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12月11日(月)

相模湖

 風が吹けば、木の葉がきらめきながら雪のように舞い散って行く。上の写真は12月5日頃のものだけど、今はもう、こんな姿じゃない。いつのまにか、山の景色も紅葉から冬枯れへと変わっていた。12月8日に少し雨が降ったが、丹沢では雪になり、翌朝には冠雪した山並が姿を現せていた。

 山道には、あちこちで道路脇に溜った落ち葉を集めて、袋に積めている人がいる。これから堆肥を作って、次の年の農作に使うのだろう。
 道路の落ち葉が綺麗に片付くので、とても有難いけれど、今度はスリップ事故の季節になってきたな。今朝なんて、藤野の各地で車やバイクのスリップ事故の話を聞く。
 あー、おれもまだ冬タイヤじゃねえや。急がないと。これからけっこう本格的な冬将軍が来ると言うし。

 自分もなァ、もうちょっと未来を予測して、先手を打って行動できればいいのに、というのが今回の話。

 薄日の湖面

 前回の日記で、これから「冬の時代」が来ると書いた。夏の盛りに植物が繁茂するような、じゃんじゃんモノを作ってきた時代が終わって、秋になって木々が葉を落とすように、未来には必要のないものを、静かに、一つ一つ片付けて行く時代というものがある・・・と。

 ただ、「冬の時代」と言うと言葉は厳しいが、決して暗黒時代ではない。冬の時代には、冬の時代なりの楽しみもあれば、やるべき事もあると思っている。
 そして、実は冬の時代こそ、最も人々の創造力を必要とする時代だとも。

 例えば、旅行に行くとする。
 春の時代というのは、旅行で言えば旅立ちの事だ。旅行の目的地に向かって動き出す季節。夏の時代というのは、目的地に着いて、予定していた行楽を楽しむ季節。秋の時代は、お土産を買って、家路に戻る季節。
 じゃあ冬の時代はというと、次の旅行の計画を練る季節ということになる。

 この比喩だけでも、冬の時代こそが、最も頭を使わなければならない事が判る。

 逆に言えば、他の季節は、まるで坂道に転がした石のように、自動的に春から夏、夏から秋に移行するだけでもよく、それほど頭を使う必要は無い。
(旅先での急な予定変更とか、頭を使う事態ももちろんあるけれど)

 次の旅は、どこに、何をしに行くのか。行楽が目的か、人に会いに行くのか。
 行楽でも、山に行くのか海に行くのか、それとも温泉地か。旅の目的を絞り込むだけでも、けっこう頭を使うだろう。
 旅の目的と行く先が決まれば、今度は乗り物の予定を組んで切符を予約したり、宿の手配も始まってくる。そういった準備は、いきなり旅立ちの当日に行う事は無理だ。
(全く計画も練らないで、あらかじめ宿の手配もしないで、目的地も決めずにいきなり旅に出るという人もいるでしょうけれど、ちょっと今回は、この比喩からは外します)

朝の、蒸気のたつ道志川

 冬の時代というのは、次の春や夏や秋を見据えた計画を練る季節と言えるが、口で言うのは簡単だけど難しい。
 来年は、明治維新から150年の節目になる。欧米に追いつこう、という時代の目標は、とりあえず終了し、その目標をずるずると惰性で続けても腐敗が進むだけだろう。

 次の150年の目標を、自らの知恵で導きだせるかどうか。自分に想像できるのは、せいぜい次の15年程度だろうが、それですら、想像が当たるかは自信が無い。
 おまけに、更にその次の年には元号も変わるとか。ホント、いろいろ変わるんだろうなァ。

 そんな未来に向けて、先手先手を打って既に行動している人も多いのだろう。これは、日本国内よりも海外に、そういった人材が多いような気がする。

光る霜

 まあ自分は、150年後とか15年後とかではなく、来年の事を考えようと思う。願わくば、時の流れに流されるだけで終わるのではなく、時の流れを主体的に変えていく生き方ができればいいのだけど。

