2018

4月

4月4日(水)

花粉の山

 また更新が空いちゃったなァ。なんか体調も具合が悪い時期が続いたし。
 ちょっと気がつくと、世界は恐ろしい勢いで季節が巡りつつある。2週間前の春分の日は雪が降ったんだけどねえ。あれよあれよと言う内に、木々は芽吹き始め、モクレンも桜も咲いたかと思ったら散り始めている。なんだか気ぜわしいな。

 桜はさっさと咲いてさっさと散って行くけれど、長くじわじわと人類を虐めるのは杉の花粉だろうか。少し風が吹くと、まるで山火事のように木々から煙りが沸き立つ。花粉症に苦しんでいる人が見たら、この世の終わりのような光景だろう。
 今は杉の花粉は終わったみたいだけれど、今度はヒノキの花粉が出血大サービス中で、朝、車のガラスが花粉まみれになっているので洗っても、その日の内にまた花粉まみれになってしまう。植物の生命力って凄いな。

 花粉症に苦しんでいる方々の中には、植林をした杉やヒノキを減らせ、という意見もあるようだけれど、そもそも、日本の国土にとって、杉やヒノキが育つ最適な面積の割合って、どのくらいなんでしょうね。
 みんなが、一度家を建てるとしたら100年はもつ家を作る、と決めたら、必要な杉やヒノキの数も減るとは思うが。

春分の雪

 先日、牧馬の住人が集まって、醤油作りがあった。最近に牧馬に引っ越してきた若手には、自分で畑をやったり山里の暮らしを積極的に楽しんだりする人が多いけれど、麹作りから始めているのだから、ずいぶん手が込んでいる。

 この醤油作りの会には、牧馬の地元の方々も一緒に会食をして、絞り立ての醤油で手打ちのうどんを食べたりした。こんな時、地元の方々から、昔はどんなふうにして醤油を作ったりしたのか、話を聞いたりする。
 そういった、昔ながらの知恵を、直接その人から聞けるのも貴重な機会だけど、今の内で無いと聞くこともできなくなってしまう。日本全国、限界集落と言われている村は多いが、そんな村々で、次の世代の耳に伝わる事すらないまま、消えて行った昔の知恵も多い事だろう。

 以前、ある人と話して考え込んだ事がある。
 終戦直後、焼け野原にバラックが立ち並んだが、今の日本では、そのようなバラックを建てる力量が、普通の人には無いのではないか、と。
 何か酷い災害が発生して、大勢の人が住む場所を失っても、昔の人間だったら、かろうじて廃材でもかき集めて、なんとか住処を作ってしまうかもしれない。
 でも、今の人間に、それができるかどうか。

牧馬で醤油作り

 現代人の場合、災害で住処を失ったら、まずまっさきに考えるのは、政府や行政に仮設住宅の建設を望む事だろう。まあそのこと自体は、決して悪い事では無いが。

 ただ何か、個人的には寂しい感じがする。100年前や、50年前に比べて、技術も文明も進歩して来たはずだけれど、逆に人間にできる事柄は、だんだん減って来たのではないのか。

 100年前、50年前に比べて、生き物としての生命力は、むしろ退化しているような気がする。

 これからも科学技術はどんどん進んで行くとは思うけれど、自らの手足を使って、悪戦苦闘して汗を流して、衣食住に関わるような事柄を自分で切り開けるような経験を積む事は、忘れない方がいいと思うな。

 問題は、こういう考え方に同意してくれる人は少数派ではないか、という事なんだけど。

 まあそこまで深刻に考えなくても、まずは野外に出て、テントを張ってキャンプをしたりして楽しむ所から始めてもいいかもしれない。実際、こういったアウトドアの趣味って、趣味で防災訓練をしているような所がある。

 車も、車中泊が可能なものだったら、緊急の場合は車が住処になるかもしれない。実際、東日本大震災の時には、車で寝泊まりした人が大勢いたという話だし。

 あの頃の日記を見ると、計画停電の時間とかがメモしてある。危機に対して、あらかじめ弾力的に対処できる暮らし方を、自覚的にしておいた方がいいなとは、今でも思っています。

