2016

2月

2月1日(月)

丹沢は雪

 先週の金曜日と土曜日に降った雨は、もしかしたら雪になりはしないかと思ったが、結局、牧馬では最初から最後まで雨で終わり、むしろ地面の雪を溶かす雨になったようだ。それでも、丹沢のような標高の高い所は雪になっている。
 もちろん、今回は雨になったとはいえ、これからも雪が降るような日は、繰り返しやって来るとは思うが。
 じきに立春。これから、空気は冷え込んでいても、光は春めいてくる頃だろう。

 前の日記にも書いたけれど、18日の雪は重く湿ったもので、山の木々の倒木が多かった。道を車で走らせていても、あちこちに木の折れた新しい切り口が見える。道路沿いに置かれた倒木も多い。
 藤野にだって薪ストーブの利用者は多いのだから、こういった道路沿いの倒木は、これ幸いと、どんどん薪ストーブ利用者が持って行ってしまうかと思ったけれど、そういう事ってあまりないね。

 秋の道路沿いに溜まった枯れ葉を、堆肥を作るために回収する人は多いのだけれど、まだまだ藤野では、薪ストーブが土地の「文化」と呼べる所までは、行っていないんだろうな。

 自然保護の為に、人が手を加えてはいけない山林もあれば、逆に、人が手を加えないと荒廃してしまう山林もあるだろう。後者のような山林と、薪ストーブ利用者が、うまく連係できるような日が来るのは、いつ頃だろう。

雪山

 季節は冬から春へと向かいつつあるけれど、経済の方は、秋が深まりつつあるような話が聞こえてくる。日銀が銀行に対して、マイナス金利の導入を決定したとか。
 それほど、大きな話ではない。というか、大きな話ができるほど、今の経済界には余力がないのだろう。これまで世界を動かして来た経済というエンジンが、少しずつ勢いを無くして止まろうとしている。その流れを何とか留めようとして、いろいろと策を練るが、季節の流れを止める力はないのだと思う。

 季節の移り変わりを嘆く人も多いだろう。今までの季節に順応した人ほど、その季節の終わりは苦痛にしか感じないはずだ。
 でもなぁ、見方を変えれば、果たして今までの季節は、そんなにあの手この手を使ってまで、延命させるに値するのかどうか。
 例えば、満員電車に毎日乗せられて仕事に行くような日常って、「普通」なのか「異常」なのか。

 新しい季節が来ると、新しい時代にあった「普通」の暮らし方が主流になり、それ以前の季節の暮らし方が「異常」と見られる事がある。

 たぶん、未来の世代が、今の時代の「ここが異常」と指摘する最大の点は、衣食住も、教育も医療も、すべて「金もうけ」で動かそうとしている所にあるのではないか。
「当時の人は、よくこんな事で世の中が治まると考えていたものだ」
と呆れるかもしれない。

牧馬谷

 でもね、テレビが欲しい、クーラーが欲しい、車が欲しいと人々がモノに憧れていた時代は、「金を手に入れる事」に人々が夢中になれば、それなりに世の中は活気よく動いて、人々に喜びのある暮らしが与えられていたんですよね。
 それが、モノの生産過剰の時代になって来ると、だんだんと「金もうけ」が世の中を動かすエンジンにはならなくなって来てしまう。さて、じゃあ何が次の、世界を動かすエンジンになるのか。

 結論を端的に言えば、人々がそれに喜びや幸福を感じるもの、ということになるのだけど、もう一つ付け加えるなら、素朴で地味で家庭的なもの、という感じがする。
 例えるなら、夜に仕事を終えた家族が一緒になって、晩御飯を食べるような暮らし。それができるような世界のあり方が、次の時代のエンジンになるのだろう。
 言い方を変えれば、今の金もうけだけで動いている世の中の形は、そんな家族の団欒すらまともに出来ない方向に、人々を追い込もうとしている。そんな世の中の形が長続きするはずがない。

