2016

11月・12月

11月13日(日)

道志川

 ちょっと更新が空いた。
 その間に、7日に立冬を迎え、9日には木枯らしが吹き、晩秋というよりも初冬と呼んだ方がいいような気候になってきた。陽が沈んだ後の夕空は、さえざえと藍色に澄み渡る。これはもう冬の空だろう。

 このところ暖冬傾向で、12月半ばまで石油ストーブの出番はないなぁ、などと山里の冬の訪れをなめてかかっていた所があったが、既に霜も降りるようになり、晩秋でも元気だったカボチャの葉っぱも、一斉にしおれて枯れていく。

 この日記の、今年の2月15日の所で、春一番が吹き荒れた日に、奇妙な印象を感じた事を書いた。それは、まるで旧来の世界を吹き散らかしてしまうような変化の感じで、これからは変化も早いんじゃないかな、とも感じた。
 勘が外れてばかりの私にしては、この勘は珍しく当たったのだろうか。イギリスのEU離脱やら、今回のアメリカの大統領選挙やら、世界の大きな路線の変更を告げるような動きが、今年はやたら多い。

 一部の多国籍企業や富裕層だけが恩恵を受けるグローバル化に対して、これまで生活水準を下げられる一方だった民衆が反抗を始めた、というのが、表向きの理由だろう。
 でも、もっと深い理由は、かつてはグローバル化が、多国籍企業だけではなく民衆に対しても幸福に繋がっていたのが、いつのまにかそうではなくなってしまった、という所にあるだろう。

雨の相模湖

 グローバル化そのものは悪ではない。
 ある地域ではミカンを育てるのに向いていて、ある地域ではリンゴを育てるのに向いていれば、それぞれの地域で交易しあえば、どちらもミカンもリンゴも味わえるし、交易に携わる商人にも仕事が生まれる。ここには悪い事は何もないし、それぞれがそれぞれの長所を発揮しあえば、みんながより幸福になれる理想像がある。

 ただいつのまにか、グローバル化という方針が、富裕層をより富裕にするために、多くの民衆からなけなしの資産をかすめ取って、民衆の生活レベルを下げさせる道具になった。この変化の理由について、自分なりの仮説を「人間の欲望が限界に達したため」と、8月からダラダラと書きました。まあ、この仮説が当たっているかは判りませんが。

 もはや人間の欲望では経済が回らなくなり、ましてや拡大しなくなって縮退すら始めて、経済界は追い詰められたように、「それじゃあ、よりいっそうの大量生産・大量消費型の経営に向かおう」とか「世界でもっとも人件費の安い所で生産をしよう」とか「いやいっそ、仕事に人間を使わないで、極力、機械とコンピューターにやらせよう」とかやってたら、結局、民衆から仕事を奪うか、もしくはより悪条件の仕事しか存在しない世の中に進んでいった。
 こんな経済の状態は、いつかは破綻する時を迎える流れだろう。

 とりあえず、これから全世界的に、まずは「民生の安定」を目標に掲げないと、たちまち政権を逐われるような事態が続いていくだろうな。

チカラシバ

 グローバル化による、とにかく多国籍企業と富裕層の利益優先の世の中から、地に足の着いた民政の安定に世の中の方向性が移れば、これは、世の中が落ち着いて静かになっていく話しなんだけど、しばらくは、かえって騒々しい世の中が続くだろうな。

 世の中の方向性が大きく変わる時、大概それは、旧来の世の中を否定して、新しい世の中を目指す、という形を採る。つまり、「旧来の世の中には、この世界を悪く導いた「犯人」がいるのだ、それも政治権力の中枢に」、という考え方が必ず出てくる。そして、その考え方を裏付けるための、今まで隠されてきた情報も、表に出て来るかもしれない。
 ・・・いや、「かもしれない」どころの話じゃないな。ウィキリ−クスから流れてくる情報なんかを見ると。

 そういえば、同じく今年2月15日の所でこんな事を書いていた。
「悪事を働いて天罰が落ちるのは、今までの世の中では時間がかかったのが(親の因果が子に報い・・・みたいな)、これからは悪事を働いたその日の内に天罰が落ちるかのような、そんな早さの変化があると思う。」

