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5月31日(日)

五月の風

 春から初夏にかけて、山の色合いは目まぐるしく変わっていったが、この頃から、あまり変化のない夏の緑一色になる。ただ、この五月の後半は雨が少なく、沢の水も力が感じられない。水不足を心配するのは少し早いかもしれないが、田んぼに水をやるには、けっこう豊富な水量が欲しいんだけどね。
 かといって、昨年のような水害は、もう勘弁して欲しいが。

 今年はイノシシの害が少なくないか、と聞かれた。うーん、言われてみれば、例年だったら、もっとそこらじゅうを掘り起こされていたかもしれない。
 佐野川で豚コレラに感染していたイノシシが見つかっていて、藤野のイノシシが急減しているのではないか、という話があるという。人間の方も疫病で振り回されているが、イノシシもそうなのかしらん。

 害獣とはいえ、あまり生き物の死を歓迎するのは、なんか人非人のような気がする。養豚を行っている方々なんか、いつ被害が豚に及ぶかを思うと、心配でならないだろう。とはいえ、イノシシが減るのは大歓迎という気持ちも正直ある。
 ついでに、ヤマビルを死滅させる疫病も流行ってくれないかなぁ、などと物騒な事も考える。減ってくれればありがたいが、他の生態系への悪影響だってあるだろうし、イノシシやヤマビルから人間に感染するという事だって、今後のウイルスの変異次第ではあるかもしれないし。

相模湖

 疫病のせいで、世界的に経済の減速が続いている。経済活動の再開の動きもあるが、どうも世の中が、疫病の流行以前の規模にまで、経済を再開させる気はなさそうな印象がある。
 前回の日記でもちらりと書いたけど、在宅勤務が日常化してしまったり、満員電車に乗る気持ちが無くなったり、「まあ、家で静かに仕事をしていても、それほど問題はないね」という世の中の形が社会的に承認されちゃうと、経済の規模も、疫病の流行以前の状態まで戻す必要はなくなる。

 スローライフという言葉は既に定着しているけど、静かなサイレントライフというのも、これから出て来るかもしれないな。
 世の中、活気がないと寂しいと感じる人も多いと思う。というか、そっちの方が主流だろう。でも、企業として、静かな生活様式を進めて、静かな働き方を進めた方が利益がでる、となったら、どうしても世の中はそっちの方に行ってしまうのではないか。

 企業にとってリストラは、何も人減らしだけじゃない。ビルの数を減らし、車の数を減らした方が有利となれば、それらもリストラの対象になる。

こがねむし

 そんな火の消えたような静かな世の中はイヤだ、もっと活気に満ちあふれた世の中がいい、となれば、何をして活気を産み出すか、という話になってくる。
 自分なりの想像だけど、イヤイヤやるような仕事、金のために仕方なくやるような仕事は、これから徐々に消えていくのではないかと思っている。
 後に残るのは、それが喜びとなる仕事、自分の幸福に繋がると確信の持てる仕事という事になるんだろうな。

 かつては、「好きな事をして仕事にする」なんて、よほど恵まれた成功者しかあり得なかったけれど、未来には、それしか仕事と呼べるものが無くなっているかもしれない。
 いや判ってますよ、この文章を書いている私自身だって信じがたい。私だって旧型の人間なのかもしれないが、やはり仕事は、イヤな事でも我慢して、むしろイヤな仕事の中にも喜びとやりがいを見つけながら、努力を重ねて実力をつけていくのが仕事だ、という考えが染み付いている。
 「好きな事をして仕事にする」なんて人が目の前にいたら、世間をなめるんじゃありません、そんなのは仕事じゃない、趣味だ、と言ってしまいかねない、古い人間なんですよ、私は。

 でもなぁ、そんな古い考え方が、これから少数派になっていくのかな、という予感も、確かにあるのです。

山と雲

 これからの仕事は、人や社会を喜ばせるのはもちろん、自分自身も喜ばせる仕事だよ、と言われれれば、そういう仕事しか未来には残らないのかなとも思う。

 こうなると、「権力」という性質も変わって来るかもしれないな。どうしても権力というのは、国家であれ企業であれ、人々を支配し、使役し、更には人々から労力や知恵や資産を奪うという性質があった。
 でも、人々を「喜ばせる」なんて性質は、ほとんど無かったんじゃないか。せいぜい、「飴とむち」の飴くらいなら存在したけれど。

 不思議な、時代の境目にいるような気がします。

5月23日(日)

相模湖

 木陰は深い影を落とし、日射しはまともに浴び続けるとけっこうきつい。晴れれば完全に夏の陽気だけど、数日雨が降り続けると、小さめのストーブが朝晩は欲しくなるような気温にもなる。大汗をかいたり、厚手の上着を羽織ったり。なかなか安定しない。