 これは、持続可能な社会を目指そうと考えて行動している人にも言っておきたい事なんだけど。
 各地で、大量生産、大量消費、大量廃棄の世界から脱却して、持続可能な社会を目指そうと言う動きがあるけれど、意外とその方面の人たちの発想にも、「素朴で地味で家庭的」という観点が抜けている事が多いようだ。

早春の光

 持続可能社会を作ろうと目指している人たちって、「ようし、これから理想の世の中を作ってやろう」と意気込み、発奮し、情熱を傾け、時には自己犠牲をもいとわぬという活動家っぽい所がある。
 でもこれって、長続きできないのね。

2月7日(日)

雪の朝

 土曜日の夜から降り始めた雨は、翌朝、牧馬に少しの淡雪を残した。3センチほどは積もったようだ。昼にはたちまち解けてしまうような雪だったけど、標高の高い所では、それなりに積もったのかもしれない。
 こんな雪の日は、遠くの山を見ると、等高線で分けられているかのように、雪が降った所と、雪にならずに雨で終わった所の境界が判って面白い。牧馬も、道志川を渡る橋まで来ると、ほとんど雪は降ってなかったようだ。

 まだ結論を出すには気が早すぎるが、今回の冬は、やはり暖冬だったという事になるのではないか。確かに一度、沖縄にも雪が降るような寒波の襲来もあったけど、全体を見渡すと、いまいち、本気の冬の寒さは回数も少なく、長続きしなかった。
 まあ油断するわけにもいかないけどね。一昨年の2度に渡る大雪の、始めの雪は2月8日だったし。

 前回の日記の最後で、持続可能社会を作ろうと活動をしている人にも、「長続きできない」性質を持ってはいないか、といった事を書いた。
「これから理想の世の中を作ってやろう」と意気込み、発奮し、情熱を傾け、時には自己犠牲をもいとわぬという活動家っぽい所がある・・・と。
 これは、長続きする性質とは違う。

 じゃあ、長続きする性質って、どんなものなのよ、と質問されそうだけど、先日、別の所で、こんな文章を書いた。

峠より中沢付近を望む

長生きする奴

「君は長生きするよ」と言われた場合、それは大抵、やれやれといった呆れ半分の、失望的な評価を意味している。
 だいたい、こんな人間を指すんじゃないのか。本人は仕事を真面目にやっているつもりなんだろうが、周りには、どうも真面目には見えない。いつもにこやかに、それでいてのんびりした雰囲気をまとっている。こういう人間は他者の目から見ると、それもとりわけ、真剣に、時間を分刻みで節約して、目標に向かって知恵と労力を結集して邁進しようと意気込んでいる人から見ると、
「なに怠けているんだ」
「お前、やるきあるのか」
「すこしはシャンとしろ」
と、非難せずにはいられない、イライラした感情を引き起こす。

 そう非難された「長生きしそうな奴」は、なんで自分が非難されているかも理解できないまま、それでも「はい判りました」と判りもせずに言ってしまうが、結局の所、にこやかでのんびりした個性は変化しない。
 こんな、ずぶといのやら、学習しないのやら、進歩しないのやら、困ったやつだなぁという感慨が、「君は長生きするよ」という言葉になるのだろう。

 ただなぁ。
 これって、裏を返せば、世の中の大多数は「私は長生きしませんよ」と言っているのと同じじゃないのか。まあ、本人が「私は太く短く生きるつもりだ」と、自覚してそのつもりなら、それでもいいのですけど。

峠より

 たぶん、「長生きしない人」というのは、当たり前のように、自分の命を削る習慣がある人、という事になりはしないか。目標の遂行の為にとか、理想の実現の為にとか、「これは私がやらなければ」という使命感の為にとか。

 いや、そういう人を批判しているわけじゃないですよ。みんな、立派な人だなぁと、そういう人がいるのは有難い事だなぁと、尊敬するなぁと思っているのです。
 でもこれって、いい人ほど早く死ぬ、という事になりはしないか。

