2014

8月

8月3日(日)

彩雲(8月2日)

 なかなか厳しい暑さが続くが、西日本では台風の影響で大雨の被害も出ている。大平洋高気圧が強ければ、この時期にこれほど台風の影響は受けないはずだけど。
 今の所、暑い夏だけど、必ずしも安定した「強い夏」ではないらしい。

 上の写真は虹のような発色をした雲。この前日の夜に、激しい雷の大雨があったせいだろうか。こんな現象が現れるのは。
 一見、綺麗だけど、どこか無気味な印象もある。昔の人はこんな現象を見ては、吉兆ととらえたり凶兆ととらえたりしたのだろう。

 先日、福島から篠原に保養に来ていた子供たちが帰って行った。わずか5日ほどの滞在だったけど、楽しんでもらえただろうか。私も、2回ほどボランティアで皿洗いとか手伝いましたが、皿を割る失態もしました。どうも私は、何かお役にたてるだろうかと参加した時に限って、かえって迷惑をかける結果に終る事が多い。

 この保養活動の様子が、さっそく主催者のブログにアップされている。

第8回、無事に終了しました♪
こちら>>

 幸い、期間中は好天に恵まれたし、昼間は暑くても夜間はけっこう涼しかった。いい想い出になってくれればと願う。
 あとなー、宿泊場所になった「篠原の里」だけど、幾つか網戸のない窓がある。これは今後の改善点なんじゃないかと思った。

 マムシ草の種。強烈な原色の赤。

 先日、興味深い記事を見かけた。

幅広い参加者がDIY、協働して住まいをリノベする、相模原ハウ スプロジェクト始動
こちら>>

 全国に空き家が増えてる事は、徐々に社会問題になりつつある。かといって、じゃあその空き家を改築して修繕して、新しく販売したり貸したりすればいいじゃないかと言えば、そうもいかず、改築や修繕にかかった費用を回収できる値段ではお客がつかないという問題を抱えている。

 なので、修繕もできず、かといって人に貸すことも出来ず、有効に使われる事もないまま経年劣化で痛んで行く空き家は、かなり多い。

 この記事では、参加者が自ら工具を持って空き家を再生し、家に新たな活用の道を探っている。従来の、不動産会社や工務店では経営的に成り立たない隙間を、切り開こうと模索している。

 こういう団体が、藤野にも生まれないかねえ。
 例えば、こんな未来図を描いてみようか。藤野近辺に家を持ちたい、それも、自分で改築や修繕の作業をしたりして安く住みたいと希望している人を募って団体を作る。そして、リフォーム業者に依頼するには高額になり過ぎるし、かといってこのまま腐らせるのももったいないと思う家の所有者と話合い、自分達で改築や修繕をするので、そのかわり家賃を安くしてもらうか、もしくは安価で売って欲しいとお願いする。

 改築や修繕には、できれば地元の工務店のプロの指導も仰げれば理想的だ。参加者は、そんな指導によって改築や修繕の技術を高めて行く。
 そうして再生できた家に、団体の誰かが住む事になるのだけど、その際、家賃の一部は団体にも寄付してもらい、団体の活動費にあてたり、団体が工具や資材を独自に購入する資金にあてる。そして、また次の家を探しはじめる。

 クルミの実。だいぶ大きくなってきた。

 この団体には、ある理想を共有していた方が、活動は円滑に進むような気がする。逆に言えば、単に家を安く手に入れたいと言う気持だけでは、途中からうまくいかなくなるような気がするのです。

 どういう理想かと言うと、家を大事に維持管理して住み続け、それも、住み続けるに従って、その家の価値が更に高まるような住み方を心掛けようと言うもの。家の周りを草ボーボーにしたりゴミ屋敷するような人には、ちょっと難しい。
 また、近隣の住民とも良好な関係を築ける人格も求められると思う。地域のコミュニティーの担い手として、積極的に参加してくれる人が望ましい。

