「真実」と題した今年の「SOLO-ist」が無事終了しました。 いらしていただいた多くのお客様と関わっていただいた関係者の皆様には深く感謝しています。ありがとうございました。 思えば5年前に、今やジャズ界のカリスマと言われる菊地成孔をゲストに向かえ始めた「SOLO-ist」の1作目は、パフォーマンスと して成り立つかどうかすらわからない、不安に満ちたものでした。しかしやり終えたとき、僕にとって「これ以外ない」と思えるほどかけがえのない重要な可能性の原石を見つけた気がしたことを記憶しています。 5年という歳月を経て、多くの共演者とスタッフの手により磨かれていくその原石の可能性を広げていく様は、チームとして作品をつくり続けていくことの素晴らしさを教えてくれました。 そしてこの1年は「真実」とは何か、と問い続けた1年でもありました。 この「SOLO-ist」シアタートラム公演は1年以上の準備期間を要します。1年以上前から -Truth- というタイトルとコンセプトを決定し、動き出しました。昨年、僕がウィーンに滞在したときには既に出演者を初め、あらゆることが決まっていました。つまり、この作品はウィーンによって生まれたのではなく、僕の心にある心象風景がベースになっています。しかし、ウィーンで経験した出来事は、この作品の製作を進める僕にとって、まさに天からの贈り物のようでした。 僕が1年かけて考え続けた「真実とは何か・・・」という問いの答えはパフォーマンスの最終章のドラムソロに込めたつもりですが、あえてそれを言葉にするなら次の「SOLO-ist」のテーマになるであろう「希望」であると思っています。 |
あの余韻が少しずつ記憶となってきている。 |
2004年にSOLO-ist初めての劇場公演となる”WARCRY”を今回と同じくシアタートラムで終えた後は「少し大きな服を着よう」と思っていた。それまでの自分のスペックが変わったか、という気持ちからだ。今回はその服がどうにか体に馴染んでくれたのかどうかが気になっている。正直に言えば不安というか身構えというべきか、すくむような感触は今回の方が色々な心境が入り混じる中でのパーセンテージとして確実に大きかった。ただそれは(今にして思えば)制作過程での様々な葛藤からというものからではなく、むしろ自分の中である程度遠い目線の先にではあるが見つめようとする対象の輪郭が以前よりはつかめるようになっていたからかも知れない。
表向きには教会という普段馴染みの無い異空間に自分なりのイメージの外郭を合わせてみようとした。堀越さんが強くインスパイアされたというシュテファン寺院のそのシーンとは?あるいは時代や文化の差異を問わずして「TRUTH」という題材を扱うこととは?「祈り」をテーマとしてみて自分ではこれもまた普段使わない(でも実は使っていた?) 思考回路を手探ることに少し辟易しがちな時もあった。そんな中で(ふと)「宙(そら)へ」というキーワードが出てきた。自分としてのイメージの整理集約の基軸となった言葉だ。全体として今回の公演の主要素は「光」であったが、光源として捉えるよりもその光の粒子の波動が空間を伝わり染み渡り、その道筋にあるものを照らしながら真っ直ぐに進み抜けてゆく様態を主体と考えた。また何かを見つめてしまうことよりもぼうっと泳がせた視線がそれらの光線と交錯する瞬間に何を感じるか、と。 |
あるいは仕掛けることや打って出ることよりは待つことについても考えていた。至極単純な思考だが祈るとは視線を天空へ向けあるいは眼を瞑り俯き内なる宙を見つめ、全てをさらしかつ受け入れて待つこととしてみた。(この場合、願ったり信じたりという何か焦点を求める意識とは少し違うかも)自分を取り巻く環境の中で自己を意識しながらも自我をかざさずに鏡のようにそこにある一切を取り込み、やがてそれらに(じんわりと)染まりつつまた更なる次への変化を待ち受ける。違う言い方をすれば周囲環境と共振し、その共鳴点をあらわにすることによってあらためて自他への再認識を促すというようなフィードバックの構図を描き成立させるには各々が許容量の大きさに加え、様態を常に変化させつつも本質的基底部分に普遍性を持ちうるかがポイントだと思う。