2019

3月

3月3日(日)

 今年のひな祭りは雨になった。これまでは雨が降ってもさらさらと音もなく降る感じだったが、ばたばたとトタン屋根を打つような雨が降るようになった。今回の冬は降水量が非常に少なく、雪も数センチ降ったのが2回だけという状態なので、山のあちこちの沢では水が枯れている所もあったが、これから徐々に水量が増えていくだろう。
 水道に沢水を使っている集落では、水の確保に困っている家もあるらしい。これで一息つければいいのだけど。

 上の写真と同じ場所の写真が、2月10日の日記にある。その頃はまだ咲き始めだったが、もうすっかり満開になっている。あちこちで梅の香りが楽しめる季節に入った。

 もうすぐ平成という元号が終わろうとしているけれど、平成ってどんな時代だったのかなァと考えてみると、贅沢病に蝕まれて弱体化した時代なんじゃないかなぁと思った。

山の雨

 昭和の高度経済成長で豊かさを手に入れたが、それと同時に日本人は、貧しく困難な状況から立ち上がっていく能力を退化させていったと私は考える。自ら手足を使って技術を産み出していく能力、人々の調和と助け合いを育む能力。
 そんな能力の喪失に気付かず、「経済大国」という自尊心に尊大にかぶれる気風を生んだ。
 あとに残ったのは、自らは何も産み出す能力もないのに、自惚れだけを頭に満たした幼い精神だけ。
 辛辣な表現になったが、次の時代を迎えようと考えたら、このような精神性を直視して克服していく過程が、どうしても必要になってくると思う。

 これは日本だけに限らず、世界的な問題だけれど、技術の発達で、人の仕事が無くなっていく社会が進んでいる。
 昔だったら個人でお店を営む事もできたが、それが大規模の安売り店に仕事を奪われ、その大規模店もインターネットの通信販売に仕事を奪われていく。

 経済性の追求をしていけばしていくほど、仕事からあぶれた人が増えていく。
 気が付けば、もう一度、貧しく困難な状況から立ち上がっていく能力を必要とする時代になっているのではないか。

早春の木立

 「平成」という時代を象徴する言葉って何だろうと思った時、これも辛辣な表現を選ぶけれど「ブラック企業」なんじゃないかな、と考えた。
 ただ、私としては、ブラック企業だけが悪いのではないと思う。悪い植物が生える所は、土自体が悪くなっているものだ。ブラック企業が生まれたのは、その社会そのものが、ブラック企業を容認し、歓迎さえするものだったからだろう。
 おそらく社会全体に、自分の利益の為なら、他人を非人道的な扱いをして潰してもかまわない、という気風が、平成の時代になって表面化したのではないか。

 これも、私には日本人の贅沢病の現れだと思っている。みんなが貧しく困難な状況から、協力しあって立ち上がろうという時代であれば、そんな病的な気風は表には出てこないものだ。
 みんなが豊かさを手に入れた時、人が非人道的な扱いを受けていても、見て見ぬふりができる気風が育ったのだろう。それがいずれ、自分自身にも非人道的な扱いが及ぶ順番が来ると気付かずに。
 気が付いた時には、子供の貧困が叫ばれる時代になってしまったが。

夕暮れ

 ブラック企業なんて存在は無い方がいいに決まっているが、「ブラック企業」という言葉が生まれたのは良かったと思っている。
 ブラック企業があるのなら、ブラック組織といものがあるのだろう。ブラック政党もあれば、ブラック政権というのもあるだろう。

 じゃあ、ブラックの反対は何だ、という連想が及ぶ。
 私の考えでは、ブラックというのは、「人を人とも思わない態度」ということだろう。ブラックの反対であれば、「人を人らしく大切に扱う」という事になると思う。

 何がブラックで、何がブラックの反対か。
 人々が、自分自身の問題としてこの事に付いて考えるようになれば、ブラック企業を生んだ土壌も、もう少しは良くなっていくと思う。

3月10日(日)

