2012

12月下旬

12月19日(水)

山の雨

 気がつけば、もうこんなに年末になっていたか。慌てて来年の手帳を買う。21日は冬至だ。
 風邪がなかなか治りきらぬ。その理由は判っている。先日、選挙の投票所の立会人をするハメになり、13時間にもわたる座りっぱなしの苦行で身体を冷やしてしまったらしい。少し、ぶりかえしたようだ。もちろん、ストーブとかはついていたんですけどね。
 次に立会人になる時は、こんなかっこでやってやる。

 その選挙ですけどね、結果にショックを受けている人が周りに多い、というか、そんな人ばっかだ。「どういことだ、自民党圧勝というのはッ!」って、おいらに怒鳴られても困るが。
「私は自民党圧勝とは思っていないよ。当の自民党も思っていない。だから自民党自身も神妙にして自重している。自民党が勝ったと言うよりも、民主党が自滅して勝たせてもらった選挙だろう。それも、政党支持率を見てみると、3年前、政権が自民党から民主党に移った時に自民党から心が離れた人々が、また自民党に戻ってきたわけでは無い。代わりに維新の会とかみんなの党とかが、けっこう票を伸ばしている。
 今回の勝利は、組織票と小選挙区制度の助けを借りて、からくも再燃したともしびのようなものだ。」

冬木立

 時々ここでも書いているけど、私は自民党政権を夏の時代の政権、その後の民主党政権を秋の時代の政権と考えている。夏の伸び盛り、育ち盛りの高度成長期の時代と、成長が停止し、木の葉が舞い落ちて冬に備える『維持と安定の時代』。
 政権がまた自民党に移っても、季節が秋から夏に戻るわけでは無い。今回の政権にも、当然、秋の仕事が待っている。果たしてそれができるかどうか。
 また、「土木事業で景気対策」なんぞやろうものなら、たちまち今回の民主党の運命の再放送をするハメになる。

 また他の人から質問された。「維新の会をどう思う?」
「頭が二つある蛇のようなもの。かえって身動きがとれないのではないか。それも年をとった方の頭がわがままに動いて、若い方の頭がイヤイヤ引きずられる。あまり心地よくはないだろう。」
「未来の党が伸び悩んだ理由は?」
「表面上の理由は、余りにも選挙直前にできた政党なので、準備不足と周知が行き届かなかった事だろうが、それは最大の理由では無いと私は考える。」
「最大の理由は?」
「民心との乖離が甚だしかった事。脱原発、反TPP、消費税増税反対だけだと、一部の熱狂的な支持者は得られても、世の中を変える本流にはなれないんですよ。」

雨上がり

 何かに「反対」するだけでは人々はついてきてくれない。最後の最後は、人間の関心事はご飯が食えるかどうかだ。露骨な表現だけど。
 例えば「脱原発」と言うよりも、「原発以外のやり方で、もっと素敵な世界が作れる」という提示の仕方をすると、そもそも脱原発にも原発推進にも関心の無い人でも「おっ」と興味を引く。

 毎年原発一機分の太陽電池を増やして行きましょう、とか、今後10年で地熱発電所を100機作りましょう、とか、池田内閣時代の『所得倍増』みたいに、光熱費や水道代といった生活維持費の『半減』を目指すエコタウンを作りましょう、とか。
 なんかそっちの方が産業も発達しそうで、同時に生活も楽しくなりそうだと誰もが思えるような未来像の提案。

 どのみち、これから全世界的に持続可能な社会のあり方を模索しなければならなくなる。これはイヤも応も無く必然の流れだ。持続可能社会のあり方の現実的な未来像をいち早く提案できた勢力が、次の社会の指導者になるのだろう。

枯れ野

 夏から秋へ。どうもこれは日本だけの現象では無く、世界的なものらしい。もはやモノとカネでは世界は回らない。新興国の安い人件費でモノ作りをしても、たちまち生産過剰になってしまって利益にならない。

 人々が穏やかに暮して行くには、「仕事」とはどうあるべきか、「経済」とはどうあるべきか、根本から問い直して作り替えて行く時期に来ているのだろう。こうなると、「景気対策」で世の中が良くなると考えるのも、もう時代遅れなのだろう。

12月22日(土)