 私には「生きる」というのは、もっと、ずうずうしく、ふてぶてしいものに思えてならない。まさに、「君は長生きするよ」と言われるような性質が、本来の「生きる」形なんじゃないのか。
 それは、砂漠に生えるサボテンのようでもあり、深海を泳ぐアンコウのようでもあり。周囲の事に流されない、自分の事だけを悠々と行っているような感じ。
 真面目な人間ほど、自分自身の生命を削ってまでして、周囲の期待に応えようとしたりするが、少し、サボテン的というか、アンコウ的な所もあっても、いいんじゃないのか。

 なんで、こんな事を考えたかと言うと、これから、世の中は少しずつ、行き詰まっていくと思うんですね。
 今までみたいな。モノを作って、それを消費して、そんな感じで世の中が上手く回るような「世界の形」が、そのままでは上手くいかない状況になってきたらしい。

雪解け光る

 こんなとき、真面目で、周囲の期待に応えて、ときには自分の生命も削るような性質の人は、苦しいばかりで、あまり意味も無く身を滅ぼしてしまうんじゃないのかと思う。
 そして、こんなとき、「長生きする奴」は、「ははは、困った事になりましたねえ」と、のんびりとにこやかに笑いながら、かといって何か対策を講じるでもなく、ご飯を食べるのだろう。

 持続可能社会とは、今の段階なら、理想と情熱でその建設に向かうのもいいかもしれない。
 しかし、理想と情熱がないと維持できない世の中の形は、「持続可能」じゃないだろう。目指すべき持続可能社会というのは、21世紀らしい、ごくごく普通の、普段着の生活の形ではないのか。
 そこにうまく着地するには、「長生きするやつ」みたいな、どこかボーッとした、にこやかでのんびりした性質が必要な気がする。

2月15日(月)

怪しげな雲

 週末に、なんだか怪しげな雲が流れて来るなぁと思ってたら、土曜日の夜から強い風をともなう大雨になり、翌日の日曜日には生暖かい風が吹き込んで一気に春が来たような陽気になった。シャツ一枚でも過ごせるほど。やはり春一番だったらしい。
 もちろん、このまま春になるわけもなく、今日の月曜日は冷え込んで来て、時にはアラレや雪も舞うような天気になった。
 寒い日は続くかもしれないが、さすがに水道の凍結を心配するような寒さは、もう来ないかもしれない。

 この春一番。私には、奇妙な印象を残した。
 世界の経済の変動ぶりは、もはや変動と言うよりも、タガが外れて壊れかかっているかのように見える。この現象を、どう解釈したらいいのか、素人の私には見当もつかないが、どうもこれから「何で食べていくか」が変わっていく途上にあるんだろうなぁ、という気がする。

 とりあえず、多くの人々が言っているように、大量生産・大量消費・大量廃棄で世の中を回すあり方は終わりだろう。しかし、終わったからと言って、明日からも「食べていかなければ」ならない。
 不思議なもので、衣食住に関わるものは豊富にある。石油なんて値段が暴落しているくらいだ。言葉そのままの意味なら、「(食べ物を)食べていく」のは簡単なのだけど、そのための「仕事」が無いという事なんだろう。

雲間の光

 これからの時代、何で食べていくのか、私にもよく判らない。ただ、「よく判らない」と言っている最中にも、旧来の世の中のあり方が壊れて行っている。
 私が感じた、春一番の奇妙な印象と言うのは、なんだかこの風が、旧来の世の中を吹き散らかして壊しているかのようなものでした。
 そして、「これからは、いろいろと展開が早くなるんじゃないかな」とも。

 旧来の世界がどっしりと腰をすえて世界を支配していた時は、新しい発見や発明や、新しい考え方が現れても、なかなか芽が出ないんですね。そういった「新しいもの」って、場合によっては旧来の世界の土台を動揺させて壊しかねない事もあるから、旧来の世界は、なかなかそんな新しいものを世の表に出すまいと力を加えるか、旧来の世界を壊さないような形に改変した上で、世の表に出てくるのを認める。
 それが、旧来の世界が力を失って来ると、そんな新しいものたちが、世の表にそのまま現れてくるのを防ぎとめる事ができなくなってくる。