 週に2回くらいの割合で、けっこうまとまった雨が降る。普通、春先の雨は、少々降ったくらいでも沢の水量は容易には増えない。それだけ、冬の乾期で山全体がカラカラになっているからだが。
 この冬は例年にも増して降水は少なかったけれど、このところの雨の集中で、沢水は着実に水かさを増やした感じだ。
 山の木々はまだ枯れたまま。そろそろ気の早い木が、若葉を見せる頃だ。

 牧馬では、篠原牧馬自治会の総会を控えて、牧馬地区で地区会を開いた。牧馬地区の抱えている問題や、解決すべき課題や希望に付いて、それぞれ話し合ったりもした。
「そろそろいいかげん、中沢へ至る道を、直さなくちゃねえ」
 そんな話も出た。確かに酷い状態で、コンクリート鋪装が割れて、道路が中心部分で段差ができていたりする。このまま何年も放置すると、いずれ車も通れなくなってしまうだろう。
「道に倒れかかっているような木は、伐って欲しいんだけどな」
 そんな話も出た。これも、木の生えている土地の所有者との了解をとる必要があるが、そんな所有者と連絡がとれない所もある。牧馬も、いかにも山里らしい悩みと無縁では無い。

 また3月11日が来る。いろいろと思う事はあるけれど、毎年のように思いかえすのは、しばらくは地震の活動期なんじゃないかなぁ、という事。東日本大地震とよく似ていると言われている平安時代の貞観の地震も、その後、数年毎に、日本各地で大地震や火山噴火が続いた。
 貞観の地震だけでなく、他の巨大地震でも似た傾向がある。このサイトの2ページ目に、それを書いた記事があるが。

【3.11から8年】12年以内に南海トラフ巨大地震、首都直下地震、富士山噴火が連発か!? データで判明、“大震災時代の本番”はこれからと心得よ!
こちら>>

 記事のタイトルは、やや扇情的に響くきらいはあるが、統計的に過去の震災の記録を調べれば、別に扇情的でも何でもなく、科学的な事を言っているにすぎない。
 なにより、実際に2011年から数年毎に各地で巨大地震が続いている事実がある。死者を出す火山噴火も続いた。まだしばらくは、巨大地震が起こりうる活動期にいるという認識でいた方がいいだろう。

 この8年の間、沿岸部での津波対策はどの程度、進んでいるんだろう。自治体によって差があるとは思う。

芽吹き前

 原発も、この8年でだいたい結果が出たんじゃないかな。
 当初は原発の再稼動を強行しようとしたり、ずいぶんと強気だったが、徐々に時代が原発から離れている事に、否応なく実感が進んできたのだろう。日本で原発が無理なら海外に輸出しようと言ってたが、その道も閉ざされつつある。
 「時代が自分達に味方していない。時代は自分達を消し去ろうとしている。」という感覚は、それまで原発の関係者が味わった事のないものだろう。今までは、自分達には国がバックについている、と権力を恃んで無理も通せるかのような感覚もあったろうが。
 逆風の中で戦い続けるのには、向いていない人が多いと思う。

 これについて思うのは、自分達には権力が付いているからといって、あまり無理を重ねるべきじゃないな、という事。
 権力だって、永遠に味方してくれるわけではない。時代の変化に従って、権力が味方をする対象も変わってくる。

 その産業が健全で健康かどうかは、権力の庇護が無くても持続可能かどうかで現れてくるのだろう。

午後の陽

 潰れる企業が抱えている問題は、「無理・無駄・ムラ」だそうだが。
 災害に襲われた時、そのような要素を抱えた所は、弱いんだろうな。
 逆に、無理も無駄も無く、調和がとれている所は、災害にも強いと言う事だろう。当たり前と言えば当たり前だけど。

 まだしばらくは、無理を重ねた所が力つきて消えていく時期が続くのではないか。同時に、無理のない所が、それらに代わって伸びていく時期にもなっていくのだろう。

3月17日(日)

