高橋 賢氏の雑誌「合気ニュース」連載「大東流合気武術史初考」について(その一)

はじめに
 大東流の武田惣角師範の最後の直弟子であった佐川師範が亡くなられ、今まで秘密のベールに隠されていた佐川師範の継承された大東流が脚光を浴びる中、高弟の方々がその技や研究成果を明らかにされるのを心待ちにしていたのは、大東流を学ぶ者として一人私だけではなかったと思います。
 そのような中、「合気ニュース」119号(1999年冬号)から高橋 賢氏が歴史的視点から大東流の秘密に迫られると聞いて、大きな期待を抱いておりました。
 武術史研究家として高名というふれこみでもあり、武田惣角に長く師事された佐川師範のご門弟であれば、われわれが知り得ない様々な事柄も直接師範からお聞きになられたことと思い、それなりに深く研究もされていると思っていたからです。
 しかしその基本となる研究方針に述べられている部分で、いくつかの根本的な疑問を呈せざるを得ず、同誌120号の「読者の手紙欄」で拙ないながらも反論を寄せざるを得ませんでしたした。
 それは武田惣角から唯二人、免許皆伝を受けた久琢磨、そしてその跡を継ぎ日本伝合気柔術免許皆伝であり、大東流史に大きな影響を与えた故鶴山師範の伝を学ぶ者として、氏の言葉のように「大東流がどんどん誤った方向に行ってしまう」ことのないようにしなければならないと思うからです。
 以下、その反論を対照表にしてわかりやすくまとめてみたいと思います。

1、まず高橋氏が文中「(1)常識で考えればおかしい事」のなかで、鶴山師範の説の引き写しで西郷派が作り上げた「公武合体のために会津藩の総智を結集して大東流を作った」という説に対し、「時代錯誤もはなはだしい」「銃に柔術で対抗するつもりだったのか。こんな事は常識から考えてもおかしいことが分かる。明らかに誤りであり、歴史的に何の根拠も無い。」と批判されている点です。以下、対照表をご覧下さい。(高橋氏の文は合気ニュース第119号からの引用です)

119号39pの高橋氏の文 私の反論
<1>常識で考えればおかしい事
 例えば、公武合体のために、会津藩の総智を結集して大東流を作ったという説である。これを鶴山晃瑞氏が『護身杖道』で提唱し、日本伝合気道という体系を創立した。曽川和翁氏が、それをさらに詳細に敷衍した説を展開し、西郷派大東流の体系を広めつつある。
 この説は時代錯誤もはなはだしい。すでに幕末は、銃砲による戦争の時代である。各藩はこぞって洋式調練を取り入れ、銃砲の整備に努めた。長州、薩摩藩があるいは幕府ならびに諸藩が新式銃の購入のためにいかに努力したかは、明治維新史の有名な話である。その時にあたり、会津藩は公武合体のためと称して、何故、一藩をあげて、柔術の研究を開始しなければならないのか。銃に柔術で対抗するつもりだったのか。こんな事は常識から考えてもおかしいことが分かる。明らかに誤りであり、歴史的には何の根拠もない。
 西郷派の説については、鶴山説を都合よく使われてしまっている点では私たちも被害者であり、一蓮托生で批判されるのは心外だが、それでも批判があたらないとすれば正さなければならない。

