2019

4月

4月7日(日)

芽吹き

 少しずつ、山々の木々に淡い萌黄色が目立ち始めてきた。桜も満開になり、黄砂が舞って景色が霞んで見える。春休みなのだろう。牧馬の道も、行楽の車の量が多い。道志川沿いのキャンプ場も賑わっていた。

 山の倒木は、昨年の台風のせいで多めだけど、これらの木を薪にして使うにしても、そろそろ山に入るのがおっくうになってくるなぁ。ヤマビルが出るから。
 この辺りの山にヤマビルが出るようになって、山の作業の年間の計画も、「山の作業は晩秋から早春までに片付ける」という感じになってきた。

 もっとも、この週は前半は少し冬が戻ったような寒さが続き、週の後半になって春の暖かさが戻ってきた。雨もこれといって降らず、こういう状態だとヤマビルもそれほど出ない。

 山登りの行楽客に対してもなぁ、これからは、「できるだけ登山は晩秋から早春にかけてがお勧めです」と呼び掛けるようになるのかしらん。
 前から思っているのだけど、誰か、ヤマビルホイホイとか、効果的に駆除する仕掛けを発明してくれないものか。成功すればひと財産は確実だと思うんだけどな。

週の始め、降りてきた寒気

 新しい元号は「令和」なのだそうな。この名前を初めて聞いた時、なんか冷たい響きの言葉だな、と感じた。「令」と「冷」を連想したのかもしれない。
 映画「男はつらいよ」の舞台は柴又だけど、監督の山田洋司さんは、なぜこの地を選んだかの理由について、「葛飾 柴又」という響きが明るくていいから、と語っていたと記憶している。ア行の響きが多い地名だね。
 そんな言葉の響きを感じながら、改めて「レイワ」という響きを聞くと、やはり物静かで冷たい印象がある。

 同じ「レイ」でも、「麗」とか「礼」とかになると、また不思議と印象が違って明るく感じる。たぶん、これらの漢字は「レイ」と読む他に「ライ」とも呼ぶ印象があるから、「令」よりも明るさを感じさせるのだろう。

 たわごとついでに全部書いてしまうけれど、「令和」って、冷たく静かで、情け容赦なく「裁く」という印象を受けた。「常緑樹と落葉樹の違いが現れるのは冬に入って寒くなってからだ」と論語にあるが、そんな「冬の裁き」の印象・・・といったら「妄想のしすぎ」と笑われるかな。

 ただ、時代の流れからしてみると、妙に、そんな時代になりそうな気もする。

山の花

 昭和の高度経済成長期を経て、平成に入ると停滞期に入った。昭和の時代に溜った矛盾が、平成の時代に徐々に国を蝕んできたが、なんとかそれまでの国力の蓄積もあって、体面をとり繕う事はできた。
 でも、次の時代になると、いよいよ体面をとり繕うだけの余力もなくしてしまうと思う。これまで溜った矛盾が、表面に現れてくるだろう。

 最近の記事で、従業員不足で倒産に追い込まれた企業が、過去最高になったとか。
 この国の企業であれ、国や自治体の組織であれ、「形」はあってもそれを支える人がいない、という話は、これから増えていくと思う。
 国や企業だけではなく、私達庶民の「文化」と呼ばれるような、暮らし方、慣習にも、変化がでてくるかもしれない。例えば、既に結婚式とか葬式とか、「形」を簡略化する動きはあったが、それが更に加速していくかもしれない。学校の制服とか小学校のランドセルとか、本当に必要なのだろうか。

 そう考えてくると、自分がやっている仕事だって、本当に必要とされているものなのか、不安になってくる。だれもが、審判を待つような、心の落ち着かない気分になってくるのではないか。

夕雲

 それをひとまず安心させるのが、次の時代の仕事なのかもな。ベーシック・インカムをやるか判らないけれど、とりあえずセーフティーネットが重要になる世の中になるのは、間違いないだろう。

 「令和」という時代に対する私なりのイメージは、そんなところです。 

 子曰、歳寒、然後知松柏之後彫也。『論議』子罕

4月17日(日)

