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6月30日(木)

田植え

 今年の梅雨は空梅雨の傾向で進み、今週も、始めの週間予報では週の半分以上は雨の日になると言う話だったが、いざその当日が近付くと、天気予報の雨マークが曇りマークになり、結局、2日程度しか降らなかったねえ、という結果になっていく。

 まあそれでも、時々は本降りの雨も降るし、田んぼへの水路の水の量も回復したので、無事に田植えを終えることができました。今回は子供達が大勢で手伝ってくれたので田植えのはかどる事。
 まあ、子供達は田植えが半分ほど進んだ頃には、近くの川へ遊びに行ってしまいましたが。

 こういった、屋外や野山で楽しむイベントで、藤野でもヤマビルの被害に遭う事例が増えてきたようだ。ヤマビルの害には、効果的な対策も採られないまま被害を拡大し続けてきたが、いずれ、ヤマビルのせいでイベントの集客が見込めずに中止、なんて事も出てくるのではないか。

 私が考えるヤマビルの対策は、まず第一歩として、山に柵を作ってイノシシや鹿の移動を制限して(ヤマビルの拡散の最大の原因は鹿とイノシシです)、ヤマビルが里に入る機会を無くさせる事だけど(以前、そんな事を書いた)、地元の住民がそこまでの決意を固めるには、まだ時間がかかるだろうな。

こかげ

 最近、リーダー論について考える事が多い。といっても、ここで言うリーダー論とは、よく言われる「理想のリーダーのあり方」という話ではない。
 例えば、10人の仲間が旅行している時に昼食の時間になり、ある人は「コンビニの弁当でよかろう」と言い、ある人は「スーパーで食材を買ってキャンプ場で料理しよう」と言い、ある人は「せっかくの旅行なんだから、この土地ならではの郷土料理を食べよう」と言い、またある人は・・・
 こんなふうに意見が分かれた時、そこにいる全員が、リーダー的素質を持っている必要がある、もしくは、持ってなくてもリーダー的素質を尊重する気風がある必要がある、という話だ。

 どうも日本語でリーダーとかリーダーシップといった言葉が出て来ると、そこには命令する側と服従する側という、権力の印象がついてまわる。私も、そんな理由でリーダーシップという言葉には敬遠したい所があった。

 ただ、いったん心を落ち着かせて、リーダーという言葉を文字どおり「導く者」としたら・・・。
 前述の10人の旅行者だって、意見の相違はあっても、10人全体が理想的な状態へと「導く」必要に迫られる。
 これが命令と服従で行われる権力の仕組みであれば、やる事は簡単だけれど、上下の身分の差のない平等な状態で、全体が幸福になるには、どうやってその集団を導いていけばいいか。

山の雨

 ここで、ちょっと面白いなぁと思ったページがあった。

Twitterで「議論」をふっかけてくる人をこし餡に例えるとわかりやすい→「いるいる!」の声多数
こちら>>

 ここに紹介されているのは「議論」の名にも値しない悪意と劣等感から来る言いがかりの数々の例だけど、こんな発言をしてくる人が集団にいたら、その集団全体を良好な方向に導くのは難しくなるだろう。

 でも、ここまであからさまでなくても、これに近い事を言う人って、案外多い。
 いや、厳密に観察すれば、議論が白熱した際には、こういったルール違反のような理屈を少しも使っていない人間の方が、むしろ少数派だと思う。
「私は、こんな酷いやつではない」
と、自認する人ほど怪しいものだと思う。そうではなくて、常に「私は議論をする時に、こういったルール違反の理屈を使用していないか」と、自戒している人でないとな。

 実は、リーダー論で一番大切なのは、この「自戒」なのではないか。言葉を変えれば、自分自身に対する厳しさとも言える。
 自分は正しい、と深い考えも無しに自認するのではなく、はたして自分は正しいのか、と常に自分自身に対して懐疑の姿勢を失わない謙虚さ。

夕焼け

 人が集まって、何か議論をする時、そこにいる全ての人に、そんな謙虚さがあると、その議論は深みのと実りのあるものになるだろうし、その議論から発展するアイデアも多い事だろう。そんな集団から、未来を切り開いてゆく力は生まれてくるのだろう。

 リーダー論なんて必要無い、各人がやりたいようにやればいいんだ、という人もいるかもしれない。
 しかし、自分の属する集団が向かっている方向が、望ましく幸福な流れになっているのか、と考えた時、流れを作り、その集団の未来を導くのは、その集団に属する全ての人が、リーダー的素質を持っているか、リーダー的素質を尊重する気風を持っている集団だろう。

