2013

6月

6月6日(木)

牧馬峠にて

 牧馬峠にメガソーラー発電所が出来た。原発事故の問題もあり、いかにも時流に乗った良い事業のように思われるが、個人的にはちょっと心に引っかかる所もある。
 このメガソーラー発電所が作られた所は、かつて無茶な残土投棄が行われ、土砂が崩れて大騒ぎになった所だ。そして、じゃあ土砂が崩れないように工事しましょう、でも工事するのにはお金がかかるので、また残土を入れてお金を稼いで工事しましょう、という話に県が決めた。

 土砂が崩れて大騒ぎになった場所を修復するのに、さらに土砂を入れようというのだから滅茶苦茶である。県が認可した残土処分場で発生した不祥事なんだから、県が責任をもって、県が金を払って修復すべきだろう。しかし、県は金を払うのを嫌がって、残土業者にさらに残土を搬入させることで、修復工事を行った。
 結局、行政というのは、残土処分場を認可するのはホイホイと簡単にするが、そこで問題が発生した時は、そこの住民の泣き寝入りを求めるものだという事が、よく判ったよ。

 で、そんないわくつきの場所にメガソーラー発電所を作るに当たって、敷地の整地の目的で、また新たに残土を入れると言ってきた。まあ、なんだかんだと理屈を付けては、山に残土を入れたがる力学が、この世には働いているものである。
 そんな形で操業が始まったメガソーラー発電所。私には心の底から肯定できない所がある。

ホタルブクロ

 以前、この日記で、現政権の金融緩和策による円安株高誘導について、「4月いっぱいしかもたない」と書いた。結局、わたしの予想は大ハズレで、5月いっぱいまでもちましたね。まあ私の未来を予想する精度なんて所詮この程度。あやふやでアテになりませんわ。
 ただね、今にして思えば、この経済政策はどのみち負け戦なんじゃないかと思いましたね。

 なぜ私がそう思ったかといいますと、たとえ何兆もの金を注ぎ込んでバブルを作っても、私たちの生活には、そう劇的な変化が起こり得ないと思うから。
 戦後の高度経済成長の頃は、ラジオの次はテレビが出来て、そのテレビもカラーになり、様々な家電製品やら自動車やらが続々と現れて生活を激変していった。列車で東京から大阪まで行くのだって、始めは丸一日かかったのが、「6時間で行ける、日帰りも可」という電車も現れ、次に新幹線が出来て3時間で行けるようになる。

 でもなー、今の政権(与党も野党も含めて)が「成長戦略」を考えても、そんな変化はないだろう。そうなると、どんな大金を注ぎ込んだ経済政策でも、結果的に「なんだこの程度か」という感想しか国民には生まれない。どのみち負け戦と言ったのはそういう意味です。逆に言えば、勝ち戦の経済政策というものが想像できない。大金を注ぎ込んでも良くて現状維持。しかし、さすがに注ぎ込む金にも限度が見えただろう。

赤い花

 これは今までも何度も書いてきたので詳しくは繰り返さないけど、かつては何か新しい発明があると、同時に仕事も増えた。しかし、どうも21世紀が近付くに従って、新しい発明が現れるたびに仕事が減るようになった。携帯電話が銅線を必用としない電話であるように、「○○を必用としない●●」という発明が増えて行く。いずれは家庭で使う電気だって、電柱も送電線も発電所も必用としなくなるかもしれない。
 そんな発明が増えるたびに、「100人の暮らしを支えるのに必要な仕事が10人で足りたら、残りの90人は何をしたらいい?」という世の中が現実味を帯びてくる。経済界が、頑張って仕事をすればするほど、経済界は縮小して行く。

 なんだか私にはこれが、オタマジャクシが蛙に変化する時に、尻尾が徐々に消えて行く過程を連想させる。

 これも今までに何度も書いてきたけど、「政治」には、政治自身を消去させてしまう自殺的な要素が含まれている。
 政治の役割が「社会の問題の解決」にあるとしたら、政治の究極の目標は、問題の発生しにくい社会の建設・問題が発生しても速やかに住民の自助努力で解決してしまう社会の建設にある。これは言い換えれば、政治家を必用としない社会・政治を必用としない社会の建設と等しい。

 同様に、もしかしたら「経済」にも、似たような自殺的要素があるのだとしたら。

黄色い花

 オタマジャクシは尻尾が消えて行くにつれて、足や手が生えてくる。政治や経済がその存在意義が希薄になって行くとしても、それに変わる「手足」が産まれてくるだろう。その手足が何なのか、私には想像できない。
 まあ、こういう難しい話は私のアタマでは処理できん。もっとアタマの良い人の考える事柄だろう。

 私にとって、今、世の中がやるべき事、考えるべき事といったら、もっと単純で解りやすいものだ。最近のニュースでいったらこれかな。

<南海トラフ巨大地震>津波浸水域の小学校、高台移転し統合
こちら>>

 2015年度までに、津波の危険が少ない高台に小学校を移転して統合するという話。2015年までに地震が来なければいいが、とにかくできる事は進めた方がいい。震災が、自分の住んでいる町には来ないと考えるのは間違いだ。

