05.02.06(SUN) 山の上碑・根小屋城址 高崎市

 前橋や高崎は坂も階段もない本当にのっぺらぼうな町である。背景の上州三山や上信越国境の山々がなかったら、ただの埃っぽい情緒のないつまらない町になっていただろうと思うが、その高崎も烏川を越えると山名から観音山に掛けて、里山の雰囲気を残した山名丘陵が広がっている。ここには高崎自然歩道が整備され、冬場のハイキングや群馬の歴史探訪に欠かせない散歩道になっている。しかしこの丘陵も住宅団地やゴルフ場、墓地等の開発が進み、僅かに山名城址、根小屋城址付近と、吉井の自衛隊の弾薬庫周辺だけがまだ里山の雰囲気を残している。せめてこの道の周辺だけでも、静かに歩ける環境が守られることを祈っている。


コース:山の上碑下の駐車場11:50→山の上碑12:00→根小屋城址分岐(望鉾山195m)12:20→根小屋城址12:45-13:20→根小屋城址分岐13:40→高崎市民の森14:05→山名貯水池12:20→駐車場14:25 (所要時間2時間35分) 帰りに山名八幡宮を30分ほど見学。

駐車場:山の上碑の下の駐車場が便利だがちょっと道が分かりにくい。10台程度駐車可能。トイレは山の上碑への登り口にある。上信電鉄の山名駅前の山名八幡宮の駐車場を借りる手もある。
上信電鉄を利用すれば、根小屋、高崎商科大学前、山名、西山名各駅から歩ける。
麓から見た根小屋城址山


 駐車場は山の上集落の一番奥まったあたりにあり、押し寄せる時代の波には抗すべくもないが、こんな近くに良くぞ残っていたと思われるような、古びた集落の面影がまだ残っている。山の上碑へは用水路を渡って南面する民家と、山の斜面の小さな畑の横の畦道をまいて、150〜160段ほどの真っ直ぐな狭い粗末な石段を登る。上には小さな古墳(円墳)とその墓碑と見られる国の特別史跡、上毛三碑の一つ「山の上碑」がある。山の上碑は頑丈な覆堂で保護されていて直接見ることは出来ないが、周辺は程よく整備されて気分のいい場所である。


 山の上碑の読み下し文が説明板にあるので読んでみよう。

 「辛巳の歳集月三日記す。佐野の三家(屯倉)と定め賜える健守命の孫黒賣刀自、此れ新川の臣の児斯多々弥の足尼の孫大児の臣に娶いて生める児、長利の僧母のために記し定める文なり。方光寺の僧」

 ---かのと・みのとし・じゅうがつ(天武10年、西暦681年)、健守命の(子)孫、くろめとじ(これが被葬者)、にっかわのおみの児・したたみのすくねの(子)孫おおごのおみ(被葬者の夫)、ちょうり(寺の職名らしい)のほうし(被葬者の息子)--- 
山の上碑を収めた覆堂
右の小山が古墳

 この碑は西暦681年(7c末)方光寺の僧がその母のために建立したもので、墓碑によりその被葬者が分かる古墳として唯一の例だと言われている。方光寺は巨大な石製鴟尾や根巻き石、塔芯礎で知られる前橋市総社町の山王廃寺と言われ、古墳とは言っても当時の古墳は、すでに仏教の影響下にあったことが分かる。6cの前半に仏教が伝えられると関西では前方後円墳は廃れて円墳となり、7cの初頭、聖徳太子の頃にはその円墳も廃れた。関東では約100年ずれ、それが7c末まで残ったが、仏教と強力な中央集権化により古墳時代は終わる。


 山の上古墳の被葬者の夫は新川の臣の児の(子)孫の大児の臣となっているが、新川、大胡は赤城山の麓、勢多郡に現存する地名で、それぞれに古墳や廃寺の史跡がある。屯倉のあった佐野は烏川の高崎側の対岸にあり、方光寺は前記のように前橋市総社町だから、当時の支配階級のネットワークの有様がわる。方光寺こそ失われたが、我々が慣れ親しんでいる地名が1300年以上前に記録されていることに驚く。
山の上古墳


 この頃の古墳は既に大王の墓所としての前方後円墳の壮大なイメージはすでにない。現在のお金持ちが私財を投じて立派な墓所を買い、愛する母のために高額のお布施を払って、ねんごろに弔ってもらうのとかわりない、私的なイメージである。


 また当時の漢字文化を示す古碑として他に例の無い、上毛三碑(多胡碑、山の上碑、金井沢碑)は、多胡碑から見てどちらも直線距離で3kmの近さにあり、山の上碑が一番古く、次いで30年後に多胡碑、さらに15年後に金井沢碑が建てられている。碑文はそれぞれだが無関係と言う事はなく、後から建てる者は前の碑の存在を充分知った上で建てたことに間違いはない。その時代この地区にだけ、そういう文化があったと言うことである。

