2017

5月

5月4日(木)

春の野

 ずいぶんと更新の間が空いた。季節もすっかり変わり、今や新緑の季節。5月20日と21日には、藤野でも最大規模のイベントの『ぐるっと陶器市』がある。晴れてくれればいいが、どういうわけかこのイベント、雨と縁があるんだよなぁ。

 この初夏は、どうも私の印象としては、牧馬の里でタヌキを見かける事が例年なく多い気がする。夕方や夜に車を運転していると、ちょくちょうタヌキが道を横切るのにでくわす。
 タヌキにも、当たり年とかあるのだろうか。

 最近、藤野への移住を紹介するサイトが出来た。

里まっち
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 この取り組み、事務局が地元の観光協会。こういった、移住者の促進とかいった事業は、自治体がやる事だと思うのだけれど、当の相模原市は、あまり現在の所、移住者の促進には熱意がない。何しろ、相模原市でも都市部では人口が増えているので、山間地の旧津久井郡の人口減少問題に関しては、深刻に受け止めていないようだ。

 藤野の住民としても、移住者の促進について市に働きかけてきたけれど、なかなか動いてくれないので、結局、観光協会が事務局になって組織を立ち上げる、という変則的な形での発足になった。

若葉

 相模原市は、旧津久井郡を吸収合併して政令指定都市にもなったが、旧津久井郡の山間地ならではの課題や問題点について、率直に言えば冷淡な所がある。イノシシやサルといった獣害の問題にしても、人口の減少の問題にしても、具体的かつ有効的な手段を講じるといったことは無かった。
 なかなか、相模原の都市部からは、親身になって想像できない課題なのだろう。

 相模原市になって前進した事も有る事はある。例えば、車のすれ違いも難しいような県道を、幅を広げたり歩道を作ったりする事業は、今も進んでいる。これは、相模原市になる以前は、県はなかなか事業に着手できない状態が続いていた。

 他に、地域の生活交通手段として乗り合いタクシーの新設がある。藤野でも吉野地区では、従来は路線バスも無かった所に乗り合いタクシーが出来て、わりと順調に運営が進んでいるそうだ。
 ただ、私の住む牧馬のある篠原地区を通る乗り合いタクシーは、いろいろとダイヤを工夫しても利用者が伸びずに運営が難しい状況になっている。地元と市との間でも、いろいろと相談は重ねているそうで、「どうも篠原地区は、乗り合いタクシー方式には不向きな土地柄みたいですね」といった所までは、話が進んでいるらしい。

 じゃあ、乗り合いタクシーとは違った形での交通手段を作っていこうという話になるが、実現にはまだ時間が必要みたいだ。

新緑の山

 牛乳等の乳製品が値上げになると言う。何でも、値上げの理由の一つに、生産者の減少があるという。
 宅配便の労働環境の過酷さが問題になり、こちらも値上げやら人員の増員を図らなければならなくなった。
 なんだかこの世の中、実際に汗水流して働く人が足りなくなって、動きが悪くなっているみたいだ。

 人口減少社会になり、老人の数が増えて若者の数が減れば、産業界は若者の奪い合いになるのだろう。ただ、それだけでは、未来は塞がったままだろう。
 やはり、人口の減少傾向を止めて、増加に転じるような世の中を作っていかないと、未来は開いてくれない。残念ながら、産業界はもとより、政界すら、世の中を「育てる」という意識は希薄だ。現在の所、世の中を消費して食い尽くすことしか出来ていない。
 たぶん、昭和の高度経済成長時代の感覚のままでいるのだろう。昔はそれで良かったのかもしれないが。

 おそらくこれから、地方から「尻に火がつく」といった状態になって、何とか人口減少に歯止めをかけて、地場産業を振興させて雇用を増やして、移住者も増えるような政策を本気になって始める所が出て来るだろう。
 その一方で、意識を変える事が出来なかった地域は、人口流出に歯止めがかからずに、事実上、滅んでしまう所もあるかもしれない。
 なんだか、ちょっとした戦国時代だね。

