2018

1月

1月8日(月)

明るい森

 年が開けて、今日は最初の雨になった。あちこちで成人を祝う式典が行われていたと思うけれど、午後からの雨に、せっかくの晴れ着を汚さないか心配になる新成人も多かったんじゃないか。
 まあ、雪にならなかっただけでもマシかもしれない。

 年明けで、最初に興味深く感じた記事は、これかなぁ。

ついに大手電力が「再エネは怖い」と知った
2018年は日本の電力市場の転換点になる
こちら>>

 はっきり言って、今までの大手電力業界って、横柄なところがあったね。まあそれは、「自分達が日本のエネルギーを支えているんだ」という自負の現れだとも思うけれど。
 ただ、その自負が、「民衆は電力の運営について、あれこれ口を出すな」といった雰囲気も出していたと感じている。原発なんかも、「これは国策なんだから庶民は黙っていろ」という姿勢が、露骨にあったからね。
 でも、否応も無く、時代は変わって行くのだろう。

 相模湖

 これまで自分は、このヒマな日記に、テクノロジーの進化が、人々から仕事を奪って行く未来について書いてきた。これは同時に、テクノロジーの進化が、人々から利権を奪って行く未来でもある。

 そんな未来の衝撃を、正確に予見している人は、まだ稀だろう。上記の記事にあるように、その変化が実感できる状態になってから、さあこれは大変だと慌て始めるのだと思う。

 こんな事を書くと、テクノロジーの進化によって利権を失うのは、一部の特権階級だけだろうから、一般庶民には関係ない事で、むしろ歓迎する事ではないか、と思う人もいるかもしれない。

 でもねえ、「私は特権階級の人間ではない、ただの庶民だ」と自認している人だって、その人が勤めている会社は、国や自治体からの助成金や公共事業を当てにして仕事をしている会社かもしれない。
 というか、全てでは無くても、何割かは、そんな仕事も含まれているのが普通では無いか。

 利権はけしからんと言う人も、案外、自分自身が利権によって養われている事に気付いていないだけかもしれないよ。

 利権に頼らない生き方となると、自分自身の力によって、人々を感動させたり頼られたり納得させられる価値を生み出せるかにかかってくる。
「私にはそういう力がある」
と、断言できる人が、どれくらいいるかどうか。たとえいたとしても、その「力」を実社会で試して、実際に成功している人となると、全人口の何%かな。

 私は、その数字はひと桁だと思うね。

光る木々

 私は、全ての人が、自分自身の力で価値を創造できる人間にならなければならないとは、思っていない。「私は誠実に働いて生きて行きます」という気持ちと努力だけで、十分に幸せな暮らしができる世の中の方が、正しいと思っている。
 さもないと、価値を創造できない人間は幸せになる資格も無い、という理屈になってしまう。

 それに、価値を創造するのは得意だけど飽きっぽい人もいれば、価値を創造するのは苦手だけど、既存の価値を地道に継承発展させて行くのが得意な人もいる事だろう。
 それぞれが、自分の長所と短所を謙虚にわきまえて、全体が幸福なるような仕組みを作り上げていけば、いいことだと思う。

 これからの未来を作って行く人材は、そんな、自分の長所と短所を冷静に見極められる謙虚さの持ち主だと思うけれど、こういった人格は、私のような昭和を生きた世代よりも、平成生まれの若い世代の方が、普通に持っている人が多いような気がするな。

谷間の残照

 これから、何が価値を産み出す仕事かは自分でも判らないけれど、とりあえず、興味のあるもの、夢中になれるもの、自分の個性に合っているものから始めればいいんじゃないかなァ。
「そんな甘い考えではいかん。その仕事に興味が無くても、自分に不向きでも、単に苦痛であっても、耐え忍んで努力してするのが仕事だ。」
 そういう意見も根強いとは思うけれど。

 でもなぁ、なんだかこのところ、そんなふうに自分を押し殺して働いているような所から、不祥事が発生して自壊している例が、多いような気がする。

1月15日(月)

梢の光

 今回の冬は、どうやら「暖冬ではない」という点では確定したのではないか。後は、「普通に寒い冬」か「例年になく寒い冬」の、どちらになるかだろう。
 こういった、いかにも冬らしい冬になると、関東は雨が降らなくなる。代わって日本海側では気の毒なくらいに大雪になるが。
 そのせいか、丹沢の山々は今でも雪をかぶっていない。昨年に、少し冠雪する程度の雪はあったけど根雪になるような降りではなく、すぐに解けてしまった。なので丹沢は茶色いままだ。

