2014

12月

12月1日(月)

雨の止み間

 このところ雨が続く。山の木々も、雨に打たれているうちに、すっかり葉も落ちてきた。そろそろ、厳しい寒さもやってくる頃だろう。
 12月にもなると、今年はどんな年だったとか、来年はどんな年になるかとか、いろいろ考えるようになる。最近、ちょっと考えたのは、来年の2015年ではなく、それから更に3年後の2018年の事。鬼が聞いたら大笑いする事だろう。

 なんで2018年の事を考えたかと言うと、明治になってから(1868年)150年の節目だから。これを記念して何か行事とかしないのかしらん。私としては、どこかの国の首相のように、「戦後レジ−ムのなんたらかんたら・・・」とかを論じたりするよりも、ずっと問題としては大きく、また未来にとっても有意義だと思うんですけどねえ。
 でも今の所、2018年を「明治から150年」ととらえてみようという動きは、あまり無いみたいですね。私の気が早すぎるだけで、その年が近付けば動きも出てくるのだろうか。

 ただこれは私の邪推だけど、できれば「明治から150年」みたいな過去の振り返り方はしてほしくないと言う、世の中の思惑もあるんじゃないかとも思う。というのも、こんな振り返り方をすると、どうしてもこんな意見も出てくるだろう。

「明治の文明開化以来、科学技術の発達に伴って、鉄道が伸び、電気や電信も広がり、高いビルや巨大なダムのような建築物も作られてきた。しかし、そろそろ、それとは異なる、別の文明のあり方を模索し、創造していくべきではないか。」

 明治以降のやり方が、このままずっと続いてほしいと思う人々は、まだ多かろう。

道志川の霧

 そうは言っても、時代の流れや歴史的必然には、逆らえないのではないか。
 以前、社会の様相にも、四季の変化のような流れがあると書いた事がある。春の芽生えのように、世の中から様々な産業や文化が沸き上がり、それが勢い良く成長して拡大していく夏の季節を経て、勢いを無くして葉を落としていく秋に至り、動きを止めて静まり返る冬を迎える。
 今の日本は、高度経済成長期の夏を過ぎ、バブル崩壊以降の秋を過ぎ、すでに冬に入っていると言うのが私の認識。

 ただ、これには個人差や、産業によって差があって、平均よりも早く冬が来た人や産業には、平均よりも早く春が来る。逆に、今でも夏の気分でいる人や産業は、これから秋と冬がやってくる事になるのだが。

 冬の季節には大事な役割がある。それは、「静かに考える」というものだ。春や夏や秋の時には、喧噪や狂躁で静かに考えるどころではないけれど、動きを止めた冬の季節は、否応もなく、静かに考えざるを得なくなる。
 逆の言い方をすれば、春や夏や秋の季節に静かに考えていれば、冬は来なかったのだろう。春や夏や秋の季節に考えもなく暴走したために、冬を迎えたのだ。

 冬は、そんな暴走した季節の狂気を醒まして、正気にかえる季節でもある。今までのやり方のどこまでが正しく、どこからは間違っていたのか。これからはどう生きるのが正しいのか、そもそも「正しい」とは、どう言う事か。
 そんな考察を十分に深めて、成熟した所から春はやってくる。

山を登る雲

 増税の影響もあって、一気に冬将軍到来と言う感じになった今年だけど、その一方で、人々が、静かに考え始めたのではないかと思わせる動きもあったように感じている。例えばこれ。

Yahoo!知恵袋で「弱者を抹殺する。」という強烈な質問に対しての回答が秀逸だと話題に
こちら>>

 この投稿と返答は、2011年のものだけれど、今年になって急速に拡散したようだ。
 ここにあるのは、誰かの受け売りの解答ではない。普通の人が、自分で考えて、自分の言葉で表現したものだろう。また、この回答が広く拡散した理由は、普通の人々が、自分で考え始めるに当たって、参考になる考え方を模索していたからではなかったか。

 人間の正しいあり方とはなにか。世の中の正しいあり方とはなにか。そんな思索を十分に深めて成熟してきた人々も、案外たくさんいるのかもしれない。たぶん、そんな人々や組織から、来年あたりから早春を迎えるだろうと思う。

 「正しさ」について考えるのは、なかなか忍耐がいる。というのも、軽薄な「正しさ」では、簡単にダメになってしまうからだ。「私の言っている事、やっている事は正しい」と自認している人々が、ある人は数年で、ある人は数カ月で、メッキが剥がれて自滅していく。時間の経過に耐えられる「正しさ」を自分のものにするのは難しい。