川沿いの木々

 ここでやはり、これまで何度か書いてきたけれど、『徳』といったものが重要になって、更には「欠かせない」というレベルになってくると想像している。
 人が周囲から集まってくるような人とは、どんな人格なのか。また、人が周囲から集まって参加してくるような組織とは、どんな気風や文化を備えた組織なのか。

 最近、個人的にも、人や組織を見る時には、「この人は、人が集まってくる人なのか、離れて行く人なのか」、「この組織は人が集まってくる組織なのか、離れて行く組織なのか」といった視点で、見る事が多い。

 そして、案外、人を粗末に扱う人や組織の方が多いという現実を見て、こりゃあ、未来を切り開ける人や組織は、少数派なのかなぁ、とも思うのです。

5月15日(月)

最小規模の祭り

 既に新緑の季節も過ぎつつある。山の緑は若々しい淡い色から、どっしりと濃い深緑へと移行した。前回の日記で、どうも今年はタヌキをよく見ると書いたけれど、その一方で、藤の花はあまり盛んではないように感じる。年によっては、山のそこらじゅうで藤の花だらけになる事もあるんだけどな。
 いろいろ、動植物には年による当たり外れがあるのだろう。そういえば、今年はトラツグミの声をよく聞くなァ。

 イベントだらけの藤野だけど、規模の大小もあれば、内容の固いものとか柔らかいものがある。上の写真は藤野でも最小規模のイベント。それでも、音楽あり演劇あり飲食ありフリーマーケットあり苗の販売ありと、けっこう盛り沢山。
 あと、同じ地域に住んでいる人でも、こういう時にこそ、久しぶりに会う人も多い。そこで、「最近どう?」と、近況を確認しあうのだけど、山里のようなコミュニティーを維持するのには、そんな交流がどうしても必要になると思う。

 ああそうだ、ちょっと固めのイベントも紹介しておきます。5月27日(土)から29日(月)までの三日間に、「東アジア地球市民村in藤野」という企画があります。

東アジア地球市民村in藤野
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若葉

 このイベントのサイトにはこんな文章が紹介として書いてある。

「東アジアの人々が地域を越え、交流し学びあい、国を超えた地球市民としてのつながりを創り、未来へつ なぐことが今必要とされています。
「つながり」とは、隣国や他国の市民や環境、文化とのつながり。時間 を超えた過去や未来とのつながりです。このつながりを取り戻し創造することで、自分自身の暮らしの現在 地が認識できます。
そして地球に生きているという意識や感覚を得ることができます。私たちはこれを「地球市民意識」と呼びます。
私たちは国境を越えて地球のための国際化という「地球市民意識」へ変容 ( マインドシフト ) していく必 要があります。
そこで、私たちは一つのきっかけとして「東アジア」という生活様式や自然に対する自然観 などが近しい地域をベースとした「東アジア地球市民村」という国を超えた仮想の村(コミュニティ)を立 ち上げました。
この村では参加した村民一人一人が自然から享受し蓄えてきた英知、文化、伝統、芸術、 そして、環境と密接に関わる暮らしやその生活技術を共有し、地球市民意識を醸成します。」

 まあようするに、東アジアで持続可能社会の実現を目指す団体が集まって、情報を交換しあったり親睦を深めたりする企画らしい。実際、中国や韓国や台湾の団体もやってくる。この会、これまで中国の上海で3回行われたけれど、今回は初めての日本での開催なんだとか。

連なる山

 サイトの方には記載はないけれど、このイベントに参加する団体や人の名前を見る機会があったけれど、「へー、そんな人も来るの」と思う人がけっこういる。なんだか持続可能社会の建設を目指す団体のサミットみたいだ。
 これが実りのある交流に繋がればいいのだけど、こういったイベントが近付いているのに、それほど情報が拡散していないように見えるのが気掛かりだ。

 ただ、こうも思った。これだけインターネットが普及して、情報の収集や共有や拡散が個人でもできる時代、「藤野でこういうイベントがあって、こういう人たちが来る」という情報だって、知るべき人は、必ず知る機会があるだろう、と。

 同じ志向、同じ趣味、同じ思想を持つ人どうしの情報の共有は、10年前とは比較にならないほど簡単に速やかに達成できる世の中になった。
 ただ、これって気をつけないと、自分が得ている情報にバランス感覚を失う可能性があるのね。

