2017

1月

1月9日(月)

怪しげな雲(1月8日)

 安定した晴天が続いていたが、8日の午後から雨になって、特に山間部は雪になるぞ、と言う予報を聞いて、やはり牧馬は雪になるかなぁと危惧した。まさに天気が下り坂に差し掛かっている時に、空には妙な雲が覆った。寒気が入り込んだからだろうか。

 確かに、雪は降ることは降った。しかし、10センチも積もらないボタン雪で、雨まじりの雪だったこともあり、たちまち解けて消えていった。それでも、道路には除雪車も出動し、凍結防止の薬剤も撒いた。簡単に解ける雪でも、朝の寒さで凍結したら実にやっかいな事になる。

 消防団の出初め式も終わり、七草がゆも食べ、どんど焼きも終わり、小学校も始まり、正月らしさも終わった感じだ。
 天気予報は、そろそろ冬将軍が本気を出す頃だと言っているが、どうなんだろう。

相模湖

 以前からこの日記では、混乱した世の中を最後に解決するのは、徳治主義・・・それも権力者が民衆に徳を要求したり押し付けるのではなく、民衆の各人が、自ら徳に目覚めて実践するような気風を醸成していく徳治主義しかないだろう、といった事を書いてきた。
 似たような話をある席でした時、「『徳』に相当する英語って、何でしょうね」という話になり、「一般にはvirtueがそれに相当するけれど、何か、日本語の徳とはかなり印象が異なる」と、教わった。

 ギリシャ発祥の西洋の思想における徳とは、勇気とか節制とか知性とか統率力とか、まあ何事かを処理する時に実力を発揮する優れた人格を意味するような、目に見える解決を行えるような、そんな率直な人格の理想を表現しているように感じる。
 けれど、東洋の徳となると、もうちょっと複雑だ。おそらく、その理由は、老子の道徳経のような、無為自然・・・特にわざとらしく何かを「しよう」としなくても、というか、しない方が、物事はうまく行く・・・という思想が、徳に含まれているからだろう。

光る湖面

 例えば、こんなイメージかなぁ。
 何か問題を抱えた組織があるとする。西洋的な徳のあるリーダーだと、「この状況を打開するために、まずAを行い、次にBを行い、次にCを行えば、何とかなるのではないか」と的確な判断をして、果断に実行して、成果を出す、という感じかもしれない。

 これが東洋の徳のあるリーダーとなると、「とりあえず、Aをしてみたら。あとは任せる」と、周りの人間が「こいつ危機感があるのか」とイライラするような判断だけを残してフラリとその場を去ってしまう。でも、残された人間は「じゃあとりあえずAをやってみよう」と動きだし、いろいろ試行錯誤を重ねながら「もしかしたら次はBをやったらいいんじゃないか」と自ら考えだし、「さて、次にやるべきはCなのかDなのかEなのか、どれだろう」と迷ってリーダーに相談すると、リーダーは「任せる」と、また残された人々をイライラさせるような言葉を残して去って行く。

 結局、どうにかこうにか問題を処理して、一息つけた時に、「もしかしたら俺たち、リーダーがいなくても何でも出来るんじゃないか」という自信が付いている。
 さて、組織として、どちらが望ましいか。

入る陽・・・といってもまだ午後3時頃だけど

 「無為自然」とは、決して、ほったらかしで何もしないという意味ではない。この世界は、人知を越えた遥かに大きい「自然」があり、人間もその「自然」の一部である、という認識があって、何かをなすのでも、すべて人知で解決しようとするのではなく、自然の流れと調和した手法を上手に使い、一見、あまりたいしたことをやってないように見えて、実はすべてが理想的になされている・・・そんな知恵を意味している。

 最近、寂しく思うのは、このような東洋的な徳のある知恵に触れる機会が、すっかり減った事だ。
 20代や30代の若者で、こういった知恵を知らないのは仕方が無いかもしれない。しかし、40代や50代はおろか、60代や70代の人にすら、このような東洋的な徳のある知恵の、息吹を感じる事は殆どない。
 せめて、「長老」と呼べるような立場の人には、そんな英知の存在を期待したいのだが・・・、もしかしたら、すっかり絶滅しちゃったのかしらん。

1月16日(月)

寒気来る

 真冬らしい寒波がやってきた。名古屋や京都では、日本列島の山脈を越えて雪雲が到達して雪を降らせたそうな。もちろん、日本海側では大雪になっている。関東はというと、一時的に雲が押し寄せてきて「こりゃあ、ここでも降るかな」と思わせたけど、とうとう降らずにはすんだ。
 それでも、底冷えのする寒さは厳しくなり、あちこちの家で「水道が凍っちゃった」と慌てる話も聞く。

