夢見る力(後編)・趣味の町政

 「夢」を見る事が難しい時代になりました。
「あなた、何か夢中になってやりたいと思う事ってありますか?」
と聞かれて、すぐに具体的な返事をできる人は少数派でしょう。
だいたい、「夢」などというものは、何もない、苦しくて貧しい時代こそ具体的なイメージが湧きやすいものです。モノと娯楽に満ちあふれ、やりたい事を全部やろうとしたら身体が幾つあっても足りないような時代では、
「夢?、私は現状に満足している。とりたてて夢と言えるものは思いつかないなぁ。この満ち足りた世の中で、いったい何を新たにやろうというんだい?」
こう答えられて終わってしまいます。

 しかし、この一見幸福な状況も、見方を変えると単に幸福とは言ってはいられない状況だと判ります。
「この満ち足りた世の中で、いったい何を新たにやろうというんだい?」
もはや、何もやる事がないのでしょうか。
 だとしたら、現代人にとって残された仕事と言えば、『現状維持』だけになってしまったのです。これでは夢がありません。
 (というより、『現状維持』が唯一の仕事になってしまったような世界では、「夢」などというものは有害な危険思想になってしまいます。現状を変えようと提案するのが「夢」ですから。)

 私は、平成の大合併で多くの自治体が合併に応じた理由の一つに、この気風があったのだと思えてなりません。
「特にやりたい事もないし、合併してもしなくても何も変わりはしないよ」
こんな気風では、国が合併を推進すれば簡単に合併になびきます。
 満ち足りてしまって目標を失った時代は、「夢」を失った時代でもあります。

 しかし・・・、何も
『町に新幹線を通そう』とか、『巨大なテーマパークを誘致しよう』とか、大げさな事を考えないで、素朴で小さな面白さの「夢」であれば、小さな町でも(いや、小さな町こそ)いくらでも転がっていると思うんですけどね。
 「成長」とか「拡大」とか「発展」とかいった、高度経済成長時代の夢ではなく、
『今ある町で、何か面白い事をやろう。町を楽しもう。』
という発想からなら、無理なく自然に「夢」が膨らんでくると思います。それも、小さな町ほど具体的に膨らむと思います。

 どんなささいな事でもいいんです。「この道に並木が欲しい」といった事でもかまいません。こうなると、もはや「夢」と言うよりも「趣味」と言うべき領域ですね。こんな事を言うと、
『町政を趣味や道楽といった遊び半分の気持ちで動かされてはかなわない。』
と反発を食らう事でしょう。
 でも、逆だと思います。
 出発点は「趣味」であろうと、それが多くの人々に共感できるものであれば、やがてそれは多くの人々が共通して求める「価値」になっていきます。この「価値」は、今までの高度経済成長時代の夢とは質的に違った「価値」になっている事でしょう。
 人々が新しい「価値」を求め始めて動き出せば、そこに目標も生まれて事業も立ち上がり、お金も循環していくのです。
 逆に言えば、満ち足りた時代になった今、たとえ大きな町であろうと小さな町であろうと、「趣味」を持たない町は、今後の発展の可能性がないのです。

 満ち足りた時代では、『趣味』という考え方が重要になってきます。趣味には目的がありません。正確に言うと、趣味とは目的達成の為の手段ではありません。趣味、それ自身をする事が楽しみであり、目的です。

『何事であれ、それを『知っている』程度の人間は、それが『好き』な人間にはかなわない。それを『好き』な人間も、それに『夢中になっている』人間にはかなわない。(※1)』

 私は『町おこし』も、いい趣味になると思うのですが、どうでしょうか。園芸をやりながら「ここに枝垂れ桜が欲しいな」とか考えたり、安い元手で最高性能を達成しようとパソコンを自作したり、サッカーのチームのサポーターになって応援したり。
 その延長で、町政も立派な自己実現の手段になりうると思います。

 ホラ話にしか聞こえないかなァ(笑)。

 そりゃあ、いかに小さな町といっても、その政治にはドロドロした部分もあるでしょう。藤野町にも立派にあります(笑)。また時には精神的に苦痛を伴うような、厳しい決断を強いられる事もあるでしょう。楽しいだけの趣味とはわけが違います。
 なにより公の仕事です。誰にも迷惑をかけずに個人の中で完結できる趣味とは違い、自分とは考え方も嗜好も異なる大勢の人間の生活を左右しかねない仕事なのです。
「道に並木を植えよう」と話が盛り上がっても、植える木は桜がいいかケヤキがいいか松がいいかでケンカになることもあるでしょう(笑)。誰だって「人間って、やっかいな生き物だなァ」と感じる経験をした事はあるはずです。

 しかし、その現実を充分ふまえてもなお、これからの町政には趣味性が不可欠になるだろうと私は考えます。大きな町であれ、小さな町であれ、これから発展させようと考えるのなら、町は「町おこしが趣味」と普通に言える人を増やすように、自らを変えていかなければなりません。
 定年退職した人が、それまでの自分の経験を生かせるような町政参加の道を広げて、「こんな面白い趣味はない」と言わせるような変化を。
「こんな面白い趣味を相模原市に取られたくない」と言わせるような変化を(笑)。

 ここまでの文章を読んで、
「こいつ、楽観的過ぎるんじゃないか」と思われた方も多いと思います。私自身、去年の今頃だったらそう思っていたでしょう。
 それが、去年の秋から今年の始めにかけて、たまたま私がひょんなきっかけで、藤野町の『まちづくり検討委員会』のメンバーになり、第4次総合計画の後期基本計画の策定作業に参加する経験をしました。
 まあ、『総合計画の策定作業』といっても、そんな大袈裟な話では無く、役場の職員と住民が一緒になって計画を作っていこうという話し合いに参加する程度でしたが。ボランティアで集まった15名の住民と、役場の職員とで、町政の様々な分野で話し合いが進められたのです。そして、案外、これからの町政はこんな感じでいいんじゃないかと思わされました。

 住民参加といっても簡単ではないでしょう。力不足も挫折もあるでしょう。それでも私は、「趣味の町政」という考え方が、「小さな町」であれば、それほど違和感なく受け入れられる時代が、それほど遠くない未来に来ると思っています。

※1
『論語』雍也編
子曰、知之者、不如好之者。好之者、不如楽之者。

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 さて、ここまでこの「雑文」のコーナーでは、やや抽象的な話が主体になりました。このコーナーはひとまず終わりにして(時々付け加える事はあると思いますが)、これから具体的に、『藤野町をどう活かしていくか』について、書いていこうと思います。

『藤野町は破綻寸前だ!』と合併推進派が喧伝するのであれば、私は『藤野町にはこんな夢がある。』と明るさを振りまきたいと思います。
 さて、私自身には、自分で偉そうに言っていた「夢見る力」があるのでしょうか(笑)。