 それにしても、洋の東西を問わず、一年の終わりと始まりを冬至に求めると言うのは、なかなか知恵のある選択ではなかったか。
 その一年の反省と、次の年への計画を考えるのは、確かに、春でも夏でも秋でもなく、冬こそが相応しい。

12月4日(月)

雑木林の路

 先日、篠原の里で、年に4回行われる「里の市」があった。この里の市も、けっこう回数を重ねてきて、やや参加者も出店者も固定化してきたせいか、このところ沈滞気味だったとか。そこで、今回は新たな出店者を招いたり、広報に力を入れたりして、てこ入れを図ったそうな。
 そしたら、当日が晴天だったせいもあって、駐車場がいっぱいになる盛況で、日頃はあまり見かけないようなお客さんも、遠路はるばる来てくれるたとか。
 この里の市の写真も撮ったんだけどね、ネット上には掲載できないな。特に子供の顔とか、個人情報保護の問題もあるし。

 もう一つ藤野の話題。藤野の駅前で、長い間に渡って地元の芸術家の作品を展示販売してきた「シーゲル堂」が、12月をもって閉店となる。ただ、お店として完全に無くなると言うわけではなく、今後は、貸しギャラリーのような形態で続けていくそうだ。
 12月半ばに、売りつくしセールというものを企画している。
こちら>>

 自分も、このお店に関しては、設立当初から関わってきただけに、いろいろと感慨深い。

 ススキ

 シーゲル堂の閉店の理由は、店主が高齢になって、体力的に負担が大きすぎるようになったため。
 それでも、開店当初は定休日が週に一日だったのが、2日になり3日になり、やがては土日だけの営業になり、最後にはそれも、店主にかわって出展者が店番をするような形になった。
 けっこう、限界ぎりぎりまでやり尽くした感がある。

 今後は貸しギャラリー的な使い方になると言う計画らしいが、事実上、今年はすでに貸しギャラリー状態だった。

 シーゲル堂に展示販売されている藤野近隣の作家の作品は多種多様で、それらの作品が売れる度に、売り上げの何割かを作家に渡す事になるが、そういった仕事だけでも、お年を召した方には大変だったと思う。

 あとなー、これまで店主は時々、自分が店番をしていると、いくらイベントや祭りの多い藤野でも、自分は遊びに行けないな、と言っていた。
 閉店作業が一段落したら、今度は楽しむ側で遊んで欲しい。

 このところ、他にも、経営者の高齢化で事業をやめる話をよく聞くようになった。その多くは、事業を継ぐ人がいないというのが原因で、事業自体は好調で周囲からも頼りにされているような仕事でも、惜しまれつつ閉業というのも多い。
 で、仕方なく、同じような仕事をしてくれる所を探して、そこに仕事を依頼しても、「うーん、急にレベルが落ちるようになったなァ」と困惑する事も、また多い。

 高齢化社会で、若者が減ってきたからかなァ。昔だったら出来た仕事が、だんだん出来にくくなる世の中になっていくのかもしれない。
 そういえば、JR貨物が、初めて黒字になったとか。その理由と言うのが、労働力不足でトラックの運転手の数が少なくなり、流通の企業がトラックから鉄道へと手段を変更しつつあるからとか。
 少しずつ、しかし確実に、世の中は変わってゆくけれど、この変化って、世の中が「痩せ衰えている」ってやつじゃないの?。

きらめく木立

 このところ、この日記で、「最近気になる動画」について書く事が重なったけど、これもだな。
こちら>>

 最近、ちょくちょく見る動画の一つで、ダムを撤去していくもの。この動画はアメリカのワシントン州のエルホワ川のものだ。同様の動画は、ユーチューブで「Dam Removal」で検索すると、ごろごろ出てくる。
 そういう時代の流れなのかなぁ。アメリカで起こった事は、遅れて日本でも始まると言うが。

 アメリカの事だから、ダムを撤去するのもハリウッド映画みたいに爆薬で一気にドカンとやるかと思ってたら(←偏見)、丁寧に、少しずつ削っていくんだね。やっぱり、ビルの解体 みたいに爆薬で一気呵成に、というわけにはいかないか。下流にだって住民はいるし、自然環境に劇的な負の影響を与えちゃいけないし。