木の伐り出し

 芸術の家もちつきをやるそうだ。もう年の瀬ですな。昨日は冬至で、これから少しずつ陽が伸びてくる。寒さの方は相変わらず容赦ない。北からどんどん寒気が降りてくる。

 牧馬で木の伐り出しをやっている。秋に伐採したものを、乾燥を待って冬に入った今、山から下ろして運んで行くのだ。
 といっても製材のための伐り出しではない。実は山の杉の木が斜面に倒れかかり、これはいずれ手のつけられない大変な事になると慌てて伐採したもの。上の写真でも判るでしょうか。写真の右上の方にケーブルが引いてあって、滑車に釣り下げられた小さな丸太が浮かんでますね。これがロープウェイのように、山の上から伐採した木を吊るしてここまで運び、後はトラックに乗せて行くのです。

 さすがにプロの仕事だけあって、機材の使い方、木の伐り出しの手順、どれをとっても無駄が無く、着実に作業をこなしていました。

ススキ

 そういやあ、今年は私の家の裏山も杉の木が家の方に倒れかかってきて、大慌てで伐採したんだっけ。これから同じような事例が山里では増えていくだろうな。
 林業は廃れる。炭焼きも行われない。手入れのされない山の木々は、それでも不断に成長は続けている。それがある時、風水害や地震の時に倒れかかり、家を潰したり電線を切ったり道を塞いだり。
 昔のように木が金になる時代なら良いんだけど、今は伐り出すだけでも大変な出費だ。このところ老朽化しつつあるインフラをどうしていくかの話を重ねたけど、道路沿いで伸びて行く木々も、似たような問題を投げかけている。

 木をカネにするのには、木に付加価値を付ける方法があるけど、最近こんな記事をみかけた。

森で木を切るなら12月、新月伐採を見学してきた
こちら>>

 新月に伐った木は、虫やカビがつきにくく、割れや曲がりも少ないと言う話。近年になってだいぶ認知も進んできた。特にこの記事では、新月伐採した木は「木の表皮に近い辺材と呼ばれる部分で、カビや腐朽菌のエサになるはずのデンプンなどの栄養分が、逆に、それらを寄せ付けないフェノール成分という物質へ変わっていた」という調査結果が興味深い。

北からの雲

 ただ私がこの記事で一番興味を引いたのは記事の終りの方。老朽化したコンクリート製の小田原城の天守閣を、地元の木材で再建しようという団体の立ち上げが進められているとのこと。
 こういう話にワクワクできるかどうかが、(不遜な言い方で申し訳ないですが)その人の頭の中が、21世紀に向いているのか、前世紀に向いているかの尺度になるんじゃないかしらん。

 安く、手っ取り早く作るのなら鉄筋コンクリート製の天守閣でもよかろう。でも、この世の「価値」って、経済性だけだろうか。
 むしろ経済性だけを追求してきたすえに、行き詰まり始めたのが今の世界の姿だろう。となると、これからは経済性以外の要素も含めた、未来の方向性を考える必用がある。
 私としても、「経済性以外の要素」と言ってもそれが何かを具体的に示せるわけではないのですが、そこに「夢」とか「喜び」とか「感動」とか「やりがい」を感じるのであれば、未来の方向性を示していると考えてもいいのではないか。

野山の食堂にて

 冬至の夜。藤野の地域通貨の参加者たちが忘年会をやっているというので仕事帰りに寄って見たら、店に入るなり店内の客達が妙な顔で私を見るのでぎょっとした。
 なんでも、まさに世界が終わろうという時間(そういう話があったみたいですね、マヤ歴というやつかしらん)に私が店に入ってきたので、私が死神みたいに見えたのだろうか。

 まあ私の顔は、どう見たって福の神には見えないよね。

12月25日(火)

雨過ぎる

 今日はクリスマスらしいけど、なんかイマイチ盛り上がりに欠けるような気がする。そういえば数年前には家を電飾で光らせるのが流行ったけど、最近はあまり見ませんね。震災の自粛ムードが続いているのかしらん。

 先日、藤野の某所で住宅の展示会があった。こんな場には滅多に行かない私なのですが、地元の木材を使い、地元の工務店が施工し、様々な省エネルギーの知恵を注いだ家という事で行ってみたのです。確かに素敵な家でした。
 そこでは工務店の方のお話もあったのですが、一つ興味深い話をしていた。