光る川

 「正しさ」の一つの例として、「あまり金もエネルギーも使わないで役に立つ」というのがあるだろう。金もエネルギーも有り余っている春や夏や秋の季節には、こういう「正しさ」には人は無関心になりがちだが、冬になって、金もエネルギーも無くなってから、慌てて人々は「正しさ」を模索し始める。
 たぶん、これからそんな「正しい」技術も、日の目を見るようになるのだろう。

 最近、人から教えてもらった技術に、こんなものがあった。

排水を自宅で処理して地球に還す
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 土壌の微生物を使って生活廃水を浄化する技術の一つ。合併浄化槽に比べて、どうも敷地は広く必要になりそうだけど、維持と運用にエネルギーは使わなくてすむらしい。
 記事によると、この技術も、これまでなかなか世間に受け入れられなかったみたいだけど、これからなんじゃないかな。

12月7日(日)

初雪

 シベリアから寒波が襲来し、冬らしい寒気が押し寄せてきた。雪国では大雪に見舞われ、藤野でも土曜日には寒気が黒雲を沸き上がらせ、積もる程ではないにせよ、この冬最初の雪を降らせた。そろそろ、車の運転も冬タイヤじゃないと危険になってくるし、車以外でも、インフルエンザの流行とか水道の凍結とか真冬らしい心配が必要になる。

 冬になると、山里は恐ろしい程の静けさに包まれる。ひなびた山里なのだから、春も夏も秋も静かだろうと思うかもしれないが、それらの季節とは違った、ちょっと異様な感じの静けさなのだ。なんだか、すべての活動が静止してしまったような静けさと言うか、山里全体が湖の底に沈んでしまったような静けさと言うか。

 この頃になると、やたらイベントの多い藤野も、イベントの数は少なくなる。ただ、それに代わって、イベントの企画者や参加者たちが、藤野のどこかに集まって忘年会を開いたりするのもこの時期だ。それぞれが料理などを一品ずつ持ち寄って、賑やかな宴に興じる。

 都会の盛り場の宴会もいいかもしれないが、山の中の誰かの家に集まって、素朴な宴会をするのも良いもので、なにより金がかからない。それに、最近は特に料理上手が増えたからなぁ。私はまったくダメだけど。

 シーゲル堂では今月の企画展が始まっています。クリスマスリースや、正月飾りもいろいろありますので、覗いてみて下さい。

光る木々

 今年一年を自分なりに振り返ると、やはり災害には今後も注意しなければならないなぁという思いになる。藤野では2月のとんでもないドカ雪が凄かったけれど、全国各地で風水害の多い年だったし、火山の噴火や大きな地震もあった。
 2011年の大震災以降、地震や火山といった活動には注意し続けたつもりだけど、そんな私を「心配のし過ぎ」と笑う人もいたな。でもどうだろう。
 やはり、「日本列島は地殻変動の活発な時期に入っているのではないか」、と言われて、笑い飛ばして否定できる人は、楽天家か健忘症ではないか。

 3年程度の年月で、どの程度の対策が達成できるか。日本各地の沿岸部での津波に対する備えは、どのくらい進んでいるのだろう。家屋の耐震性は、どれくらい上がっているのだろう。
 家屋に関して言えば、地震に強い家よりも、地震で簡単に壊れる家が、圧倒的に増えたような気がする。その理由は空き家の増加だ。
 空き家も放置し続けると痛みが酷くなり、最悪の場合、地震が無くても自然に崩壊しかねない状態になる。近年になって、そんな家が増えてきたし、社会問題にもなってきた。

 藤野でも2月の大雪では、いろいろと家屋の被害が発生したが、空き家の被害も多かった気がする。地震や大雪に限らず、自然災害というのは、使われなくなって手入れもされなくなった空き家を淘汰する形で、力を発揮するみたいだ。

センダングサの種

 災害対策に関して言えば、そろそろ価値観の変更が必要になる頃だと思う。何の価値観かと言うと、文明の形についての価値観です。
 産業革命以来、「進んだ文明」と言えば、高いビルが聳え立ち、車や鉄道が高速で走り回り、多量の資源とエネルギーを使って派手な世界を作り上げる事だった。しかしこれらは、災害に対しては脆弱性を増す方向になる。
 高いビルも必要無い、車や鉄道が高速で走り回る必要も無い、巨大なダムも発電所も必要無い、そんな文明の形こそ「進んだ文明」と言えるのではないか。