 今週は、少し寒さが緩むそうだけど、来週はかなり寒くなるらしい。早くも気象庁が警戒を呼び掛けている。
 こんな時は、お年寄りや体の弱い方々は、エコだとか省エネとか一切気にしなくてもいいから、思う存分に暖房を使って欲しい。気のせいか、車で道を走ってても、なんだかよく救急車とすれ違う気がする。風邪が流行るのもこれからだろう。

 小川

 このまま科学技術が進んで、どんな世の中になるんだろうな、と考えた時に、ふと思い出した話が荘子にあった。

 ある人がいて、その人は自分の影を怖がり、自分の足跡ができるのを嫌がった。影と足跡から逃げようと走ったが、足跡は足を動かせば動かすほど増えて、影は体から離れない。その人は、これは私の走る速さが遅いせいだと考えて、ますます速く、休み無く走ったが、ついに力尽きて死んだ。
 日陰で休んでいれば、自分の影におびえる事も無く、足跡を増やす事もなかったろうに・・・という話。

 一般的な解釈は、ことさらに自分で悩みごとの種を作り、みずから好んで(当人は好んでいるつもりはないが)精神的に追い詰められる人の例え話という事になっている。

 ただ私は、それとは少し違った解釈をしていて、この話に出て来る「影」とか「足跡」というのは、「自意識」なのではないかと思っている。

 自分と他人を比較し、こんな自分では駄目だ、こんな自分では恥ずかしい、もっと目指すべき自分にならなければならぬと焦燥感にかられ、焦燥感にかられるほどますます自分を追い詰めてしまい、ついには力果てる。
 ここでは、「影に入って休んでなさい」という言葉は、「いっそ『自分』なんて、捨ててしまいなさい」といった、禅的な提案になってくる。

 それが最近、この話が、また違った寓話に感じられるようになった。

 科学技術の進歩によって、ますますコンピューターの性能は上がっていくだろう。これからの人間は、そんなコンピューターが作り出す世界を生きていく事になる。

冬枯れ

 コンピューターが処理する情報量も膨大なものになってくるし、その膨大な情報を使って、様々な分析をコンピューターがするようになって来る。
 インターネットのオークションでは、出品者がどのくらい信用ができる人なのか、過去の履歴からその人の信用度を数値にして公開するようになっている。似たような事が、他の分野にも応用されるようになってくるだろう。

 その人が、過去にどのような行動をして、どのような発言をしてきたのか。その発言も、どの程度、嘘をつき、どの程度正直だったか。
 つまり、その人が人間として、どの程度、信用のおける人なのかも、数値化して公開される時代になるかもしれない。

 その人の「足跡」がモノを言い始める社会。その人の「影(評価)」が、その人以上にモノを言い始める社会が、来るかもしれない。
 そんな時代、人々は焦るように、世間から信用されるような行動と発言を、率先して繰り返し、そんな追われるような生活に疲れ果てるようになるのだろうか。

夕暮れ時

 荘子の寓話に従えば、そんな暮らしに心身を消耗させるくらいなら、「日陰」に入って休んでいれば良い、ということになるだろう。ここで言う「日陰」とは何か。
 おそらく、人から信用されようなどと考えず、無私、無心、無我の境地で生きろ、それが「日陰」の在りかだ、というところだろうか。

『荘子』漁父編
 『荀子』解蔽編にも同様な話がある。広く使われた寓話なのだろう。

1月22日(月)

この冬最初の雪

 この日は、お昼頃から雪が降り出した。なかなか勢いのある雪で、どんどん積もって行く。気象庁は豪雪だと警戒を呼び掛け、早く帰宅するように、無用な外出は控えるようにと勧めている。やはり、4年前のとんでもない大雪を思い出すのだろう。
 さすがに、今回の雪は、あれほどの積もり方はしないとは思うけれど、油断はできないな。4年前は、2月に2回の大雪があって、どちらも酷い豪雪だったけど、2度目の方が凄かった。

 もう一つ不安なのが、この雪を境に、かなり厳しい寒気が押し寄せて来るらしいこと。もしかしたらこの雪、簡単には解けずに、日当たりの悪い所では春まで残るようなカチカチの雪になるかもしれない。