 こういう理想を持っている人たちなんだと、その団体が評価されるようになると、家を貸す側も、安心して貸す事ができるんですね。
 田舎ってね、「家を貸すのはいいけれども、変な人が来られたらどうしよう」と心配する人って、都会人が考えている以上に多いんですよ。

雷雲

 そんな事を考えながら、更にこんな事も考えてみた。
 どうも、なかなかお金とか利益だけでは、思うように世の中が回りにくくなっている。
 ただ、どうやらお金とか利益に替わる「価値」のようなものが、次の世の中を動かす時の、重要なエンジンになるんじゃないのか。
 その「価値」とは、理想とか、人格とか、徳の高さを共有した集団にあるのかもしれない。

 それにな、こういう価値は、その人達が志せば、もとではいりません。

8月11日(月)

 台風11号は四国や近畿地方に大雨を降らせて、それなりに災害も発生したが、藤野にはそれほどの影響はなかった。まあ、道路の通行止めとかはあったけど、風が無茶苦茶吹いたとか、雨が無茶苦茶降ったという事はなかった。
 この時期に日本列島を貫くように台風が通過するのは、大平洋高気圧がそれほど強くないのだろう。今年の夏は、それなりに暑い事は暑いが、昨年のような猛暑は少ない。昨年の今頃は、確か全国各地で40度越えの気温を記録していたはずだ。
 既に立秋も過ぎ、朝の4時半では車の運転でもライトの点灯が必要になる程度には暗い。空も、どこか秋めいてきた感じだ。

 草刈りをしていると季節の移り変わりが良く判る。7月の頃は草を刈っても、刈ったそばからまた雑草が生えて来る感じだけど、8月も半ばになると、草を刈ってもたちまち雑草が生えて地面を覆い隠すような勢いは無くなって来ている。

 以前、一年を1日24時間に置き換えたら、と考えた事がある。午前零時を新年としたら、8月は午後2時から4時までの間。8月11日は午後2時44分といったところか。確かに、そんな感じかもしれない。

 そろそろお盆だけど、先日、ある方から頼まれて、お寺の絵を描きました。篠原にあるお寺なんですけどね。頼まれたのは昨年の暮れなのに、描きあげるまでにずいぶん時間がかかった。なかなか構図が決まらなくて無為に時間を潰し、また描き始めても大失敗をしてやりなおしたり。依頼主には申し訳ない事をした。
こんな絵です>>

篠原のお寺

 このお寺の絵、難しかったけど、絵描きが言い訳をしちゃ駄目ですよね。こんな商売もしている人間が。

家の絵描きます
PDF(約880K)>>

 ホントはもっと淡々と、着実に描いていきたかったのだけど、まあ描いててブザマに混乱しました。
 上の写真のように、鐘楼も入れる構図も考えたのですが、なんか絵葉書っぽい感じになるので、真正面から描いたのだけど・・・。もう渡してしまった絵に、あれこれ後悔しても仕方がないけど、絵を描き終えた時と言うのは、いつもこんな後味の悪さが残る。「他にやり方はなかったのだろうか」と。

 そう言えば、前回の日記でも家の話を書いたっけ。その時は、空き家を自前で改造して住むという話でしたが。
 これに関連した話を、先日、設計を仕事にしている方から聞く機会がありました。

 その方も、お客さんから「こんな古い家を買ったので、改造の設計について依頼したいのだけど」と話を受けた事があるそうです。ただ、中には「困ったなぁ」という事例もあるらしい。

 たいがい、こういう依頼の場合、お客さんの頭の中は、「こんな改造をして、こんな外観にして、こんな内装にして」と夢を膨らませている事が多い。しかし、古い家の改造にはイロイロとしなければならない事も多い。

夏の家
(この家も、年内にも改造を終えたいという話だけど、うまくいくだろうか)

 例えば耐震基準だって、昔に比べれば今はずっと厳しくなっている。昔の家を現代的な耐震基準に引き上げる改造だけでも、かなりの資金が必用になる事が多い。
 家は決して「夢」の部分だけで出来ているのではなく、人が安全に、快適に暮らせる為の、地味で基礎的な要素が大きく占めている。そんな地味で基礎的な工事だけで、予算の大半が蒸発する事もあるそうな。