ある意味での柔軟性・適応力でもある。この点において今回の公演に関わる全てのキャスト・スタッフがその才を持ち得ていたことは大きい。単なる主張のぶつけ合いは時として偶然の発見や予期せぬ効果を得ることもあるが、全体像に収斂するための方法論ではない。また逆になれ合いや妥協については論を待つ用もない。コラボレーションという形が多少普及してきたようだが、本当の意味でそれを成し得たというためには相当な状況過程を消化していく必要があるだろう。もちろん自分たちにもそれなりの成果や自負はあるもののまだまだ詰め足りない。信念に基づいた柔軟性や適応力が無ければ何事に対しても「待てない」(=耐力がない)ということか。もちろん関わる全てを理解しようとする好奇心とその先に得られるであろう何かへの期待も必要だ。 元来私自身は何事にもスロースターターである。ただ単に待つというよりは案じ、練り、凝らすというステップに時間を惜しまない。あるいは念ずるという言い方にも近いかも知れない。作るものの形や見せ方についてはひねり出すというよりはそれこそ何かしらの啓示を受けたかのようなひらめきを常に求めているし、数少ないなりに幸運にもそのおぼし召し?が得られたときには大概スマートに形になっていく。さて今回はどうだったか?探ったり試したりという時間はそれなりに充実していたかに思える。実制作作業と劇場入りしてからの時間はそれと比べるとかなり短いがある程度やむを得ないところもある。多少なりの経験値と集中力・瞬発力で補う。問題は各人が用意してきた全ての要素を一堂にさらしてみた後にそれらが(じんわりと)溶け合い、共鳴していくのを「待てるか」だ。事前の打ち合わせやリハのあり方にも左右されるだろうが、私としては予定調和というだけでなく、良い意味で期待や想像を僅かにでも超えるハッとさせられる何かの出現を待ちたいという想いがいつも以上に強かった。 教会へ足を運ぶことは当面ありそうにないが、漠然とではあるが待つという行為の中に、祈りにも似た気持ちを意識することが何となくではあるが習慣になりそうな気がしている。ワインやチーズを適当に寝かしておくことで熟成(醸成)が進むことになぞらえるのは勝手すぎるだろうか?また次回までいくつかの想いを寝かしておくことにする。 |
田中真聡氏について |
|
平山正仁氏について 平山さんだけコメントがいただけませんでした。「SOLO-ist」の公演後、関西からドイツへと行ってしまいました。 直前は、数日前までボローニャ歌劇団の日本公演に参加されていました。平山さんは一流を渡り歩く日本一の舞台監督です。それだけに怖い。でも、はっきりダメ出しをしてくれるから、僕はあらゆるリクエストをぶつけることができます。2001年、THE CONVOY のダンサー舘形比呂一氏のツアーで会ったときから舞台監督はこの人しかいないと思っていました。 僕と田中さんかつくったパフォーマンスの流れを大胆にも自分の感性や体内時計に置きかえて、ここしかないというタイミングでキューを出してくれるのです。確信のもとに出すタイミングであるから修正が利く。僕はドラマーであるから、曲が終り、次の曲のカウントを出すタイミングやテンポ、拍手や照明とのあわせにとても気を使うのですが、音と照明で構成されているこのパフォーマンスではより綿密な時間感覚が重要なのです。現場の演出家であり、監督である。劇場入りしたら、あとはすべて平山さんの手中にあると言ってもいいでしょう。(堀越) |
「SOLO-ist」はみんなの遊びの空間だ 何か解らないうちに 良いようにみんな 操られ 足りない所を補っているような気がする これも 堀越 彰の人柄か・・・ |
水江英俊氏について 確かに、僕にとって「SOLO-ist」は遊び場です。 同時に、関わるすべての人にとっても遊び場であるのならうれしい限りです。でも、ただの遊び場では満足しないくせ者たちが集うこの現場で、遊びはチャレンジを意味すると思っています。 |