夕陽とモクレン

4月15日(日)

山笑う

 美しい季節がやってきた。イヤ、私は春夏秋冬それぞれの美しさがあるとは思っていますが、この新緑の萌える季節は、何か非現実的な美しさがあると感じています。すべての生命が新鮮な力を存分に発揮しているような、眩しい美しさが。

 これまで、冬が寒かったわりには春の訪れは早いといった事を書いてきたけれど、相変わらず、その傾向は続いている。若葉の出かたも1〜2週間は早い感じだし、野の花の咲き方も早い。もう気の早い藤が咲き始めている。
 この調子だと、淡い萌え黄色の山の景色も、案外あっという間に緑一色になってしまうかもしれない。山桜も愛でる間もなかったなァ、まあ風の強い日も多かったけれど。

 世の中を吹く風も、やたらと勢いが強い。なんだか全てを吹き飛ばしてしまうような様相だ。
 と言うか、今までが無風すぎたのかな。普通だったら政権が終わっているような不祥事を山のように重ねて来たけれど、妙に開き直ったかのように、これまで続いて来た。
 たぶん、無理矢理にでもあの政権を続けさせようとする、何らかの支えがあったのだろう。それが、ここへきて無くなりつつある。

夕陽に映える山

 ただね、今の世の中の形を見ていて、最後の最後は、最もたちの良ろしくない人間が組織の上に立つようになるのは、必然の流れのような印象は、前からあった。

 政治に限らず、例えば商売にしたって。
 始めは普通にみんなが喜ぶような商品や、言われなくても誰もが必要だと思う商品を売っていた。
 それが次の段階になると、宣伝をして人目を引いて商品を売り付けるようになる。まあそれ自体は悪い事でも何でもないのだけれど。
 宣伝の仕方も、最後は「あなたはこの商品を買わないと大変な事になる、酷い恥をかく、世の中から遅れてしまって生きていけなくなる」と、脅迫まがいの言い方で人々を消費に走らせようとする。これはもはや詐欺に近い。

 言い方を換えれば、詐欺みたいな売り込みかたでもしないと、もうそれほど、人々は消費を必要としなくなっていると言う事でもある。同様に政治も、詐欺的に「大変な事になる」と有事の可能性を煽り立てないと、もはや仕事らしい仕事は残っていないということが、ばれてしまうのかもしれない。

 私は、絵描きという立場で考えてみるのだけど。
 よく、「芸術なんかで飯が食えるか」と言う意見がありますね。まあ事実として、芸術で飯を食っていくのは大変な事ではあるのだけど。
 ただ、これからの時代、「物づくりで食っていけるのか」とか「会社員や公務員で食っていけるのか」という問いかけに対しても、以前ほど確信をもって「食っていける」と断言しにくい未来は見えて来ている。

 これは今に始まった事ではないが、機械やコンピューターが、人々から仕事を奪っていく未来は、ここへきて急に現実味を帯びて来た。
 会社員や公務員でも、定型業務はすべてコンピューターがやってしまうだろうし、そうなると、会社員や公務員には、今まで以上に創造性が求められて来る。これは、あらゆる分野の仕事にクリエイタ−が求められると言う事でもあり、極端な言い方をすれば、「芸術家でないと食っていけない」未来という事でもある。

 もちろんここで言う「芸術家」は、何も絵を描いたり音楽を作ったりする人ばかりではない。モノ作りや農業が芸術的になるというのは想像しやすいけれど、たとえば組織作りなんかも、芸術的なリーダーシップというのが考えられるだろうな。

逆光の新緑

 芸術は美を追求するものだけれど、今の首相も、そういやあ「美しい国」という言葉を使ってたけ。果たして彼の考える「美しい国の形」というものが、人々の共感を得られるものなのかどうかはともかく。

 「美しい国」とやらを実現したいのなら、まずは美しい地域、美しい組織、美しい会社、美しい働きかた、美しい生き方を実現するべきだろう。もっとも、美しい生き方、美しい働きかた、美しい組織のあり方って何だろう、と人々が考えて実践を始めるのは、次の時代に入ってからだと思うけどな。