(1)氏の言われる明治維新史は概略としては正しいように思えるが、詳細に検討すると浅薄であることが分かる。
 長州・薩摩などの雄藩や幕府が、積極的に欧米からの銃砲や軍事技術を取り入れようとしたのは事実である。またそれ以外にも佐賀藩や長岡藩などが、当時としては一流の軍備を整えようとしていたのも有名な話である。
 しかし、そのような最先端軍備を整えられたのはごく一部の藩で、多くの藩は経済的理由や取り組みの遅さから、十分な洋式装備も整備できないまま幕末・維新の動乱に巻き込まれたというのが実態だった。
 早くから取り組むことの出来た官軍諸藩でも、鳥羽伏見の戦い(1868年)前後にようやく新式銃砲の十分な整備ができたにすぎない。しかし新式銃を装備したのはいいが操作方法がわからず、前線から指揮官が駆け戻り泥縄式に説明を受け、また大慌てで前線に戻るなどという、嘘のような実話もある。
 一方徳川方では、幕府の洋式歩兵を除けば旧来の種子島銃も多く、会津藩でもせいぜいゲベール銃という旧式銃(発火装置が火縄のかわりに火打ち石になっているだけで、弾は先込め、銃腔内は滑腔で種子島と性能があまりかわらない銃)を揃えられた程度だった。
 その後の官軍奥羽鎮撫軍の会津討伐までには、会津藩も急速に軍備を充実したとは言え、遅きに失したのもまた歴史的事実である。
 翻って「公武合体」論が幕府や四賢侯を中心に唱えられたのは桜田門外の変(1860年)以後で、薩長連合(1866年)までは長州以外の藩は薩摩藩といえども公式にはこの方針をとらざるを得なかったのである。
 そのような短期間の激動する時代情勢の中で、確立した軍事的方針をもって軍備を着々と整備できたのはほんのひとにぎりの藩であり、会津藩を中心とした東北諸藩はそのような「雄藩」であったとはとても言えない。
 十把ひとからげで「幕末は銃砲による戦争の時代である」というのは簡単だが、それは後世の資料のそろった、いわば高いところから見ることができる視点であり、詳細な個々の事実の検討という視点からは別の見方をすべきである。
 氏の説からすれば、「日本全国の各藩はこぞって洋式調練を取り入れ、銃砲の整備に努めた」のだから、どの藩も同様な水準であったと言いたいのだろうが、実態はまるっきりそうではない。
 また会津藩が京都守護職時に天覧馬揃えで行った錬兵は、旧来の長沼流によるものだったたし、鳥羽伏見の戦いの際も同様だったはずであるから、なかなか旧来の軍事機構は変えにくかったものと思われる。 
 維新史について述べられるのであれば、もう少し研究をしてからにしてもらいたいものである。
(2)次ぎに「なぜ柔術の研究を開始しなければならないのか、銃に柔術で対抗するつもりだったのか」という批判である。
 少し時代はくだって、明治維新後の西南戦争の話。最初は拮抗していた両軍の戦力も、後半は最新の洋式銃砲や豊富な銃弾・硝薬という、圧倒的な物量作戦に出た政府軍に対して、薩軍がとった方法は兵児達の日本刀による切り込み・突撃だった。平民を中心とする鎮台兵は最初はこれに抗しきれず、随所に敗走を重ねた。政府軍は士族による抜刀隊を組織して、ようやく効果的な反撃が出来るようになったのである。
 この時期でも武士の表芸である剣術は、旧来の戦闘技術であるにもかかわらず十分有効だったのである。そしてその白兵戦のなかでこそ、柔術も役にたったのではないだろうか。
 さらに言えば、現代は「銃砲による戦争の時代」どころか「ミサイルや戦闘機・戦車による戦争の時代」だが、それでも各国の軍隊では歩兵戦闘などにおける格闘術を重視し、研究・改良に努めているのは、軍事的な常識である。
 氏の説から言えば、現代でもいまだに「時代錯誤もはなはだしい」ことをやっていることになる。
 どのように軍事技術が進んでも、最後の「人対人」の闘いである白兵戦では身につけた戦闘技術がものを言うのであり、軍事にたずさわる軍人はそのことを忘れる事はない。
 氏の言う「常識」とは素人の常識なのであろう。

 以上のことを考えるだけでも、「明らかに誤りであり、歴史的に何の根拠も無い」と即断されるのは氏の歴史認識がいかに浅いかを示しています。
 それから鶴山師範はカルチャーで教えるときには「合気道」の看板を掲げ、表向きには大東流とは分けていたようですが、「日本伝合気柔術」と称したことはあっても「日本伝合気道」という名称は使わなかったはずです。