 非常事態宣言が段階的に解除の方向に向い出して、休業していた道志川沿いのキャンプ場も営業を再開したし、この土日は行楽の車やバイクがわんわんと忙しく走り回っていた。5月の連休が嘘みたいに静かだっただけに、連休にできなかった事を取りかえそうとしているかのようだ。

 学校も再開を目指して動き始めているけれど、藤野の場合、生徒の人数の少ない北小は、週に二回、既に登校を始めているそうな。まあ、一つの教室に40人がみっちりと居るような学校じゃないからね。
 人口の減った山の小学校なら、ひとクラス20人とか10人とか、いくらでも密集は防げるぞ。生徒の数に比べて教室が余っているし。

 まあ、いくら学校側が努力しても、小学生は遊び始めると、もみくちゃになって平気で体を密着させるからなぁ。これは止めろというのが無理というものだろう。

 学校の話が出たので、そのまま続ける。
 今回の新型肺炎騒動で、これまでの世の中の形が変わってしまうだろう、という意見は多いし、私もそう思っている。ただ、それは単に疫病が世の中を変えるというよりも、もともと変わりつつあった世の中が、疫病を機に変化が加速した、と考えるべきだと思う。

 在宅勤務なんかその代表例だろう。疫病の流行で在宅勤務が増えるのではない。以前から、在宅勤務を可能にする技術も揃いつつあったし、仕事の内容も、在宅勤務で対応可能なものになりつつあった。
 条件は整っていた。疫病は、そこに背中を押す役割を演じたに過ぎない。

 そこで学校の話なんだけど、これから学校って、どんな風に変わるのかな、と想像を巡らしてみた。
 当座は、通信回線を使った、遠隔地からでも参加できる授業というものが出て来るだろう。これは既に始まっている。
(相模原市は学校のオンライン授業への準備の取り組みが、他の自治体に比べてだいぶ遅れているらしい。70万都市では身動きが遅くなってしまうのかな。)

 でも、学校の変化は、そんなものでは終わらないと思う。

緑の町

 学校の教育が、「教科書に在る事を憶えさせる」事を目的にしているだけだったら、たぶん、先生はいらなくなってしまう。人工知能の先生が、それぞれの生徒の実力と理解の進み具合に寄り添う形で、適切な教育を個別に行うくらいの技術は、そう遠くない未来には可能になるだろう。
 そうなると、生身の人間の先生ならではの役割って、何だろうか。

 おそらくは、なかなか答えのでない問題を、生徒と一緒に考えるような授業を行うようになるんじゃなかろうか。歴史学だったら、「○○時代の●●政権の、この政策の良かった点と悪かった点は」といった事を一緒に考えたり、現代社会が抱えている問題を考えてみたり。
 国語なら、自分の考えている事、伝えたい事を、分かりやすく相手に理解させるには、どんな表現があるのかを実践してみたり。
 更には、生徒自身に、学習指導の人工知能のプログラムを作らせるのも面白い。例えば、中学生が、分かりやすくて楽しく学べる小学校の算数の授業を作ってみたり。

 学校の授業の内容が、単に教科書にある事を憶えさせる、という段階から脱却すると、授業のあり方も、かなり創造的になる。「詰め込む」というよりも「産み出す」割合が増えて行く。

山また山

 まあ、今回の疫病で、学校がそこまで変わるとは私は思っていない。ただ、10年後くらいになると、どうかな。

 たぶん、全ての学校がそうなっているとは思わない。一気に進歩が加速した学校もあれば、ずっと昔ながらの学校を続ける所もあるだろう。
 ただね、私は、一人の先生が、40人の生徒に向かって、同じ授業をするという現状の形式は、教育の理想からはだいぶかけ離れていると前から思っていた。

 せっかく、定型業務は人工知能がやってくれる時代が見えてきているのだから、学校も、定型業務は人工知能にやらせて、人間は人間にしかできない事をした方が、ずっと実りがあるんじゃないかな。

5月17日(日)

薫風

  一週、更新が空いてしまった。その間に、淡い萌黄色が鮮やかな若葉になり、更にしっかりと濃い夏の緑に変わって行った。少し山仕事をしたら汗を大量にかく暑さにもなり、日射しも日照時間も既に夏だ。
 ミズキ、野バラ、ホタルブクロが咲き、ニセアカシアの白い花が甘い香りを漂わせている。田んぼも代かきを始め、田植えの準備も始まる頃だ。