 現在、多くの住宅メーカーは、狭小な敷地に、これまた狭小な家をできるだけ数多く詰め込むように建てるような家の売り方をする。しかしこれでは、家も美しく無いし、家の並びの景観も美しく無い。これでは、建てた瞬間から家の価値、ひいてはその家のある地域の価値は下がる一方で上がる事は無い。
 こんな事をせずに、時間が経過するに従って、価値が上がる家とはどういうものか。

 シーゲル堂で売っていたフェルトの人形。聖母マリアと羊らしい。

 その工務店の方の話では、ゆとりのある敷地に、これまたゆとりのある間隔で家を建て、また家のデザインも周囲の景観との調和を心掛け、家だけでなく、その地域全体が美しくなるような家の建て方をしていきたいと言う。そうすれば、時間が経てば経つほど、家だけでなく、その地域全体の価値、更には町全体の価値も上がって行くだろう、と。

 私も全くもって賛成の話だけど、藤野みたいな山里だからできる発想で、東京に近い都市部では難しい考え方かもしれませんね。

 前回の日記で、これからは経済性以外の価値を含めた未来の方向性を考える時代になるんじゃないか、といった事を書きましたが、経済性以外の価値の一つに『時間』があるのかもしれないと思った。

 時間が経てば経つほど、ゴミになるのではなく、かえって風格が増していくモノのあり方。これは家だけではないだろう。

 ただなァ、同時にこういう事も思った。
 既に建ててしまった、せまい敷地に狭い家を並べたような住宅でも、時間の経過に従って価値が上がって行くような改造はできないものか。
 例えば、何件かの家を別の場所に移築して、それで空いた空間を緑地帯のある公園にするとか住民が共同で使える菜園にするとか。
 また省エネルギー性能をあまり考えていない昔の家も、改築によって性能を高めてやるとか。

 21世紀的な家、21世紀的な町ができる一方で、前世紀的な家、前世紀的な町が取り残されていくだろう。そういった家や町を再生する知恵も、これからは必用とされると思った。

光る屋根

 家の話で思い出した。最近になって、「適疎」という言葉が使われ出していると言う。「てきそ」と読む。
 過疎が行き過ぎた状態に対して、適切に「まばら」な状態を適疎と表現しようという事らしい。まだ広く出回っている言葉ではないようで、ネットで検索してもあまり出てこないが、このページにその言葉が出てくる。

番外編 公開講座
「コミュニティデザイナーという仕事」レポート
こちら>>

『過疎というより「適疎(てきそ)」ということばで表現したい。 たとえば東京の満員電車 なんて、過密すぎると思いませんか? 適切にまばらなまち=適疎。たとえば、ひとり1ヘクタールの家にゆったりと住む暮らし、悪くないと思いませんか。(リンク先の文章から)』

 過疎でも過密でもなく「適疎」。冒頭の家の話とも関わってくる。それにしてもいろんな言葉が次々と生まれる御時世だ。たぶん、世の中のあちこちで、今までとは違う価値観の世の中のあり方を模索している人が大勢いる現れでもあるのだろう。

森の光

 今までの世の中は、ほとんど疑う事も許さないくらいに、「発展」して「成長」して「賑やか」になって、村は町になり、町は市になり、工場ができてビルが建ち、繁華街では人並みで溢れ、夜も街の灯りで煌めくような未来こそが「良き事」とされてきたけど、さすがにそんな発想は限界が見えて、既に衰退が始まっている。

 これから、のんびりと閑散とした町並こそが理想とされる世の中になるかもしれないが、市長や町長や村長の選挙で、「のんびりと閑散とした町を目指しましょう」なんていう候補が当選する未来は、はるか先だろうな。

12月28日(金)

青空

 北からの季節風は情け容赦なく冷たい空気を送りこむ。北海道ではマイナス30度近い低温を記録したというからエライ寒気だ。牧馬も寒い事は寒いのですが、私はと言えば、以前この日記で紹介した、中空のポリカーボネートの板で窓を二重にしたのが効いたのか、まだ震え上がるというほどではありません。もちろん、寒さの本番はこれからですけどね。

 既に子供達は冬休みだけど、今年もフジノに福島の子供達が保養に来ている。当初、暖房用の薪が足りないという事で、自分の家の裏の木を伐った時の薪を提供しようと思ったけど、どうやら薪の確保はできたみたい。
 福島に比べればフジノは暖かいのかなァ。「神奈川県に遊びに行く」なんて言うと、温暖な湘南地方を思い浮かべるかもしれないけど(笑)、フジノは神奈川県の中でも寒い所ですからねえ。