 特に、グローバル主義全盛の時代は、大企業とか大事業とか「大」の付くものが幅を効かせていただけに、それを利用する「虎の威を借る狐」も実に多かった。そんな狐たちは、今後どうするのだろう。案外、変わり身が早くて「私は始めからグローバル化には反対だった」とか言ってるかな。

谷の秋

 前述したミカンとリンゴの例のように、グローバル化そのものは悪ではない。世界のそれぞれの地域が、それぞれの特質を活かした産業を興し、その土地ならではの産業を世界の人々が楽しめるような、誰も不幸にならないグローバル化のあり方も考える事は可能だろう。

 あまり反グローバリズムを主張しすぎると、自分の住む村から一歩も出ない孤立主義とか鎖国主義に通じてしまうし、たぶんそれは人間の本性からは反すると思う。
 やはり人間は群れ集う生き物であって、賑やかな人、物静かな人、外交的な人、内向的な人、手先が器用な人、考えるのが好きな人とかが集まって、それぞれの長所を発揮してもらって内容豊かな世の中を作るのに向いている生き物だと思う。

 なんとかして、行き過ぎたグローバル化から軌道修正して、他者を犠牲にして自分だけ幸福になるのではなく、民生の安定を確保しながら、それぞれの個性を発揮していける世の中の方向性が、早く決まればいいのだけど。

11月28日(月)

 11月とは思えない雪が降った。それまで、やや穏やかで暖かい日が続いていたのが、23日から急に冷え込んで夜半から雪になり、翌日の24日も午後まで降り続け、牧馬でも15センチほど積もった。湿った雪なので解けるのも早めだが、それでも除雪車の出動は必須のレベルの積雪で、藤野の各地のガソリンスタンドでも、慌てて車のタイヤをスタッドレスに変えるお客が殺到したらしい。

 私は藤野に住んで20年くらいになるが、こんな11月の雪というのは記憶に無い。普通、このあたりで晩秋の雪というのは、寒気が降りてきて雲が湧いた時に、北風に舞うように小さな雪がちらちらと降るようなもので、積もるような雪ではない。
 やはり、ちょっと気候が変わってきているのだろうか。2014年の豪雪を思い出すなぁ。地元の古老でも「こんな事は経験が無い」という天気がたびたびある。

 木々が葉を落とす前に雪が降るというのも、藤野では珍しい。紅葉に雪という取り合わせは風情があっていいかもしれないが、葉を落としていない木に湿った雪が積もるという事でもあり、折れた枝も多いのではないかと思う。
 なにより、農家にとっては祈るような気持ちだろう。冬野菜が無事かどうか、ビニールハウスが壊れないかどうか。

とても11月とは思えぬ

 山里の暮らしは、どうしても自動車が必要になる。場所によってはバスも通らない地域もあるし、たとえバスが通っていても、一日に数本しかバスの便がない山里だって普通に多い。そこで、車を使うことになるわけだが、前述の通り、冬になればタイヤを交換しなければならなかったり、あれこれと手間はかかる。
 こういった自動車を使う環境というのは、自家用車を必要としない都市部の暮らしと比較したら、生きるのに厳しい環境とも言えるだろう。

 近年になって「田舎に移住しませんか」という動きが活発になっている。人口減少社会に入って、地方の自治体は、なんとか人口の減少を食い止めようと、あの手この手で策を講じている。移住の促進もその一つだ。
 その流れに乗る人もいるだろう。都会の生活よりも自然の溢れる環境で暮らしたいという人だって多いはずだ。しかし、そんな暮らしも、若くて体力のある内しか難しいだろう、という考えもある。

「年をとって車の運転も自分では出来なくなった時、買い物に行くのも病院に行くのも、どうしたらいい?。」
 この問いは、実際に生活が出来るかどうかに関わるだけに切実で、「やはり、若いうちは田舎暮らしもいいけれど、年をとったら都会のマンション暮らしの方が快適で安心できる」という意見には説得力がある。