 「良い流れ」を作っていくには、自分はどう行動し、ふるまい、発言していくのか。これはリーダー論そのものだろう。


6月21日(水)

ちょっと荒れた雲

 夏至を迎えた。梅雨に入っているはずだが、週に1日か2日くらいしか雨は降らない。爽やかに乾燥した6月が続いてきたが、梅雨前線が本州に居座って本気を出すのも、さすがにそろそろ始まるのではないか。

 夏至の今日は、めずらしくまとまった雨になった。本降りの雨ではあったけど、「豪雨」という程ではないレベル。相模原市の平野部では風も強かったそうだけど、山の藤野はそんな風は吹かなかったな。山で風が遮られたからだろうか。

 このところの空梅雨で、浅い井戸の水が枯れてしまったと言う話も聞く。この雨で水量が復活すればいいけれど。
 まあそれでも、空梅雨で良かった事もある。この初夏は、ヤマビルの発生が例年よりも少なめだったようだ。ヤマビルはナメクジ同様に、乾いた所とか直射日光にさらされる所は苦手だからね。

 それでも、雨上がりの蒸し暑い日になると、うわーっという勢いで血を求めて近付いてくるのだが。

夏至の頃の日射し 夕方でもけっこう明るい

 最近、読んだ記事で興味深かったのがこれ。実は、記者は藤野在住の知人。

まちが輝けば会社が輝く。会社が輝けばまちが輝く。商いの歴史息づく小田原で、今もなお創業者が後を絶たない「理由」
こちら>>

 一読して、いろいろと心に響く言葉がちりばめられている。

「もうね、昔みたいに「東京に上って錦を飾る」みたいな感じ、ないよね」
「顔の見える関係をどうつくっていくか」
「らしさはもうやめよう」「らしさ」じゃなくて「ならでは」
「故郷っていうのは未来から借りているものだ」

 元気な町、次々に何かが生まれる町というのは、たぶん、その出発点は、祭りとかイベントを行うところから始まるのだと思う。「よし、私達で何かやってみよう」という感じで。藤野も、どういうわけかポコポコといろんな事をやりたがる人が増えた町になった。

 それが更に時間をかけて成長して行くと、ポコポコと「起業」が生まれる段階に進んで行くのだと思う。

相模湖

 記事の表題は「まちが輝けば会社が輝く。会社が輝けばまちが輝く。」だけど、どうもこれまで、特に20世紀を通して、「輝かしい未来」とか「輝かしい町」なんて言うと、すぐに高層ビルと高速道路が行き交う巨大開発ばかりが目標とされてきた。でももう、そんな時代じゃないだろう。

 じゃあ、次の時代ならではの「輝き」とはなにかと言えば、それはやはり、普通にそこで生きている人たちが、生き生きとしている、という事なんでしょう。
 思うに、健康で生き生きとしているものは、みな光を発し、輝いているものだ。採れたての新鮮な野菜とか、黄金色に実る稲穂とか、子供たちの笑顔とか。
 いや、生き物だけでなく、丁寧に作られた工芸品とか工業製品だって、まじめに作られたものには、不思議な存在感と言いますか、光を感じます。

 これがなぁ、やる気がなくなってなげやりになったり、魂を売って悪事を平然とするようになると、光は失われて、形が崩れて行って腐敗していきますね。

 以前、この日記で「観光」の語源について書いた事がある。
 それは『易経』に出てくる「国の光を観る」から来ていて、光り輝くほどに美しい状態まで達成された、政治や民衆の暮らしと文化の国の君主から客として招かれ、その国のありさまを観る、という意味。今の「観光」は物見遊山の意味で使われるが、語源の方は、成功した政治が行われている国の視察に近い。

夕暮れ

 今回の日記で紹介した記事に、もう「東京に上って錦を飾る」みたいな感じはない、といった言葉が出てくる。私もまったく同感なんだけれど。
 ただ、これからの時代の変化を想像してみると、もっと激しい現象が起きるんじゃないかと思っています。
 それは、東京に上っても、仕事がない、という状態。

 これまでは、地方では仕事がなく生活ができないから東京に行く、という理屈が機能してきた。でも、そんな理屈が通用するのだって、永遠ではあるまい。
 東京でも仕事がないという時、東京に依存できないとなったとき、自分の地元で自分で仕事を作らなければならなくなる。

 あちこちの地元で、起業支援が必要になるのは、これからなんだろうな。

6月12日(月)