「こういう事は、なかなか夢でワクワクしているお客さんに伝えるのは心苦しい」と、その方は話してたけど、それでも、設計を仕事にしている人にしてみれば、そういった基礎的な部分をおろそかにして、夢の部分だけに手をつけると言うのは、職人気質として許されないだろう。

 こんな事を書くと、なんだか私が、素人が自前で家を改造したり修繕して住む事を否定しているみたいだけど、そうではありません。やはり、これからの時代は、そんな素人でも自前で家を改造したり修繕する人が増えれば良いと思っています。
 確かに、始めの内は、今回の日記で書いたような、夢の部分ばかりを思い描くタイプの人が増えるかもしれませんが、時間の経過によって、素人の方も家についての認識が深まっていって、家の地味で基礎的な部分の重要さを普通に理解するような状況に進化していくでしょう。

 というか、そういう方向に進化して行って欲しい。

ウバユリ

 考えてみれば、現代人はあまりにも「家」について基礎的な知識が欠けているんじゃないのか。これほど日々の生活に密着して使われている設備なのに、それをどうやって作り、維持し、修繕し、長持ちさせていくかの知識を、きちんと知っている人間なんて、どの程度の割合だろう。

 食事については「食育」なんて言葉も広まって、学校教育の場でも、子供の段階から深く考えて知識を高めていこうという動きもあるけど、家だって義務教育の段階から教えてもいいくらいだ。

 家に限らず、人間として基本的に知ってなければならない知識がスッポリと欠けている分野は、他にもあるだろう。衣食住の全ても、同じかもしれない。

8月17日(日)

夏風

 お盆も過ぎつつある。あちこちの集落で祭が行われ、山の向こうのどこかでは、花火が打上げられる音が、素朴に響いて来る。

 ここでちょっとお知らせになりますが、急にパソコンの状態がおかしくなり、ここでちょっと大掛かりな修理をする事になったのですが、もしかしたら、修理の結果次第では、当分このホームページの更新が出来なくなるかもしれません。だいぶ年寄りのパソコンだからなァ。
 これ以降、パタッと更新が途絶えたら、「ああ、パソコンの復旧で苦戦しているな」と思って下さい。

 もっとも、これまでも何度か書いてきましたが、私がこのホームページを始めたきっかけは、ある人が言った「なんだ、この何もない町」という絶望の言葉を聞いて、じゃあ自分で、自分の足元にある「なにか面白いもの」を見つけて発信しようと思ったから。

 でも、いつのまにやら、この地域では「なにか面白いもの」をやろうとする人間がやたらと増えてしまった。なので、いつこのバカ日記をやめても心残りはないのだけど、惰性でだらだらと続けてきちゃいましたね。

 秋めいた空

 フジノでの「何か面白い事」をしてきた人々の進化史というのもあって、始めは自主的なイベントや祭りをする所から始まった。これは、外から観光客を呼ぶ為と言うよりも、自分自身が楽しむ為のものだった。

 こんな所から始まった人の輪が、少しずつ町作りの分野にも活動を広めていった。ある場合は地域通貨を作る事だったり、ある場合は震災の被災地支援だったり、ある場合は森林整備だったり。

 これらの活動も、できるだけ参加者が無理をせず、やっていて楽しいと思える活動にする配慮があった。こういう配慮が初期からあったのは、イベントや祭りを運営してきた経験が生きていたのかもしれない。

 こんな町作り的な活動も、徐々に、持続可能な地域社会とはどういうものか、というテーマに結びついていく。

 持続可能な暮し、持続可能な衣食住、持続可能な自然環境、経済、職業、医療、教育、社会保障、それらの活動を支える思想哲学や精神のありかた。
 こうして書きあげてみると、何だか大袈裟な事をやっているように見えるけど、まだまだこれらは、萌芽的で素朴な段階の動きですよ。
 ただ、萌芽的で素朴な段階とはいえ、じっくりと人々がこれらの事柄について対話を深め、それぞれが次のステップを模索しているのが興味深い。