 この日記を書いているのは22日の午後8時頃で、その時点で牧馬の積雪は35センチくらい。ここまでくると、除雪車の出動を待たないと、車で外出するのは困難だな。そりゃあ、ジープみたいな悪路に強い車なら別だけど。
 つまり、除雪車が来るまで家に閉じ込められる事になるが、いつ頃、家を出られるようになるだろう。4年前の2月14日の雪の時には、除雪車が来るまで3日間、家から出られず買い物にも行けなかったが、さすがに今回はそこまで酷い事にはなるまいが。

 でも、日頃から、せめて1週間ぶん程度の食料の備蓄は心掛けておくべきだね、と、こんな時に思い返す。

霧の相模湖

 今月の下旬、藤野で地域通貨に関する、興味深いイベントがある。

幸せのコミュニティ経済カンファレンス〜地域通貨とデジタル通貨の可能性
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 藤野では「よろず(萬)」という名前の地域通貨があり、けっこう有効に使われて、定着している。地域通貨には、実際に独自の貨幣を作る物もあれば、通帳式と言って、お互いに通帳を持ち合い、誰が誰にモノやサービスを提供し、その対価として誰が誰に地域通貨を渡したかを、お互いに記録させる方式もある。藤野で行われている「よろず」は通帳式だ。

 今回のイベントでは、どうやら地域通貨をデジタル通貨にしたら、どんな可能性が開けるか、という話になりそうだけど。
 現在、藤野で使われている地域通貨の通帳が、そのまま携帯電話に入るような未来になるのだろうか。たぶんそれは、そんなにハードルの高い技術的な困難さは無いだろうと思う。
 ただ、それによる便利さの拡大とか、思いもよらない利用法の発展とかも、あるんじゃないかな。まあ、そういった話を聞けるイベントなんだろう。

雲間の光

 以前から、地域通貨と、インターネットのようなデジタル技術は相性が良いと思っていた。
 実は、藤野で「よろず」が始まるもっと以前に、藤野でも地域通貨をやってみようという動きはあり、勉強会なども行われていた。結局、それは実現には至らなかったけれど、「よろず」が始まった頃は、人々が普通に携帯電話を持つ時期に入っていた。
 これは、地域通貨が使いやすい状況を作る上で、劇的な状況の変化だったと思う。

 何しろ、地域通貨の参加者がネットに接続できる状況であれば、誰が、どんなモノやサービスを欲しがっているかが即座に判り、「そういう要望なら私が解決できますよ」という応答もすぐに出来る。
「子供が大きくなってチャイルドシートが不要になったけれど、誰かいる?」とか、「誰か草刈りを手伝ってくれませんか」といった依頼はもちろん、「車がバッテリーがあがって動けなくなってしまった、誰か助けて」みたいな依頼でも、即座に誰かが応答し、誰かが支援の手を差し伸べられるのは、インターネットの普及があってこそだろう。

 また、「よろず」のメールのお知らせでは、そういった依頼の話ばかりではなく、依頼がどんな形で解決されたかも知らされて来る。そんな「物語」の数々が、見ていて面白い。

牧馬の雪(1月22日)

 仮想通貨の現状としては、近年は投機的な目的で過熱気味に扱われ、荒々しい値動きをしていて、こんな物騒な通貨を信用していいのかと疑念ばかりがつのるような状況になっている。
 ただ、こういった現象を、単に投機だけに原因を求めるわけにもいかないだろう。国の発行する通貨を信用できない人々は世界中にいるし、国境に縛られずに自由に送金できる資産を持っておきたいと考える人々も世界中にいる。そんな人々にとって、デジタルの仮想通貨は、まさに答えの一つになっているのだろう。

 私の思いとしては、お金だって生活を円滑に動かす道具の一つに過ぎないのだから、人々を幸せにする道具であって欲しいと考えている。これから、仮想通貨も含めて、いろんな通貨が出てくるとは思うが、世の中の幸福がより増大するような通貨が広まって、世の中の不幸が増大するような通貨が縮退して行けばと願っています。
 つまり、その通貨に倫理や人徳があるのか、という話になるのですが。

 たぶん、これからの未来には、あのお金には徳があり、あのお金には徳がない、といった話も、出て来るんじゃなかろうか。

1月29日(月)

牧馬の雪(23日朝)