 展開も早くなれば、結果が出るのも早くなるだろう。
 変な例え話になるけど、悪事を働いて天罰が落ちるのは、今までの世の中では時間がかかったのが(親の因果が子に報い・・・みたいな)、これからは悪事を働いたその日の内に天罰が落ちるかのような、そんな早さの変化があると思う。

 もちろん、罰だけでなく、次の時代が必要としている事を先んじて打ち出せば、良い評価が来る結果も早いでしょう。
 この世界の混乱も、もしかしたら世界を軽やかに吹き抜ける春の風かもしれない。そんな事を思った。

オオイヌフグリ

 そんなふうに、現状の混乱を楽観的に、肯定的にも見ているのですが、それでも混乱には違いない。これから、いろいろと動揺を経験する組織や人も出てくるんだろうな。私だってひと事じゃないだろうし。
 ただ、残酷な断定をしてしまえば、ここで動揺してしまう程度だと、次の時代には渡れないのかもしれない。たぶん、次の時代が見えている人は(・・・どこかにいるんでしょうね・・・)、時代の変化に動揺しない何らかの力を、既に身に付けているのだろう。

 言い方を変えれば、これからの混乱で簡単に動揺するか、泰然自若としていられるかで、人も組織も試されるんだろうな。これも、これから展開が早いだろうし、結果が出るのも早いだろう。

 この阿呆日記でたびたび触れている、持続可能社会を目指す各地の取り組みだって、例外じゃなかろう。
 何しろ「持続可能」と言えば、それは恒久的・永続的という意味も含んでいる。恒久的・永続的な存在が、世界の混乱に直面して一緒になって動揺するはずがない。厳しい言い方になるけれど、一緒になって動揺するくらいなら、「持続可能」という看板は分不相応という事になるだろう。

 自分が住んでいる、藤野はどうかな。

梅の花

 これから、何で「食べて行くか」。もしかしたら、コレかな、と思うものがある。
 人が健康であるためには正しい食べ物を食べる必要があるように、「食べて行く手段」も、これからは健康な正しさを求められるのではないか。もちろん、これは願望込みの発想だけど。

 健康で正しい仕事をして、健康で正しい精神を保つ、健康で正しい人類のあり方って、どんなだろう。

2月22日(月)

谷の朝

 いつのまにか、夕方の6時頃でも薄明るくなってきた。これから寒さと暖かさを繰り返しながら、春へと向かっていくのだろう。写真が急に横長になったのは、愛用のカメラが不調になって、別のカメラで撮ったからだけど、直らないかなぁ。気に入っていたカメラなのに。

 早春のこの頃になると思い出す歌がある。昔、NHKの「みんなのうた」で流れていた『雪娘』。NHKで流れていたのとは違うけれど、ユーチューブにもありますね。
こちら>>

 歌詞の冒頭で、「風が吹いて 雲が流れ めずらしく 晴れ間が見えた」とある。ここで「めずらしく」という言葉がさらりと入るけれど、心にずしりとくる言葉だなぁと思う。
 私が住むのは山里で、平地よりは寒いけれど、寒いと言っても南関東ですからね。冬でも陽光には恵まれている。この歌を聴くと、自分なんかよりも、遥かに切実な思いで春を待ち焦がれている人がいるんだなぁと思うのです。
 もっとも今回の冬は、雪不足で悩んだスキー場も多かったそうですが。

 歌詞の二番の、「人のように 窓を叩き 木枯らしが 吹きぬけてゆく」というのも、昔の表現だな。強風が吹き付けて、ガラス窓と窓枠が「タタン、タンタン」と音をたてるなんて、今の窓にはないだろう。

 昔の歌だけでなく、今の春の歌にも、心にずしりと来るものがありますね。
『花は咲けども』
こちら>>

 屋根のある薪置き場

 1月の雪は湿った重い雪で、けっこう倒れる木が多かった。線路の倒木で電車が運休になったり、道路の除雪が手間取ったりしたけれど。
 これまでも、少しずつ、道路沿いの電線にもたれ掛かっているような倒木を除去していているが、まだ所々にそんな木が残っているようだ。