 最近始まりだした対話の一つに、この地域にどうやって仕事を作っていくか、というのがある。
 持続可能な町作りと言う時、どうしても食とエネルギーの自給自足とか、「外部と縁を切っても持続可能な暮し」という孤立化の方向に向かいがちだ。でも、仕事を作るという発想は、外部の世界に「売り込みに行く」という積極性がある。この対話が、これからどんなふうに深まって、どんなふうに形になっていくか、楽しみだ。

峠にて

 「持続可能な社会」というものは、言い方を変えれば、イザと言う時、社会が混乱したり崩壊しかかった時でも、自分達で修復できたり維持できる社会と言う事にもなる。これは、更に言い方を変えれば、巨大な組織に依存し過ぎない社会、もしくは、たとえ巨大な組織に日常的には依存していても、イザと言う時は自立も可能な社会という事になる。

 これは、更に更に言い方を変えれば、人間の精神はどこまで「大人」になれるか、という理想でもあるのだろう。と言うのも、「子供」から「大人」への成長は、他者への依存を減らし、自立の割合を増やしていく過程だからだ。
 ここで言う「大人」とは、単に自分で仕事をして稼いで、税金を払って暮しているというレベルの話ではなく、更に上の、精神的な意味も含んでいます。

 一見、「私は仕事をして稼いでいるし、自分の事は自分でできる。十分に大人だろう」という人でも、実は何かにどっぷりと依存している(物質的にも精神的にも)場合がほとんどだ。

夏の午後

 もちろん、人間は神様じゃないんだから、物質的にも精神的にも、まったく外部に依存しない全知全能の存在にはなれっこないのだけど、どこまでそこに近付けるかという話です。

 具体例を一つあげれば、簡単には精神的な動揺をしない人間を目指す、という事もあるでしょう。「自分の事は自分でできる」と自負する人間でも、些細な事で動揺する人間は大勢います。きつい言い方をすれば、これは精神的な自立が未成熟という事になる。

 持続可能な社会に必用とされる人格の一つに、動じない心というのは確かにあるようです。だいたい、簡単に動じる心なんて、持続可能な心ではないですよね。

8月25日(月)

道志川

 パソコンの(機械に疎い私にとっては)大掛かりな修復が、いろんな方々の助力もいただきつつ、ようやく峠を越しました。それにしても、この御時世に、パソコンくらい、素人に専門的な技術や知識を要求する道具はないですね。なんだか今回の経験で、パソコンの主治医でもいたら、どんなに心強いかと思いましたよ。
 そんなパソコンのあれやこれやで、お盆休みは完全に吹っ飛んだけどな。

 気がつけば23日は「処暑」。この頃から昼間は暑くても朝晩は涼しくなるらしい。実際、そんな感じで季節は進行している。

 ただ、こんな呑気な事を言えるのも、関東南部の神奈川県に住んでいるからだろう。今年の夏は局地的な豪雨が多く、大平洋高気圧が日本列島を丸ごと覆うような状況は稀で、ある時は四国や紀伊半島、ある時は北陸や東北、ある時は九州、ある時は北海道と、豪雨に襲われた所が多かった。つい先日も、兵庫県北部と広島県で多数の犠牲者を出す豪雨があった。コンビニでも被災地支援の義援金の箱が置かれている。

 神奈川県はというと、どうも雨雲が箱根の山を越えずに小さく消えてしまう事が多かったような気がする。その点では、穏やかな夏と言えるのだけど。

 それにしても、今年の2月の大雪にも驚かされたけど、「なんでこんな土地に、こんな異常気象が」とびっくりするような現象が増えたのは、もはや気のせいじゃないな。

牧馬峠の崩落箇所(左下にモノレールが見える)