 この映像に限らず、こういったダム撤去の映像を見ると、使用される音楽とか、映像の眼差しといったものが、いずれも優しく、穏やかなものが多い。
 ダムを撤去して行く行為に、そういったイメージがあるのだろう。静かに人々の心を癒すような、平安を求めるようなイメージが。
 少なくともここには、人知の限りを尽くして、巨大な建造物を作って自然を征服するする、という雄々しいイメージはない。

紅葉の谷

 以前から同じような事ばかり書いているけれど、やはり私には、世界全体が夏の時代を終えて、秋から冬へと向かっているように思えてならない。夏の盛りに植物が繁茂するように、じゃんじゃんモノを作ってきた時代が終わって、秋になって木々が葉を落とすように、未来には必要のないものを、静かに、一つ一つ片付けて行く時代というものがあるのだろう。

「いやだいやだ、秋から冬なんて嫌だ、これからも夏をずっと続けるんだ」
と叫ぶ経済界の人も多いだろう。でもなー、民衆の活力を搾り取るだけ搾り取って、土地をすっかり痩せさせて、「新しい芽が出てこない」と嘆かれてもな。
 若者が車を持てない状況を招いて、若者の車離れを嘆くと言うのは、悲劇と言うよりは、もはや喜劇だろう。

 冬というのは、痩せてしまった土地を、ゆっくりと落ち葉で肥やす時期なのかもしれない。

11月28日(火)

雨の紅葉

 一週間に一日くらいの割合で、雨が通り過ぎ、山の木々は落葉を加速させて行く。今年の紅葉は、特別綺麗な当たり年という程ではないけれど、例年の平均からすると、綺麗な方なんじゃないかなぁと思う。

 自分が参加している田んぼの仲間たちとで、稲の脱穀をして、麦の種を播く。陽の当りの悪い畑では、午前中でも大きな霜柱がごつごつと伸びていて、今回の冬は霜柱の成長も早い感じだ。
 秋の藤野はいろんなイベントや祭りが各所で毎週のように行われるけれど、こんな農作業をやってると、なかなかそんなイベントに顔を出す事ができないや。なにしろ相手は生き物なので、こちらの都合なんて待ってくれない。畑が主で、人間が従の関係になる。

 言い方を換えれば、人がみんな農作業をするようになれば、みんな、少しずつ謙虚な性格になるということなのかな。少なくとも、世界は自分を中心にして回っている、などといった尊大な感覚は薄れると思う。

 今年の田んぼの作業も、あとは年末に仲間と餅搗きをするだけだね。

雨雲と山

 年末に向けて、そろそろ大掃除の季節にもなるのだけど、今年、いろんな事を考えた中の一つに、「ゴミ屋敷」がありました。家の中がゴミだらけになっている家の事です。テレビとかでも取り上げられる機会が増えたようだし、そんな家の片付けを行う業者も増えたようだ。ネット上の動画なんかでも、時々、見る事があるのですけど。まあ、ユーチューブで「ゴミ屋敷」で検索するとごろごろ出てきます。
たとえばこんなの>>

 なんでこんな現象が気になるかと言うと、こういった光景が、これからの未来を象徴しているように思えるから。
 一つは高齢化。お年寄りの一人暮らしというのは、体力の衰えと共に、家を綺麗に維持できる領域が小さくなってしまう。始めは二階が物で埋まり、やがては自分が暮らす最低限の動線以外の所に物が埋まって行く。
 ただ、こういった現象はお年寄りだけではないそうで、仕事がきつすぎる生活をしている若者でも、同じ事が起こるそうな。

 自分が暮らしている環境を、常に綺麗に整理しておくというのは、その人に体力的・精神的・時間的な余力が必要らしい。生活をしていればどうしてもゴミは発生する。しかし、生活に余力が無いと、日々生まれるゴミの量に対して、片付けるゴミの量が追いつかなくなる。結果、ゴミが増え続けて、どこかで生活が破綻して、清掃業者にお願いする日に至ってしまう。
 いや、それはまだ良い方で、たまったゴミが火災の原因になってしまう事もあるとか。