 4月10日は、牧馬では雪になった。除雪車が出るほどではなかったものの、道路にも少し積雪があり、スタッドレスじゃなければヒヤヒヤものだったかもしれない。
 4月にこの程度の雪が降る事は、藤野ではそれほど珍しい事ではない。桜に雪とか、土筆に雪とか、そんな取り合わせは何度もあった。
 ただなぁ、個人的には、春の暖かさに慣れかけた時の冬の寒さだっただけに、やや酷めの風邪をひいた。

 この雪の寒さのせいか、一気に咲いて一気に散ると思われていた桜が、意外と咲き誇る時期を長続きさせてくれたみたいだ。新緑も徐々に勢いを増し、山々が萌葱色に染まりつつある。燕も山里にやってきた。

 前回の日記で論語の引用をしたけれど、先日、地元で本を題材にしたイベントがあった。その企画の一つに、自分に影響を与えた本を一冊紹介する、というのがあり、私もお誘いを受けた。まあそこで自分が紹介したのが論語なんだけれど。
 そこでの紹介文として、こんな文章を添えた。

 桜の下

 かつて、小さな商店街があった。そこでは、土地の老若男女が買い物に使っていた。
 ある時、近隣にスーパーが出来た。商店街の小さな店が、いくつか無くなった。さらに時が経ち、もっと大きな、広大な駐車場を備えたスーパーが遠くに出来た。小さな商店街はシャッターが閉じ、始めに出来たスーパーはいつの間にか無くなっていた。

 その巨大なスーパーも、意外と短期間で店をたたんだ。後には広大な更地が残り、春には風で砂埃を舞い上げる。もと居たお年寄り達は、バスに乗って、けっこう遠くの店にまで買い物にいかなければならなくなった。

 そんな更地を見て、「過ぎたるは、及ばざるがごときか」と、自然に言葉が出た。この数十年、小さな商店街から始まったこの地域は、何を求めて、結局誰が得をしたのだろう。昔に比べて幸せの総領は増えたのか減ったのか。

 論語に出て来る言葉は、基本、難しくない。誰でも判る当たり前の言葉が殆どだが、当たり前の事が当たり前に行われているのなら、世の中はもっと幸福に近づいているだろう。

 (この企画で)挙げる本は(一人)一冊という事だったが、論語を挙げる以上、セットで老子も挙げておきたい。論語は、正しく有用な人物を目指そう、という本だが、老子は、無理な努力は長続きしないから自然体で生きよう、と呼びかける。両方読む事で、両方の価値が判り、両方の弱点も判って来る。(引用終わり)

道志川

 イベントの主催者からは、紹介文は400字程度で、と言われていたので、この程度に収めておいたが、もう少し付け加えておきたかった事もある。
 何より第一は、その後、儒教が東アジアに与えた影響の中でも、負の側面をしっかりと認識しておかなければならないという点。私は決して、儒教的な封建道徳を現代に復古させようという気持ちはない。むしろ逆だ。
 ただ、その点に注意して接すれば、いろいろと有用な言葉を、幾つも見つけられると思う。

 紹介文に書いたように、論語や儒教関連の書を読むのなら、合わせて老子に代表される道家の書も併読した方が良い。どちらの思想が優れているという事ではなく、両方に接し、互いを牽制しあえる複眼的視点を持つ事に価値があると、私は考えるからだ。

 更に言えば、論語と老子で複眼的視点が得られたのなら、次は聖書を読むと良い。これで、今度は東洋と西洋の複眼的視点が得られるようになる。これはある方から勧められた本の読み方で、実際、自分にはだいぶ役にたった。

花盛り

 何かの本を読んで、何かの思想に触れるのなら、それとは対立構造にある思想にも触れておくと、自分の考え方が硬直化しない。逆を言えば、一つの思想にのめり込んで凝り固まると、その思想に飲み込まれて自我すら失い、中毒症状を起こす。

 自分の場合、そんな本の読み進め方の指南をしてくれた人が身近にいたのは、幸いだった。

4月21日(日)

山笑う

 すべての山が淡い色に膨れ上がり、もはや冬の気配はどこにもない。今年の5月の連休は10連休になるとかで、まだ連休は始まっていないはずだが、この土日は既に行楽の客であちこちの道路の往来が激しい。前回の日記には雪景色の写真を使ったんだけどなぁ。
 山菜や、タラの芽が食卓に登る季節。じきにタケノコの季節にも入る。

