2013

5月

5月5日(日)

丹沢の雪(4月23日)

 まただいぶ更新が空いてしまったな。すっかりゴールデンウィークの真っ盛り。ただ、4月からずっと同じ傾向が続いているんだけど、どうも空気が冬から春になりきれないでいる。冷たい雨が降ったら丹沢では雪になっていたり、妙に晴れてても風が冷たくて寒々しい。

 そういえば年中イベントだらけみたいなこの町だけど、ゴールデンウィークにはあまり目立ったイベントってないね。もっとも、連休が終われば続々とあるんだけど。5月11日と12日には、この町のイベントの中でも最小クラスに小規模なものがあります。チラシをPDFにしてみました。

おひまなら来てよね
こちら(PDF約440K)>>

 最小クラスとは言っても、このイベントに顔を出すと最大クラスのイベントの雰囲気も判るかもしれません。というのも、このイベントの参加者の中には、他の最大クラスのイベントにも加わっている人も多いから。
 5月の最大クラスのイベントといったら「藤野ぐるっと陶器市」ですね。今年は5月18日と19日です。芸術の小径サイトで詳しく紹介されています。
こちら>>

 これだけ規模が大きくなると、二日かけても全て見られるかどうか。もちろん、藤野全域に分散している会場の移動には車が必須です。


パン屋建設中

 ぐるっと陶器市の頃には、どこまで出来上がっているか。牧野地区の篠原で、小さなパン屋を建設中です。この事は、この日記でも昨年9月にちょっと書きました。その時は基礎工事だったな。
 上の写真に写っているように、まずは奥の片流れの屋根の建物ができて、つい先日、写真で工事している所の屋根が出来上がりました。建設しているのはプロの大工ではなく、地元の仲間達なのですが、自分で自分の家を建ててしまう猛者も参加しているからな。秋ぐらいには完成する予定とのこと。

 ある意味、こんな家作りもイベントみたいなもので、仲間でわいわいと作業している内に、始めは建設の知識も技術も無い人が、いつのまにか普通に電動工具を使えるようになってきます。大袈裟な表現を使えば、これも技術の継承か。

 私にはささやかな夢があるのですが、それは、人が、例えば仕事で失敗しても、追いつめられない世の中って、どんな形かなぁというもの。
 さあ仕事を失った。収入が無くなった。住む家も食べ物も無くなったでは、下手すれば自殺にまで追い込まれてしまう。こんな時、隣近所の仲間達で、畑をやったり家を建てるのを手伝っていたりしていたら、少しは精神的な余裕もできるんじゃないのか。

 衣食住が自分達で出来るのなら、いざと言う時でも、それほどビビらなくてもすみそうです。

牧馬にて

 話は変わるんですけどね、相変わらず断捨離が流行る世の中だなぁと思った事がありました。何でも「かたづけ士」なる人もいるんですね。人や企業に片付け方を指南しているらしい。
 アマゾンで「かたづけ」で書籍を検索してみたら、出るわでるわ。前述の「かたづけ士」の著作もあれば、中には「人生がときめく」とか「人生が変わる」とか「自分が見える」とか「心も未来もスッキリ」とか「ツキを呼ぶ」とか、果ては「若返り」とか、単なる片付けとは思えない題名が並ぶ。

 個人的には、片付けや整理整頓に、そこまで過剰な副次的な効果を期待してもなぁ、ちと暴走気味ではないかとも思うのですが、どうも時代が、何かを「得て」「加えて」幸福を目指す足し算型ではなく、無用なモノを減らしたり捨てたりして幸福や美しさを目指す引き算型になっているのは、間違いなさそうです。そうか、おいらの絵が売れないのも、それが理由か。

 政府はインフレを期待しているけど、やっぱり無理なんじゃないかなぁと思う。人々が何に対して喜びを感じ、何に対して美しいと思い、何に向かって動こうとしているかを見れば、モノをじゃんじゃん作って、みんながじゃんじゃん買って使う時代になるとは、とても思えない。
 それにしても与党はもとより野党にしても、こんな時代に合った、人々が喜び求める世の中に向かう為の政策を打ち出す所が見られないというのも不思議だな。

晩春

「これから世の中がどこに進むのか、どう予想すればいいでしょう」
「人々が喜ぶ方向を見れば、これから世の中がどこに進むのか予想できるだろう」
「では、人々が何に対して喜ぶのか、どう知る事ができるでしょう」
「人々が集まっている所に行けば、人々が何に対して喜んでいるのか判るだろう」
 以前、そんな質問をして、そんな返答を受けた事がある。

 どんな本が売れ、どんな店に行列ができて、どんな場所が観光地として栄えているか。どんな生き方が「美しい」とされ「幸福」とされているか。未来の形がどんなものになるか、人が集まる所を見れば、自然に答えは出るだろう。