曇天

 どうやら梅雨入りしたらしい。暦の上でも昨日は入梅の日になっている。たしかに、このところ空は雲が覆い、いつ雨が降ってもおかしくない雰囲気なんだけど、なかなか雨にならない。雨に至る前に、曇りの状態で留まっている感じ。
 田植えの時期になったのに、この天気にはちょっと不安になる。ただでさえ雨が少なく、川の水もとぼしいのに。

 まあ、平均的な梅雨明けとされている7月半ばまで、まだ1ヶ月ある。その間には、もしかしたら「もう勘弁してくれ」と悲鳴をあげるような豪雨に襲われる事もあるかもしれない。もちろん、空梅雨で終わる可能性もあるのだけど。

 城山で熊が出たらしい。城山と言ったら、旧津久井郡の中でも最も都市部寄りだ。藤野のような山深い所では、すっかり熊の出現も普通になってしまったけど、まさか城山で現れるとはねえ。
 このままでは、次は橋本の住宅地でも現れるんじゃないのか。現れるとしたら、熊の前にイノシシかな。

 この話、熊に似た動物とか、熊に似た人の見間違いではなく、爪痕の痕跡から、間違いなく熊だとの事。

 先日、フランスから、日本の現状について映画を製作したいと旅をしている方が藤野に立ち寄った。藤野でも、いろいろ取材をしたり撮影したりしたらしい。製作中の映画の予告編は、ネット上に出ている。

ALTERNATIVE JAPAN LE FILM - TEASER 2
オルタナティブジャパンムービー予告編第2
こちら>>

 日本での持続可能社会へ向けた取り組みとか運動の様子が、なかなか情報としては世界に伝わっていない、と、そのフランスから来た方々は話していた。確かに、日本の情報発信って、内容を英語版に作り直して海外に向けて積極的に発信するってことは、あまり熱意がないね。日本国内で情報が伝わればいいや、くらいの感じで。

 この制作者は、じゃあ自分で実際に日本の地に降りて、自分の足で現状を見てやろう、という目的で来てくれたそうな。既に日本のあちこちの場所に行き、持続可能社会へ向けた活動を取材し記録している。
 その取材先の中には、いわゆる「エコ・ヴィレッジ」と言われている、持続可能な生活様式を具現化した集落もあった。

 ただ、私としては、そのようなエコ・ヴィレッジの姿が、未来の世界に繋がっているようには思えない所があった。

ホタルブクロ

 だいたい、エコ・ヴィレッジというものは、田畑を作って自分の食料を自給したり、太陽電池や薪といった環境に優しいエネルギーを使って暮らし、自然の恵みを上手に取り入れた夏涼しく冬暖かい家を自ら作って生活する・・・といった感じだろう。

 ただ、それはそれで素晴らしい成果だと思うけれど、私としては、じゃあ、それからどうするの?、という思いが常についてまわる。
 もちろん、環境を破壊しまくる持続不可能な生活に比較したら大進歩の達成だけれど、そろそろ「その次」の目標が必要な気がしている。さもないと、せっかくのエコ・ヴィレッジも、下手をしたら世捨て人の集落になりかねない。

 最近、そんなエコ・ヴィレッジが目指す次の目標って、これかな、と思うものがある。それは、一言で要約すれば、未来の人材の育成といったところだ。
 その最初の段階は、依存の精神から自立の精神への成長。
 現代は、あまりにも社会の規模が大きく、人々は何か大きな組織に依存しないと生きていけないような感情になりがちだ。その点、衣食住も仕事も暮らしも、やろうと思えば自分の事は自分の力でなんとかなるという自信を、エコ・ヴィレッジは身につけやすい。

夕暮れ

 次の段階は、徳のある人格の形成。言葉にすると固い感じだが、人々が助け合ったり、共同で事業を興したり、一緒に問題を解決するのに相応しい人柄を目指すという事。
 エコ・ヴィレッジだって、人的資源といえば普通の集落並しかない。そんな場に居合わせれば、そこの人々で共同でする仕事も増えてくる。
 そのような場で、ケンカ別れをしたりしないような、物事の決め方、人々との付き合い方とはどんなものか。対立が起こった時の治め方とは、どのようなものか。

 そこには、高い次元の人格が必要になる。エコ・ヴィレッジが発展するか衰退するかは、その人格にかかっていると言っていい。

 こんなふうに、独立自尊の気概を持ちつつ、仲間どうしの調和と発展を心掛けて、実際に行動して成果を収める人間を産み出す揺り籠としてエコ・ヴィレッジが機能するとしたら、それは素晴らしい事だと思うのだけど。