芽吹く頃

 山も、少しずつ芽吹きの時期を迎えている。チョウジザクラやフサザクラも咲き、キブシも薄緑の花を垂らし、地面からも若い芽が出始めている。遅咲きの梅も、そろそろ時期を終えそうで、桜が既に桃色を帯び始めた。陽の力もすっかり強くなっている。
 ただ、丹沢の雪は、3月に入って少し積雪も増えたようだけれど、例年に比べて寂しい積もり具合で、雪山らしさをあまり感じさせないまま春を迎えることになるらしい。なんか、物足りない気持ちがするなぁ。

 前々回の日記で、「平成」という時代を象徴する言葉として「ブラック企業」をあげたけれど、たぶん、次の元号の時代を象徴する言葉にはならないだろうな、とは思う。
 一時的にせよ、労働力不足になる時代は来るし、やはり人間は人間らしく、大切に扱わなければならない、という時代になるのではないか。

 ブラック企業という言葉から、私がよく連想する歌がある。 ボブ・ディランの「Don't Think Twice,It's Alright」を、天才的な訳詩で友部正人さんが歌ったもの。原曲は男が女へ別れを告げる歌だけれど、友部さんの歌は、女が男に別れを告げる歌になっている。

こちら>>

 フキノトウ

 この歌、ある人が
「ブラック企業から、いよいよ辞める決心をした社員の心境も、だいたいこんな感じじゃないかな」
と言っていた。

 どんなブラック企業だって、100%のブラックというわけではないだろう。
 少しは、未来の希望があったり、未練があったり、ここで何年も頑張って来たんだから、もう少し頑張ってみようと思ったり。

 もしかしたら、来年はもうちょっと会社の雰囲気が良くなってくれるかもしれない、と淡い期待を持ってたり、何もかも捨てて会社を飛び出す危険を負うくらいなら、もう少し粘っていようと思ったり。
 いやな上司だったけれど、月に一度くらいは、「心がお互いに通ったのかな」と思える瞬間があったり。

 でも、もういいや。
 会社を出ても希望は無いかもしれないけれど、それでも私はここを出るよ。
 そんな、「いよいよ決心した」時って、こんな感じだろうな。

 たぶん、ブラック企業を運営している側は、自分が「ブラック」だという自覚はないんだろうな。それは、家庭内暴力をする側が、「これは暴力ではなく、しつけだ」と認識しているようなものだろう。
 また、暴力を受ける側も、「私にも努力不足とか、悪い部分があるのだから仕方がない」とか、「私がここで我慢すれば、組織全体(家族全体)は丸く治まってくれるはずだ」とか、「いつかは向こうも改心して、状況が良くなるのではないか」とか思うのだろう。

 実際は、とりあえず、そこから逃げ出さないと、相手は自分がブラックだったと気付く機会は永遠にないものだが。

 時代が変わる時って、理不尽な暴力を受けている人々が、「さすがにもうこれ以上の我慢はいいや」とがんばって組織を維持するのを諦めて「逃げる」という時期があるんだろうな。
 リンクした歌の歌詞には、いろいろと心に響くものがある。

今さら考え込んでみたって もう手遅れよ
今さら考え込んでみたって 分かりっこないわ

もう少しどうにかしてくれると思っていた
そうしたら思いとどまったかも知れないわ
そんな期待にも気付かなかったわね

今さら名前を呼ばないで 呼んだ事なんてないでしょう

長くさみしい道を歩いてゆくわ 行く先はまだ分からない

 組織を捨てる人と、人に捨てられる組織が表面化して、世の中が少し流動化するかもしれない。そんな予感がある。

梢の先きが赤くなってきた

 悪徳の悪徳たる所以は、自分が悪徳だと自覚する事もなく、自覚するきっかけすら持たない事にあるのだろう。そういう人や組織は、部下と思っている人が逃げ出した時に、「え?、なんで?、どうして?」と、目の前の現象に理解が追い付かず、おろおろするのではないか。

 その意味で、悪徳の持ち主はバカにでもなれるが、徳の持ち主には、自分自身を客観的に見て、自分が正しい道を歩んでいるかを正確に判断する能力が求められる。
 これは、努力を続けないと身に付かない境地だろう。

