夢見る力(前編)

 青臭いタイトルですね(笑)。

 私は、藤野町での合併賛成派の団体の方々の意見を聞いて、気持ちが晴れたり鼓舞されたり、未来に夢を抱く経験をしたことがありません。
 何かと言えば、『想像を遥かに上回るペースで迫りくる少子高齢化社会に・・・』とか、『増税と補助金のカットが続いて、町は立ち行かなる』とか、『これといった産業もなく、人口はどんどん減っていき・・・』とか。
 まるで藤野町のみならず、日本の将来は暗黒だらけで救いようがないみたいです。

 確かに、私達をとりまく現実は厳しく、未来に控えている現実は更に厳しいものになるかもしれません。それらの現実をを安易に考えず、直視して対策を練らなければならないのは当然なのですが。
 しかし、彼等には、この町で何か『やりたい』と思う事がないのでしょうか。

 私は夢を語ります。
『この町でこんな事をやったら面白いんじゃないか』と。
でも、どういうわけか、「夢を語る人間」というのは、バカにされ勝ちですね(笑)。『現実を見ないで夢ばかり見ている夢想家』と決めつけられます。でも、これは問題解決能力の足りない人間の発想です。
 まあ、私自身は夢想家かもしれません。問題解決能力の足りない人間のひとりかもしれません。が、深刻な現実をしっかりと見据え、なおかつ、現実を打開していく「夢」を持ち続ける人だっているでしょう。企業を起こして成功した人達は、みんなそんな人達だったと思います。決して、悲観するだけで終わった人間達ではなかったはずです。

 厳しい状況に取り巻かれながら、なおかつ「夢」を持ち続けるには力が要ります。何しろ「夢」などというモノは、たいがい期待外れに終わるか、失敗するかであって、見込み通りに達成される事はまずありません。
 しかし、「夢」を持ち続ける力とは、少々の失敗では諦めない力なのです。挫折しても、新たなアイデアや改良案を次々と出しては、厳しい現実に挑み続ける力なのです。

 一見、厳しい現実を語る人は、それだけでも「偉く」見えます。深刻そうな顔をして、悲観的に語る人間は、ますます「偉く」見えます(笑)。そういう人は、どこか私のような凡人には判らない、難しい問題に取り組んでいるように見えるからです。
 しかし、強調しますが、この程度では力不足なのです。少なくとも、人々の先頭に立って、意見を言ったり人々を導いたりする資質には不完全なのです。
 厳しい現実を充分わきまえながなも、『私はこういう事をやりたい』という夢を語り、実際にその夢を現実化するために力を発揮する人こそ、その資質を認めるべきではないでしょうか。

 あちこち傷み始めた古い家に住んでいて、
『この家も後10年もすれば住めなくなるほどに痛みが進行する。土地も家も売り払って「相模原」にあるアパートの一室に引っ越そう。』
と言う事は誰にでもできます。でも今、真に必要とされている人間は、
『いやいや、傷んだ所を早めに修繕すれば充分これからも使える。古い柱や梁を活かしたリフォームをすれば、新築の家には真似できない風格も出せる。トイレや風呂場もバリアフリー化して綺麗にしよう。大丈夫、手を加えれば良い家になるよ。
 それにせっかくの庭付きの家なのだから、庭に小さな池を作りたいし、花も植えたい。花は何がいいかな・・・』
そう言ってくれる人間ではないでしょうか。

 藤野町であれ、合併するかもしれない相手の相模原市であれ、日本という国であれ、今、真に必要とされている人間は、そう言ってくれる人間ではないでしょうか。さもないと、藤野町も売り払おう、相模原市も売り払おう、日本も売り払おう、と、無気力に歯止めがかかりません。
 人をワクワクさせるような「夢」を提示すれば、人は『そうか、そんな面白そうな未来が期待できるのか。それなら・・・』と、やる気も出てきます。

『私の町には何もない。』
『私の町には将来はない。』
『私の町には特徴もない。』
『私の町には未練もない。』
多くの人達がそう言いながら、合併して町が無くなっていく事に合意してきました。
 私にはこの現象が恐ろしく感じます。
いかに、いま進められている市町村合併が国の政策とは言え、多くの町で、人々は自分の町に明るい「夢」を想像する力もなく、「夢」を他人に委ねる事を選んだのです。せっかく、自分の手で夢をかなえやすい「小さな町」に住んでいるのに。

 それほどまでに、人々の心の中から、『町で何かをやりたい』と考える夢は、消えてしまっているのでしょうか。

(近日)後編に続く

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