 やまなみ温泉も含めた使節の休業が8月下旬まで伸びたが、一方で非常事態宣言の段階的解除の話も出てきている。いろいろと様子を見ながら、経済活動の再開の時期を考えているのだろうな。
 ただ、多くの報道でも、今回の新型肺炎と過去のスペイン風邪との類似を指摘していて、その類似から想像すると、感染拡大の第二波や第三波もあるそうな。これから一旦おちついても、また冬になると流行が始まる事もありうるのかな。
 その頃には、もうちょっと発病しても心配しなくてもいいくらいの状況が整っていればいいのだけど。

 今回の新型肺炎騒動で思う事がある。
 その一つとして、PCR検査についての意見の対立がある。
 その人がウイルスに感染しているかどうかを調べる検査法との事だけど、日本はあまり、この検査の拡充に熱意が無かった。その点について非難する意見がある。

夏空

 その一方で、PCR検査の拡充に批判的な意見もある。曰く、必ずしも正確に感染者を割り出せる検査法ではない。曰く、検査のために医師や医療施設に人が殺到して、かえって医療崩壊が起こる。
 これらの意見も、現場を良く知っている人たちの真面目な見識なのだろう。

 私の「思う事」は、その批判的な意見に関してだ。

 話はいきなり飛ぶが、戦国時代、日本に鉄砲が伝来して、すぐに飛びつく大名もいれば、鉄砲に懐疑的な大名もいたことだろう。
 当時の鉄砲には弱点もあり、雨等の悪天候に弱いという事もあるし、何より、一度弾を発射すると、次の射撃までに時間がかかるという事があった。一度発砲しても、次の発砲の準備をしているうちに敵に攻め込まれてしまう。
 おそらく、実際のいくさ場を知り抜いているベテランほど、そんな気持ちを抱いたのではないだろうか。弓矢の方がよほど役に立つ、と。

 ただ、織田信長は、そんな鉄砲の弱点を数の力で押し切った。大量の鉄砲を用意させ、大人数の鉄砲隊でじゃんじゃん発砲すれば、連射と同じ事ができるだろう。
(かつてよく言われていた、長篠の戦いで使われたという、鉄砲隊を3つに分けて、発砲と準備を順番に回転したという「3段打ち」は、現在では疑問視されている。しかし、織田信長が鉄砲の増備に注力していたのは事実で、鉄砲の弱点を数で補っていたのは間違いない)

相模湖

 私が何を言いたいのかというと、現代に織田信長がいたら、PCR検査でも同じ事をしたんじゃないかな、ということ。
 検査の機械が足りないなら増備してしまえ、医師や医療設備の手を煩わせない機械を開発してしまえ、検査の精度が悪いのなら別種の検査と併用して精度を上げてしまえ。それが出来ないという人間は殺してしまえ(笑)。
 そんな時、鳴かせてみようホトトギス、といった豊臣秀吉みたいな人間も出て来る。

 PCR検査の拡充に否定的な意見に私が感じるのは、「できない理由」だけを言っていることだ。意地悪に言うと、できない理由を「探している」ようにすら見える。
 しかし、戦国時代のような人の生き死にがかかっているときは、
「このままでは滅ぼされる、なんとかできないか」
「できません」
なんて言ってられない。
 もちろん、「できない」という人も、その人の抱えた「常識」を元に、できないと言っているのだろう。しかし、戦国時代の特徴は、常に常識を塗り替えた人々に、力が集まり、生き残りが可能になるところにある。

 物騒な比喩だが、今回の新型肺炎騒動も、既存の常識では対処できない戦国時代のような側面があるのではないか。そんな時に、「できない理由」を言うだけの存在は、時代に流されてしまうのではないか。
 私自身、「できません」と言うしかない局面もあるとは思うが、できるだけ「こういうやり方ならできるかもしれません」と言う側に立てればと思う。

青い山

 これは日本だけに限らないが、新型肺炎対策で、国と地方自治体との見解の齟齬や、国の中央の政策とは別個に、独自の政策を展開する地方自治体が目立つ。
 その中には、中央政府の政策よりも、ずっと効果的で進んだ対策を打ち出して、成果をあげる所も出て来るだろう。

 その辺りも、ちょっと戦国時代っぽい。

5月4日(月)

初夏の光

 5月に入る。連休になったわけだけど、行楽の客はすっかり少ない。少し前は、道志川沿いのキャンプ場にも客が来てたけど、キャンプ場の営業そのものが休止になり、河原にはテントは一つも無くなった。前にも書いたけど、河原でのキャンプくらいなら、感染の拡大にならないんじゃないかと思うんですけどねえ。
 まあ一方で、「キャンプ場は例外的に自粛無用」なんて事になったら、恐ろしい程の数の行楽客が殺到するかもしれない。例年だったら道を行く車やバイクの数が賑やかだったが、今年は皆無とまではいかないが、すっかり減ってしまった。