雪山と紅葉というのも珍しい

 私としては、この問題を解決するのは、車の自動運転技術の実用化だと思っているのだけど、あと何年たったら実際に使えるようになるのだろう。

 車の自動運転の恩恵をこうむるのは、なにも高齢者だけではない。たとえば、学童の登下校でも、バスのない地域には有効だろうし、親だって子供の送り迎えに時間と手間を取られないで済むようになる。山里の小中学校は、徒歩で通える所にあるほうが稀なのだ。

 このように、田舎暮らしは都会暮らしに比べて、移動手段に労力と時間と費用がかかるという重荷がある。自動運転の車が実用化して普及してくれれば、費用はともかくとして、他の重荷はだいぶ軽くなると思うんだけど。

 ただ、こういった問題が解決してしまえば、田舎というのは都市部とは比べ物にならないくらい、車の利用は快適にな場所になる。例えば都市部に比べて駐車場の料金の安さもあるが、なにより渋滞が無いのが利点だ。「家から駅まで30分」と判っている場合、田舎だったら確実に30分で行けるけれど、都市部では渋滞のあるなしで、この時間が大幅に変わって予測がつかない事も多い。
 都市は、車を必要としない場所とも言えるが、一方で、車を使うには不向きな場所とも言える。

晩秋の湖水

 車と言えば、パリ協定の為に、ヨーロッパの自動車メーカーは「さあ、2030年までには、化石燃料で走る車は作らなくなるぞ」と、一斉に電気自動車に舵をきったようだ。いずれ日本のメーカーも本腰を入れて、この流れに加わる事になると思うけれど。
 ホントに今年は、時代の変わり目になるような出来事が多い。

 いったん動き出せば、2030年を待つまでもなく、あれよあれよと言う間に、ガソリンやディーゼルといった内燃機関を使った車は、どんどん消えていくんじゃなかろうか。なんか、CDが登場した時のレコードとか、デジタルカメラが登場した時のフィルムカメラの運命を思い出す。

 ただ、山里に住んでいる身となると、果たしてそこまで単純に、車の電化が進むかな、とも思う。
 山里の暮らしには、自動車以外にも化石燃料を使う道具がけっこう多い。耕耘機のような農業機械とか、チェーンソーや草刈り機のような家の周りの環境を維持するための道具とか、土木用の重機とか。

 なので、そう簡単に化石燃料と決別するような事はないんじゃないかとも思うのだけど、いやしかし、これらも、あれよあれよと言う間に電化されていくのだろうか。
 どう転ぶのか、私には予想がつきません。

12月14日(水)

紅葉も終わりです

 数年ぶりに、エラい風邪をひいた。どうやら近所でも流行っているらしい。発症して始めの数日は寝込んだまま、肋骨が折れるんじゃないかと心配になるような激しい咳でろくに睡眠もとれず、残りの数日では頭痛と体の節々の痛みで、よってたかって袋だたきにされる天罰を被った。どうも私は、前世で相当な悪事でもしでかしたに違いない。最近、その思いは殆ど確信になってきている。

 また一方、やはり体調を崩した時と言うのは、日頃の健康に感謝すべき時でもあるんだなァとも、いつもながら思う。朝が来て、普通に目が覚める事、自分の器官から普通に大小便が排泄される事。人それぞれ、いろいろ不平不満もあるだろうけれど、そんな主人(・・・あなたの事だ・・・)にたいして、不平不満も無く、不眠不休で働き続けているのが、身体というものなのだろう。よく、上司よりも人格才能共に優れた部下を指して「あの上司には過ぎた部下だ」と言う事があるが、なんだか私も、私の精神よりも体の方がずっと偉いんじゃないのか。

 いままで決して、自分の身体を乱暴に扱ったつもりはないけれど、これからはもうちょっと、いたわって感謝しながら使おう・・・というか、使わせていただこうと、そんな事も考える。年末らしい反省かもしれない。