 牧馬峠の崖が崩落した箇所の復旧作業が、ようやく始まった。2013年2月12日に崩落したこの現場。市の予算の都合がつかなかったのか、工事までにずいぶん時間がかかった。
 まあ、とはいえこの現場は、大雨や地震で崩れたのではない。冬のある日、自然に崩れていたものなので、次に来る大雨や地震の前に強化工事を行う機会を与えられたと考えれば、幸運な事例なのかもしれない。

 これからはこういう復旧工事をするのでも、また新しい工事をするのでも、今までよりも厳しい自然災害の想定基準で、工事をする必要があるのかな。実際、この土地に昔から住んでいる人が「こんな異常気象は初めてだ」という事も増えてきたのだから。
 今までの想定基準だと、「まあ多少の大雨でも、この場所は大丈夫だろう」という所でも、今後は判らないという所も多かろう。ここは住んでいい場所、ここは住んではいけない場所、という線引きも、これからはもっと厳格化されるかもしれない。実際、政府の方針はそんな感じだし。

 そういえば、昨年に引き続き、今年も土砂災害防止法に基づく基礎調査(現地調査)が、藤野の牧野地区で行われている。この調査によって、土砂災害警戒区域の設定が行われるけど。
 自分が住んでいる所は、どんな診断結果が出るんだろう。

 工事の資材を運ぶモノレール。子供っぽい私は、こういうのを見るとワクワクする。

 急峻な山は土砂災害が心配だし、海沿いは津波が心配だし、平地は水害や地震の際の液状化が心配だし・・・と考えてみると、日当たりの良い丘陵地なんかが、これから宅地として好まれるのだろうか。
 だいたい、そういう土地には縄文時代の遺跡がある。昔の人は良く解っていたのだろう。

 こんな事を考えている内に、これからの世の中に求められる住宅の性質に、「移築が容易」というのが加えられるのかなぁと思った。

 家に求められる性能は多岐に渡る。耐震性、暑さ寒さを和らげる断熱性、風雨に晒されても簡単には痛まない寿命の長さ、家としての役目を終えて解体廃棄する時でも、できるだけゴミにならずに自然に土に返る工夫。
 そんな性能の一つに、たとえ家を建てた後で「ここには住まない方がいい」と判っても、気軽に移築できる性能が、新たに求められるのではないか。

 ただなー、簡単にバラして移動できる家なんて、耐震性や断熱性を目指すための家の工法とは矛盾する所も多いだろう。家を作る側にしてみれば「そんな、あれもこれもと無茶な要求をするな」と言われるかな。

 移動しやすい家といえば、アメリカでは「小さな家(タイニ−・ハウス)」という運動があるようですね。まだまだ小さな芽ですが、少しずつ共感する人を増やしているらしい。ユーチューブで「tiny house」と検索すると、そんな家の動画がゴロゴロ出てくる。また、そんな家を紹介する人たちがみんな楽しそうだ。

「ウサギ小屋」に住むのがトレンドに!?
こちら>>

 現代版の「方丈の庵」かなぁ。サブプライム危機やら戦争やらで、人々の心が、できるだけシンプルな生活を指向するようになっちゃったのかしらん。
 この記事に出てくる家には、たいてい車輪がついてますね。これなら確かに移動も簡単だろう。ただ、毎年のように台風の襲来を受ける日本では、こういう形の家では、強風でコロコロと転がってしまうんじゃないかなという不安もある。

 それにしても、こういう運動が日本のような東洋ではなく、アメリカから始まると言うのが興味深い。考えてみればアメリカという国の出発点は、あんな「大草原の小さな家」から始まったんじゃなかったか。

夕立ち前

 これから当面、地震や風水害といった天災も、今までに想定されなかった規模で起こるだろう。経済の変動もあれば、社会基盤の不安定性が増す事態もあるかもしれない。

 そんな時代を乗り越えられるのは、巨大なエネルギーを使う巨大な施設や組織ではなく、単純素朴で誰にでも扱えるような、小型のエネルギーや施設や組織のような気がする。