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9月6日(日)

黒雲来る

 九州の西を北上中の台風の影響が、牧馬にもやってきた。湿った暖かい空気をどっさりと丹沢に持って来て、藤野にも大量の雨を降らせている。まさかこれほどの影響が出るとはね。
 土曜日の夜の降りは凄まじく、車を運転しててもワイパーがまるで効かない。こんな大雨の為に、中央高速も甲州街道も、鉄道の中央本線も動かなくなった。道路を使えなくなった車が、藤野の細道を迂回路に使ったために、日頃は静かな藤野の道が、やたらと賑わしい。中には、藤野の道は初めて使う大型トラックがいたのだろう。隘路を曲がれなくなり、かといってバックで戻れなくなり、立ち往生してしまった話も聞く。

 幸い、人的被害を出すような土砂崩れの話は聞いていない。ただ、すでに新道が出来て、現在では通行不能になっている旧道が、土砂崩れで崩落した所があったそうな。
 あと、大雨の影響か、水道管がおかしくなって断水した地域があったとか。

 藤野や旧津久井郡各地では、昨年の台風で土砂崩れを起こしたまま、むき出しの崩落地を曝している所が少なく無い。そういった場所が新たに崩れていないかと心配したけれど、案外、そういった場所はないみたいだね。まあ、まだ情報が揃っているわけではないけれど。

嵐前

 それにしても、まだ近隣には、土砂崩れのために道路が塞がれ、とりあえず片側交互通行だけでもできるようにしている場所だって幾つもあるのに、毎年のように災害を起こすような雨が降られたら、道路を修理する早さよりも壊される早さの方が勝ってしまうのではないか。近年の災害の多さは、そんな危惧を抱かせる。

 理想を語れば、災害に遭ってもそれほど被害を受けないような世の中を、計画的に作っていくべきなんだろうけれど、実際には、そううまくいかないかもしれない。
 災害に強い世の中を計画する前の段階から、次々と災害に弱い地域が被災し、復旧しようとしても復旧の途上でまた被災し、やがて復旧を断念して放棄されるかもしれない。
 最悪は、災害に強い世の中を作ると言うよりも、たまたま災害に強い所にあった町だけが残る、という形だろうか。

 一つ希望と言うか、有利な点があるとしたら、たぶんこれからは町作りの難しさが、20世紀の時代よりも楽なんじゃないかな、という点。
 20世紀は、とにかく大都市に人口が流入し、本来は危険があって人が住むには不向きな所にだって、無理して住居を作ってきた。大きな川のそばだって、堤防を作れば大丈夫とばかりに、家でもビルでも建てた。これでは災害に強い町にするのは最初から難しい。

 でも最近は、在宅勤務も徐々に浸透して来て、何も一極集中の町作りをしなくても良さそうな雰囲気になってきた。住宅地の分散化が可能になれば、何も災害に対して弱い所に無理して住む必要は無くなって来る。

ススキ

 一つ、漠然と思うのは、確かにいずれは、災害にも柔軟に対処できる世の中は作れるとは思うけれども、それは決して、災害に対して戦おうという気持ちからでは、成功への道筋は現れないのではないか。
 災害対策という考え方からは正反対に矛盾するようだけど、最後は、自然にはかなわない、という、自然に対する畏敬の気持ちが無ければ、災害に強い世の中は生まれないと思う。
 自然に対して、勝とう、克服しよう、という発想がある内は、たとえ口では「災害に強い町作りを」、と叫んでも、それとは正反対の町作りをしてしまい、失敗を重ねるだけだろう。 

 どんなに文明が進んでも、「自然にはかなわないよ」という気持ちを持ち続けて、人間は決して地球の主人では無く、たまたまこの星に生かされている存在に過ぎない、という謙虚な気持ちを保ち続ける事。そこに、21世紀的な、自然と調和した世の中が、ようやく形を現し始めるのだろう。

 そこに至る道を思う時、まだまだしばらくは、人の気持ちがそのように変わるまで、災害による悲劇は止む事も無く、くり返されるのではないか、と感じている。
 しかし、
「お前の言っている事は敗北主義だ。自然の脅威に対して立ち向かう気概を無くして、どうしたら災害に強い世の中ができるというのだ。」
と、反発を食らうかなぁ、こんな意見は。やっぱり。