4月23日(月)

若葉

 季節はぐいぐいと前に進んでいく。このところ、毎回、同じ事ばかり書いているけれど、やっぱり今回の春は例年よりも早く通り過ぎていくようだ。淡かった木々の芽も鮮やかな緑に姿を変え、タケノコが食卓を賑わし始める。これも例年よりも早い感じだ。

 山が賑やかになると、山の生き物も賑やかになってくる。近所で小熊の姿を見かけたと知らせがあった。警察の車も放送を流しながら警戒を呼び掛けていた。
 小熊がいるという事は近くに母熊がいるという事だろう。別に私は小熊にちょっかいを出すつもりはないから、母熊も人間にちょっかいを出さないで欲しいものだ。

 イノシシや猿と違って、熊は行動範囲が広いと言う。何でも、一晩で数十キロ単位で移動する事もあるとか。そう考えると、今頃はこの熊も、とっくに遠い場所に移動しているかもしれない・・・と言うか、そうであって欲しいと切に願う。絵描きなんて食ったって美味しくないし栄養にもならんぞ。

 熊も動けば人間も動き出す。藤野は既に、土日はどこかで何かをやっている季節になった。5月の19・20日に行われる、藤野でも最大規模のイベントの陶器市のチラシが、あちこちでばらまかれている。 

萌える山

 なんかこのところのニュースでは、「へえー、そういう事を言うの!」と驚くような話が多い。
 相撲の興行で、土俵上で倒れた人を助けるために駆け付けた女性に、土俵から降りるように言った話とか、セクハラを受けた女性に対して、その女性の方から名乗り出たらどうかと言い出したり。
 まあ結局、そういう発言をした方が大恥をかいて面目を失っていくのだけれど、それにしても絶望的なくらい、世間一般の認識とは乖離してしまった人々がいるものだ。よほどこれまで、世間との接点のない、狭い世界だけで生きてきたのだろう。

 これってアレかなァ。フランス革命の時、マリ−・アントワネットが飢えた民衆に対して「パンが食べられなければ、お菓子を食べれば良い」と発言して、かえって民衆の激昂を買ったと言う話。
 実際には、マリ−・アントワネットはそのような発言はしていないというが、「いかにもあいつが言いそうな言葉だ」と、民衆が信じ込む素地は、長い時間をかけて出来上がっていたのだろう。

 でも、日本のニュースの場合は、当人自身がしっかりと発言しているからなァ。

相模湖

 デマや流言ではなく、実際に言ったと正史に書かれている話もある。中国は晋という王朝の2代目の皇帝の恵帝(259〜306)の話。

 飢饉が発生して民衆が次々と倒れ始めた時、大臣がその状況を報告して「人民は食べる米がなくて苦しんでいます」と言うと、「ならばなぜ肉粥を食べないのだ」と答えたとか。アントワネットの場合と異なり、こちらは史実だろう。
 まあこんな皇帝だから、たちまち国は内乱になってしまうのだけど。

 そういえば、最近ニュースを賑わせている金正恩も以前、「米がなければ肉を食べればいい」と言ってた、という話が流れてたな。あれは事実だったのか単なる噂だったのか。

 なんだかこのところ、世の中の動きが激しくて、何が事実で何がデマかも解りにくい。こんな時、静かに、玉石混交の情報の中から、真実を注意深く選別できる目を持つ人って、どんな勉強や修練を過去に積んでいたんだろうか。

 同時に、こんな世の中の動きが激しい時って、「実はあれはデマでした」と暴露される事も多いよね。これからあちこちで、立場を失う人や組織が出て来るんじゃないかなぁ。

湖畔の緑

 まあいずれも、「他山の石」とする謙虚さも必要だとは思う。自分自身だって、もしかしたら知らない内に他人から、「なんてこいつは、こんな事を平然と言う人間なんだろう、よほど今まで世間とのまともな付き合いがなかったんだな」と、思われていないとも限らないし。