 秋のイベント「こもりく」の参加者による忘年会。例によって楽器は欠かせない。

 先日、来年はどんな年になるかねぇ、といった話を知人としていたら、その人が「なんとか景気が回復してくれないかねえ」と言った。この手の意見に対する私の答えはだいたい決まっている。
「では、今あなたがローンを組んででも欲しいと言うものはありますか」
 この質問に対し、たいていの人は少し考えて「ないね」と答える。
「じゃあ景気が悪くなるのも仕方がないですね」と言うと、相手も苦笑して「そうだよなァ」と答えるのですが。

 だいたい物質的に満ち足りた時代は、物質的な産業の停滞を招き、投資先は消失する。投資先が消失すると、お金を持っていても増やす事が出来ず、かといってお金を塩漬けにして持っていても、その価値はじりじりと低下して目減りして行く。

 さて、お金では世の中が回せない世の中になってしまったら、どうやって世の中を回せばいいという話になってくるけど、実は既にその為の実験は全国各地で始まっている。経済的に衰退した地方では、「お金はない、かといって地元がこのまま滅びるのは避けたい」と真摯に考えている人たちが、あの手この手でカネのかからない町起こしの手法を、苦しまぎれでもあみ出さざるをえなくなる。

 始めは苦しまぎれでも、時には成功事例も現れてくる。近年になって、そんな地方再生の手法に、一つの柱が出来てきたように感じる。その手法とは、「カネが無いのなら、地元に既にあるものをできるだけ上手に使って、それも最大限に能力を発揮させてみよう」というもの。ここまでだけなら当たり前すぎて「なあんだ」となるけど、重要なノウハウは、その手前にある。

ススキ

 「既にあるものをできるだけ上手に使って、それも最大限に能力を発揮させる」というのは、畑で言えば、種や苗を、できるだけ上手に育てて、最大限の実りをあげさせるといった所か。そのためには土作りが必用になるように、町起こしで「土作り」に相当するのが、「明るく前向きに和気あいあいと結びついた人間集団ができる場を作る事」だろう。
 そういえば自分も、昨年この日記でこんな文章を書いたっけ。

 それが近年、この「人間界の土作り」に相当する手法を、理論的に体系化したり、教育用に教室を作ったりして活動をしている組織が、けっこう全国的に増えているようなのだ。前回の日記でリンクした記事の人も、そんな一人なんじゃないかなァ。

 たぶん、これからの未来では、成功する地域、成功する組織というものは、そんな土作りが上手にできた所だろう。やがて企業や自治体の組織についても、このような手法が導入されて行くのではないか。
 ホントはねぇ、真っ先に国政のトップに導入したいくらいだけど、まあ、ここに導入するのは最後になるかなぁ。

月(12月26日)

 私には、ささやかな未来に対するイメージがあって、その一つは、新しい時代を創造する人々が現れるのは、決して高層ビルの大都会でもなく、マスコミが注視する情報の発信地でもなく、権力や権威の中枢でもなく、むしろそれらから最も遠い所、例えば地方の畑とか町工場とか公民館とか、そんな所なのではないか・・・というもの。

 そういえばこんな言葉を思い出した。「龍が田(地上)に現れ、有徳の実力者と会う」(これは、後年に君主になるべき実力と徳を備えた人が、社会的に低い場所に現れる、という意味を含んでいる)
 たぶん、現代のそんな龍は、控えめな笑顔で静かに活動を続けているに違いない。そして、人の心を心底からがっちりと掴んで安心させるような人間は、そういう所から出てくるのだと思う。

易経』 乾卦九二
見龍在田。利見大人。

12月31日(月)

 2012年も終わろうとしている。先日、牧馬でも地表を白く覆う程度の雪が降った。今年もいろいろあったような何も無かったような。

 前にも書きましたが、このアホ日記は来年から不定期の更新にします。3日に一回とか、4日に一回とかいった周期性は諦めて、まあ自分にできる無理のない範囲でやろうかと。だいぶのんびりペースになると思います。
 いっそ終了しようかとも思ったんですけどね。

