「朝顔の手」についての考察

 柔術の小手の力を養成する場合の「朝顔の手」による鍛錬と、合気柔術の技術を養成する場合の「朝顔の手」の用法は自ずと異なってくる。

 柔術の技法においては、小手の力を発揮するために撓骨を押し出す筋肉操作をするわけだが、その際に小手の伸筋の操作・制御と、同時に自然発生的に起きる手首の硬直をどのように防止するかが重要となる。そのためには親指の付け根だけを動かす技術が必要になるとともに、親指と小指に起こる「力み」をどう制御するかが鍛錬の中心になる。

 一方、合気柔術においては、相手の頭の重心を引き出すための掌の反射運動と、先述の柔術技法で使う親指の運動をどう切り離すかが課題となる。つまり、親指とそれ以外の指とを別々に制御しなくてはならないことになる。それが出来るようになって初めて、手のひらの中心をいわば「陥没」させていく操作が可能となるし、手の内の中での「押しと引き」が完成するのである。

 この操作を行うことによって当然起こる指と掌の形が、いわゆる「朝顔の手」の形を成すのは必然であるし、大東流の別派の「合気の手」という同様の形を取る意味もはっきりしてくる。ただ、ここではその最終の形だけの説明にとどめ、「朝顔の花が開くように」という口伝についての考察は、また別の機会にしたい(これについては、その運動の回転軸の問題の説明が煩雑なことと、「猫の手」の技法に発展する部分が含まれるためである)。

 以上のように、合気技術の中での掌の表層筋の反射運動と、柔術の技法との混合と言う意味で「合気・柔術」と、日本伝が以前はわざわざ「合気」と「柔術」の間にピリオドを打っていた訳がはっきりするのである。

 しかし合気柔術の「朝顔の手」で鍛錬するのは、ただ単に相手を「上げる」ためだけにあるのではなく、「反射の合気」とも言うべき、相手の重心を「手の内」だけでどう操作するかを学ぶためでもある。

それは例えば古い空手の「掛け」の用法と同様のものを習得することにより、攻撃をどう処理すれば「無力化」が出来るのかと言う技術につながっていく。攻防の中での「受け」が、「払う」や「はじく」という言葉で表現されるのではなく、なぜ「受け」と表現されるのかは、その鍛錬の中でおのずと理解できるものである。