2018

5月

5月4日(金)

緑の山

 もはや新緑という言葉も似つかわしくなくなってきた。木々は濃い緑をたたえ、山道もすっかり暗くなった。連休を使って、今年最初の草刈りをして大汗をかく。明日は立夏。春を過ぎて初夏に移る。
 今回の連休は、あまり観光客がどっと溢れて道路が渋滞しまくるという感じではない。それなりにキャンプ場にもお客は来ているみたいだけれど。
 まだそんな時期には達していないと思うけれど、これから人口減少社会の様相が目に見えるようになって来て、連休の渋滞も、年々小規模になっていく時代が来るのかもしれないな。

 なんか、この春は強い風を感じる。もちろん、例年、春は風の多い季節ではあるのだけど。
 ただこれは、自分の個人的な感じ方が、余計に風を意識しているからかな、とも思う。一昨年あたりから、「風」というものに、特別な印象を重ねるようになった。

 季節が変わり、風が吹き荒れて、それまでの空気が吹き飛ばされて、新しい空気に変わっていく。イギリスのEU離脱とか、アメリカの大統領選の結果とか、今までとは違う時代の変化も、そんな印象を強めているのかもしれない。

雨の前

 たぶん、次の時代は、もっと軽やかなものになるんじゃないかな、という予感がある。
 これまでの時代は、誰もが生きるだけで精一杯で、時には強力な権力にすがったり、他者を犠牲にしてまでも自分の欲望を達成しようという殺伐としたところがあった。
 ただこれも、これからの技術の発展で、世界のどこでも、まあ普通に無理せずに暮らしていけるような状況ができてくるのではないか。

 これは、強力な権力を好む人にとっては、寂しい時代かもしれない。強力な権力の存在理由は、強力な権力に頼らなければ仕事がない、生活ができない、生きていけない、という切羽詰まった状況があるからで、その状況が無くなれば、強力な権力の存在理由も消えてしまう。
 「夜警国家」なんて言葉も、ずいぶん久しぶりに聞く感じだけど、再度そんな国家像が考えられる時期に来るかもしれないな。

 まあそんな理由で、古いタイプの権力志向の人間も、これからの風に吹き流されていくんじゃないかと想像しているのだけど、そういった抑圧的な人間が消えて、軽やかな時代になって万々歳、というわけにもいかないかな、とも思う。

草をはむヤギ

 軽やかな時代、生きるのにそれほど苦労のない時代になったとして、私なんか、そんな時代になったら、たちまち駄目な人間になってしまうんじゃないか、という自信がある(変な自信だ)。
 生きるのに必死になって、追い回されたり尻を引っぱたかれたりして、そのたびにヒイヒイと悲鳴をあげながら何とか知恵を使って、どたばたしながらも生きて来た経験が、少しは自分をマシな人間にしたのではないか、とも思っている。逆に、ああいった経験がなかったら、草をはむヤギ以下の人間になっていたのではないか。
 まあ、「じゃあもっと苦労をしたかったのか」と問われれば、慌てて「結構です」と答えるけどな。

「明日から、もう生活の心配はなにもしなくてもいいから、あなたの思うように自由に生きなさい」と言われたら、私はまともな生き方ができるのかどうか。
 自分なりの建設的な目標を見つけて、一日一日を無駄にせずに生きていけるのか、かなり怪しいものだ。

 軽やかな時代になると、強圧的な権力が無くなる一方で、生きる目標を見失って自堕落になってしまう人も、一緒に時代の風に吹き流されていくような気がします。

初夏の山

 たぶん、次の時代を牽引する人って、自由で幸福な環境に置かれても、それに溺れる事も慢心する事も驕慢になる事もない人柄が求められるんだろうな。
 うーん、人間って、そんなに偉くなれるものだろうか。

 とにかく、強い風の吹く日は、古い時代の気風を吹き流し、新しい時代の空気を入れ込み、同時に自分も吹き飛ばされるような想像をしてしまうのです。

5月15日(火)