伊集院さんが踏むタップボードの音をいかにして撮るか、オーケストラのダイナミクスを、あるいは大聖堂の荘厳なる空間をいかにしてつくるか、水江さんならではのこだわりが発揮される瞬間です。 |
僕がこのSOLO-istプロジェクト?に参加させて頂いたのが今回で3回目になります。 前回よりも、今回のTRUTHの方が明かり(照明)に対する堀越さんの思い入れが強く大きくそれを理解しプランに起こすのがかなり大変な作業になりました。 その期待に応えられたのかはわかりませんが大変、勉強になりました。 これからも SOLO-ist と最高の仲間たちと共に僕も成長して行きたいと思いました。 堀越さん、田中さん、皆々様 お疲れ様でした〜!! 照明 土門一成 |
|
|
今回は、SOLO-istに参加させていただき、本当に有難うございました。 堀越さんのパワフルなプレイと、作品全体にあふれる精神性に、僕も啓発されました。ピアノの深町さん、バイオリンの渡辺さんの繊細さと力強さを兼ね備えた演奏には、本当に心を衝き動かされました。 フラメンコという枠を超えた作品に参加させていただいて感じたことは、ジャンルを超えても、芸術にとって大事な要素、目指すものは同じなのでは、ということです。個々が自己の技術を磨き上げたうえで、共演者とのハーモニーを生み出していく喜びの大きさを、改めて実感させられました。 また、舞台、照明、音響をはじめとするスタッフの方々の本当の意味でのプロフェッショナルな仕事ぶりにも、感動させられました。 またみなさんと一緒にお仕事をさせていただく機会がありましたら嬉しいです。 どうもありがとうございました。 フラメンコ舞踏手 伊集院史朗 |
伊集院史朗氏について 僕が「SOLO-ist」のゲストを決めるとき、そのゲストがシアタートラムのステージにたった1人、立っているところを想像します。 何よりも大切なのは1人の人間の持つエネルギー、存在感、可能性なんです。パフォーマンスの一挙手一投足からそれが満ちあふれていなければなりません。 伊集院さんはまさにそんなパフォーマーでした。加えて練習熱心であったことはラッキーでした。たくさんの時間を共有できたことは僕にとっては幸せな時間でもありました。(堀越) |
|
渡辺 剛氏について |
構成され演出されたステージもパフォーマンスの重要な一部をなしている。たぶん堀越君の目指しているものは、ある種の総合芸術なのだろう。その目指しているものの香りは、あくまでも「日本」だと僕は信じたい。 「日本」なるものを定義するのは簡単ではない。なぜなら現代の「日本」という文化は迷走しているからだ。もちろん、その「迷走」そのものが日本の似姿だという逆説も成立するだろう。明治維新以後、僕達は故郷の香りを失っていると思う。 数日前、国立博物館に伊藤若沖という江戸中期の絵師の展覧会を見てきた。ここにある世界は、紛れもない日本文化そのものだ。艶やかで大胆でありながら、どこか冗談のような洒脱さを持っている。 |
挑戦し続ける堀越君に、もし課題があるとしたら、ふと力を抜く「粋」の存在だろう。もちろんこれは彼だけの問題ではない。僕自身も含めた日本の全ての音楽家の課題でもあるのだ。 |
|
今回の僕のドラマーとしてのチャレンジ曲、ストラビンスキーの「春の祭典」。たくさんのヒントと忠告をもらい、深町さんとともにつくったとも言える曲です。やると決めてから本番までの2カ月余り、譜面を追うのがやっとという状況から嫌になるほど聞きました。2004年のバルトークの経験から、絶対に聞こえてくると信じてはいたものの、はるかに難度が高くしかもドラムソロ。何となくできそうだと感じたのは本番5日前でした。それに加えて、譜面がなくなったことは僕にとってプラスかマイナスか、やってみなければ分からないという状況。ただ、信じるは深町さんの「その方が良い」という言葉だけでした。愛を感じます、深町さんには。(堀越) |
特集5〜本番編〜は、9月上旬掲載予定。乞うご期待!
|
Copyright(c) 2005 Akira Horikoshi. All Rights Reserved.
お問い合わせは info-horikoshi@mx1.ttcn.ne.jp まで。 |