2018

3月

3月5日(月)

里の市

 春一番が吹き荒れ、その後も風がよく吹く日が続いている。山の上から、風が木々を揺する音が聞こえてくる。
 気温も上昇し、日曜日には20度を超え、今日は朝でもストーブを必要としないくらいだった。丹沢の根雪も、これからどんどん解けて行くのだろう。週に二回くらいの割合で雨が降る様になり、すっかり春の天気になった。
 まあ、これから寒さがぶり返す事もあるとは思うけれどね。春一番の時は、北海道や東北では酷い吹雪になったとか。

 3月3日に、篠原の里で、年に4回行われる『里の市』があった。屋外のイベントなので天候に左右されるが、この日は気持ちよく晴れてくれた。
 料理を出したり雑貨を売ったりする人もいるのだけど、新たな参加者もいる。今回は、手にオイルを塗ってマッサージする人もいれば、足つぼマッサージをする人もいた。
 こんな地元の「市」は、自分が日頃、どんな本業をしているのか、どんな趣味や特技を持っているかを披露する場にもなっているのだろう。

 里の市にて ヤギと戯れる子供達

 もうじきまた3月11日がやって来るが、年々、震災について振り返るような雰囲気は薄れてきている。実際には、支援を必要としている人は、まだまだ大勢いるはずだが。

 放射能汚染だって、数年で改善できるようなものではない。居住している身の回りだけ土砂をはぎ取っても、広大な山野は汚染されたままだろう。これから何十年と時間をかけて、汚染が薄れ行くのを待つしかないのだろうか。

 地震だって、収まったわけではなかろう。熊本での震災の記憶も生々しいし、死者が出るような火山の噴火事故も相次いでいる。世界的に見ても、このところ火山の噴火は多いらしい。

 たぶん、次の地震に備えて、油断する事無く準備を整えている自治体もあれば、少し気が緩んでいる自治体もあるだろう。次の大地震の時には、そんな差が表に現れてくるんじゃないのか。
 これは自治体だけではなく、備えの有る人と、油断した人の差も、もちろんあるはずだ。

 地震対策について、最近になって気になっている事がもう一つある。このところ、日本の製造業にまつわる不祥事が妙に多い。新幹線の台車が壊れる事件なんてその代表例で、同様の事例は、世の表に現れていない物も含めると、けっこうな数になるのではないか。

 本来、日本の建築物は、世界有数の耐震性を誇ってきたけれど、それは建物を決められた基準で真面目に作った場合だろう。これから大急ぎで作るであろう、オリンピック関連の建物とか、果たして真面目に作れるような現場の倫理観が、残っているのだろうか。

山の雨

 結局、地震や災害に強い世の中って、建物だけを強固に作れば良い、と言う事ではないらしい。
 安定した土地を選んで、安定した建物を建てるのはもちろんとして、その建て方だって、ゆとりのある計画と、ゆとりをもって真面目に作られた材料を使って、ゆとりをもって真面目に働ける人々によって建てられて、初めて強固な建物は実現するのだろう。

 また、その建物を使う側だって、建物の維持や整備にゆとりをもって力を注げる状態でないと駄目だろう。
 地震や災害に強い社会って、様々な企業や人々が、揃って力の充実した、元気な状態である必要が有る。果たしてこの国は、これから元気が出て来る国なのか。元気を失って行く国なのか。

月の出

 元気の源と言えば、正しい食事と正しい休息、正しい活動というところだろう。
 正しい活動と言うのは、正しい仕事という意味だけど、自分のしている仕事が、人々から憎まれ、軽蔑されるようなものだったら、そりゃあ元気だって出ないのではないか。

3月12日(月)

山の雨

 先週の木曜日から金曜日の朝にかけて、この時期にしては珍しい、まとまった雨が降った。
 たいてい、この早春の頃に少々の大雨が降っても、真冬の最中はカラカラの天気が続く関東では、乾き切った山がどんどん水を吸ってくれるのか、川の増水もそれほど無いのが普通なのだけど、今回の雨ではかなり増水した。相模湖もまっ茶色になるほどに濁った。
 今回の冬はなかなか厳しかったけれど、春の訪れは早く、力強いものになるのかもしれない。

