小手の力

「小手の力」の使い方をベースにした柔術的技法による、相手の骨格・関節・筋肉に対する制御による「合気」のかけ方も、相手の反射や重心を自分の深層筋や重心を使って制御する合気的な技法による「合気」も、「自分の筋肉の使い方が技術の構成要素の重要な柱であることは、同様である。
いずれも重要なことは、如何にして自分の力を単純にエネルギーとして相手にぶつけるかではなく、正しい「力の伝達」を行うかであり、その「伝達を行う回路」を作り上げた状態が「合気がかかった状態」であるに他ならない。
つまり「合気」という概念が各師範によって定義がまちまちである原因は、「合気」の定義を云々するから起こることであって、「合気がかかった状態」をどういうものであるかを解析し、それに至る方法論の違いを明確にすれば、「混乱」のある程度は解消できるものである。
「柔術技法による合気」であろうと「合気技法による合気」であろうと、使うエネルギー量の総和に大きな違いはあるにせよ、いずれも「精密作業」であることに変わりはなく、闇雲に「力」を使うことでは達成できるものではない。
通常行われる「柔術」は、「柔道」がいつの間にか「JUDOU(ジャケットレスリング)」に変質したのと同様、力を無駄遣いする「剛術」とでも言うものに変化してしまっている。本来は「やわらかい(和らかい・柔らかい)」ものであった技術を、間違った力の使い方の偏重に変えてしまった原因は、正しい稽古を「型どおり(精密に)」行うことよりも、相手を「倒したい、崩したい」という効果を求める稽古に軸足が移っているせいであろう。あたかも東京オリンピックを境に、理屈を覚える型稽古から試合に勝つための即戦力を求めて「乱捕り」中心の稽古に移行した柔道と同様の道を、柔術もたどっているからである。
誤解を恐れずに言えば、柔術的技法を使った「合気がかかった状態」は、小手の力を使った「押し合う状態(斥力)」により「力を伝える回路」を作り上げる作業によるものである。それに対して合気的技法を使って成立する「合気がかかった状態」は、深層筋を使って作る自らのバランスの乱れなどを利用した「引き合う状態(引力)」により、同様の回路を作る作業であると言える。
いずれにせよ、両方とも成立条件が極度に厳しい「精密作業」であり、体内の力を熟知した徹底した「出力制御」技術であることは間違いなく、いずれも正しい指導を受けながら、速成の「効果」を求めない、精神修行とは異なった力学的な「自分自身との対話」とでも言うべき稽古が必要になるのである。
本来武術とは、技を変えてしまいかねない変数としての「精神面」を、技術論としてどう制御するのかということを問題とするが、武道とは違い精神修行は稽古の主たる目的ではない。しかし精密な稽古のためには、わずかな精神の揺らぎが、正しい回路を作り上げるための稽古の邪魔になるため、正しい動きをしなければ技が成立しないということを根本に据えて、無理に「力技」をかけて無駄な稽古を行い、「合気」に到底到達できないような稽古は厳に戒めなければならないのである。