2、次に「(2)武術史の基礎的知識に外れる事」では高橋氏は、やはり鶴山師範の著書「図解コーチ合気道」のなかの「柔術の起源説については、種々の説があるが、文献資料によると、・・・・・陳元贇が伝えたものと書かれているのが通説となっている」という表現に対して、「何の文献資料に書かれているのであろうか。こういう文献資料を聞いたことがない。また通説ともなっていない」と批判されています。

119号40pの高橋氏の文 私の反論
<2>武術史の基礎的知識に外れる事
 例えば、鶴山晃瑞氏の『図解コーチ合気道』のP30「第二章 合気道の源流をさぐる」の「一 やわらの歴史」に、「合気道は、<やわら>の部門に入る。柔術の起源説については、種々の説があるが、文献資料によると、東洋医学(経絡説)の文献を中国より持ち込んだ大明の陳元贇が伝えたものと書かれているのが通説となっている」とある。
 何の文献資料に書かれているのであろうか。こういう文献資料を聞いたことがない。また通説ともなっていない。事の正否はともかくとして、普通は麻布の国昌寺において、陳元贇が福野、磯目など三人の浪人に「大明には柔弱にして剛強の人を捕るの術あり、我よく其の技をみる事多年なり」と語り、それを契機に、福野が工夫して「和<やわら>を発明した話が、起倒流系の伝書『登板集』等に紹介されていて、これを柔術の起源とみなしている。しかし、これに対して、すでに江戸時代から、とかくの批判がある。
 また、一介の儒者である陳元贇が伝えなくても、すでに奈良平安の昔から、東洋医学の文献は日本にもたらされていて、江戸時代には、鍼灸湯液(漢方薬)を中心とする東洋医学の伝統が存在した。このような武術史や文化史の基礎的知識も大東流合気柔術の歴史的研究には当然必要となる。
(1)まず、氏はそう批判されたそのすぐ次の文で、「普通は・・・陳元贇が・・・・それを契機に、福野が工夫して「和(やわら)」を発明した話が、起倒流系の伝書「登仮集」等に紹介されていてこれを柔術の起源とみなしている。」と記されているが、「普通は」というのと「通説」は違うのだろうか。
 言葉が違うだけで同様の主旨のことを述べられておきながら、批判されるのは自己矛盾だと思うのだが。
(2)このことについて別の見方をしてみよう。
 例えば講道館の創始者・嘉納治五郎が、青年期にT・リンジィと共同発表した論文に、陳の柔術開祖説とそれに対する批判の部分がある。また、帝国尚武会を起こした野口潜龍軒もその著書「柔術教授書」の中で陳始祖説を唱える文献をいくつかあげ、それを批判している。
 また時代は下り、空手家の立場から極真会館の大山倍達師範は、その著書「ダイナミック空手」の中で柔術に与えた影響について言及されている。
 あるいは、綿谷雪・山田忠史編「武芸流派大事典」の「元贇流」の説明には、「日本の柔術は、明の陳元贇が・・・・三浪士に、中国伝来の拳法を教えたのに始まる、というのが旧来の定説である。(「武芸小伝」「武術流祖録」「本朝世事談綺」「起倒流拳法碑撰文」など)」とあり、それに対する考察も書かれている。
 それらに共通するのは、柔術の起源や開祖を問うときに、陳元贇が非常に大きな部分を占めていることである。批判するにせよ賛同するにせよ、まず第一にその名があがってくるということは、その説が通説でないとしても避けては通れぬ有力な説であることを示している。
 日本柔術史学界というようなものがあれば、公開の場での議論や論文の応酬で、通説・有力説や少数説が明確になるのだろうが、実際にはそうもいかず、残念ながらそれぞれの説を読者がどう読むかにかかっている。
 氏の言われるように文章の中で「通説」と言いきって、陳始祖説を唱える人はいなのかもしれないが、どの立場をとるにせよ、真っ先に陳元贇の名がでてくるのは、「通説(一般に認められている説)」に限りなく近いのではないだろうか。
 氏は「文献資料を聞いたことがない。また通説ともなっていない。」と断言されている。鶴山師範の「通説となっている」という表現を使う人はいないという意味であるならば、うなずけないわけでもないが、多くの文献に陳元贇の名がでてくるのは、どういうことなのだろう。
(3)さらに言えば、鶴山師範は「通説」である陳元贇説に賛同しているわけではないことである。
 鶴山師範は「通説」を紹介したすぐ次のページで、「中国文化の影響は受けたが、必ずしも陳元贇のみが「やわら法」を伝えたものとする考え方はあやまりではないだろうか」と否定している。
 氏の書き方では、鶴山師範があたかも「通説」を墨守するだけの人間であるかのような誤解を生みかねない。

