信田狐



 ……くそう、どうしてもっと早く気付かなかったんだ。俺ってやつは。

 博雅は心の中でつぶやき、自分の鈍感さと決断の遅さを呪っていた。

 彼のかたわらにいる晴明を見つめながら、何度も後悔した。

「眠ったのか?」

 晴明は博雅の胸に寄り掛かり、静かに寝息をたてていた。

 そんな晴明を、博雅は優しく抱きとめる。

 

 博雅の腕の中で安心したのか、さきほどまでの乱心ぶりが嘘のようであった。

「晴明、すまない。俺は……。」

 晴明は誰も知らない所でずっと悩みを抱え、傷つき、苦しんできたのである。

 そのことを今さら知った博雅は、いてもたってもいられない気持ちに悩まされた。

 晴明がこうなる前に、なぜもっと早く彼の気持ちに気付いてやれなかったのかと。

 源博雅は晴明を抱き締めながら、何度となく自分を責めていた。

 もちろん、早く気付いていたとしても、彼にはどうしようもないのは目に見えていただろうか…




 博雅が晴明の屋敷を訪れたのは、日が落ち暗くなりはじめた頃のことであった。

 

 しばらくの間、俺に近づかないでほしい。数日前、博雅は晴明からそう言い聞かせられていた。

 訳をきいても晴明は一切答えなかった。

 それ以前に二人の間に何かがあったわけでもない。

 符に落ちない博雅であったが、晴明のことだ、何かあるのだろうと、それ以上気に止めぬことにしていた。

 それなのに、なぜか今日になって胸騒ぎがしたのだ。

 晴明の身に何かが……

 唐突に悪い予感がした。

「思い過ごしならばいいが…」

 博雅は夕闇の中、側近の者が引き止めるのも聞かずに、一人で屋敷を飛び出したのである。

 


