柔術と合気の定義
「合気」と「合気の術」は同じものかと、よく聞かれる。もともと惣角が、柔術・合気柔術・合気の術を区別して教えていたとは言え、どの技がどれに当たるのかの判断を出来る人はあまり居ない。 柔術118本自体も、惣角がオリジナルの108本に何を10本付け加えたかも曖昧なのである。
それと同じで、「合気」と「合気の術」との関係もよく分からなくなっている。本来「合気」とは「合気がかかった状態」や「合気をかける技術」というように、「状態」を示すべき言葉であるのに、惣角自身が「合気で○○○をやった」などと、超能力めいた観相・察相の術まで「合気」で説明したため、混乱を来たす羽目になったともいえる。
「合気」は合気の術だけでなく合気柔術でも使うし、柔術でも柔らかい使い方をすれば「無意識にかけてしまう」ものである。
柔術はあえて言えば、表層筋の精密な使い方の鍛錬形であり、「小手の伸筋力と屈筋力の完全制御」を初歩技術として学ぶことから始まり、118本を学ぶ中で技の基本原理を理解し、それに使う表層筋をどう鍛えていくかに眼目がある。
それに対して、合気の技術だけを使って相手を制圧するのが合気の術であるから、深層筋の操作による「重心の合気」や、防御反応に働きかける「反射の合気」の技術を習得する必要がある。
合気柔術はその中間に位置づけられることが多いが、柔術の技術と合気の技術を場面場面で使い分ける技術であり、合気柔術独自の技術があるわけではない。だから合気柔術を「合氣・柔術」と呼び習わすのである。
誤解を恐れずに言えば、柔術と「重心の合気」は使う筋肉が違うだけで、筋肉運動であることに変わりはない。「反射の合気」だけが心法的な意識操作により、相手の固着という最終防御反射を引き出し、相手を制御する方法論であるため、筋肉運動ではないと言えるのである。
筋肉運動であると言うと「脱力」との関係を問われるのだが、それは技術論としての脱力の意味が分かっていないから起こるのである。「どの筋肉・関節を、どういう目的で、どのような手段で脱力」するのかが分かっていないと、袋小路に迷い込んでしまう。正しく言えば「脱力」ではなく、精密な「出力制御」である。
脱力の一歩目は、柔術で言えば「手首の固着をどう防ぐ」かであり、そのために五指と掌をどう認識するかという、思わぬ場所から稽古が始まる。いわゆる「合気あげ」ですら、そのことの理解のうえに立って稽古しないと、10年経っても合気上げができないという無駄な修行に陥るのである。
また深層筋操作で言えば、表層筋の脱力がなければ深層筋を精密に操作できないという当たり前のことから、「脱力しないと使えない」という結果になるのである。