 鶴山師範が言いたかった肝心のことは書かないで、その前振りともいうべき部分だけ取り上げて批判されるのは、いかがなものかと思われます。
 以上のように、氏の「武術史や文化史の基礎的知識も大東流合気柔術の歴史的研究には当然必要となる」という意見には、反対する者ではありませんが、その根拠を導き出すための鶴山師範批判には、疑問を呈さざるを得ません。 

3、「(3)会津藩武術史に合致しない事」でも高橋氏は、鶴山師範の「合気武道の理合なるものは、槍(宝蔵院流)、棒(新当流)、剣(小野派一刀流忠也派)を合体してまとめられたものである」という説に、「日新館誌」や「会津藩教育考」など会津藩武術研究の基本的文献にそれぞれの流派名がないので、会津藩の武術史に合致しないと批判されています。

119号40pの高橋氏の文 私の反論
<3>会津藩武術史に合致しない事
 たとえば、鶴山晃瑞氏の『図解コーチ合気道』のP87「三-四 合気武道の理合(上)」には「合気武道の理合なるものは、槍(宝蔵院流)、棒(新当流)、剣(小野派一刀流中也派)を合体してまとめられたものである」とある。
 しかし、『日新館誌』や『会津藩教育史考』など会津藩武術研究の基本的文献によれば、会津藩に伝承した剣術の流派は、安光流、太子流、助国流、神刀諸流、新陰流、待捨流、天流、新天流、真天流、一刀流、破東一流、東軍流、左流、山口流小太刀、大道流などがあり、その中の一刀流に関しては、小野派と溝口流が伝承されていた。なかでも溝口派一刀流は現在でも伝承されていることは有名であるが、中也派の名は見られない。また棒術に関しては、棒術の流派として青柳流、鹿島流、要流、初心流、大玉流、天流が、また杖術の流派として、伊達流、天流、随変流の名が見られるが、新当流の名は見られない。よって、これは会津藩の武術史に合致しない説である。
(1)まず、大東流の基礎になった流派の名が何であったかは、武田惣角自身の口からは明らかにされず、ましてや「おしきうち・ごしきうち」なるものも会津藩の公式・非公式の資料にないのは、大東流を研究する者には常識である。
 ただ、武田惣角の言った事を嘘とは思わず信じるからこそ、鶴山師範はそのルーツを捜して膨大な資料を集め、多大な労力を研究に費やしてその成果を発表した。
 氏の考え方では、基本的文献にある流儀の中に大東流のルーツがあることになりはしないだろうか。ではそれはどれなのだろう。起源について「確実な考えがまだ得られていない」そうだが、批判をされるのであれば対案はあるはずだろう。
 もしそれが仮に基本的文献の中にない流儀、例えば家伝の「武田惣角の祖父が伝承していた流儀」であるとすれば、ご自分の言葉がそのまま自説への批判となってしまうことに気づいているのだろうか。
 氏は「合気ニュース」の118号では、武田惣角が一人で大東流を作り上げ、西郷頼母の名は宣伝のために使っただけという説に立たれているようだ。
 そうだとすれば、流祖の武田惣角の言を信じるかどうかという、基本的前提からして違う立場であり、鶴山師範と議論がかみ合わないのは当然かもしれない。
(2)さらに鶴山師範は、氏の言われる基本的文献に出ている各流儀の実像までも掘り下げ、その実体を研究した。
 そのことは例えば、師範の道統とその研究も引き継がれている折笠師範が雑誌「秘伝」の1995年3月号に明らかにされているように、剣術の「安光流」や「太子流」の由来まで深く掘り下げたことにもあらわれている。
 また同じく「秘伝」1998年2月号でも、柳生新陰流の渡辺師範が紹介されているように、鶴山師範は会津藩の武術を様々な角度から研究していたのである。
 鶴山師範の説の考証の根拠を挙げるとすれば膨大な説明が必要となるので省くが、文献・資料など歴史の表面に表れている事柄だけが真実ではないと考え、膨大な資料の中からわずかな痕跡を考古学者のように見い出し、論文発表ではなく商業的な出版物という制約の中で、簡潔にまとめて表現するという至難の作業の裏には、大東流のオリジナルを探し出したいという鶴山師範の情熱が隠されている。
(3)氏の言われる基本的文献には、表面的には大東流と関わりのありそうなものはほとんどないかも知れない。
 しかしそれだけを基礎にすれば、逆に大東流自体のルーツがどこにもないことになりはしないだろうか。
 武田惣角が自ら学んだ小野派一刀流と、ルーツのあいまいな柔術とをベースに大東流を一代で築き上げたのだろうか。
 そうではないと鶴山師範は考え、そのことを実証しようとした。
 師範は大東流が会津藩の日新館で諸流派を研究する中で形作られ、江戸末期に公武合体時代における教育武道として完成を目指していたと捉えた。また、兵法としての小野派一刀流系にとどまらず、平法としての柳生新陰流系も係わっていることを公開され、他の大東流(小野派一刀流系)と区別するため、久琢磨師範より大東流免許皆伝の証として、日本伝合気柔術に引き継がれている。