6月30日(日)

日連のタンポポにて

 また随分と更新が空いてしまいました。すいません。いろいろと紹介したいイベントもあったのですが、どんどん過去の話になっちゃうな。
 少なくともこれは未来の話。今度の土曜日、7月6日には篠原の里で「里の市」が行われます。チラシをPDFにしてみました。

里の市
こちら(PDF約1.7MB)>>

 上の写真は終わってしまったイベント。長らく日連の郵便局の前で、パンやコーヒーを販売して、地元の憩いの場になってきた「カフェてくてく」が、道路拡張工事で建物が使えなくなる為に、6月一杯でいったんお休みとなりました。最終日の6月29日に、その記念のイベントがありました。
 道路工事が終わって、同じ場所に新しい建物ができる来年の1月までは、写真にあるカラフルな自動車が、フジノのあちこちでパンを売ったりするらしい。このあたりの話は、「ふじのタンポポ」のブログに出ています。
こちら>>

 それにしてもこの移動販売車。素人が思い思いに着彩したにしては、綺麗に仕上がっているなーと思ってたら、どうやら藤野在住の画家が、色の選択や塗り方も含めて監修したそうな。とても温かみのあるデザインになっています。

くさむら

 閑話休題。また不景気な事を書きますが、今年の残り半分の景気は、あまり好いものではなさそうです。景気の後退とか減速といった感じではなく、崩壊と言ってもいいような感じ。
 新しい泉を湧かせようと「呼び水」をじゃぶじゃぶ景気よく撒いたら、かえって土地が液状化を起こしたような。
 まあ来年になったら、また新しい気運も出てくるとは思いますが。

 今の世界的な経済の混乱の最大の原因は、新興国市場に過大な期待(バブル)を想像したことでしょう。実際は、どうも新興国市場も、それほど巨大な経済効果を生み出さないのではないか、と。

 確かに新興国市場が盛り上がれば、例えば車だって今までの2倍は生産して売れるかもしれない。しかし、生産量が2倍になっても価格が半額になれば、市場そのものの規模は拡大しない。
 車が半額なんていうと現実離れしているように聞こえるかもしれませんが、エアコンもエアバックもパワーウインドウもABSも横滑り防止機能も衝突安全機能も付けて、値段を据え置きにし続けてきたのが自動車業界の歴史ですからね。
 「価格半分の車」の挑戦は、今もなお不断の努力で継続中です。

 新興国市場は次のフロンティアではなく、もはや大勢は決まった碁盤の空白に、石を置くだけの作業だとしたら、それは経済そのもの終焉だろう。やみくもに「成長」を求める時代も、少しずつ終りが見えてきているのかもしれない。

 このところ、そんな次の時代は、どんな形になるのかなァと、いろいろ想像を巡らしてきたのですが、「これなんかどうだろう」と思える光景があった。
 民俗学者の宮本常一氏の著書『忘れられた日本人』にある「対馬にて」の最初の章「寄りあい」の場面。やや長いけど、全文を読んでみたい方はこちらをどうぞ。
こちら>>

 そこに描かれているのは、とにかく時間は有り余っているかのような里の人々が、何か全体での意思決定をする際の、なんとも気の長い「寄りあい」の光景。途中で議題が脱線しようがなんのその、何日間もかけて、途中でごはんを食べたりしながらダラダラと話を重ねる。効率化を求める現代社会では考えられない会議の有り様だ。

 田植え。一部、田んぼの中央部では、不耕起(耕さない)農法をやってます。

 でもねー、案外、これからの未来の組織の「話合い」の光景は、この文章に描かれた物に近付いて行くと思います。以下は文章の終り近くの抜粋。

「そしてそういう場での話しあいは今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。
(中略)
 そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。これならせまい村の中で毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。」

 「村社会」などと言うと、なんとも時代錯誤的な暗いイメージを持ちがちだが、そこには、なんとか村全体で仲間はずれを作らずに、共同でやっていくための知恵もあったように思われる。少なくとも、ここに描かれる光景には、「多数決」の論理で少数の意見をばっさりと切り捨てるような冷酷さはない。
 当然だろう。「多数決」を繰り返して少数の意見を切り捨てる事を続けて行くと、始めは100人の村が90人になり、80人になり、70人になり、と分裂してしまう。

山の雨

 もちろん、そこに描かれる村の在り方も、決して手放しで賞賛できるものではない。著者の宮本常一氏も文章の最後で、こう結んでいる。

「このようにすべての人が体験や見聞を語り、発言する機会を持つということはたしかに村里生活を秩序あらしめ結束かたくするために役立ったが、同時に村の前進にはいくつかの障碍(しょうがい)を与えていた。」

 村の結束の強さは、別の側面では「よそもの」を容易に受け入れない排他性も産むし、新しい進歩も容易に受け入れない後進性も産む。
 この辺りの短所を防ぎつつ、長所を活かす、21世紀的な村社会とは、どういう形になるのだろうか。