 22日の雪は、夜半には止んで、結局、牧馬では積雪は35センチ程度で終わった。ここまで降られると、さすがにスタッドレスの四輪駆動の車でも、よほど車高の高い車じゃないと走れなくなる。それでも、車の通ったあとのわだちを走れば何とかなるだろうと、峠越えに挑戦する猛者もいたが。
 けっこう無茶する人がいるなァ。

 牧馬の県道の除雪は、23日の夕方には終わったが、牧馬峠の北側の除雪は手こずったらしい。峠の通行が可能になったのは25日までずれこんだ。
 気になるのは、県道から枝別れした道の除雪で、牧馬から中沢へ至る道は、未だに除雪が行われていない。何でも、例年この道を除雪している業者が、無くなったとかで。
 普通、雪が降る前に後継の業者を選定すると思うのだが。

 気象庁の予報通り、雪が通り過ぎてから本格的な寒波が押し寄せてきた。牧馬でマイナス10度に迫る温度というのは、ずいぶん久しぶりのような気がする。藤野のあちこちで水が出なくなったと悲鳴をあげる家が続出し、中には水道管が破裂する家も多かったとか。しばらく、水道屋は修理の依頼でてんてこまいだろう。

雪の稜線

 こんな例年に無い寒さで思う事がある。
 夏の暑さで高齢者が熱中症になってしまうのを避けるために、冷房の効いた部屋に退避してもらうように、冬の寒さに対しても、暖房の効いた部屋に退避してもらうような心がけが必要になるのでは無いか。
 断熱の性能の良く無い家に住んでいる高齢者の場合は、部屋の断熱工事を支援してもいいと思う。金がかかると思うかもしれないが、既に高齢者には多額の医療費が投じられているだろう。病気を未然に防ぐと言う考え方ならば、案外、たいした出費ではないかもしれない。

 そう言えば『孟子』では、理想の社会を語る時に、人々に養蚕と家畜を飼う事を奨励していたな。
 養蚕を奨励する目的は、お年寄りに絹の衣類を着せるため。家畜を飼う目的は、お年寄りに肉を食べさせるため。どちらも、高齢者は体温が冷えやすいから、体を暖めるのが目的だそうな。
 絹の衣類で体を暖めると言うのは判るけれど、肉食が体を暖めると言う発想は、いかにも医食同源の中国らしい。

 実際、北風に当たって体温が冷えると、風邪をひきやすい。お年寄りに限らず、インフルエンザが流行っているそうだ。

牧馬の山

 前回の日記で紹介した、地域通貨と仮想通貨に関する講演を聴きに行ってみたのだけれど。

幸せのコミュニティ経済カンファレンス〜地域通貨とデジタル通貨の可能性
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 話された内容は多岐に渡り、私の頭ではついて行けない所も多かったが、講演を聴き終わって、漠然とこんな印象を感じた。
 「お金」という存在が、今後どのような変化をしていくのかは判らない。今後も、デジタル技術の進歩にも影響されながら、変化は続けて行く事だろう。あるいは、変化の果てに、お金という存在が無くなってしまう世の中の可能性もあるかもしれない。

 ただ、ここで「法律」を例に採ると、あれをしてはいけない、これをしてはいけない、と法律できめる必要があるということは、人間と言う生き物が、あれやこれやらをしかねない生き物だと言う事でもある。
 学校の校則で、「廊下に大便をしないこと」と言うものが無いのは、さすがにどんな酷い人間でもそこまではしないという事であり、もし、実際にそんな校則があったとしたら、その学校の生徒は、その行為をする可能性を抱えていると言う事でもある。

 相模湖

 つまり「法律」というのは、その法律をしている人々の集団の性格の、正直な反映で、「法律」とは、人間的で、人間臭いものだという事だ。

 同じ事は、「お金」についてもあてはまるのだろう。お金という存在を悪く否定的に捉える事も、良い方に肯定的に捉える事も可能だが、結局、お金というものは、人間という生き物の性質を正直に反映した、人間的で人間臭い存在なのだと。
 人間が悪徳に走ればお金も悪徳を体現した働き方をするし、その逆もありうるだろう。

 人間と言う生き物が、生物学的にそう変化するわけではないけれど、知恵と努力によって、文化的にも野蛮にもなれるくらいの変化は、自ら創りだせる。
 人間と言う生き物の中に潜む野蛮さを、冷静に観察して、上手に飼いならして、文化的な存在へと導けるような世の中の仕組みを考えて実践すれば、お金も文化的な存在になるのかもしれない。