 藤野駅の駅前に「風里」という名の食堂があるけれど、その二階に「藤野ライトハウス」というお店ができた。もともとは、藤野アートヴィレッジにあったお店だけど、今回、この場所に拠点を構えて、改めてのオープンとなった。
 「フェアトレード・オーガニック・エコロジーをコンセプトにした雑貨店」との事。詳しくは、以下のフェイスブックのページを御覧ください。

藤野ライトハウス
こちら>>

店内の様子

 このお店。知り合いや友達の力を借りつつ、手作りで室内を改装し、ここまで仕上げたのだとか。
 最近、藤野近辺のお店で、こんなふうに仲間の力を借りて手作りでお店を作って行く事例が増えてきたような気がする。

 ただなぁ、そんなやり方で作られるお店って、作る人に人望と言うか、徳がないと始まらない所がある。
「よーし、あんたの為なら喜んで手を貸そう」
 そう言ってくれる人が、わんさかと集まれば、たちまち大きな力になって、こんなお店もできるのだけど。

 「助け合いは大事だ」と、よく人は言う。
 ただ、そういう時、その人の言葉には、「人は助け合いをしなければならない」といった、義務とか強制とかいった、圧力を感じる事が多い。
 果たして、そういう発言をする人は、助けてもらうに値するだけの、人望がある人なのかどうか。その人が困った時、どのくらいの人々が、その人を「喜んで」助けるのか。

 これって、いじわる過ぎる考え方かな。

 正月に、ケーブルテレビで昔のテレビアニメの「アルプスの少女ハイジ」を見て、ずいぶん良くできた作品だなぁと、いまさらながらびっくりした。その後、同じ高畑勲さん演出の「赤毛のアン」も見てみたけれど、これも恐ろしく出来が良い。
 そりゃあ、今の目から見れば欠点はある。テレビ番組用作られた、予算も時間も限られた、ギリギリの状態で作られたものだろう。

 それで、少しハッと気付いたのだけど、「アルプスの少女ハイジ」も「赤毛のアン」も、孤児なんですね。それを言い始めたら、「タイガーマスク」も「あしたのジョ−」も孤児だ。
 今のテレビアニメーション番組で、主人公が孤児なんて設定の物語って、あるのかしらん。

 なんか、ひと昔、ふた昔前のテレビ番組で放映されていた物語って、貧しく、弱い立場の主人公が当たり前のようにいたし、むしろそっちの方が標準だったのかなぁ。
 テレビ番組から弱者の主人公が消えるようになってから、世の中の方は弱者に厳しくなった、と考えるのは、的を得ているのかいないのか。

夕陽

 あまり大きな声では言えないけれど、ゆー(ナントカ)ちゅーぶで、「アルプスの少女ハイジ」と「赤毛のアン」は見れますね。どちらも、原作の良さを活かしつつ、原作に無い部分を加えている。でも、脚本家が上手いのか、それら追加部分が原作を壊す事無く、むしろ自然な物語の流れに寄与しているのが凄い。

 「赤毛のアン」の最終回で、どうやって物語を終わらせるのかなぁと思ってみてたら、ああ、そういう形で終わらせるのか、と感心した。
 物語の終盤、主人公のアン・シャーリーには、それまでの希望に一直線に向かっていた生き方から、一転して不幸が立て続けに起こり、予想もしていなかった進路を選ぶ事になる。
 それでも、新たに選んだ進路に対して、自分がどのように、積極的に肯定的な意義を見出して行くのか、「手紙」を通して語って行く。
 原作の「Anne of Green Gables」には、この手紙で自分の思いを語らせる所は無いけれど、うまい幕切れだと思った。

 物語の舞台になった、カナダのプリンス・エドワード島には、毎年、この小説の現場を見に、おびただしい数の観光客がくるのだとか。
 観光客を誘致するのなら、誰か作家を呼んで、その土地を楽しく描写する物語でも作ってもらいますか(笑)。