麦畑

 山の青さも雲の形も、すっかり夏になったような感じだ。これで気温が暑くなれば完全に夏だね。予報では、これから気温が高くなると言う話だけど。
 次の土日には「ぐるっと陶器市」がある。なんだか天気が不安な予報になっているけれど、快晴にならずとも、せめて曇天でも、いや、たとえ雨が降ってもせめて土砂降りになってくれるなと祈るような気持ちだ。
 このところ、週に2回くらいの割合で、しっかりとした雨が降る。どこか梅雨の気配も感じさせ、案外、爽やかな5月という印象ではない。

 藤野のお隣の上野原で、移住促進を目的にした映像が作られて公開されている。

三国のまほろば
こちら>>

 うーん、よくできた映像だなぁ。ドローンを使った空撮とか、機材の進化もあるのだろうけれど、映像もよければ出演者も素敵な人が出て来て、それが観ていて楽しい作品になっている。
 おいらも上野原に移住しようかしらん。

流れる雲

 もちろん、移住と言ってもバラ色ではない。やはりそこには日々の暮らしもあり、晴れている時もあれば雨の日も風の日もある。移住してはみたけれど、やはり自分には向かないと判って、去る人だって何割かは当然いるだろう。
 全国あちこちの自治体で、移住の促進を狙った政策が行われているけれど、いずれ「移住者が定着しやすい町のあり方とは何か」といった議論が必要になるだろうな。

 私の考えでは、移住者が定着しやすい町というのは、弱者に優しい町と等しい。困った時、追い詰められた時、気軽に悲鳴をあげられる町、その悲鳴に応えられる町だったら、慣れない地域に引っ越して来た人だって心強かろう。
 いや、悲鳴の応えられなくてもかまわない。まずは「聞いてくれる」人がいるだけでも、その安心感は大きい。

 話は変わるけれど、上野原では移住の促進とかやってるけれど、お隣の藤野では、なかなかそういった動きが行政からは現れない。
 藤野は人口減少に悩む山里だけど、相模原市全体でみれば、まだ人口は増加している。なので、市としても、山里の人口減少問題に関して、危機感は持ちにくいようだ。

 まあ近い将来、相模原市も慌てて人口減少問題に取り組む時期が来るとは思っています。相模原市の、山間部ではない都市部でも、一見、人口は多いように見えて、実は高齢化率が高い地域はけっこうある。住宅団地に住む人々の大半がお年寄りになっていたら、自治会とか、地域の活動も機能しなくなるだろう。
 今までは「東京に近い」という立地条件だけで自動的に人口が増えた自治体も、これからはいろいろと考える必要があるだろうな。

 そもそも、東京への一極集中が有利に働いた時代は、すでに峠を越えている。通信技術の発達で、なにも都心の会社に直接通わなくても仕事ができる環境はできているし。
 大学なんかもなァ、実技に関わる授業は無理だろうけれど、座学だったら、バーチャルリアリティーでの参加で済ます事の方が、普通になるかもしれない。

 逆に、「この先生の講議は、モニター越しではなく、直接お会いして聞きたい」、と言わせるような人なら、そうとうなものだと思う。通信技術が進化して、簡単に情報が複製も拡散もできる世の中だけど、案外、そんな世の中になればなるほど、複製できない情報、拡散できない情報、直接対峙しないと得られない情報の価値が浮かび上がって来るのかもしれないな。

だいぶ日が長くなりました

 絵もなー、これからは人工知能が発達して、ルノアール風の絵とか、モネ風の絵とか、簡単に量産できる時代になるんだろうな。
 ただ、様々な贋作を手掛けて、専門科も平気で騙せるような画家がいたそうだけれど、そんな人でも、セザンヌだけは「セザンヌ風」の絵は描けなかったという話を聞いた事がある。

 その理由、何となく判る気がするけれど、ここで書くには長くなり過ぎるな。