 博雅が晴明の屋敷に辿り着くと、門は開けられたままになっていた。

 辺りは恐ろしいほど静まり返っている。

 道には人の姿はなく、野犬すらいない。

 これほどまでの静寂をここで感じたことがあっただろうか。

 晴明の屋敷で人の気配がないのはいつものことだが、その時ばかりは恐怖を感じるほど静かだったのだ。

「晴明、おるか。」

 呼びかけたものの、返事はない。

 いつもならば博雅が屋敷の入り口まで来ると、式神などの人ならぬ者が出迎えるはずなのに、全く反応がない。

 これは異常だ。

 博雅は靴を脱ぎ、そっと屋敷へ上がった。

 日がほとんど落ちつつあるので、屋敷の奥は薄暗い。

 部屋を照らす火もない。

「いないのか?晴明。」

 博雅の背後で、突然音もなく楼台の火が灯った。

「晴明?」

 振り返っても誰もいなかった。

 火は独りでについたようであった。

 とりあえず博雅はその楼台の皿を持ち、奥まで進んでみることにした。

 博雅は皿の火を辺りにかざして、じっくりと自分のまわりを見渡した。その時…

「あっ…う…」

 博雅は目の前に広がった驚くべき惨劇に、初めて気付いた。

 これはどういうことだ。

 屋敷の中の、至る所が荒らされているのだ。

 御簾は落ち、楼台は倒れ、壁や床のあちこちにひっかき傷のようなものがつけられていた。

 何よりも異常なのは、獣の血のような異臭。

 ピシャリ、と冷たい水の感触が博雅の足をつたった。

 それは間違いなく血であった。

 獣のものなのか、人のものなのか、区別はつかない。

 よく見渡せば、その赤黒い液体は屋敷のあらゆる場所に飛散しているではないか。

 博雅の背に悪寒が走った。

「晴明!!どこだ?!」

 博雅は慌てて屋敷を駆け回り、必死で晴明の姿を探した。

 最悪の事態が頭をよぎった。

 何よりも大切な存在を失うなど、もってのほかだった。

「晴明、返事をしろ!!」

 屋敷中をくまなく探しているうちに、部屋の隅に白いものがうずくまっているのを発見した。

 歩み寄り、火の光をかざす。

 そこにいたのは白い狩衣を着た青年。

「晴明……。」

 博雅は恐る恐る彼の顔を見た。

 確かにそれはこの屋敷の主人、安倍晴明にほかならなかった。

 晴明は壁にもたれてぐったりとしていた。

 髪を乱し、衣服も乱れていた。

 幸い、生きてはいるようだが、放心したように目がうつろであった。

 心配そうに駆け寄る博雅に、晴明はゆっくりと顔を向ける。

「博雅?」

 部屋に飛散したおびただしい量の血を見る。

「晴明!平気なのか? 怪我は…?」

 晴明は体を起こし、はだけた着物の襟を元に戻した。

「あれは俺の血ではない。俺は大丈夫だ。だが…」

 晴明は目をそらし、急に口をつぐんだ。

「いったい何があったというんだ。盗賊が押し入ったようではないか。」

「そうではない。」

「ではまさか、人ならぬ者の仕業だとでも言うのか。」

「そういうことだ。」

「まさか!?ここはお前の屋敷ではないか!そんなことが出来るものなど…」

「いたのだ。俺も不覚だった。俺はなんとか凌いだが、……式が、何人か犠牲になった。」

 博雅は信じられない事実に驚愕せずにいられなかった。

 晴明の屋敷といえば、強力な結界が常に張られているので、そう易々と外から妖物が侵入できるなどありえない。

 それが破られたというのか。

 よく見ると、晴明の左の頬にうっすらとあざがついているのが見て取れた。

「お前も、そいつらに暴行されたのだな? いったい誰に?」

 晴明は肩をつかもうとする博雅の腕を、嫌そうにはらいのけた。

 刃物のような鋭い目で博雅を睨む。

「博雅、来るなと言っておいたはずだ。なぜ来た。」

 晴明が博雅に対して、これほどまでに敵意に満ちた表情を投げかけることは稀であった。

 これには博雅もムッとせずにいられない。

「なんだその目つきは。お前が心配で来たのに、そんな言い方はないだろう。来るななどと言われて気にしないほうが無理だ。お前が、晴明が何か大変な困難を一人で背負っているのではないかと、不安になったのだ。」