 ただなァ、大寒波だ、冬将軍だとニュースになるけれど、自分が藤野に越してきた頃は、この程度の寒さは普通にあったような気がするけどなァ。マイナス7〜8度まで気温が下がる事なんて、1月なら珍しくなかったよ。
 やっぱり、だんだんと暖冬が当たり前の感覚になっているんだろうな。

 以前、この日記で、これからは命令と服従で動く上下関係のピラミッド型の組織ではなく、人々が横につながってチームを作る組織の方が、実績をあげて主流になっていくのではないか、といったことを書いた。
 この横型のチームが成立するための条件に、欠かせないのが、お互いに敬意を持つ事で、これが逆に「私の提案こそが最上で、他の人間の提案は採るに値しない」と言ってはばからない「いばるやつ」が現れると、とたんにそのチームはうまく行かなくなる。

 他人に対して敬意を持つと言う事は、他人の中に、長所や魅力を発見すると言う事でもあるが、これが案外難しい。

小川

 ここに、ABCDの4人がいるとする。
 AはBを見て、「この人の靴は汚いな、ちゃんと洗ったり磨いたりしないのだろうか。私はいつだって靴を綺麗にしているぞ」と思う。BはCを見て、「この人の家の庭は汚いな、もっと綺麗にしたらどうだ。私はいつも庭の手入れをしているぞ」と思う。CはDを見て、「この人の車は汚いな、洗車したらいいのに。私は洗車はもちろん、ワックスがけまで入念にするぞ」と思う。DはAを見て、「この人の家の台所は汚いな、私なんて、常に台所を・・・(以下略)」と思う。
 さて、この4人の中で、誰が一番綺麗好きか。

 一言で言ってしまえば、どんぐりの背比べだろう。4人とも、それぞれ、自分のこだわりの有る所、関心の有る所を綺麗にして「自分は綺麗好きだ」と自認し、自分のこだわりの無い所、関心の無い所は汚いままである事に無自覚だ。そして、他人の「汚い所」を見つけて批判はするが、自分自身の「汚い所」を批判されている事に気づいていない。

 恐ろしいもので、人間は、「自分は優れていて、自分以外の人間は劣っている」、と思う事に本能的な快感が有るらしい。なので、自分の中にあるごくわずかな長所を引き合いに出して「私は優れている」と自認し、他人の短所を見つけては「あいつは私より劣っている」と考えたがる。

ゆうべ

 ここで思うのは、他人の長所を発見するためには、自覚的に、他人の長所を発見しようという能動的な意識が必要だという事だ。人間は、他人の短所は好んで本能的に見つけるが、他人の長所については、そもそも関心もこだわりもないからだ。

 前述の例を続ければ、私がAさんに対して、「そりゃあBさんは、あなたほど靴を綺麗にする事に関心はないかもしれないけれど、庭の手入れはよくしていて綺麗だよ。」と言った場合、Aさんはどういう反応をするか。
「ああ、あの人にはそんな長所があるのか。」と気づくのなら上々だが、「庭なんか綺麗にしてどうしようというんだ。庭の手入れなんて暇人の趣味だろう。くだらんこだわりだ。」と馬鹿にしてかかる人もいるだろう。

 また、他人の長所が、人によっては短所に見える場合もある。石橋を叩いて渡る人と、時には危ない橋も渡る人は、お互いの個性が短所に見える。前者は後者を無謀な猪突と見るし、後者は前者を臆病な事なかれ主義と見る。正しいのは自分で、間違っているのはあいつだと考える。この二者がコンビを組んで仕事をしたら喧嘩が絶えないだろう。

 この二人、自分の価値観のあなぐらの中でしか生きていないと言う意味で、やはりドングリの背比べで、自分とは異なる価値観の持つ長所や特質について、関心もなければ、それを活かそうという気持ちもない。他者の才能を開花させる力が無い。

月(1月11日)

 もし、人間という生き物が、本能的に自分の優越感に浸りたがる存在だとしたら、人間は、他人の短所を見つけて喜び、自分の長所を誇る生き物という事になる。しかし、これでは横型のチームを作る事は不可能に近い。
 本能に従うだけの存在から一歩進んだ、理性や人格を備えた、他人の長所を能動的に探して敬意を持つような人間の集団が必要になる。このような理性や人格は、今までは組織のリーダーだけに求められていた資質だったが、これからはチームの参加者全員が共通に持っているべき資質になってくる。

 やはり、横型の組織を作るのなら、その参加者全員に、リーダーシップとは何か、という教育が必須になるなぁと思った。もちろん、「いや、私はリーダーになるつもりはないですよ」という人も含めて。