 先日、そんな倒木の除去をしている業者に、
「その伐った木を、そこにそのまま置いてくれないかしらん。後日、自分でチェーンソーで小さく切って、薪ストーブの薪にしたいんだけど」
と、語りかけてみた人がいる。しかし、業者が言うには、
「今、この現場で確実に引き取ってくれるのなら渡せるけれど、「後日」に取りに来るのでは困る。我々が倒木を最後まできちんと処理せずに、そのまま現場に放置したと思われかねない」
とのこと。

 確かにその業者の言い分も、もっともなのだけれど、もったいない話でもある。そんな倒木も薪ストーブに使えば燃料になるのに、ゴミとして処理すると、わざわざ石油を使って燃やす事になる。この処分費用だって、けっこうかかるだろう。

 道路沿いの木に限らず、山のあちこちに倒木がある。あれもなぁ、上手く使えば良い燃料なんだがなァ、かといって、人の土地で勝手に木を伐るわけにもいかないしなァ。
 こんな、山の倒木と薪ストーブ利用者との、お互いが得をするような関係って出来ないものだろうか。

 薪を貰えたとしても、すぐに使えるわけではない。1年ぐらいかけて乾燥させる必要がある。なので薪ストーブ利用者は、屋根のある薪小屋に薪を溜めておくのが普通だ。

梅林

 ただ最近、地元の古老が薪ストーブに平然と生の木を放り込むのを見て、「乾燥していない木のようですが、大丈夫ですか」と聞いてみた。生の木を薪ストーブで燃やすと、煙突に煤やタールが溜まりやすくなり、下手すればその煤やタールに火がついて火事になると以前から聞いていた。この煙突の火災は手がつけられず、家が全焼してしまうほど激しいのだとか。

 ただ、その古老いわく、まず十分に乾いた薪を燃やしてストーブの温度を上げて、そこから生の薪を投入すればいい。すると、乾いた薪よりも、生の薪の方が暖まる、とのこと。他の人に話を聞いてみると、確かにそういう使い方もあると言われたが、また別の人からは、それでもやはり生の木は使うべきではないとも言われた。

「煙突にもね、断熱の効いた二重煙突を使って、それも途中で折り曲げるような煙突ではなく、まっすぐに屋根を突き抜けるような煙突なら、そんなに煤やタールは溜まらないだろう」
 そんな話も聞かされた。どうも薪ストーブの煤の溜り具合は、燃やす木の性質だけではなく、ストーブの性能や煙突の性能、煙突の形状によっても、いろいろ左右されるらしい。

 この辺りになると、薪ストーブ利用者でない私には、判らない世界になって来るな。実際に使って、経験を積み重ねないと。

夕方の梅

 田舎暮らしや山暮らしに憧れて山里に来る人もいるけれど、そんな人たちが家を建てる時には、よく薪ストーブも導入される事が多い。確かに気持ちは判る。
 でも薪ストーブって、山暮らしをお洒落に演出する小道具と言うほど、安易なものではない。前述の通り、薪の確保だって1年前から次の冬用の薪を集める作業があるし、薪を乾燥した状態で保管する場所も必要になる。チェーンソーを使える腕も必要で、チェーンソーを使いこなすにはチェーンソーの刃を研いだりする維持整備の腕も必要になる。

 これからの山里の再生を考えると、薪ストーブの利用者が増えるのは大歓迎だ。それだけ、山の木に積極的に関与する人が増えると言う事だから。
 木炭産業の衰退以来、山に手が入らないまま放置されて来て、山が荒れつつある現在、上手くいけば、そんな薪ストーブ利用者の集団が、山林の維持に関わる人材の一端を担うようになるかもしれない。

 まあ、未来のことはとりあえず置いて、まずはなによりも注意深く用心して使ってほしいな。先日も近所で、薪ストーブの煙突の火災で家が全焼したと言う話を聞いた。