5月26日(日)

ぐるっと陶器市にて 空中庭園みたいな素敵な家

 また随分と更新が空いてしまいました。別に体調を崩して入院してたとか、そういう話ではないんですけどね。ホントは、あれも書きたい、これも紹介したいという話題には事欠かない状態でしたが、どうもパソコンのキーを打つ気になれなかったのです。
 とりあえず、一つイベントの紹介をしておきましょう。来月の6月9日(日曜日)、篠原の「すずかけの家」で毎年恒例の落語会がありますよ。

すずかけオープン5周年記念事業
第六回 落語会
こちら>>

 他にもいろんなイベントがあるんですけどね、また今年になって、単なる物見遊山的な、飲んで歌って騒いで終わるイベント以外に、町作りとか地域起こしとか、より良く楽しい世の中を作ろうという企画が増えました。数が多すぎていちいち紹介するのも大義ですが、例えば自分達の近所の山林の木々を伐って製材して、家を建てようという活動とか。
 うーん。10年前、いや5年前の事を考えても、すごい変化だなぁと思う。そんなに前向きな人々がいる町ではなかったはずだが。どういう風の吹き回しだろう。

青葉

 そんな新しいタイプのイベントを行う人々や団体を見ながら、「楽しんでやっているのなら大いに結構だけど、どうか夢中になりすぎて燃え尽きないでくださいよ」と、はなはだ大きなお世話ながら、ひそかに心配もしている。
 「持続可能な世の中を作るための活動が持続可能では無かった」なんてことになると、そりゃあ笑い話になってしまう。

 フジノ以外でも、持続可能な世の中を作ろうと活動している方々の話を聞いたり読んだりしているけど、時々、その活動の手法に矛盾を感じる時がある。一言で要約すれば、21世紀的な世の中を作ろうと、20世紀的な活動をしているという矛盾です。
 例えば、健康な世の中を作ろうとして、無理に無理を重ねて頑張り過ぎて健康を損ねるとか。

 健康で持続可能な世の中を作るのであれば、その活動のあり方自体も健康で持続可能なものなのか、時々自覚的に注意しておく必用がある。
 なんかねー、やっぱり、持続可能な世の中を作ろうとしている方々も、生まれは20世紀なんですよ。その血と肉には、高度経済成長時代を駆け抜けた「モーレツ」の気質が漲っている。努力と根性を注ぎきった果てには、燃え尽きるのも辞さないような「巨人の星」とか「あしたのジョ−」みたいな気質が。

 でもね、21世紀って、そんな時代じゃないと私は思うのです。

ニセアカシア

 んじゃあ、お前の言う21世紀って、どんな時代なのよ、と言われそうだ。
 一つ答えてみるとしたら、20世紀に比べて21世紀は、世界は穏やかにその回転をやめて、静止していく、という事になるのだと思う。

 こんな事を言うと悲しむ人や反発する人も多いかな。人類は今後もどんどん進歩して行く事こそ正義であり、それが当然の事と信じている人も多いだろう。
 私も決して、21世紀になって人類の進歩が完全に停止して、その後は退化に進むとは思っていない。ただ、階段で言えば「踊り場」の状態になるのではないかと思っているのです。

 この状態にはデメリットもありますがメリットもあるんですよ。進歩が停止した「停滞」の時期は、革新的な社会の変化が見られなくなる。逆に言えば20世紀は革新の連続でした。鉄道ができたり車ができたり飛行機ができたり電気が様々な用途に使われて生活を変えたり。親は子のライフスタイルが理解できず、子は孫の世代のライフスタイルが理解できない、そんな変革の連続だった。

 こういう時って、悪事も横行しがちです。というのも、悪事が行われても、社会の変化が激しすぎて、人々は過去の悪事にかまってられずに次々と忘れてしまうから。
 でも、停滞の時代、変化の乏しい時代になると、過去の悪事も、そのまま現代人の話題にのぼってしまう。と言うより、停滞の時代の人々は、未来を語るよりも過去を語る分量の方が多くなる。

花ざかり

 もしかしたら、「最後の審判」って、こういう事なのかもしれないな、と思う。10年前、20年前、50年前、100年前の事まで遡り、「これまで、人々はこういう事をしてきましたね」と立ち止まって振り返る。過去の悪事はいつまでたっても人々の話題の俎上に登り、光が当たり続けて論じられ続ける。これでは悪事に逃げ場が無い。

 変革や成長の激しい時代は、悪事も「やったもん勝ち」という所があったが、とうにそんな時代は峠を越えている。私も、今のうちに生き方を変えた方が良いのかもしれない。