 人種差別主義者どうしが、人種差別主義者専用のコミュニティーを作り、人種差別主義者だけが集まる酒場で、わいわいと仲間と酒を飲みながら「私達こそが正しい」と心地よく溜飲をさげている世界だって、実際にあることだろう。

山の上の方の桜も、そろそろ終わりです

 前回の日記で、私が人や組織を見る時に、この人(組織)は、人が集まる人(組織)なのか、人が去って行く人(組織)なのか、という視点で見ている、といったことを書いた。

 ちょっとここで具体例を書くけど、ある年代の男性に対して「たぶん、その人が生まれた時代背景が、そのような人格を作ったのだろうけれど、これから未来にかけては、つらい境遇になるんじゃないかなぁ」という思いを、最近、私は強くしている。

 高度経済成長期の盛りを経験した男性が、引退して地域の活動に参加したりする時に、その人が「ちょっと困った存在」になることが多いようなのです。
 自分よりも年下の人間がいたら、すぐに命令したりアゴで使ったりできると考える性質。誰がどこの会社のどの役職まで行ったか、誰がどんな学歴を持っているかで、上下関係を決めたがる性質。地域の活動に、そんな性質は何の役にもたたずに有害なだけなのに。
 あと、女性蔑視も、以外と標準的に持っている性質だったりするね。

 でもなぁ、これから高齢化社会になって、お年寄りといっても色々と有益な活動に参加してもらう時代になって来ると思うけれど、ああいう性質の男の年輩者って、地域の活動にとって生きた公害でしかない場合も多いんですよ。酷い表現で申し訳ありませんが。

 自分も、年をとったらイヤなジジイになるのだろうか。

5月22日(月)

陶器市のヒトコマ

 藤野でも最大級のイベント、「ぐるっと陶器市」は、めずらしく二日とも晴天に恵まれた。たいがい、土日のどちらか、もしくは両方が雨になる事が多いんだけどな。
 晴れたのはいいけど、今度は夏のような暑さ。アイスコーヒーとか冷たい飲み物はかなり売れた事だろう。かき氷でもあったら、ひと財産は築けたんじゃないか。

 規模の大きいイベントだけに、これを毎年に渡って維持するのも、当事者はいろいろと大変だと思う。何しろ出店者も膨大な数になるし、お客も膨大な数になる。今年も、あちこちの会場をめぐるバスが運行された。私が見た感じでは、このバス、けっこう効果的にお客さんに利用されたみたいだ。

 昨年頃から大きな課題になっているのが、飲食に関わる出店をする方々の、保健所への対応の問題だ。近年になって急に、保健所の方から、こういったイベントで飲食の店を出すにあたって、こういう店ならいい、こういう店は出してはいかんと、あれこれ言うようになってきた。

 野菜等を、その場で包丁で切るような食事の提供は駄目だと言ったりする。うどんも、その場でこねるような手討ちのうどんは駄目なんだそうな。
 これは宮城県の通達だけど、全国どこでも、似たような指導が行われているのだろう。

仮設営業について
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 トチの花

 ただ、私としては、このような規制の流れには再考を促したい。似たような話で、地域で行われる餅搗きすら出来なくなる話がある。藤野でも同様な事があった。

餅つき禁止!? 年末年始恒例なのに 自治体規制に住民反発も
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 私が問題だと思う点の一つは、危険だから、事故が起こるからと言う理由で、すぐに規制する方向で話を進めると、社会はどんどん劣化する事。

 危険で事故の可能性があるものは規制すると言うのなら、山に登ったり海に潜るのは禁止だろう。いや、車を運転して道路を走る事だって、危険と事故とは無縁ではない。スポーツだってやめるべきだ。

 何か問題があれば規制、という姿勢は、そのまま放置しておくと歯止めがきかなくなって、規制の対象が際限なく拡大して行く。しまいには、危険や事故の可能性が有るから、みんな家から出ないでじっとしていろ、という馬鹿げた状態にすら、なりかねない。