3月25日(月)

モクレン

 年度末にもなり、春は加速していく。彼岸には妙に暖かい風が吹き荒れ、少し身体を動かすだけでも汗ばむ感じだったが、2日後の土曜日には雪まじりの雨になった。これでは体調を崩す人も多いだろう。
 その低温の雨の翌朝に霜が降りたせいだろうか。モクレンの花が、十分に開花する前に茶色く痛んでしまっていた(上の写真は開花前の、暖かい時期のもの)。
 花も、咲く時には運不運があるな。

 昨年の秋の台風は、風の被害が大きかった。今でも山のあちこちで、その時に折れたりなぎ倒された木々が目につく。
 ある山の斜面は、木々の多くが倒され、道路の電柱を壊して何日も停電が続いた。また、倒れかかった木がその後も道路に落ちてきそうで危なかったのだけど。
 この春、その斜面の倒れた木々が、綺麗に片付けられた。

 片付けると言っても、伐った木をどこかに持っていくわけではなく、その場の切り株にかけて、斜面を転がり落ちないようにしているのだが。
 薪ストーブの燃料にしたら有難いが、斜面を降ろすだけでも重労働だね。

 片付けられた斜面

 この事は、この日記で何度も書いてきたが、いずれは、台風で被害があった後に山林に手を入れるのではなく、「台風が来たら電線や電柱や人家や道路に被害を及ぼすな」と予想される木々を、前もって片付けるようになってくれればと思う。

 前もって伐るのであれば、伐る時期も理想的な時期を選べるだろう。たいていは、木が水を上げなくなった冬が伐期とされているが。
 その時期に伐った方が、木の材としての性質が良くなる、という時期だってあるだろう。変型が少ないとか虫が付きにくいとか。

 また「何月ごろ、どこそこの木を伐る予定」と判ってて事前に周知があれば、「その木、欲しい」と、手を上げる木工作家とか、いるんじゃないかなぁ。

 いずれは、山の維持整備と、山の恵みを利用して仕事をしている人々が連係するようになったら面白い。

 というか、昔はそんな連係があって、山里の文化になっていたんだろうね。だいたい、少し昔だったら木炭の生産のために、山の木々は定期的に伐ってたし。
 山の恵みを上手に利用し、それが山林の健全性を助け、同時に雇用も作る。そんな21世紀の新しい山里の文化なんて、できるのだろうか。

 この事を考える時、やはり、山里を「楽しむ人」の存在が必要だなァ、と思う。

花の里

 もちろん、山里を楽しむと言ったって容易ではない。事実としては、山里の暮らしは町の暮らしよりも困難の方が多い。だから山里の過疎化が進むのが、現実としてある。
 ただ、山里の暮らしは苦しい事ばっかりで何も面白くない、と考えている人々だけだったら、その土地は衰退していく一方だろう。

 時々思うのだけど、どうもこの世の中、生きていく上で「○○しなければならない」「○○でなければならない」という思考に馴らされ過ぎていないか。
 「○○したい」「○○でありたい」「○○が楽しい」。次の時代を切り開く発想や新しい文化は、そんな快楽主義的な発想から生まれて来るような気がする。

 まあ、そんな偉そうな事を書く私自身、寝食を忘れるほど何かを楽しみ、何かに打ち込んで情熱を注いでいた時期なんて、数えるほどしか無いのだけど。

夕暮れ

 これは問題発言かもしれないが、次の時代を作る企業って、社員が背広を着ている所じゃないんじゃないかな。だって、そういう会社って、結局「○○しなければならない」「○○でなければならない」という発想だけでしか動けないんじゃないのか。

 この時期によく使われる「リクルート・スーツ」というのも、同じ思想を感じるなぁ。まあ、当たり障りのない無難な服装を必要とする立場なんだろうけれど。

3月31日(日)

 ナズナ

 春は少しずつ勢いを増していく。すでに山吹も咲き始めた。もっとも、山の風景全体は、まだ冬枯れで、所々に若葉が見え始めた程度。牧馬の桜は一分咲きといったところか。
 時折、いかにも春らしい風が吹く。