 これは、多量の資源とエネルギーを使う派手な世界とは違う。地味な世界に感じられるかもしれないし、20世紀を生きた人には、まるで火が消えてしまったかのような、寂しい世界に見えるかもしれない。
「そんな世界は文明の進化ではない、退化だ。」と反発する人も多いだろう。

 でも、残酷な事を言うようだけど、もしこれから、様々な災害が続くとして、どちらが生き残る文明の形で、どちらが淘汰される文明の形か。
 空き家同様、これも、これからふるいにかけられるのかもしれない。

 いや、「これから」ではないな。2011年3月11日は、そんな「ふるい」の第一段だったのではないか。これから第二、第三が来ないとは言えないし、「来る」という前提で物事を考えざるを得ないだろう。

谷の午後

 こんな事を考えながら、これからの文明って「威張らない文明」なんじゃないかなと思った。「謙虚な文明」と言い換えてもいい。
 建物で言えば、バベルの塔を建てて周囲を圧倒しようとするのではなく、京都の桂離宮みたいに、自然の中に静かに溶け込んで存在するのを佳しとする考え方。
 こういう考え方は、本来は日本人の得意分野だったはずだが、今ではすっかり退化し、忘れ去られている。案外、「威張らない文明」の形は、海外の先端分野で最初に実現するんじゃなかろうか。

 例えば、アップルが現在建設中の新社屋のデザインなんかを見ると・・・。
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 記事では「宇宙船みたい」と書かれているが、私には、未来的と言うよりも古典的に見え、また東洋的にも見える。現代版の、自然に溶け込んだ「謙虚な文明」の形を作っているように見えるのだけど。
 少なくとも、バベルの塔の威圧感は無い。

 こういう新しい文明の形が、まず海外で脚光を浴びてから、慌てて日本は真似するのだろうか。だとしたら、間抜けと言われても仕方が無いだろう。

12月15日(月)

ススキの池

 冬らしい厳しい寒さと冷たい風。一年で最も深い青い空。山の木々もすっかり葉を落とした。先日、自分も参加している田んぼの仲間と餅搗きをして、ついでに豆の収穫と選別も終えて、今年の農作業は終了した。
 来週は冬至。今年の冬至は新月と重なるとかで、こんな冬至の日は、大昔では特にめでたい日として祝ってたそうな。

 冬に入って、すっかり静かになった山里だけど、今回行われた衆院選もまた、ずいぶん静かな選挙だったと思う。
 前にも書いたけど、この選挙は「とにかく今後、現政権にとって、条件が悪くなる事はあっても良くなる事はない。」と考えて、せめて株価を無理矢理あげたこの時期に、野党らしい野党が存在しないこの時期にやってしまえと行動した大義の無い選挙だ。これでは国民に「しらけるな」と言うのも難しい。

 それに、こんな選挙の私物化をやってしまうと、選挙そのものの権威と価値が下がってしまう。すると当然、選挙に当選した議員の権威と価値も、与党の権威と価値も、国会で通る法律の権威と価値も下がってしまう。
 ちょうど、価値の裏づけのない紙幣をばらまけばばらまくほど、紙幣一枚あたりの価値が下がるように。

 ただこの選挙。結果を子細に見てみると、いろいろ興味深い点も多い。

峠にて

 当初、マスコミは与党の圧勝を予想し、今回の結果を受けて「与党の圧勝」と報じているが、ほとんど何の風も吹かなかったと言うのが冷静な見方だろう。選挙前後での議席数の変化たるや静かなものだ。自民と維新は無風、民主と公明には微風の追い風、次世代は吹き飛ばされて、共産は3倍増に近い追い風。
 この結果を見て、勝った勝ったと喜べるのなら、それはそれで幸せな人なのだろうが。

 私の印象としては、この国に「原子力村」というのがあるように、「自民党村」というものもあり、今回の選挙では、なんとか「村」だけは守った、という所だろうか。

 一方で、現政権に対する批判も先鋭化しているようにも感じる。沖縄は全滅し、これではよほど精神的に度量のある首相じゃないと、改めて県民に語りかけるなんて無理じゃないかなぁ。

 投票率は低かったが、「投票率が低ければ与党有利」というこれまでの定説は、揺らいできたように思える。もしかしたら、選挙にも行かない人間の多くは、あまり物事を真剣に考えずに「まあ与党に入れときゃいいんじゃない、あはは」みたいな人が多く、逆に、現政権に反対する人間は、確実に投票所に足を運んだのかもしれない。