 もう一つ問題だと思うのが、規制をかけようとする行政の志の点だ。「志」なんて、ずいぶん大袈裟な表現を使ったが。

 イベントや祭りの場で飲食の店を規制するにしても、その規制をかける行政にどんな志があるかで、現場はだいぶ変わってくる。
 そう、例えばこれが、北海道の夕張市のように、危機的な状態にある自治体が、なんとか現状を打破しようとしてイベントを企画するとする。この地域の将来を切り開きたいと、自治体の職員も真摯に考えている時、単に形式的なお役所仕事として、「こういうことはやっちゃいかん」とは言わないだろう。

 地域を盛り上げたいと住民が願い、自治体の職員も同じ願いを共有している時、市の職員と住民がひざを交えて語り合い、「確かに法の規制はあるが、こういうやり方を使えば出来るんじゃないか」と、アイデアを出し合う場が出来ているはずだ。

 私が言う「志」とは、そういう意味で、地域を盛り上げて行こうという志が自治体の職員と住民とで共有され、積極的で活発な交流が両者の間にあれば、物事を「規制する」という発想ではなく、現状をどうやって「切り開く」という発想になるはずなのだ。

輝く緑

 思うに、今の日本は、「ぜいたく病」になっているのではないか。特にお役所は。
 確かに、戦後の高度経済成長期を経て、この国は発展もしたし豊かにもなっただろう。しかし、人間、いったん豊かになって成功してしまうと、今度は冒険するよりも守りに入ってしまう。

「もう豊かで安定した世の中になったんだから、失敗する可能性のある余計な事はするな」という考え方に流れがちだ。
 でも、豊かで安定した世の中というものは、かつて、お役所の職員も住民も企業も、それぞれが挑戦や冒険を重ねて、貧しくて何もない所から育て上げてきたものだったはずだ。

 危険や事故の可能性のあるものは規制しろ、という発想は、この世の中を「育てる」という発想ではない。
 ただ、これからはどうだろう。
 人口減少社会は既に始まっている。将来、消滅する自治体だってあるのではないかと、真剣に考えざるをえない状況が現実のものになってきた。

 再度、自治体の職員も、住民と一緒になって「何か新しい事をしなくちゃならない」という時代が来るだろう。納税者あってのお役所のはずだし。

夏らしい雲

5月29日(月)

伐採作業

 夏らしい雰囲気にはなってきたが、まだ強烈な蒸し暑さというのは、数回しか経験していない。どこか、上空にはまだ寒い空気が残っているような感じがする。あちこちの田んぼでは、代かき作業が始まって田植えを待つ時期になってきた。

 このところ、牧馬のある篠原地区では、道路沿いの木々の伐採作業が行われている。これは私も以前から願っていた事で有難い。上の写真では分かりにくいかもしれませんが、写真の左に写っている赤いカゴの下に、高所作業車の本体があります。これがけっこうな高さで、道路の位置も、ずっと下です。まん中あたりに写っている電柱を見れば、なんとなく高さの想像がつくでしょうか。
 私には出来ない作業だな。私は高い所が苦手なんです。

 高所作業車がカゴを上げて、道路に覆いかぶさるように伸びている枝を伐る。この枝だって、かなりの太さだ。あらかた枝を除去してから、根元から伐採する。プロの腕と機材が無いと出来ない作業だね。写真には、ピンク色のテープが巻いてある木が何本も写っているけれど、これから伐る予定の木なのかな。

 山里の道路沿いの木々は、例えば道路から両側の5メートルずつとかは、あらかじめ伐採しておいた方が良いと、私は思っています。

 花の道

 昔の山里だったら、炭焼きが盛んだったので、こんなふうに木々を大きく育ててしまうまで放置する事は無かったけど、今は炭焼きは細々とした規模でしか行われていないし、木を伐る人もいない。そこで、木々はどんどん大きくなる。

 近年、台風や雪があったときに、道路沿いの木が倒れて道を塞いだり、電線を切断して停電を起こすような事が、毎年のように慢性化しつつある。たまに、篠原地区に大型のバスが入る時には、バスの車体に木々の枝がぶつかると、苦情を言われた事もある。