 タケノコもねえ、山の持ち主の中には「いくらでも採ってくれ」という人もいる。もちろん、誰でもかまわずに採ってくれ、というわけではなく、仲間内の話だけど。
 タケノコも、どんどん採らないと、竹林が際限なく増殖してしまう。若者が町に出て、お年寄りだけが山里に残っている所では、人間の方が竹の増殖の力に負けて、手が付けられない勢いで竹林が面積を広げていく所もある。

 仕方なく、生えたタケノコを折ったりする事もあるらしいが、その一方、今度はイノシシがタケノコを掘りにやって来るようになった。これはこれで悩ましい問題なのいだけど。
 竹林の増殖にせよ、イノシシの蹂躙にせよ、人間の力が勢いを落とし、その隙間を埋めるように自然界の勢いが盛りかえしている現象と言う点では同じだ。

 相模湖

 これは昨年の夏頃だったろうか。ある代議士が、性的マイノリティーを指して「生産性が無い存在」と言ったことが批判されるという事件があった。

 この話、個人的にはいろいろ考える所があって、この手の話が出るたんびに、「しかし大丈夫かねえ。この、何でも機械とコンピューターが仕事をしかねない御時世、自分自身が『生産性のある存在』と胸を張って自認できる人間なんて、よほどの実力者か、その逆だろう。」と思ってた。

 「その逆」の理由は、自分に自信の無い人間ほど、自分よりも劣っている(とその人が決めつける)人を見つけては、攻撃して溜飲を下げ、自分の心の安定を得ざるをえないからだ。他者をやたらと攻撃したがる人間は、その性質自体、病的である。

 でもまあ、そんな病的な人間がいるからこそ、人は、いろんな事柄を深く考えるきっかけを得られるとも言えるだろう。

 というのも、強者・主流派・健常者が、弱者・少数派・病者を保護する必要があるのか、保護する事は正しい事なのか、自然淘汰に任せてしまう事こそが正しいのではないか、といった議論は、人類の歴史同等の古さを持っている。
 この問題に対して、真剣に取り組んだ果てに、自分なりの哲学を持ち得た人は、案外、少ないんじゃないのか。

 強者が弱者を保護すると、強者の仕事の能力が、弱者の保護に削がれてしまう。そんな事よりも、弱者はさっさと淘汰して、強者だけの世の中を作って、強者 が存分に働ける世の中こそが、もっとも強力な世の中で、もっとも人類に取って幸福である・・・という思想は、洋の東西を越えて、しばしば現れる。プラトン も、その主著『国家』で、明確にそう語っている。

花盛り

 さて、私はどうかと考えた時に、このような世界について考えてみたらどうか、という漫画がある。藤子・F・不二雄作。「カンビュセスの籤」。ニコニコ動画とかで、漫画が動画として観る事が出来るようだが。
 ネタバレになるので、粗筋はここで書きたくはないなぁ。まあ、「種」としての人類の存続の為に、他者を犠牲にする、という話なんですが。

 人間に限らず、すべての生物が生きられる総量は、食料の総量によって限定される。その限定から溢れた存在は、この世から消えて行くしかない。では、どのような存在から消えていくべきか。
 深沢七郎の「楢山節考」は、70歳になると山に捨てられる暮らしが描かれる。それが、その村では常識であり、肯定された正義でもある。
 「正しさ」のためには、誰かが誰かを犠牲にしなければならない。弱肉強食の肯定は、そんな犠牲の肯定だろう。

 じゃあ家族とか、愛情とか、私たちが「人間性」と呼んでいるものは、実は不確かで過った幻想なのか。
 カマキリは交尾の後、雄は雌に食べられる。それが、その種族としては正義であり、種族が生き残るための最善の手段であり、だからこそ今でもカマキリは存在しているのだろう。人間も、実はそんなカマキリと大差ない存在なのか。

丹沢を望む

 人間を「生産性」の存在として考えると、行き着く先は、所詮人間も、遺伝子を運ぶ船に過ぎない、という考えだろう。遺伝子を伝えるためには、すべての人間は率先して犠牲になるべきである、という考えが正義になってくる。
 いや、そんな事は無い。人間にとっての「正義」は、そんなところには無い、と言うのであれば、自分の言葉でとことんまで考え抜いた、自分なりの哲学が必要になって来る。

 そこまで考え抜いている人が、どれくらいいるのかどうか。

4月29日(月)