 じゃあ反対に、投票率が高ければ与党が有利な世の中になりつつあるのかといったら、それも違うだろう。投票率が高くなる時と言うのは、政治に無関心な人間も、無関心ではいられなくなる時だ。そう言う時は、日頃は「まあ与党に入れときゃいいんじゃない、あはは」みたいな人でも、与党には入れまい。

モクレンの木

 さて今後になるけど、これから次々と大波が来るのは避けられない。現政権の金融緩和策も限界点を超え、国債の発行も日銀のばらまきも、身動きがとれない時が来る。庶民の景気は今年の初秋あたりから、増税の影響もあって生活防衛が深刻化し、まるで水が氷点下に達して凍りつき始めるように、経済活動の停滞や停止が始まっている。この影響は、遅れて大企業にも波及していくだろう。

 おまけに世界に目を向ければ、デフレの大波が荒れ狂っている。たしかに、まだ東南アジア各国のように、これから高度経済成長を迎える地域もある事はある。しかし、そのような新興国に過剰な期待をした結果が、バブルの崩壊だろう。
 遠からず、世界全体が「成熟国」になってしまう未来が見えてくる。そうなると既存の経済では立ち行かなくなる。こんな内外の大波に、現政権が耐えられるとは思えない。

 ただ、最大の問題は、現政権はもちろん、それ以外の野党も、このような大波に耐えられる未来像を提示できていないという点にある。
 世界が成熟すると仕事は少なくなる。新しい技術と仕事が生まれる度に、それより多くの仕事が無くなっていく。
 自動車が電気になれば、部品点数が少なくなって工場も少なくなり、ガソリンスタンドも減少するだろう。車に自動運転技術が普及すれば、バスもタクシーもいらなくなり、「事故を起こさない車」では、自動車保険も必要性が減じる。

 人々が創意工夫をこらして真面目に仕事をすればするほど、この世から仕事は減っていく。この問題について、正面から声をあげる政党はあるのだろうか。

ススキ

 現代では、経済が発展すれば仕事が増えるわけではない。逆に、経済が発展すればするほど仕事が減る場合が多い。それに、「経済の発展」が「幸福」と同義語でない事も増えた。
 家庭菜園で野菜を作ってそれを食べても、当人は幸福かもしれないが経済にはほとんど寄与しない。また、人々が暴飲暴食を止めて健康になれば、当人は幸福かもしれないが、飲食や医療や製薬では仕事が減る。忘年会には不健康な暴飲暴食をして、胃薬のお世話になってくれた方が、経済にはありがたい。

 政治家や政党が、以上のような提言をしない理由の一つに、やがては政治家や政党を必要としない世の中のあり方にまで、話が進んでしまうことを、無意識にせよ感じているからではないか。

 政治の役割が、世の中の問題の解決にあるならば、政治の究極の役割は、問題の起こりにくい世の中の建設・たとえ問題が起きても民衆の自助努力で速やかに解決してしまう世の中の建設という事になる。
 これは、職業的な政治家や政党を必要としない世の中に等しい。

 科学の発展に従って、様々な仕事が減少し、政治もその例外にはならない時代が来るかもしれない。この問題を地道に考え抜いた人々でないと、次の時代を切り開くのは難しいと思う。

12月22日(月)

石臼を回す

 徐々に周囲の動きも年末らしくなってきた。近所で餅搗きをするから来ないかと誘われ、山間の静かな家で、杵を振るった。そこには自家製の醤油があって、その醤油で餅を海苔で巻いて食べたり、きな粉もその場で石臼で挽いたものを使ってきな粉餅にしたり。
 農とか、自然食とかに関心がある人たちの集まりに行くと、いろいろとこだわりの昔ながらの文化に触れられて楽しい。

 竹を伐るのなら12月の、それも新月が良いと聞いた。その時に伐ったものが、物干竿とか道具に使う場合、腐りにくくて扱いやすいとか。
 そういう話を聞いたり習ったりするには、こういう、人々が集まって和気あいあいと雑談できる機会があるとうまくいく。
 12月の新月は冬至になった。これから、少しずつ陽は伸びていく。