4、同門の先輩方から話を聴くと、鶴山師範の生前にはその説に対して誰も批判できなかったのに、亡くなった途端に「死人に口無し」を良い事に、言いたい放題に批判をされる師範方が出てきた、という状況のようです。
 氏の批判もまさしく同様なものといってよいでしょう。

5、以上の批判に対して、氏は「合気ニュース」第130号で、2の部分に関し、次のような言い訳をしています。
「・・・・・まさに鶴山氏の前振りにおける独善な珍説を批判しています。武術史の基礎知識に外れると指摘したのです。私の文章が悪くて分かり難かったようで、いらぬ誤解を与えてしまった点はここにお詫びいたします。
 しかしその舌の根も乾かぬ内に、実は鶴山説への批判は陳元贇柔術始祖説への反論ではなく、その前振りのほんの一部への批判だと以下のような文を続けています。それについても下記の通り多々反論すべきことがありますが、それ以前に2を見ていただくと分かるように、氏の表現はどうひいき目に見ても柔術始祖説への反論であって、今更そうではなかったと主張されるのは、それこそ氏の言われる「情報操作」以外の何物でもありません。

130号69pの高橋氏の文 私の反論
 陳元贇に関する通説とは、陳元贇が、「大明には柔弱にして剛強の人を捕るの術あり、我よくその技を見る事多年なり」と語り、それを契機に、福野が工夫して和(やわら)を発明した話となっています。これが起倒流系の伝書「登板集」中の記述で通説となりました。
 それに対して鶴山氏は、陳元贇が、「東洋医学(経絡説)の文献を中国より持ち込」み「伝えたもの(が柔術である)と書かれている。」としています。
 即ち、鶴山氏は、江戸時代以来の通説とは異なり、「大明の陳元贇が、東洋医学(経絡説)の文献を中国より持ち込み、それが柔術の理論の基礎となり、柔術の技法を伝えて、これが柔術の起源である」と書いてある文献資料があり、これが通説であるように記述しています。
 しかし、これは鶴山氏の奇説で、残念ながらそのように書かれた文献資料は全くありません。私は、鶴山氏が、柔術研究の基礎的知識を欠き、陳元贇柔術始祖説に対して独善の奇説を展開して、巧みに情報操作せんとしている方法を問題としています。
 
