問題解決能力の学校・補完性の原理

 人の体でも、元気な細胞が集まって元気な組織を形作り、元気な組織が集まって元気な肉や骨や臓器を形作り、元気な肉や骨や臓器が集まって元気な人間を形作っています。これと同様に、元気な個人や家族が集まって元気な集落を作り、元気な集落が集まって元気な町を作り、元気な町が集まって元気な県を作り、元気な県が集まって元気な国が出来ていくのでしょう。
 体中の細胞に元気が無い状態で、その人間が元気であるはずがありません。同様に、集落や町に元気が無い状態で、国だけ元気などということはありえません。しかし、現在行われている市町村合併は、細胞を殺して人体を元気にしようとしているように見えてならないのです。

 この国が、借金体質から抜け出すために行政改革が必要とされているのは確かなのですが、今行われている市町村合併が、行政改革の為の正しい処方箋なのでしょうか。糖尿病などの生活習慣病から抜け出るためには、「望ましい健康的な身体」を目標にしなければなりません。同様に、改革するにしても「望ましい健康的な国の形」を目標にすべきなのです。

 国や県や自治体などの「組織」にとって、「健康的」な状態とはどんなものだろうと考えた時、私が思い浮かべたのは「問題解決能力がある事」でした。身体で例えれば、病気などの脅威に対して免疫機能が働く事と言えるかもしれません。何か問題に直面した時に、対応策を考え、その策を実行して問題を解決していく能力です。
 この考えで行けば、「望ましい健康的な国の形」とは、家族や集落や小さな自治体にも(否、家族や集落や小さな自治体にこそ!)、元気な問題解決能力が存在している状態と言えるでしょう。

 癌のような病気でも、病巣が小さい段階で自然治癒力が働いて治してしまう方が、病巣が大きくなってから手術して治すよりも良い事は、誰にでも理解できると思います。

 『補完性の原理』という考え方が、ヨーロッパから広がり始め、世界の社会構成原理として国際標準になろうとしています。この考え方を簡単にまとめると、『小さな単位(例えば家族や地域)でできる事は可能な限りそこに任せ、そこでは不可能な仕事だけを、それよりも大きな単位の組織(例えば県や国)が補完的に行う』というものです。

 この考え方は、EUの統合に伴って発展して来ました。そもそもは、EUの枠組みに吸収される事によって、それまで各国が行って来た文化や政策の独自性が制限されるのではないかという不安や不満に対応するため、「それぞれの国で出来る事は極力その国でやってもらう。国のレベルでは不可能な、EUで行うしかないと判断される問題についてのみ、EUが権限を行使する」という原則を打ち立てたのです。1992年の欧州連合条約にも明記されました。

 さらに、この考え方はEUと加盟国の関係のみに留まらずに発展し、国と地方自治体との関係にも、地方自治体と地域あるいはNPO(民間非営利団体)との関係にも適応されていきました。そしてヨーロッパ統合の進展と共に、地域や都市の役割の増大といった傾向がさまざまな形で起きていると言います。

 「補完性の原理」は地方分権の行動原理としての資格はあるでしょう。私の考える「望ましい健康的な国の形」とも矛盾しません。国や県からの補助金を貰い、国や県の命令に従っていただけの、今までの自治体の補助金行政体質から脱却する事によって、行政改革にも道が開かれます。

 地域社会で発生した問題は、極力、地域社会自らの力で解決する事が求められます。ここで人々は、直面した問題に対して自ら知恵を絞り、乗り越えていきます。自分達では不可能と判断した場合は、より上位の大きな組織に助力を求めます。助力を求める際に、より上位の組織に対して、解決策を自前で考えて提案する能力も必要でしょう。

 これでいくと、「地方自治は民主主義の学校」という言葉もありますが、更に「地方自治は問題解決能力の学校」と言えるかもしれません。

 驚く事に、『人口一万人以下の自治体はどんどん壊してしまえ』と市町村合併を強行している日本でも、この補完性の原理」を地方自治の望ましいあり方として提唱しています。例えば、
「今後の我が国における行政は、国と地方の役割分担に係る『補完性の原理』の考え方に基づき、『基礎自治体優先の原則』をこれまで以上に実現していくことが必要である。」
「今後の地方自治制度のあり方に関する答申」(第27次地方制度調査会)

 これぐらい、言ってる事とやってる事の差が激しい政策もないのではないでしょうか。理想は、力強い問題解決能力を備えた小さな地域社会であることを認めているのに、それと逆行する政策を進めているのです。
 これは、今行われている市町村合併が、いかに『理念なき合併』かの証左でもあります。


補足

 ここでは、「補完性の原理」を理想通りに受けとって文章にしましたが、どんな考え方であっても、使い方次第で望み通りの結果が出ないばかりか、かえって無法を助長させる論理にもなる可能性があります。例えば、
『個人や家族にできる事は、最大限、個人や家族にやってもらおう。だから今まで自治体が行ってきたお年寄りの介護支援も、子育て支援も廃止してもかまわない。』
補完性の原理」も、こんな福祉の切り捨ての正当化にも使われかねません。

 また上位の大きな組織と、下位の小さな組織は対等なのか。上位の組織から下位の組織への命令の押し付けはないのか。それがあった場合、下位の組織はどれだけ反抗できるのか。意志の主体はどこにあるのか、責任の所在があいまいになる可能性は?。

 「補完性の原理」が理想通りに機能するためには、下位の組織が、いつでも上位の組織に「取って変わる」くらいの問題解決能力を持ち、緊張感を保つ必要があると私は思います。
 儒教では
「修身、斉家、治国、平天下」と言う言葉がよく使われます。君子の目指すべき目標を段階にして表したものですが、裏を返せば、身を修める事の出来ない人間には家を斉(ととの)える事は出来ないし、家を斉える事の出来ない人間には国を治める事は出来ない、という意味にもなります。
 つまり、より上位の組織を司る人間には、それに応じた高い人格と能力を求めなければならないという考え方です。

 「補完性の原理」が浸透していく過程で、このような考え方も重要視されていくかもしれません。私は、相当の改良や補足事項を積み重ねないと、補完性の原理」だけでは理想は実現出来ないと思っています。

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