 年末になると、あまり書く事がないなぁ(笑)。今回は、最近感じた、ごく些細な事でも。

 先日、ラジオでこんな放送を聴いた。長さは5分程で、ポッドキャストでも聴く事ができる。
こちら>>

 沖縄での選挙の結果を受けて、「保守」とは何かについて語っている。

朝の光

 放送の内容を要約するとこんな所か。

 今の日本全体で言えば「保守概念の混乱が広がっている」。その中で、沖縄だけが、保守概念の適切な識別を行った。保守には、「社会保守」と「経済保守」と「政治保守」に分けられる(アメリカなどではこれに「宗教保守」も加わる)。

 社会保守
 その地域らしさを守る

 経済保守
 経済の追求を第一に考え、その結果、社会が崩壊してもかまわないとする態度を取りがちで、社会保守と対立する。

 政治保守
 社会の空洞化に伴い、政治的全体主義に身を投じる立場の人々。

 沖縄の選挙戦は、先の県知事選も含めて、そんな「保守」対「保守」の戦いだった。

 放送の最後で、その地域を観光で盛り上げるには、「その地域らしさ」が無いと観光の魅力にならない。という事は、経済保守、政治保守一辺倒では、観光が成り立たなくなる点に触れる。

 私の気持ちとしては、今一度、「保守」とか「革新」という言葉について、個々人が自分の言葉として考察を深める時期なのではないかと考える。

森の中

 「私は保守だ」と自認している人も、縄文時代の竪穴式住居で生活しているわけではあるまい。「私は革新だ」と自認する人だって、言論や表現の自由は今後も守っていかなくてはならないと考えているだろう。
 何かを守り保っていくためには、時代の変化に合わせて変えなければならない部分も出てくる。かといって、何かを変える際には、「これは変えてもいいが、これは変えてはならない」という理想や考察も大事だろう。

 保守だけだと、行き着く先はコトナカレ主義の停滞だし、革新だけだと新奇な世界を追い求めるだけで空中分解してしまう。保守性の無い革新も、革新性のない保守も、同様に危うい。この意味で、「保守が正しい」とか「革新が正しい」という意見は、思慮の浅いものだと言っていい。これらは車のアクセルとブレーキのようなものだ。

 思慮の浅い「保守」とか「革新」という言葉が、思慮もなく使われ、妙な現象が世の中に起こる。放送で言われているように、確かに「保守概念の混乱」は広がっているのだろう。
 「私は保守だ」と自認する人間が、どれだけ社会を壊してきたのか。原発政策を維持するためには子供を犠牲にしてもかまわないとする人間は、保守なのだろうか。
 持続可能な社会を目指している人は、時には左翼と呼ばれる事もあるが、そういうレッテルの思慮の浅さ。「持続可能」とは、まさに保守ではないのか。

 これからは、保守を自認する人も、自分が社会保守なのか、経済保守なのか、政治保守なのかを考えて、自分の立場を表明する機会も出てくるだろう。

夕暮れ

 さて、以上のように、自分なりに「保守とは何か」「革新とは何か」について十分に考えた末に、ようやく、「自分は、どちらかといえば保守なのか革新なのか」について考えるのも可能になってくる。

 わたしなりの考えは、石橋を叩いて渡るのが保守で、時には危ない橋も渡るのが革新だと言うもの。どちらのタイプの人間も、長所短所があり、理想は、両方の長所を同時に持っているという事でしょうけど、果たして人間にそこまで聖人君子を望んでいいものか。

 最高の芸術には、相反する要素の理想的な同居がある。豊かな色彩が溢れるが、けばけばしさではなく、躍動感があっても破綻はせず、調和があっても退屈な停滞ではない。そして、今まで見た事がないような新鮮な感性に満ちているが、古典的な風格もある。
 人を感動させる事ができる保守と革新の同居とは、そういうものなのだろう。一朝一夕にできる人格ではない。

12月29日(月)

山の雨

 この冬最初の積雪になるかと思ってた12月29日は、さほど寒くない穏やかな雨で終わった。もちろん、これからまた寒波が北から降りてくるのだが。
 前回の冬を思い出すとなァ、またあんなドカ雪が降らなければいいがと、今から戦々兢々としている。

 昨年と一つ違う事をあげれば、灯油の値段がだいぶ下がったことか。ありがたい話だけど、こうも急激に石油の値段が下がる(・・・と言うか崩壊する・・・)というのは物騒でもある。石油で生計を立ててきた人や会社や国は、それこそ死活問題の大騒ぎだろう。今年は、世界がかなり動いた年でもあったし、来年も同様に動くだろう。どんなところに落ち着くのか、そのビジョンが見えない。