ススキの谷

 世の中の持続可能性については、今までさんざん書いてきたけれど、身の回りの環境を常に綺麗にしておくというのも、持続可能性の問題だろうし、持続可能性を喪失したところから、ゴミ屋敷は発生するのだろう。
 これは個人だけではなく、会社や町といった組織でも、持続可能性を失ったところから、綺麗に整理された場所が減って行き、処理が追いつかなくなったゴミが目立つようになるのではないか。

 あと、ゴミ屋敷って、未来に対して夢や希望や志を失った時にも現れる現象らしい。
 私の心に強く残っている話がある。ある家族が住んでいる家が、何らかの経済的な事情で、家を手放さざるを得なくなり、家が競売に出されることになる。すると、たいてい、その家は、住んでいる家族が掃除や整頓をする気力がなくなり、家の中がゴミだらけになる事が多いとか。

 似たような印象を、町のあちこちにスプレーで描かれる落書きについても感じている。「来年の自分は、今年の自分よりも確実に良くなっている」という自信と確信のある人や、これから世間と堂々と渡り合って生きて行こうという意欲のある人なら、そんな落書きなんてすまい。

晩秋の陽

 高度経済成長期であれば、東京タワーが立ったり新幹線が開通したりテレビや洗濯機やクーラーを買ったりとか、誰にでも判りやすい夢や希望に満ちた明るい未来像を描けたかもしれないが、今はなかなか難しい。
 ただ、「難しい、難しい」と言っている間にも、心の空虚と荒廃は徐々に進み、ゴミ屋敷やゴミ会社やゴミ市町村が増えて行ってしまう。

 この流れを止める一つの方法として、綺麗に整頓する気風を、文化として尊重するようにしたらどうかと思う。
 いい仕事をする職人は工房も綺麗で、道具も整備されて整理整頓が行き届いているとか。何代も続いているような老舗は、いつも掃除がなされて清潔感があるとか。

 続く人、続く家、続く企業、続く町は、いずれも共通して掃除も行き届いているし、整理整頓を心掛ける気風があるものだ・・・という文化が定着すれば、少しは状況が変わってくるように思う。

11月21日(火)

谷の秋

 11月も半ばになって、ぐっと冷えてきた。
 これは昨年も同じ傾向で、おまけに昨年は11月の末頃に、とても11月とは思えない大雪が降ったんだっけ。もう忘れている人も多いと思うけれど。
「うわー、車のタイヤを冬用に換えてない」と、あちこちで大慌てだったな。あの時は。

 もっとも昨年は、12月は穏やかな気温が続いたけれど。今年はどうだろう。
 このところの暖冬傾向で、12月中旬頃までは小型の電気ストーブでもなんとかなる感じだったけど、今回は11月半ばから灯油ストーブを使い始めました。明日は二十四節季の「小雪」。大雪にならなきゃいいが(笑)。

 あちこちでクリスマスの電飾が始まり、そろそろ、この一年を振り返るような季節になってきた。
 個人的に、いろいろ考えた話の一つに、こんな出来事がある。初秋の話なんだけど、もうすっかり忘れてしまった人も多いかな。

 日野さんというジャズトランペット奏者が、自身が指導している中学生のドラム奏者を、コンサートの実演中に往復ビンタをしたとかで騒ぎになった事件があった。何でも、そのドラム奏者が、勝手に暴走的に演奏を続けて、日野さんの注意も制止もきかずにドラムを叩き続けようとしてたから、とか。
 この件、日野さんが悪いとか、その中学生が悪いとか、いろいろ意見があるようだ。

小春日

 この話、いろんな切り口から考えが可能だけれど、そのドラム奏者も暴走だったかもしれないけれど、観客が注視している晴れの舞台での暴力沙汰も、十分に暴走行為といっていいだろう。その意味では、このドラム奏者も日野さんも、似た者同士とも言える。