 不要不急の外出は控えろとの事だけど、個人的には用事があって山中湖まで行ってきた。あそこも、観光客はガラガラだったなぁ。あの辺りは標高が高いとあって、まだ早春の装いだった。
 県境をまたいだ移動も控えるようにと呼び掛けているけれど、藤野の住民にはちょっと地理的に難しい。藤野は神奈川県だけど、隣の上野原市(山梨県)に買い物に行く人も多いし、小仏峠を越えて八王子市(東京都)に出かける人も多い。

 今回はそれほど問題にならなかったけど、万が一、もっと酷い事態になって、県をまたいだ移動も禁止みたいな事になったら、買い物や病院への通院には、かなり困る事になっただろうな。

渓谷(桂川)

 これから書く事は、かなりの不興を覚悟しなければならなのだけど、この新型肺炎の流行による社会への影響に関して、奇妙な多幸感があった。
 勿論、発病して闘病されている方、亡くなられてしまった方の御家族や友人、苦しい状況下で活動を続けている医療関係者の方々にしてみれば、私の多幸感なんて不謹慎そのものでしかないだろう。だからまあ、こういった誰も読まないようなホームページで、ぼそっと書くだけにするのだけど。

 この多幸感の印象。例えるなら、ちょっと自分には精神的にも身体的にもきつい仕事を辞める事になって、明日から収入のあてが無くなって仕事もオ探さなければならなくなったけれど、「ああ、あしたからあの会社に行かなくてもいいんだ」と思った時の多幸感と言ったら通じるだろうか。
「明日から朝5時前に起きなくてもいいんだ」とか、「明日から毎晩深夜に帰宅する事はないんだ」とか、「明日から満員電車に乗らなくてもいいんだ」とか、「明日からあの仕事をしなくてもいいんだ」とか。

 収入のあてがなくなり、まるで社会との接点を失って、荒野に置き去りにされたような状況かもしれないが、それでも沸き上がってくる多幸感。
 そんな印象が、ついて回っていた。

滝のある風景

 またこんな印象もある。学校が休みになり、春休みといわず、夏休みと言わず、これからずっと休んでもいいよ、と言われた感じ。子供たちは一瞬、わあっと喜ぶかもしれないが、永遠に続く夏休みと聞くと、徐々に不安を感じ始めるだろう。学校が無くて大丈夫かと言う不安もあるが、永遠に続く休みというのは、その退屈に耐えられるかどうかも不安に原因になる。

 生活の心配はしなくたもいいから、好きな事だけやってなさい。イヤな事は何もしなくてもいいし、好きな事が無ければ、何もしなくてもいい。
 もし、そう言われたら、一瞬の喜びの後、漠然とした不安を感じるようになる。
 私の言う多幸感は、幸福感だけというよりも、そんな糸の切れた凧のような、漠然とした不安も混じった多幸感だ。

 何をふざけた事を言いやがる、とお叱りを受けるかもしれない。何しろ経済活動が停止して、経営的に苦境に立たされた企業も多ければ、倒産の憂き目にあった企業も有るし、今後も増えて行くかもしれない。仕事を失う人も増えるだろうし、自分だってその影響から免れるわけではないだろう。

 ただ、この新型肺炎騒ぎが収まると思われている2〜3年後。私は、社会の印象が、ここで書いてきたような、ちょっと漠然とした不安も混じった多幸感のある雰囲気になっているのではないかと思っている。

わかば

 とりあえず、そんな未来では、みんな「忙しい、忙しい」とは言ってないんじゃないかなぁ。
 仕事があるから忙しい、と普通は人は思う。でも、そうでは無いのではないか。「忙しくなくちゃいけない」から仕事を「無理して作っている」という可能性は。

 限界ぎりぎりまで働くから身体を壊しがちになり、病院に通って治療を受けたり薬を飲むお金が必要になるのではないか。余裕を持って働けば、身体を壊す事もなく、余計な出費に気を使わなくても済むのではないか。

 将来が不安だから高い学歴も必要になる、保険にも入る、人並みの生活を維持しようと努力する。でも、将来の不安がなかったら。
 大学に生きたい人は行けばいい、他にしたい事が有る人は行かなくてもいい。好きなように生きればいい。やりたい事はやればいいし、やりたくない事はやらなくてもいい。
 そんな世の中になると、無理に忙しくさせていたこれまでの世の中のシステムも、だいぶ変わってしまうだろう。