 自分がこのHPを始めたきっかけは、地元の人間が発する「なんだ、この何も無い町は」という、ちょっと絶望と悲しみと怒りが混じった言葉を耳にした事から。じゃあ、自分なりに自分の棲んでいる足元から、何か面白いものを見つけて発信してみよう、というのがそもそもの動機。
 それが何のタタリか、爆発的に面白い事を始める人が次々に出てきて、もはや紹介する気にすらなれぬ。それに、今や地元から紹介しなくても、外部から取材に来てくれる媒体も増えた。

 野山の食堂のピザ。あいかわらずでかい。

 あともう一つ、「もうこんなふうに地元の話を発信する時期は終わったんじゃないかな」と思う理由がある。実の所、私が思う、フジノで一番面白い部分は、既にイベントとかお祭りではない。
 じゃあ何が一番かと言うと、そんなイベントやお祭りで培われた人の環が、新しい町づくりの一部を担い始めている。外の人がパッと見た感じでは何も判らないと思いますが。

 例えば住民の一人に何か不幸な事件が起こった場合、イベントやお祭りで培われた人の環が、それぞれアイデアを出し合って援助して行くとか・・・。
 まだ萌芽的な段階ですが、実際にそういう事も始まっているんですよ。

 でもこういう話はネット上で公表はしにくいよなァ、プライバシーの問題もあるし。

 これは前回の日記の続きになるけど、これからの未来では、上手くいく地域とか上手くいく組織というのは、「明るく前向きに和気あいあいと結びついた人間集団ができる場を作る事」に成功したところから発生するだろう。
 ただこういう変化は、一見しただけでは普通の町や組織と見分けがつかない。

 20世紀の変化は分かりやすかった。ビルが建つとか道が広くなるとか車が走り回るようになるとか。誰が見ても明らかに判る、目に見える物質的な変化だった。
 でも21世紀の変化は分かりにくい。普通の家が並び、普通に人々が生活しているようにしか見えない。変わっているのは、そこに住む人々の心だからだ。

 しいて、その「差」が判る瞬間と言うのは、例えばこういう時かもしれない。あなたがどこかの町に何日間か滞在する。その期間は、あなたはその町について、特に変わった点は気付かない。
 それが、その町を立ち去って、別の町に入った時、どうも人の顔つきに笑顔が少ないような、みんな何かに追いつめられているような表情が増えたような気がする。逆に言えば、前に居た町には、どうやら人々を安心させて笑顔を増やすような何かが在るらしい事に気付く。

 これからの町の変化とは、そんな微妙な変化なのだろう。

牧馬の雨

 ここまで書いてきた内容を読んで、甘ったるい絵空事と思う人もいるかもしれない。まあニホンの人口で言えば、九割がたはそう思うでしょうな。
 でもねえ、こんなコマーシャルを見ちゃうとねえ。
 まさかトヨタの、それもクラウンのコマーシャルで「権力よりも愛」なんて言葉が飛び出すとは思いもせなんだ。トヨタとしても、そうとう挑戦的な、思いきった社会に対するメッセージであり、これからの戦略でもあるのだろう。

 そりゃあトヨタはもちろん大企業だし、カネも権力もあるだろうし、カネと権力の側の存在には違いない。でも、うすうす気付いているんじゃないかな。5年後、10年後を考えた時、権力だけでは世の中が動かない時代が来て、産業界も、人々との心の通い合いがないと、尊敬もされないし権威も失ってしまう事を。

 わたしゃ別にマヤ歴なんて信じていないけど、この2012年は、確かに何かの潮目が変わった年だったような気がする。

丹沢も少し雪を冠りました

 よく人と話していると、原発問題一つをとっても、政界も財界もマスコミもすべて庶民の敵にまわっているかのように絶望している人と会うけど、私の印象としては、そんな時期はとっくの昔に峠を越えたと感じています。
「まあ酒でも飲みながら、のんびり世界を静観してご覧なさい。時代を逆に戻そうとする人々が、何をやってもうまく行かず、逆に時代を先に進めようとする人々が、徐々に世の表に出てきますから。」
 とまあ、そんなふうに私は言うのですが、これは単なる慰めではなく確信に近い。

 もはや時代を逆に戻そうとする人々も、時代を先に進める人々に対して意地悪をするような、そんなに力を持っていませんよ。時代を先に進める人々は、これから、まるで無人の野を行くかのように、誰にも邪魔されずに自分のやりたい事ができるように感じるんじゃないかな。