夕立ち

 山に住んでいると、大雨で土砂崩れを起こした所にも、新しい芽は生えて、やがて草木を生い茂らせて行くのを見る。
 これら草木は、自然の脅威に曝され、時には滅ぼされる。しかし、新たに日々、成長を続けている。そこには、自然に対して対抗するという姿勢ではない。
 野生の力強さとは、そんな所にあるのだろう。そして、その力強さは、現代人が失って久しいものだ。

8月31日(月)

入道雲

 厳しい暑さが続く。各地で雷雨もあるようだが、どうも牧馬や藤野は降ってくれない。一雨降ってくれればだいぶ涼しくなるのにねえ・・・と思ってたら、8月最後の日にようやく夕立ちが降った。
 ただ、今年の7月はまるで晴れ間もない雨続きで、野菜が育たないと困った事態になったが、この8月の晴天でようやく勢い付いた野菜もあるようだ。

 暑いけれども光は低くなり、やはり晩夏という言葉が似合う雰囲気になってきた。この8月最後の土日は、いつにも増して行楽の車が多く、キャンプ場も賑わっていた。こうなると、牧馬周辺の道も渋滞が出来てしまい、うっかりスーパーに買い物に行ったら渋滞に巻き込まれて、なかなか帰れなくなってしまう。

 まだまだ夏だと思って油断していると、秋の野菜の種を撒く時期を逃してしまう。牧馬とか篠原って、例えばダイコンの種を撒くのは8月の下旬。これがうっかり、9月の中旬なんかに撒いたりすると、実りの季節を迎える前に冬が来てしまい、ろくに育つこともなく終わってしまう。
 山里は太陽の光が山に遮られてしまうからね。冬になると極端に日射量が不足するようになり、野菜を育てる力を失ってしまう。

 まあこういっった、この土地では何の野菜の種を、いつ頃撒くのが最適かという話なら、地元の人に聞くのが一番だ。

晩夏の斜光

 野菜の話が出たので、もう少し書く。新型肺炎の影響で仕事の量が減ったしまったり、ほとんど仕事にならなくなってしまった業界も多いそうだ。確かに、いろいろと自粛ムードだからね、景気が良くなるはずもない。
 ただ、そんな中でも、農業はそれなりに強いんじゃなかろうか。いくら疫病が流行ったとしても食べるのを自粛するわけにもいかず。
 飲食店の営業自粛で需要が無くなってしまう農産物もあるけれど、やはりみんな普通に御飯は食べるはずで、様々な産業の中では、底堅い分野じゃないかと思う。

 これから更にコンピューターが発達したり、技術革新が起こる度に、それまで人間がやっていた仕事が無くなってしまう事も起こるだろう。働く側としては(・・・いや、起業する側としても・・・)なかなか安心できない世の中になるとは思う。
 この仕事をしていれば一生食っていける、といった、昔ながらの仕事に対する安心感が揺らぎ始めると、人々を不安にさせない制度も必要になってくる。
 たぶん、農業は、そんな制度の一部を担う事になるんじゃないかと思っている。

 何らかの理由で、仕事を失い、それに伴って住む場所さえ失いかねない苦境に陥った時、簡単な畑仕事をする事を条件に、衣食住を提供してくれる・・・とか。
 こんな農的なセーフティーネットを考える時、やはり大都市に人が集中し過ぎるのは問題があるようだ。ある程度、農地と都市が混在している方が都合が良い。東京の真ん中では畑に行くだけでも大変だ。

北丹沢

 セーフティーネットとしての農的な支援組織というのは、ありうると思うけれど、その一方で、農業も技術革新の波が来て、あまり労働力を必要としなくなる時代が来るかもしれないなぁ、とも思う。
 つまり、どんどん仕事が無くなって行く世界。

 これはこれで、人を不安にさせる。これまで人々は、「仕事をするから生活の保障がされる」という了解で安心を得て来た。その前提が崩れてしまう。
 ここで、鬼が笑うのを承知で想像を膨らませてみる。とりあえず、仕事をしなくても生活の保障はしてあげる、という世の中になったとする。でも私は、そこで人々みんなが、「あー、もう何もしなくてもいいや」と自堕落になるとは思えない。考えてもみればいい。たとえ仕事をしなくてもいい世の中になったとして、人から「あなたは日頃、何をしていますか」と問われたとする。その時、「特に何もしていません」と、堂々と言えるだろうか。
 何か、「私は、これこれこういう事をやっています」と、言っちゃうと思うね。そして、その時代の人々は、みんなそういう風に言うので、「特に何もしていません」なんて言う人は、よほどの少数になっている。

