「SOLO-ist」のゲストを決めるとき、そのゲストがシアタートラムのステージにたった1人、立っているところを想像します。

何よりも大切なのは1人の人間の持つエネルギー、存在感、可能性なんです。パフォーマンスの一挙手一投足からそれが満ちあふれていなければなりません。

伊集院さんはまさにそんなパフォーマーでした。加えて練習熱心であったことはラッキーでした。たくさんの時間を共有できたことは僕にとっては幸せな時間でもありました。(堀越)



僕が初めてゲストとして呼ばれたソリストは西荻窪の異空間でした。田中さんの気がオブジェを通して辺り一面に満ち溢れ、堀越さんの音が情熱と共に蜃気楼のごとくゆらゆらと立ちのぼっていた、そんな印象でした。今回、2回目のシアタートラム。印象に残ったのは、お2人に負けないくらいのたくさんの仲間達の友情と心からの熱意だった気がします。なによりうれしく思うのは、共に充実したステージに向かって時間を共有できた事。田中さん、堀越さん、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。
バイオリン   渡辺 剛

渡辺 剛氏について

僕のここ数年の活動に置いて「渡辺剛」の存在は何よりも大きいかもしれない。

同世代の"友"ともいえる関係で、かつお互い認め合えたことは僕にとっては例がない。

それに時々双子のような思考をしているようにも思う。

僕は「SOLO- ist」を剛君は「REDxRED SOUL CONPANY」を主宰し、それぞれがサポートをする。このサポートにまわったときの2人は主君に仕える家老のように静かに主張する。

そして今回の公演でリクエストした剛君のバイオリンソロ「運命」。3公演とも違う内容でどれも素晴らしく、後半に向けてしばしの静寂の時間を彩った。

僕がお願いしたのは「時代に翻弄され混乱に飲み込まれてゆく運命。その潮流に身を投じるような覚悟を表現してください。」

まさに、そんなソロパフォーマンスでした。(堀越)




「SOLO-ist」はユニークなパフォーマンスだと思う。まずそこには、パフォーマンス全体を支配する堀越君の強い(言葉による)メッセージがある。このひとつの精神的な支えを中心として、オブジェとダンスと音楽のコラボレーションが展開する。

構成され演出されたステージもパフォーマンスの重要な一部をなしている。たぶん堀越君の目指しているものは、ある種の総合芸術なのだろう。その目指しているものの香りは、あくまでも「日本」だと僕は信じたい。

「日本」なるものを定義するのは簡単ではない。なぜなら現代の「日本」という文化は迷走しているからだ。もちろん、その「迷走」そのものが日本の似姿だという逆説も成立するだろう。明治維新以後、僕達は故郷の香りを失っていると思う。

数日前、国立博物館に伊藤若沖という江戸中期の絵師の展覧会を見てきた。ここにある世界は、紛れもない日本文化そのものだ。艶やかで大胆でありながら、どこか冗談のような洒脱さを持っている。

挑戦し続ける堀越君に、もし課題があるとしたら、ふと力を抜く「粋」の存在だろう。もちろんこれは彼だけの問題ではない。僕自身も含めた日本の全ての音楽家の課題でもあるのだ。

「SOLO-ist」はその名の通りソロ・パーフォーマンスである。それゆえ形態が変幻自在であることも意味する。何が最善であるのか、それに向かって限りなく前進することを僕は期待して止まない。 深町 純


深町 純氏について

失敗と成功は紙一重。大きな成功を得るにはそれ相応のリスクを負わねばならない。即興演奏がそうであるように必ずいい演奏になると保証がないところに、無限の可能性を感じる。

深町さんは常に即興を忘れるな、と僕に言う。「3歳から譜面を読んでいる僕と20歳過ぎてから読み始めた君とでは譜面とのつき合い方が違う。だから譜面から離れて自由に叩け」とも言う。その言葉のおかげで、僕の横から譜面台がなくなりました。


今回の僕のドラマーとしてのチャレンジ曲、ストラビンスキーの「春の祭典」。たくさんのヒントと忠告をもらい、深町さんとともにつくったとも言える曲です。やると決めてから本番までの2カ月余り、譜面を追うのがやっとという状況から嫌になるほど聞きました。2004年のバルトークの経験から、絶対に聞こえてくると信じてはいたものの、はるかに難度が高くしかもドラムソロ。何となくできそうだと感じたのは本番5日前でした。それに加えて、譜面がなくなったことは僕にとってプラスかマイナスか、やってみなければ分からないという状況。ただ、信じるは深町さんの「その方が良い」という言葉だけでした。愛を感じます、深町さんには。(堀越)


特集5〜本番編〜は、9月上旬掲載予定。乞うご期待!

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