 個人的に、いろんな切り口で語ってみたいのだけど、まず一つ。晴れの舞台で自分の能力を存分に発揮して、周囲を驚かせてやろうという若者の姿勢は、否定できるものなのか。
 その姿勢は、時には暴走し、周囲の迷惑も顧みず、集団の調和を乱し、自己の利益だけを追求する我がまま勝手な悪事として捉えられる。
 しかし逆に、すべての若者が、年上の指導者の意見に逆らう事無く従い、集団の調和を守る行為しかしなくなったら、それは、その芸術の分野は死んだといってもいい。

 予定調和からの反逆精神は、芸術に限らず、文化や科学の進歩の原動力で、大事なのは、その反逆精神を押さえつけるのではなく、社会にとっても、その人自身にとっても、幸福な形に反逆精神を活かせる道を探る事だろう。

山道の家

 さて、我が身を省みて。
 もし、私が、この時の日野さんの立場だったら、どう行動しただろうか。
 たぶん、とりあえず、5分でも10分でも、1時間でも、そのドラム奏者に暴走させるままにしたと思う。

 周囲の仲間もしらけるだろう。観客もしらけるだろう。そこで、どんな才能の発揮のさせ方でも、客の気持ちを台無しにする事もある事、そして、自分の評価も台無しにする事もあることを、これもまあ、いい機会だと思って、学んでもらおうと思う。
 逆に言えば、たとえ暴走でも、客を沸かせてしまったら、その人の勝ちだ。これはもう、実力の世界なんだから。

 以下の動画は、映画「天使にラブソングを 2」の一場面。
こちら>>

 ここで歌う少年は、最後の方で、声を一段と高く張り上げるが、これはこの少年のアドリブだったらしい。映画の監督も、周囲の役者も、この少年がそこまでやるとは想像もしていなかった。
 しかし、一見、暴走行為かもしれないが、周囲を沸かせてしまえば、その人が勝者だ。どうも日本よりもアメリカは、そんな若者の、時には「調子に乗りすぎる」くらいの暴走にも、寛容な気がするし、その寛容さが、新しい才能を育てているようにも思う。

だいぶ葉も落ちてきました

 組織は、大きく分けて二つの種類がある。
 一つはピラミッド型。最高権力者がそれ以外の人々を従わせるやり方。
 もう一つは横型。その組織に集う人々には上下の身分差はなく、それぞれが協調して何かを成し遂げるやりかた。
 この二つには、それぞれに長所と欠点があるが。

 集団で音楽を奏でる場合、ピラミッド型がいいのか横型がいいのか。
 これもにわかには判断しかねる問題だ。偉大な指揮者が指揮をする音楽は素晴らしいものだろうけれど、指揮者不在の室内楽もあるからね。
 そこで有名なのが、オルフェウス室内管弦楽団なんだけど、ここの組織論が、音楽界の中でも実に独特で、そして、個人的には最も先進的だと思っている。まあ、横型組織の理想型のモデルといっていい。
 興味のある方は、以下のサイトをご覧ください。
こちら>>

 それにしても、世界にはこんな組織もある一方で、やれ音楽に体罰は是か非かといった議論を聞くと、なんとも日本の音楽が、中世的な野蛮さを残しているように見えてしまう。
 かといって、日本の伝統音楽の雅楽は、指揮者不在の音楽でもあるというのは興味深い。

11月14日(火)

しぐれ

 一雨ごとに、着実に冬は近付いているらしい。今週の後半には、寒気の流入があると天気予報は言っている。どうも、あの恐ろしい大雪(2014年の2月)を経験してしまうと、今回の冬は大丈夫なんだろうな、と考えてしまう。

 先日、牧馬にサルの群れがやってきて、畑を荒そうとしていたので、慌ててロケット花火やら爆竹やらを使って追い払ったけれど、鹿やイノシシなら柵でなんとかなるけれど、サルは柵を平気で登って越えたり、網の下をくぐったりするからな。始末が悪いや。
 それでも、最近はサルにも有効な柵の提案もあるみたいで、今後の展開に期待したい。自分の実感としては、ようやく、県や市といった公的機関も、地元の住民も、総力をあげてケモノの対策に取り組む気運が沸き上がってきたように感じている。