 たとえ仕事をしなくてもいい世の中になっても、人は世の中に対して、「私はまともで勤勉で誠実で信頼に足る人間だ。生きる目標をきちんと持っている人間だ」と、表明する必要に、迫られるんじゃなかろうか。

相模湖

 簡単にまとめると、仕事をしなくてもいい世の中になったとしても、「わたしは信頼に足る人間だ」と証明する必要に迫られる。これまでの世の中だったら、仕事をしている、というだけで、その証明を世間からもらう事が出来た。まああの人は仕事はしているから、社会人としての常識もあれば、生活力もあるだろう、という信頼の証明が。

 それが、仕事に因らない「信頼に足る人間の証明」となると、それまでとは違った評価の基準が出て来るかもしれない。
 例えば、仕事をしていれば信頼が得られた世の中だったら、強欲でケチな人間でも、信頼を失うと言うことは無かったはずだ。でも、信頼の基準が仕事に因らなくなった場合、どうなんだろう。
 「仕事」とは別の、「人間性」の様なものが、もっと価値を帯びるようになるのではないか。

 総裁選、みなさんがんばってね。

8月24日(月)

夕立ち

 相変わらず暑い日々が続く。当初の天気予報では、土日に雨が降って、それ以降は涼しい空気も入って来るような話だったけれど、藤野に関しては雨は空振りに終わった。確かに、その日は各地で大荒れの天気もあったようだけど。
 ただ、さすがに暑さの峠は越えたような感じがする。同じ暑さでも、時折、吹き渡る風は、どこか乾いている。

 ひたすら雨が続いた7月は、少しは晴れてくれないかなぁとボヤいてたけど、晴れが続くと雨が恋しくなって来る。上の写真の夕立ちは、なかなか激しい降りだったが、牧馬や篠原は空振りに終わった。夏の夕立ちは、ほんの少しの距離の差で、雨が降ったり全然降らなかったりする。

 8月も最後の週。さすがに行楽の車やバイクの数は減ってきた。個人的には、今年は夏祭りが無い8月だったので、なんか、8月が終わった気がしない。やはり、ああいう年中行事のお祭りって、日々の生活にめりはりを付けている所は、確かにあるようだ。祭りなどの行事が無いと、なんだか同じ日がだらだら続くだけのような印象がある。

 来年は、お祭りとかできるだろうか。

夏雲

 首相が体調不良だそうだけど、そろそろ辞める時期なんだろうか。
 次の首相の交代では、いろいろと変化があるだろうなぁと思う。最大の変化は、人が変わる事だろうか。何しろこれまで、内閣の面々から官僚に至るまで、あまりたちのよろしいとは言えない人間で固めて来た。こんな人事が永遠に続くはずもなく、いずれは終わりを迎える時が来る。

 古今東西、どこの国や組織にも浮き沈みがあり、才能も人格も優れた人が、その能力を存分に発揮できる時代もあれば、そういった人間がかえって疎まれ、たちの悪い人間ばかりが幅をきかせる時代もある。どちらの時代も、永遠に続くわけでは無い。
 悪人がつるむ時代もあるけれど、人格も才能も上々の人間で無いと対処できない問題も増えてくるだろうし、そういった人間を使わざるを得なくなるだろう。

 これまで、「お友達内閣」なんて言葉も使われて、「友達」のイメージも悪くなったが、これからは、まともな志を持った者どうしの友達も、出てくるんじゃないかしらん。国にせよ自治体にせよ企業にせよ。

 それに、世の中が乱れている間は清廉の士は世の表には出ずに、ひっそりと身を退いているのを佳しとしてたかもしれないけれど、そろそろ、そういった人々も積極的に出て来てもいいんじゃなかろうか。そして、それぞれで友達を作って欲しい。

山また山

 これまで、このヒマ日記では、「これからこの世の中、仕事がどんどん無くなっていくんじゃないのか」といった事を書いて来たけれど、一方でこうも思っている。この世の中、困っている人、苦しんでいる人は沢山いるし、困ってもないし苦しんでないけれどヒマで退屈している人もいるだろう。
 そういった人々を、喜ばせる仕事は、これからも無くなる事はないと思う。