 統一地方選挙が始まっても、牧馬のような所はさすがに静かなままだが、それでも一日に一台くらいは、選挙の車が支持を訴えるスピーカーを流しながら通り過ぎていく。
 あの候補者の内、山里について本気で考えてくれている人が、どのくらいいるかどうか。相模原市の緑区は、人口の多くは橋本のような都市部が占めている。市町村合併で吸収された旧津久井郡の4つの町の実情には、なかなか真剣に目を向いてくれないと私は感じている。例えば、イノシシやサルといった有害鳥獣の問題や、すっかり蔓延してしまったヤマビルの害について、有効な対策はほとんど採られなかった。

 時々思うのだけど。
 コンピューターが人々から仕事を奪っていくように、これまで行政と代議士で行われた政治も、コンピューターが速やかに民意を吸収して理解し、有効な対策を講じられる人々選出し、問題解決を行ってしまうのではないか。
 少なくとも、人工知能よりも上の知性の持ち主で無いと、生き残れまい。

花咲く夕暮れ

 そう簡単に、そんな世界にはならないだろうと思う人もいるかもしれないが・・・。
 始めは、日本ではそのような取り組みは行われなくても、どこかの企業は始めるだろうし、世界のどこかの国でも始めるだろう。問題解決能力の高さと経済性が実証されれば、まねをする組織も増えていく。
 いずれは日本でも、どこかの市町村が始め、どこかの県が始めるようになるのではないか。そうなれば、この流れは止められなくなる。

 これは良い事なのか悪い事なのか、私としては期待と不安があるのだけど。
 コンピューターの発達と情報化社会の進展、人工知能技術の進化が進むと、だんだん、人は嘘がつけなくなってしまうのではないか。
 例えば、私が公式な場で何か発言するとする。そしたらコンピューターが、
「でも、あなたは、何年前に、それとは正反対の事を発言してましたね」
と、過去の情報を検索して、私が今までどんな言動をしてきたか解析して、私の矛盾点を洗い出してしまう。

 この場合、私は、答えられる答えは三つしかない。「あの頃はそう考えていたが、今は考えを改めた」か、「あの頃は嘘を言っていた。今の発言が本心だ」か、「あの時の発言が本心で、今の発言は嘘でした」か。

谷間の陽

 で、そこで私は「あの頃はそう考えていたが、今は考えを改めた」と発言・・・というか釈明したとする。するとコンピューターは、
「その変心の理由は何ですか」と聞いてくる。ここで正々堂々と、良心に恥じる事無く説明できれば良いが、多くの場合、「あの頃は特に考えも無しに、周囲に流されてそう考えていたんだ」とか、「そう考え、そう発言し、そう行動するように上から指示されていたんだ」とか、あまりカッコよくない説明しか出来ないと思う。
 「記憶にない」という常套句も、コンピューターから「あなたの脳は病気ですか」と言い返されて治療を勧められそうだ。

 まだイメージが湧きにくい人もいるかもしれないけれど、例えば、かつて「原発が停止したら日本経済はダメになる」といった発言をした人を想定して当てはめてみれば、急に生々しい実感が判るんじゃなかろうか。

 過去の自分の発言と行動が、まるで犯罪者の足跡のようにすべて残り、記録され、いつでも検索される。コンピューターは、「この人は自分の意見を、やたらとコロコロと変える人だな」という判断だってできるだろう。逆に、「この人は、この問題に関して、誰よりも早い段階で問題点に気付き、正確な対処法を提案していた」という発見だってするだろう。

 そんな時代は、もう空想でも笑い話でもなくなりつつある。

牧馬の谷

 この人の言動は一貫している。この人の言動は虚偽が多い。この人は先見性と洞察力がある。この人は信頼してもいい。この人は要注意。
 そんな情報が、現在の飲食店のネット上の評価のように、簡単に手に入る世の中になるかもしれない。それはいい事なのか悪い事なのか。

 期待と不安があるが、今は、そんな時代の前夜にあるのだろう。