 炭焼きが衰退し、木々がそれほど伐られなくなった時代ならではの、山里の管理のしかたと言うものがあるだろう。
 ただ、道路沿いの木々を、地元の住民だけで伐るというのは、さすがに無理で、そこは行政の力をお願いするしかないと思う。

 あとはなー、伐った後の木を、有効に使う道とかあるのだろうか。地元の薪ストーブ利用者なんかに渡れば理想的なんだけど。
 これからだろうな。行政と住民が連係して、山里の新しい文化を創造していくのは。

 大分県では地割れが起きて騒ぎになっている。どうも、地下水が影響しているのが原因だそうだけど、じゃあ、なんで急に地下水に異変が生じたかが疑問として残る。
 やはり、地下ではいろいろと動きがあるんだろうな。
 熊本で震災が起こって1年あまり。今でも生活に苦労を背負っている人は多いだろう。

 ミヤコの方では何やら政権が動揺しているみたいだけど、あんな調子じゃあ、夏頃には破局を迎えるんじゃないかと思う。
 なんでこんな状態になったかと言えば、「権力」だけを大事にし、それに依存することしか頭に無かったからだろう。権力だけを大事にして、それに依存する人たちって、結局最後は破局を迎えるしかない。

 そうだなぁ、たとえばここに戦国時代の国があったとする。その国の中で、最有力の氏族が国を統一して王朝を作るとする。その王朝にも有力な家臣がいる。それぞれ、戦国時代に共に戦ってきた仲間たちだ。そんな家臣達にも、領地や資産を与える事になるだろう。

 ところが、戦国時代が終了すると、それまでとは違った異変が起きるのが普通だ。

濃い緑

 戦国時代は、戦う相手、つまり滅ぼす相手がいるために、領主も家臣も、勝ち続けている内は領地や資産が増える傾向にある。しかし、国の統一が成立して戦がなくなると、奪う領地や資産のあてが無くなってしまう。
 すると何が起きるというかというと、それまで共に戦ってきた家臣のなかに、謀反を企んでいる氏族がいる、という讒言が起こる。

 さあとんでもないやつだ、とその氏族を滅ぼす。滅ぼさせた氏族の領地や資産は、多くは王朝の所有となり、一部は、その氏族を滅ぼす戦争に功績のあった氏族に分けられる。
 平和な時代、新しい戦争が無い時代になると、新しい領地や資産の獲得は、かつて、国の統一の為に共に戦ってきた仲間を滅ぼすという手段しかなくなる。

 これと同じ事が、今の政権に至る20年くらいの歳月をかけて、この国でも行われ続けてきた。代表的な言葉が、小泉政権の時に使われた「抵抗勢力」だろう。
 ただこのやり方、悪い副作用も大きい。最大の副作用が、破局を避けられない、という点にあるだろう。

心地よい風

 例え話を続けると、「あの氏族は謀反を企んでいる」と讒言が起こり、その氏族を滅ぼすのに協力する他の氏族たちも、内心ではこう思う。
「もしかしたら、次に『あの氏族は謀反を企んでいる』と訴えられるのは、私ではないか」と。

 こんな雰囲気が広がると、王朝を支える氏族たちも、表面では王朝に服従する様を見せるが、本心では、いつ相手が敵になるかもしれないという気持ちでいる。
 ある時、やはり例によって「あの氏族は謀反を企んでいる」との讒言が起こる。その氏族を滅ぼそうと、王朝から攻撃の命令が下る。

 しかし、その槍玉にあがった氏族も、「この調子だと、全ての氏族が同じやり方で滅ぼされるぞ」と、他の氏族に呼び掛ける。すると、王朝の攻撃命令に従わないで、成りゆきを傍観する氏族が現れたり、逆に、その氏族と一緒になって王朝に叛旗を振り上げる氏族も現れる。更には、どうも謀反を起こした氏族が王朝を倒しそうだ、という雰囲気になると、もういけない。他の氏族たちも、負け馬に従っていてはいけない、勝ち馬に乗らなければならないと、なだれをうって王朝を滅ぼす側につく。
 鎌倉幕府の北条氏の滅亡は、そんな形で進んだ。

 長続きする政権には、「権力」だけではなく、他に必要なものがあるのだけど。