 今までの世の中、仕事といったら、食うため、生活費を稼ぐために、嫌々ながらでも我慢してでもやるものだ、という感じで来ちゃったけれど、「喜び」という言葉を中心にして仕事が回り始めると、人々の意識も変わってくるだろうな。
 そもそも、これからは何が「喜び」になるかも、変わって来るだろうし。

 まあ、私としては、とりあえずは健康かなぁ。正直、ちょっと夏ばて気味で、少しゆっくりと休みたいところだ。
 疫病は、人々からだいぶ喜びを奪って来た事は間違い無い。また人々が普通に集まって、祭りをしたりできるようになるのは、いつ頃だろう。

夕立ちの後

 

8月16日(日)

盛夏

 前回の日記で、梅雨は開けて暑い夏に入ったけれど、すでに立秋も過ぎているので、残りの夏は短いかもしれない・・・なんて書いたけど、なかなか容赦のない暑さが続く。土地によっては40度に達した所もあるとか。うーん、長い夏になるかなぁ(笑)。
 それでも、既に朝の4時では暗くなっていて、日照時間は短くなっているのは確かなんですけどね。

 御盆休み。特にどこに行こうとか予定はなかったけれど、昼間の2時3時とか、暑くて家に居られないので、バイクで遠出した。風が体に吹き付けるので、家でじっとしているよりも、ずっと快適。ちょっと高原の湖まで行ってきた。
 5月の連休頃は、この湖畔の町も非常事態宣言で火が消えたように行楽客はいなかったけれど、御盆休みは、まあまあ賑わっているみたい。

 終戦記念日は75回目だそうだけど、今の政府の疫病対策を見ると、なるほど、これでは戦で負けるわけだわいと、妙に納得してしまう。科学と知性と合理的判断を軽視し、酷いリーダーと酷い取り巻きと、酷い役人が一緒になって、マトモな人間を排除して行動を進めて、批判は受け付けない、なんて態度を通せば、そりゃあ酷い結果になるに決まっている。

夏の景色

 前回の日記で紹介した、ロボット掃除機みたいな草刈り機だけど、今でも気になっている。
こちら>>

 まだ高価な機械みたいだけど、何でも出始めはそんなものだ。普及が進めば安価になって来るに違いない。
 なにより、夜でも雨でも、ほったらかしで勝手に草刈りをしてくれるというのが有難い。それに、夜でも使えるとなると、有害鳥獣対策にも使えるかもしれない。
 夜間であれば、鹿やイノシシが嫌がる光を発して威嚇したり、音を出したりする機能を付け加える事もできるだろう。

 以前から、田舎の農地には、有害鳥獣から守るための夜警の仕事が必要なんじゃないかと思っていた。こういう仕事なら、ロボットに任せるのも良いかと思う。
 ああ、あと有害鳥獣だけでなく、人間だって、泥棒とかいるからね。

 とにかく、今の山里では、安心して畑ができる状態を作るまでが、まずは一苦労。大規模な柵を作ったり電流を流したり。
 これに夜警が加わってくれたら、だいぶ安心できるんだけど。

山と雲

 まあ、そういうわけで、「こういう道具があったら欲しいなぁ」という物が無いわけでもない。ただし・・・、そうだなぁ、これから世の中が必要とする仕事の総量というのは、しばらく減少して行く傾向にあるのは、防げないと思う。

 いずれ、誰かが言わなければならなくなるのではないか。「すまんが、今やっている仕事の量を、3割にまで落としてくれ」って。
 もちろん、そうなったら、「暮らしていけなくなるじゃないか!」という問題になる。

 でも、20世紀の勢いのままで事業を続けようとしたり、ましてやさらなる発展と拡大を目指そうとしたら、行き着く先は、やはり破滅しか無いと思う。どこかの段階で、仕事の規模を3割に落としても成り立つ世の中の形を、想定する必要に迫られるんじゃないかな。

 疫病のせいで、世界の経済は減速し、所によっては壊死も始まっているが、そもそもが無理の多い経済の形だったのではないか。それがたまたま疫病のために、「イカロスの失墜」みたいな事になったように私は思う。

湖畔にて

 仕事を減らせ、という世の中が来ると、いろいろと今までとは違った考え方が必要になるだろうな。大量生産、大量消費、大量廃棄の世の中ではなくなるので、物は大事に、丁寧に扱って、少々の痛みなら直して使い続けるような気風になるかもしれない。

 それは決して、悪い世の中ではないだろう。ゴミの処分場がいらなくなるような世の中だって、見えてくるはずだ。