 当時の仏教は最新のテクノロジーや文化と共に入ってきた。
それを無視しては国の効率的な経営は難しく、その価値を知った国の首長達は、競って知識や技術を持つ人材(多くは渡来人)を招いてその吸収に努め、優遇したに違いない。多胡碑も渡来人に係わるものであることはほぼ定説のようである。想定される山王廃寺の壮大さも、その精緻な巨石文化も、石室の切石積みも、碑の文化も彼らなしに語ることは出来ないだろう。
巨石切石積みの古墳石室内部
馬頭観音が祭られている。
江戸時代札所として賑わったこともあるという。


 山の上碑まで登ってしまうと後はほとんどアップダウンのない、整備された尾根の自然歩道を山名城址分岐、根小屋城分岐へと歩く。更に行けば金井沢碑のある住宅団地へ行くことが出来る。
 この自然歩道には、地元の建設会社の社長さんが自費で建設したと言われる、万葉の歌碑が幾つもあって、万葉の好きな人にはこれを辿るのも面白いかもしれない。
万葉の歌碑
巨大な石に彫ってあり案内板が付いている。


 この日たまたま出会った地元の人の話だと、この周辺の山の尾根にはすべて道があり、山桜が多く、その下の潅木はほとんどヤマツツジで、冬ばかりでなく芽吹きから花の時期もいいので是非見に来いという。根小屋城址のソメイヨシノは花の時期も特に行事は行われないので、静かな花見が満喫できるそうである。この山は十数年前まではエビネの宝庫で、シュンランも山が香るほどあったそうである。今探すのは難しい。子供の頃一日中走り回って遊んだ故郷の山だという。

 根小屋城は1568年に武田信玄が築いた出城だそうである。根小屋城址分岐からは狭い尾根を渡って、立派な東屋のある搦め手から城址に入ることが出来る。東側に回りこんで急な土手を登ると山頂の本丸跡に出る。陽当りがよく何時も静かで広々した気分のいいところである。木のやぐら(展望台)があり、その上で日光浴しながら食事にしてもいいが、しかしかなり古くなっているので床が抜けても責任はもてない。周りの木が成長していてそれほどの展望も期待できない。しかし堀跡や何段にも構築された廓の跡など、木を払って柵を廻らせばすぐ戦闘可能と思わせる、かっての城砦の雰囲気は一目で見て取れる。根小屋城址は落葉した雑木の中に、当時の山城の雰囲気をそのまま残したいい山だと思う。
 山頂には御製を刻んだ立派な歌碑と祠がある。虎口の近くには、句碑や佐野の船橋を歌った万葉の紹介や暮鳥の詩碑などがある。
 
広々した城址本丸跡

 折角なので紅梅の花の写真に添えて、詩碑にある暮鳥の詩を紹介しよう。

   梅           山村暮鳥

  おい そっと そっと
  しずかに
  梅の匂ひだ

 私の心はまだせわしく立ち騒いで、彼の言葉に沿うことが出来ない。
 帰りは分岐に戻ってから西の尾根に回り、市民の森に下る。そこから山裾をまいて山名貯水池に出て集落の駐車場へ戻る。いきなり西の谷に下る道もある。この山裾も静かで野鳥も多く楽しめる所だが、沢が荒れていて、貯水池に流れ込む沢の水が、白く濁っているのが残念である。
やあ今年も会えたね

山名八幡宮:
 帰りにここ何年か訪れたことのない山名八幡宮によってきた。上信電鉄山名駅のすぐ隣である。立派な社殿は江戸中期のものだそうで、平成3年に一年掛けて塗り直されたと言う装飾壁面は古さを感じさせない。装飾の神獣の彫り物は、今年栗生山の栗生神社の彫り物でもお目にかかった、江戸時代の名工関口文治郎のものだそうである。


山名八幡宮本殿の装飾壁面

 山名の名はNHKの大河ドラマ「花の乱」で、日野富子に組する西軍の総大将山名宗全の先祖の地と言うことで一躍名を上げたが、別に山名宗全がここから出陣した訳ではない。でも萬屋錦之介の演じる山名宗全は格好よかったね。 
 山名神社の社殿は文治年間(1185〜1190)に新田義重の三男、義範が造営したと言われ、義範はこの地へ来て山名性を名乗り山名氏の祖となったと言うことである。父義重は源頼朝の挙兵に乗り損ない新田家は勢力を失うが、山名義範は頼朝の挙兵に即応して活躍し鎌倉幕府で勢力を伸ばしてゆく。
 新田氏と言えばおなじみは新田義貞だが、彼はその約150年後にその鎌倉幕府を滅ぼして足利幕府を起こすきっかけを作ったが、結局は足利尊氏にしてやられて消える。更に約140年後、今度は山名宗全が応仁の乱(1467年〜1478年)で足利幕府崩壊のきっかけを作る。この地に山名氏が誕生して約290〜300年後のことである。






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