 一方、国内の方は来年はどうなるかと思うと、これも世界の情勢に引っ張られるので「予想なんてできません」としか言い様がないのですが・・・、まあこれは確かなんじゃなかろうか、というモノもあります。

 こんな話をしても鬼が笑うだけだが。
 先日、来年がどんな年になるのか知人と話して、政府の景気対策についても話が及んで、「まず、何をやっても空振りだと思います」
 私はそう言ったのですが。

光る屋根

 アベノミクスと称する政権の景気対策だけど、金融緩和でインフレ誘導を起こし、公共事業で金と仕事をばらまいて弾みを付け、今後の成長が可能な新産業を創出していく。この最後の新産業の創出が「第三の矢」と言われている物だが。
「そんな便利な『第三の矢』なんかが合ったら、第三と言わず、最初に使ってますよ。始めから、『第三の矢』なんて存在しないんです。」
 それが私の認識です。

 ラーメン屋で例えるとこんな感じかなぁ。
 客足が遠ざかって廃業寸前にまで追いつめられたラーメン屋が、起死回生策を練る。知人のつてを総動員して「食べログ」で高評価をネット上にあげてもらい、またエキストラを雇ってラーメン屋に行列を作らせて、いかにも美味しい店だと言う雰囲気を作る。
 そこで、『第三の矢』として、初めてのお客さんでも再び来てくれるような、魅力ある新メニューを打ち出す。

 別になぁ、そんな新メニューがあるなら、いちいち小細工をしないでも、最初にそれを出せばいいんだ。そうすれば知人を頼まなくても「食べログ」でも高評価が自然に出るし、エキストラを雇わなくても自然に行列も出来るだろう。

 もったいつけて『第三の矢』と言っている時点で、「成長産業」なんて、ハナから無い物だと思ってます。

ススキ

 ただ、現政権にも気の毒な点が合って、現在では、新しい産業を一つ生み出せば、既存の産業が一つ以上消えるような構造にある。これでは、「成長産業」なんて、なかなか打ち出しにくい。下手に、最新の技術を大々的に使った新産業を生み出すと、ダムも原発もいらない世の中が簡単に出来てしまう。

 そんなジレンマを抱えているため、「成長戦略」も、とりあえず、あれこれと提案はしてみても、不発に終わるでしょう。実は、大成功なんてしようものなら、政権の土台を揺すぶりかねない構造の中にいるわけですから。
 だから、まあ、「カジノでもしようか」みたいな、脱力系の提案が出てくるんだろうな。

 自分なりの結論を言えば、成長産業も成長戦略もある事はあるけど、それを実際にやるには、この世の中の形そのものも変わってしまう覚悟が実行する人にないと、どうしても腰が引けたものになって、お茶を濁すだけで終わってしまうんじゃないかと。

 これは言い換えれば、利権で動くだけの政治では、なかなか、真の意味での成長戦略って難しいのでしょう。政権自体が、成長戦略の足を引っ張る存在になってしまう。
 矛盾みたいですが、経済優先の市場原理主義的な政治って、経済を「育てる」事はできないみたいですね。経済を食い物にする事はあっても。

ススキの道

 市場原理主義的な政治って、選挙制度にも影を投げかける。
 選挙って、それぞれの政党や政治家が、それぞれの政策を民衆に訴えて、支持を求め、支持を集めた政党や政治家が力を付けていく仕組みだが。
 これって、市場原理主義と同じ仕組みなんですね。いい商品を作って民衆の支持を得た企業が、力を付けていくという競争社会。こんな社会の形でも、自動的に世の中は良い方向に進化して人々は幸福になるという考え方。

 こういう社会って、産業革命以来の、次々と新しい科学技術が現れて、それによって次々と新しい仕事が生まれた時代には合っていたと思うんですよ。
 ただ、成長の時代から成熟の時代へと移り変わる時、市場原理主義をそのまま続けると、果てしない欲望のままに他者を踏み台にしてでも自分は豊かになろうという連中の競争社会になる。
 そんな時代に対する反省が始まりつつあるのは周知の通りです。

 たぶん政治も、政治家や政党が、それぞれの欲望のままに競争して力を付ければ、自動的に世の中は良くなるという時代は、とうに終わっているのでしょう。市場原理主義的な政治の形そのものが、これからは懐疑的に問われるように思います。

 結局それは、人は欲望のままに生きるのではなく、欲望よりも高次の気持ち(理想とか)が、これからは重要になるという事になるのでしょうか。それが、どういう世の中の形になっていくのかは私には判りません。