合併よりも改革

 変わりばえのない毎日、今やってる仕事も、これから急成長するわけではないし、急に収入が増えるわけでもない。自分の住んでる町も、そんな感じ。どこかくたびれて、明るい将来を感じさせない。

 そんな時、『合併』という言葉は、何か明るさを感じさせてくれます。それによって、今までの冴えない状況が一掃されて、心機一転、すがすがしい気持ちで新しい未来へと乗り出せるのではないか、と。

『合併』することは、『大きくなる』事ですから、それだけでもワクワクする人はいるかもしれません。何しろ今まで高速道路はできる、新幹線は通る、工場ができる、アパートが林立する、道には車が溢れかえる・・・と、成長拡大することが、何か新しい設備ができる事が、『発展』だったし、それを幸福だと実感してきました。

 私も含めて、そういう人間は『大きくなる』と言われると弱い。ついコロリと、その流れになびいてしまうようです。

 だから、現在進められている市町村合併の流れに『否!』と声を挙げるのは、結構難しいのです。成長、拡大、発展、開発、目新しさ・・・、そういった今まで社会を動かして来た『夢』を否定する所がありますから。
 相模原市にしても、津久井郡と合併して、やがては『政令指定都市』になろうと、少なくとも市長は夢を膨らませているようですね。

 しかし私は、何か新しい枠組みを作ったり、何か新しい施設を作ったりといったことでは、もはや何も変える事は出来ないのではないかと思っています。今求められている変化とは、従来型の『成長、拡大、発展、開発、目新しさ・・・』とは違う、質的に違う変革であって・・・

『えらそうな事を言って。じゃあその「質的に違う変革」とやらを、具体例を挙げて示してみろ』
 そう言われそうですね。

 でも、とりあえず豊かな生活が手に入った。車があればどこにでも行ける。町に出れば面白い娯楽もある。しかし、「次に欲しいと思うもの」がなかなか見つからず、新しいヒット商品も生まれず、経済は停滞して、閉塞感が漂う。
 そんな時、『ハイッ、そんな貴方に市町村合併!!』と、心の隙間にめがけて差し出される提案に、果たして真に人を幸福にするだけの実体を伴っているのでしょうか。閉塞感に落ち込んだ人に付け込む、詐欺的な新興宗教の勧誘かもしれないのに。
 巨額な合併特例債に目の色を変え、浮き足立って合併に突き進む自治体を見ると、私なんかは「なんか騙されてないか」と思ってしまいます。ちょうどバブルの頃、日頃株なんかしない人達まで、株の売買に狂奔した時のことを思い出してしまうのです。

 私は最近、モンゴル帝国初期の宰相、耶律楚材(やりつ そざい)の言葉をよく思い出します。

『一利を興すは一害を除くに如かず。一事を生ずるは一事を減ずるにしかず。』

 利益になることを一つやるよりも、損害になることを一つやめる方が効果がある。一つの仕事を作るよりも、一つの仕事を減らす方が効果がある。

 今、全国で行われている市町村合併も、目的は逼迫した国の財政の建て直しです。しかし、そこで行われている事を見るにつけ、これは改革とは方向が違うのではないかと思えてなりません。何か改革とは性格の違う事をやろうとしていると。
 真の改革とは、素朴で地味で、派手さの無い地道な作業なのです。

 政治家は、こういう真の改革はやりたがりません。派手で目新しい事業をぶち上げて、世間の歓心を買う事に熱心になりがちです。そして、民衆も政治家がぶち上げる『夢』に簡単に乗せられるのです。

 中には、今回の市町村合併の助成制度を上手に使って、疲弊した町を建て直す事に成功する自治体もある事でしょう。しかし、真の改革者であれば、合併によって問題の解決を考える前に、まず自らを地道に改革していることでしょう。

 この市町村合併を進める政治家たちは、『改革者』としての資格があったのでしょうか。中小企業の経営に失敗した人が、大企業を興そうと夢想してるようで、説得力がありません。

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