リンドウ

 ただね、自然の風景を見ていると、どうしてもそんな方向に思いが進んでしまう。
 自然は急がないからね。樹が少しずつ大きくなって行くのも、それぞれの自然なペースで進めているわけだし。案外、急げ急げと頑張って急拵えの物を作るよりも、優雅なくらい、地道に自然なペースで仕事をした方が、後の世に残る仕事になるんじゃなかろうか。

 日本の高度経済成長期、「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」などと自嘲したり、海外から「エコノミック・アニマル」とからかわれたりしたが、今にして思えば何のことはない、気がつけば世界中がグローバル化を目指した結果、世界中の人々がモーレツ社員になってエコノミック・アニマルになって、自分でバブルを膨らまして自分でバブルをつぶして大騒ぎをしているのだろう。2016年は、そんな時代の終わりを告げる、峠の年だったのは確かなようだ。

 エコノミック・アニマルの次は、どんな生き物を目指すんでしょうねぇ、人類は。

 風邪を患っていたここしばらくの期間は、幸い、12月にしては穏やかで暖かい晴天が続き、病身には楽だった。始めの数日間は前述のように咳やら頭痛やらで、ひたすら疫病神にいじめ抜かれているような気分だったが、少し回復して、落ち着いて窓の外を静かに眺めるような時間も出来てくると、すでに冬枯れへと向かいつつある景色の美しさを楽しむ余裕も出てくる。

 当然、仕事も休んでいる。日々、あれをしなくちゃ、これを片付けなくちゃと追われている状態から、病気が原因とはいえ、一時的に離れる。

 こんな時に、ぼーォっと山里の景色を眺めていると、なんで自分は、日々、忙しい忙しいと追われているんだ、と思うようになる。

 さらには、世の中全体、いつも何か急がなきゃ、急がなきゃと忙しそうだが、それだけの活動量にふさわしい仕事をホントに成し得ているのか知らん、などと思う。まことに、大きなお世話だが。

初冬の小川

山の上は、すっかり葉を落としてます

 行き過ぎたグローバル化を反省して、国内の産業を保護育成していこうという動きもでてくるだろうけれど、私にはそんなに長続きするとも思えない。というのも、その保護育成していく産業というのも、結局、旧来の大量生産・大量消費・大量廃棄型の産業だったりするんじゃなかろうか。
 それじゃあ、いくら政府が保護育成しようとしたって、未来に開花する物ではない。

 たぶん、「仕事」と言うものも、人間中心の考え方で、改めて再構築する必要があるのだろうな。今までは、人間の方が、いやいやながらでも仕事の方に合わせていたけれど、これでは人間は仕事の奴隷でもかまわない、という考え方とも言える。
 人間が、仕事の「主人」の立場にいる仕事とは、どういう働き方で、どういう仕事なのか。

 根拠のない予想だけど、農業のような第一次産業も重要視されていくのではないか。とりあえず、衣食住はちゃんと保証してくれる仕事というのが、セーフティーネットとして世の中が必要とするだろうと思うから。
 人生を、一つだけの仕事で終えると言う事は、今後は少数派になるだろう。三つの仕事を同時平行で兼業するとか、十数年おきに仕事を変えて三つの仕事を渡って行くとか。
 その三つの仕事の内の一つは、第一次産業に関わるのが普通になっているかもしれない。

12月31日(土)

12月27日の劇的な朝の空。妙に生暖かく、不思議な陽気でした。

 気がついたら大晦日だ。この一年、短かったような長かったような。

 この一年を振り返って、個人的に印象に残るのは、やはり地震はあいかわらず多いなあぁ、というものだった。4月には熊本で震災があり、10月には鳥取県でも大きめの地震があって被害を出し、11月には福島県沖で大きな地震があって、小規模ながら津波も発生した。つい最近の12月28日にも、茨城県北部で最大震度6弱の地震があったばかり。やはり、まだまだ大地が安定するような状況ではないのだろう。

 東日本大震災と似ていると指摘されている、平安時代の貞観の地震では、その後も数年おきに、日本各地で大規模な地震や火山の噴火が続いている。今の日本列島も、まだまだ活動期にあると考えた方がいいと思う。もしかしたら、すっかり2011年の震災は過去のものだと考える人も多いかもしれないが、震災が自分の土地を襲わないと考えるのは間違いだろう。今年の熊本が、来年はまた日本のどこかで起きると考えるくらいで、ちょうどいいのではないか。