 いやあ、どこをどう読めばこのように読めるのであろうか。
 素直に「東洋医学(経絡説)の文献を中国より持ち込ん」だ「大明の陳元贇(と言う人)が」、「(柔術を)伝えた」と読めばよいのである。
 「東洋医学の文献を中国より持ち込んだ」というのは、陳元贇がどういう人物であるかを簡単に紹介するための文節であって、「その持ち込んだ文献が柔術の理論の基礎になり」などとはどこにも書かれていない。
 そのようには鶴山先生は書いていないだから、「そのように書かれた文献資料が無い」のは当たり前である。
 どうみても批判するためのこじつけとしか思えない。私や別の読者からの批判に対して窮するあまり、氏が無理矢理でっち上げた屁理屈としか思えない。
 もし仮に氏が屁理屈ではなく最初からそのように思って書いていたとしたら、それはそれで氏が鶴山説を色眼鏡で見ているという証拠になるだけであろう。
 氏の鶴山先生に対する「独善的、或は、根拠のない奇怪な説」という罵倒はそのまま氏にお返ししたい。


6、さらに鶴山師範の
「陳元贇がわが国に帰化したのは萬治二年(1659年)で、死亡したのは寛文十一年(1672年)であり、このことは名古屋建中寺にある石碑によって証明される。
 文献に紹介されている柔術としては竹内流の柔術が最も古い。開祖は陳元贇の渡来よりも百数十年以前のことであり、しかもその柔術原理は東洋医学による経絡原理の構成となっていることは注目に値する。(注: 経絡理論については、後日発表する)
 また、宮本武蔵の五輪書(1664年頃なったもの)も、柔術理論、とくに経絡理論の展開であることをみても、中国文化の影響は受けたが、必ずしも陳元贇のみが「やわら法」を伝えたものとする考え方は誤りではないだろうか。」

 という記述に対して、氏の見当違いな批判は次のように続きます。どうやら氏が大東流の他に修行した竹内流についての記述がいたく気に障ったようで、もしかしたらこの部分がこの批判の引き金になったのではと思われます。

130号69pの高橋氏の文 私の反論
 竹内流の極意である当身技は、ほとんど全ての柔術の流派と同様に、東洋医学の経絡理論(極く簡単に言えば、体の表面にある鍼灸の「ツボ」急所と「ツボ」急所を結んだ線「経絡」と「五臓六腑」内臓とを関連をあるものとみなす経絡理論と、内臓「臓腑」の生理解剖学的知識たる臓腑理論)を典拠としていますが、柔術に含まれる、投げ技、固め技、逆技などの全ての技法を経絡理論では解説できません。よって竹内流の柔術原理が経絡原理というのは経絡理論をよく知らない人の言うこじつけにすぎません。
 宮本武蔵の五輪書が柔術理論、とくに経絡理論の展開というのは、南堂末雄(後に倉太郎、更に箕内宗一)先生が主張した説の引用ですが、南堂説そのものが牽強付会(こじつけ)に過ぎません。経絡とは、体の表面にある鍼灸のツボとツボを結んだ線を言うのですから、武道における体の運用にこじつければ、どのようにもできます。
(1)当身技はもちろんその通りであるが、では「固め」や「逆」の技法に含まれる、「ツボ」急所を制圧する技術は何なのであろうか。
 たしかに柔術理論の全ての面を経絡理論によって説明することは不可能なことかもしれないが、多くの部分を説明できるものであり、鶴山師範の記述をよく読めばそのような言い方になっていないのは一目瞭然ではないか。
 さらに師範はその「経絡理論」の発表をせぬまま物故されたのであり、師範の「理論」と高橋氏の主張する定義が一致するかどうかもわからないのである。
(2)宮本武蔵の五輪書についても、「南堂説そのものが牽強付会」と主張されている。その評価はいつ武術界の通説となったのであろう。
 また鶴山師範がそれを引用したと言われるが、どこにそのように書かれているのか。
 氏のこのような勝手な決めつけこそが、「牽強付会(こじつけ)ではないだろうか。  

 ここまでで氏の鶴山師範への批判がいかに無理のあるものであるかは十分にご理解いただけると思います。しかし高橋氏はこれにも懲りず、またもや合気ニュース128・129号においてさらなる批判を、それも姑息と言っても良い手段を用いて繰り返してきました。(「その二」に続く・・・・・・)