 そりゃあ、もっと早く沸き上がってくれればなァ、という気持ちも無いではないけれど、こういうのって、やっぱり時間がかかるね。大勢の人が被害にあって、大勢の人が悲鳴をあげるようになって、ようやく世の中は動き始めるのだろう。

 病気が軽微の内に早期治療をするのではなく、こじらせてから医者にかかるみたいで、あまり賢い光景ではないかもしれないけれど、仕方がないのかなァ。

相模湖

 このところ、夜に寝る前に、こんな映像を見る事がある。
こちら>>

 ギリシャの、テッサロニキからラリサへ至る鉄道の走行画面。もちろん、1時間を越える動画を全部見るほどヒマじゃないので、所々、つまみ食いしながらの鑑賞だけど。
 なんだか、妙に新しい路線のような雰囲気があるので、グーグルマップで航空写真を見てみたら、どうやら路線のあちこちで新線に切り替えている。かつては、くねくねと曲がりながら、山を避けたり勾配を避けたりしては走っていた路線が、高速化と輸送力の増強を狙って、曲がりくねった路線を短絡化した新線を造って、旧線を廃止している。どうりで、カーブのゆったりとした直線の多い路線だと思った。

 Leptokarya駅(58分頃)からは、一気に長大なトンネルを使って直線で駅と駅を結ぶようになり(特に1時間10分頃のRapsani駅から)、確かに列車は速くなったのだろうけれど、そのかわり、エーゲ海に面した光景や、ピニオス川沿いの渓谷を眺める事は出来なくなった。

「便利にはなったのだろうけれど、そのぶん、旅情には欠けるようになったなァ」
 などというぼやきは、私の傲慢なエゴだとは判っている。その土地の人々にしてみれば、不便で遅い鉄道よりも、そりゃあ今の方が良いに決まっている。

山の午後

 こういった、鉄道の新線化は、私の住む近くの中央本線でもある。例えば、鳥沢駅から猿橋駅までは、今でこそ長大な橋梁と長大なトンネルで、直線的に結んでいるが、かつてはそのような橋梁やトンネルを造る技術が無く、国道20号線に沿うように、現在の路線の北側を迂回するように結んでいた。

 近年は、廃線跡を散策する趣味の方も多いらしく、ネットで検索しても、いろいろなページが出てくる。例えばこれとか。

 話をギリシャの鉄道に戻すけれど、ギリシャって、つい近年は、経済的な破綻で騒ぎになった所だ。この動画の公開は2017年の11月4日で、つい先日だが。
 動画を見てみると、新しい高速道路の建設工事の光景が出てきたり、なかなか活気もあるようなんだけど、どうなんだろう。

 あとなぁ、経済的な危機に直面していたとはいえ、ギリシャというお国柄の光景を見ると、のどかで明るくて、なんだか日本の方が追い詰められているような感じがしてしまう(笑)。

谷間の光

 これは公開されたのは2年前の動画で、セルビアのベオグラードからギリシャのテッサロニキに向かう列車の動画だけど。
こちら>>

 動画の35分頃に、マケドニアの国境の駅で、マケドニアの国境警備の警察官が、移民が列車に乗ろうとしているのを防いでいる・・・というより制圧している場面が出てくる。
 移民の目的は、やはり出稼ぎだろうか。日本みたいな島国だと想像しにくいけれど、生活のために故郷を離れて、暮らして行くすべを求めようとする光景は、あちこちの国境で見られるのだろう。
 2年経った今、この人たちはどうなっているのだろうか。ギリシャも大変だったけれど、その北隣りのマケドニアも、いろいろと大変なんだろうな。

 いや、実際は日本だって、昭和の中ごろまでは、世界のあちこちに移民をしてきた。そんなに昔の話ではない。
 自国の中に、ちゃんと生活を継続させていくすべを作って行くという作業は、これから世界的に大事なテーマになっていくのだろう。