丹沢の雪

 そろそろ初夏という言葉が相応しい時期になり、木々の若葉も、淡い色合いから鮮やかな黄緑に変わってきた。ただ、冷たい空気もなかなか健在で、久しぶりにストーブをつける陽気になったり、丹沢では雪が降り積もり、藤野でも霜が降りたりもした。こんな時の遅い霜に、苗をやられてしまう事もある。ジャガイモや夏野菜に被害が出たかもしれない。

 新緑の山の向こうに、少し雪を飾った丹沢の山並を見ると、改めて、なかなか風格のある稜線だなぁと思った。丹沢は、この冬はあまり雪が降らなかったが、春も盛りになってからちょくちょく雪をかぶる。

 連休に入って、行楽の人々も多い。道志川沿いのキャンプ場にも客が来ているようだ。ただ近年の傾向として、道志川沿いのキャンプ場は、客が来るのは春から秋までだけでは無くなった感じだ。流行りなのかしれないが、最近は冬でも、意外と客が来る。以前は冬のキャンプ場なんて休業状態だったけど。
 なんでも今は、冬の寒さでも快適なキャンプが楽しめるような装備が充実しているらしい。そして、静かな冬のキャンプ場を好んで利用する人も増えているのだとか。

 やれキャンプだバーベキューだと大騒ぎするキャンプも良いかもしれないが、たき火をしながら、静かに冬の静寂を愛するキャンプと言うのも良いと思う。

柿の若葉と花だいこん

 前回の日記で、藤子・F・不二雄の漫画「カンビュセスの籤」を引き合いに出して、その時代、その状況において、「正義」のためなら他の人間は犠牲になっても構わない、という極限の状況について考えてみた。
 これとは、少し違った観点から、同様の状況について考えさせる晩画がある。星野之宣作、「セス・アイボリーの21日」。漫画短編集「スターダストメモリーズ」に収録されている。

 セス・アイボリーは、宇宙船の事故で、ある惑星に唯一の生存者として残される。救援信号が届いていれば、救援が来るまで21日かかる。しかし、この惑星は生物に及ぼす時間の流れが地球とは異なる事が判る。この惑星で2日も過ごすと、地球での10年に相当する老化が進む。
 これでは救援隊が来るまでに自分は死んでしまう。そこでセスは、自身のクローンを作り、圧縮学習機を使って自分と同等の知識を植え込む。

 12日目、初代のセスは老衰で死ぬ。2代目のセスも、3代目のセスを作り、「セス」という命を繋いでいく。だが・・・。
 2代目のセスは、自分が恐ろしい運命にある事を自覚するようになる。

牧馬の山

 3代目のセスは救援隊が来る21日目に間に合うかもしれない。しかし、2代目は、その日が来る前に老衰で死ぬ未来しかない。初代のセスには豊かな前半生があっただろうし、3代目のセスには豊かな後半生があるだろう。しかし2代目は?。「セス」という存在を引く継ぐ事だけを目的とした数日間だけで、その生は終わってしまう。

 前回の日記でも書いたが、人間を「生産性」の存在として考えると、行き着く先は、所詮人間も、遺伝子を運ぶ船に過ぎない、という考えにつながって来る。遺伝子を伝えるためには、すべての人間は率先して犠牲になるべきである、という考えが正義になってくる。
 しかし、この漫画を思うと、正義かもしれないが幸福ではない、と誰もが思うだろう。

 言い方を換えれば、私たちが「幸福」と感じる事は、何も一つの目標に選択の余地もなく突き進む事ではなく、様々な「寄り道」が可能な所にあるということだろう。

相模湖

 多くの場で、このような寄り道は「無駄」と批判されがちだ。効率性、生産性を求めれば、極限まで無駄を省いて、一つの目標に脇目も振らずに突き進む事こそが美徳であり、正義だと言うのだろう。

 「生存」が保証されなければ、そこには「幸福」も当然あり得ない。
 政治家に望む理想的な資質とは、決して、「生存」の為にはあらゆるものを(時には自身の命も)犠牲にしろ、と迫るものではあるまい。
 確実に生存可能な状況を作るべく努力して、その後に、「寄り道」「無駄」も許せるような、幸福の追求も可能な世の中を作る事だろう。

 そのためには、他人の「寄り道」「無駄」に対しても、寛容な心の持ち主である必要があるのだが。