田んぼの仲間でやった餅搗き。なんだか、これも妙に劇的な写真(笑)

 もう一つ感じたのは、やはり今年は一つの時代の峠を越えた年になったなぁ、というもの。イギリスのEU離脱にしろアメリカの大統領選の結果にしろ、これまでの行き過ぎたグローバル化からの反動という動きになってきたが、その根本の原因は、やはり、大量生産・大量消費・大量廃棄の経済の時代の終焉だろう。逆に言えば、大量生産・大量消費・大量廃棄の経済が順調に進展している間は、グローバル化を推進する方が経済界にとっても有利になるし、民衆も含めて全人類的な幸福も進展する。

 それが、大量生産・大量消費・大量廃棄型の経済では廻らなくなってくると、グローバル化も幸福な人間よりも不幸な人間を増やす方向に働く。味方よりも敵が多くなる。経済は自らの足を食うタコのように縮小再生産を繰り返さざるをえなくなる。

 商売の在り方を、変えて行くしかないのだろう。当面、世界は保護主義が流行りそうな感じだけど、いくら保護主義で経済をもりたてようとしても、それが大量生産・大量消費・大量廃棄の経済ではいずれ行き詰まる。これから保護主義に舵を切った世界も、そんな行き詰まりを、あと10年もしたら経験して、再度仕切り直しを迫られるんじゃなかろうか、と、そんな気がする。

 時代は一気に変わるわけではない。商売の在り方を、大量生産・大量消費・大量廃棄から変えるのは、それからになると思う。

冬木立

 こんな時代の変化の時は、真面目な人ほど苦労を背負い込み、被害を被るような悲劇が多くなる。いくら大量生産・大量消費・大量廃棄の時代が終わったと言っても、これからしばらく、人々の考え方、社会の仕組み、働き方、教育、文化、みな大量生産・大量消費・大量廃棄の時代に作られたものを、時代にそぐわなくなっても使い続ける。
 その結果は、いくら頑張っても成果は上がらずに、むしろ追い詰められるばかりなのだが、真面目な人ほど「いや、これは私の努力が足りないからだ」と、余計に自分を追い詰める。
 ブラック企業に勤める人が、自らの命を絶つような痛ましい事件もあったが、こういう被害に遭うのは、たいがい真面目で善良な人だ。

 そこで思うのだけど、これから数年間、時と場合によっては、その場から上手に「逃げる」という知恵も、必要かなと思う。
 秋になったにも関わらず、「田植えをしろ」と無益な要求を押し付けられる仕事も、まだまだ多いだろう。そんな所に長居しても、また、そんな所で真面目な労力を注いでも、人生の大事な一部をドブに捨てるようなものだ。

 これは極端な例だけど、日本の各地には、今でも「わが町に原発を誘致して財政を豊かにしよう」と運動している組織は多い事だろう。しかし、その運動に人生の大事な一部を捧げて、それに見合う喜びが未来に控えているのかどうか。

 参加したくない忘年会の二次会みたいに、誰にも気付かれる事なく、すーっと、その場から消えて行く技術が活きる事が、これから多いんじゃないかなぁ(笑)。

夕空(冬至)

 時代が一つの峠を越え、四季はうつろい、月は満ちては欠けて行く。それまで、その組織に参加している事がメリットだったのが、いつの間にかデメリットになっている。そんな事例は、これから多いだろう。

 ここしばらく、いろいろと混乱や苦労の多い事と思うけれど、どうせ混乱や苦労を経験するのなら、エンジンの空ぶかしみたいな無益な仕事よりも、ちゃんと未来に実になる仕事の方がいい、それは当たり前だ。

 たぶん、悲鳴をあげながら同じ場所でぐるぐる回っているだけの人や組織がいる一方で、着々と未来への布石を打っている人や組織もあるんだろうな。
 自分も、できればその後者の側に立ちたいものだけど、どうかなぁ。

 まあ、来年に期待しようと思います。