 期待し過ぎかなァ(笑)。

6月6日(火)

 代かきの途中の田んぼ

 今年の初夏は、雨が少なめだったように感じる。そのせいか、田んぼの代かきにも苦労した。例年だったら豊富な水を田んぼに入れて、耕耘機で一気に代かきができたのに、今回はちょろちょろとした水しか田んぼに入れる事ができず、代かきも、少しずつ泥の田んぼを広げていくという方法しか採れなかった。
 結局、一日で終わる作業が、3日かかった。もっとも、私が手伝えたのは1日だけだけど。スマン。

 田んぼに水が浸ると、さっそく鴨が飛んでくる。こいつには困るんだよナァ。田植えをした苗を突いたり食べたり倒したりする。

 雨が欲しいところだけど、どうやらそろそろ関東でも梅雨入りらしい。丹沢の山々を見ると、いかにも湿った感じの雲が湧いているのが見える。
 雨は有難いけれど、イベントの時は晴れて欲しいと願うのがムシがよすぎるか。6月11日に、篠原の「すずかけの家」で落語会があります。

すずかけの家 落語会
こちら>>

 犬や猫の毛が夏毛に変わる時期だけど、その様を例えて、理想の変革のあり方を説いた文章が「易経」の革の卦にある。「大人虎変」という言葉で、季節の変化に合わせて虎の毛も生え変わり、更に美しさを増すように、立派な人物は世の変革も成し遂げる、という意味。

 時代の変化に従って、それまでは美しく機能していた制度も、古くなってほころびが目立つようになってくる。そこで、制度を改める事になるが、理想の変革は、季節の変化に合わせて冬の毛が夏の毛に変わるように、自然に次の時代に合わせたものに無理なく変わり、なおかつ、古びた制度から脱皮したように美しさを復活させる。

 「革命」というと、流血を伴う暴力革命を想像しがちだが、本来は自然の流れに従い、それでいて理想的な変革をなしとげて人々はそれに喜んで従うという、穏やかなものだった。もっとも古代中国で、そんな理想的な革命が行われていたわけではなく、結局、それは常に理想であり続けたのだけれど。

 しかし、理想「すら」掲げない世の中よりは、ずっと気概がある。

初夏の相模湖

 「革」の卦には、理想の変革のあり方について、他にもいろいろ書いてある。「已日(いじつ)にしてすなわち孚(まこと)とせらる」という言葉が始めに出て来るが、これは、改めるべき時が来てから改めれば、人々はその変革を信用するという意味。

 何かを変えるのでも、人々が気付きもしない事をいきなり持ち出しても、かえって反発を招くだけ。たとえその変革案が正しいものだとしても。
 そうではなく、人々の方が、「やっぱりその変革案が必要だ」と大勢が賛成に傾くのを焦らずに時間をかけて待ち、機が熟してから変革を行えば、人々はその変革を信用するし、変革者も信用する。

 これは、先見の明のあるリーダーが、人々を無理矢理「引っ張る」という変革の仕方ではない。易経の言葉を裏をかえして見れば、そのような強引な変革は、かえって人々の不信を招き、心が離れていくだけだと言っているのだろう。

 世の中を理想的な形に変えようと活動をしている人は多いけれど、そういう人たちが陥りがちな失敗が、そこにあるように思う。

釣りをする人

 世の中を良くしようとして活動している人たちには、それぞれ未来の社会の理想像があるだろう。その理想像が実現した社会になれば、みんなが幸福になれるはずだと確信し、その実現を少しでも速めたいと願っているだろう。

 でも、世の中にはいろんな人がいる。日々の生活に逐われる人もいれば、自分の仕事や趣味に没頭している人もいるだろう。
 世の中を良くしようと活動している人は、こういった人々を、社会の変革に興味を持たない、怠惰で愚昧な民衆と見る事がある。
 結局、そういう見方に傾いた変革者は、かえって社会から孤立し、その人が望んでいる変革からも更に遠のく。

 変革者を自称する人を見る時に、私は「この人は、人の心が解る人なのだろうか」と思う事が多い。
 その人が理想の未来を語る時、人々の心は喜びに弾むのか、何も通じないのか。
 自分の語りたい事を語るだけで余裕もなく精一杯になってしまい、人々の反応なんて眼中にも無くなっている変革者も、多いのではないか。

積乱雲