「俺は自分の困難を誰かと共有したいなどと思わない。」

「なっ……」

 晴明はその場から立ち上がり、博雅に背を向ける。

「帰れ博雅。お前には関係のないことなのだ。」

「おい!だからいったい何があったんだ!!」

 博雅はあきらめなく晴明の腕を強くつかんでゆするが、晴明はこちらを見ようとしない。

「いいから帰れってんだ!! 博雅!!」

 晴明は大声で博雅をどやしつけ、腕を強引につかむ彼を力一杯はね飛ばした。

 博雅はそのまま尻餅をついていしまった。

「せ…晴明。」

 博雅はとっさの惨劇に、しばらく呆然として何も言えなかった。

 晴明が感情を剥き出しにして激しく怒るなど、信じられなかった。

「もうここには来るな…博雅。たのむ、解ってくれ…。」

 再び背を向け、晴明は小声でそうつぶやいた。

 その声は、どことなく震えているようでもあった。

「ああ、もうわかったよ。勝手にしろ。」

 仕方なしに、博雅はその場を去るそぶりを見せた。

 晴明は振り返らない。

 博雅はやはり気になるのか、足を止めてもう一度晴明を見つめた。

 晴明は壁に向かってうつむいたまま、強く拳を握りしめている。

 その孤独な後ろ姿が、博雅にはあまりにも痛々しかった。

「なあ、せめてこうなった訳くらいは教えてくれ。でなければ帰らんぞ、俺は。」

 しばらく間をおいた後、晴明はようやくちらりと振り返った。

 想いにふける様子を見せてから、決心したように博雅の眼差しに答えた。



「博雅、しのだの森を知っているか?」

「しのだの森? 和泉国信田明神なら聞いたことがあるが。」

「そう、その周辺にある森さ。」

 晴明は浪々とした声で、ゆっくり語り始めた。

「その昔、ある男が信太の森で一匹のメギツネの命を救った。

 その後メギツネは男の前に、人間の女の姿で現れた。

 二人は夫婦になり、子を成す。

 しかし、その子供は成長するにしたがって、母が異形の者に見えると泣き騒ぐようになったという。

 母狐は、正体が知れては人間界にとどまることはできぬと、夫と子を残して故郷である信太の森へと帰ってしまう。


 恋しくばたずねきてみよ和泉なるしのだの森のうらみくずの葉


 この別れの歌を残してな。」

「もしや、その子供というのは晴明、お前のことか?」

 晴明は問にうなずきはしなかった。

「これは俺が成人してから親族から聞かされた話。出来事を象徴化しているだけかもしれん。俺が魔性の血を引いていると信じる者は多いからな。真実は俺にも解らん。

 だが、俺が幼い頃に母が行方をくらましたというのは、本当だ。」

 話している間、晴明の目は相変わらずうつろだった。

 長い年月にわたって封印してきた過去を、少しずつ思い出しながら。

「母のことなど、もう忘れつつある過去だった。もはや俺にはどうでもよいことだったのだ。あいつが来るまでは…。」

 晴明はそこまで言って、悔しがるように唇をかみしめた。

 そして何かを思い起こすように、彼は自分の首筋に指をそわせた。

「晴明、そのお前の母親と、お前を襲った奴と何か関係が?」

「ああ。あいつは、俺の屋敷を襲撃しに来た男は、しのだの森から来たと言ったのだ。」

「なに? そいつはお前の母を知っているのか?」

「わからない。ただ、あいつは俺の名を知っていた。『安倍晴明』ではなく、俺がずっと隠してきた本当の名前をな。それを知っているのは父と母だけ。父はとうにこの世にいないがな。」

「それはつまり…」

「そう。あるとすれば、俺の母から聞いたとしか思えないということだ。」

「まさか。お前の弱点を敵に教えるようなものではないか。晴明、お前、実の母がそんなことをするとでも思ってるのか。」

「俺だって信じたくないさ。だが、そうとしか思えぬのだ!」

 晴明は明らかに動揺していた。

 晴明のように陰陽師として働く者は皆、妖物から身を守るために仮の名を使うのが普通である。

 妖物や他の術師に本名が知れると、それに呪をかけられて利用されてしまうからである。

 陰陽師が名を教えることは、相手に命を預けることに等しい。

「あいつはそれを利用し、俺の結界をいともたやすくかいくぐり、手下の妖狐共をけしかけてきたのだ。そこらにあるのは、その妖狐共を倒した時のものだ。代わりに俺の式も何人か奴らにやられてしまったがな。」

「それで、そいつは手を引いたのか?」

「いや。奴はまた来る。小手調べだったのだ、今回は。」

「打つ手は、あるのか?」

「…………。」

 天下の大陰陽師、安倍晴明でもかなわぬ相手がいる。

 その事実だけでも信じられぬことだが、晴明がこの場に直面して、今までにないほど動揺を隠し切れずにいるのが、博雅にとって何より意外なことであった。

「博雅、しばらくは俺にかまうな。俺とお前との仲が知れれば、奴に利用される。」

「俺が足手纏いってわけか。」

「ちがう。このままでは俺だけでなく、お前にまで危険が及ぶということだ。

 …解ってくれ、博雅。俺は……以前の安倍晴明とは違うのだ。

 俺は無敵じゃない。俺はずっと、術者の呪から身を守るために心を表面に出さぬよう保ってきた。だが、ここへ来て俺は、母の存在が絡んでいるのを知って動揺してしまっている。こうなれば、もう敵の思うつぼだ。俺は自分の心の弱さを隠して生きている。お前が知っているより、俺はずっと心の弱い人間なのだよ。」

 部屋が暗いので晴明の表情をはっきり見ることはできないが、彼がつらさを必死で堪えていることだけは博雅にも解った。

「晴明。一人で全てを抱え込むな。俺はお前の力になりたいのだ。」

 博雅はうしろからそっとやさしく、晴明の両肩に手を乗せた。

 今度は晴明からの反撃はなかった。

「お前が成すすべが無い今だからこそ、俺にしかできないことがあるはずだ。晴明一人を傷つけさせたりはしないからな。お前がやられる時は、俺も一緒につきあってやる。」

 晴明は博雅の熱い言葉に、とっさにクスリと微笑した。

「はは…博雅。お前、よくそんなくさいことを言えるな。」

「なっ……そりゃないだろう!俺はただお前のために……えっ?!」

 博雅は急に何も言えなくなった。

 唐突に晴明が博雅の身体に抱きついてきたからだった。

「博雅。お前、やっぱり良い男だな。」

 思いもよらぬ晴明の大胆な行動に、博雅はしばらく気が動転するようだったが、次第に博雅も晴明の身体にゆっくりと両腕をまわした。

「お前が常に心に孤独を感じていたことくらい、ずっと前から知っている。晴明、俺が今日ここへ来たのは、お前が助けを呼ぶ声が聞こえたような気がしたからだ。」

 博雅の胸に顔をうずめる晴明の頭をやさしくなでつける。

 抱擁をかわしたまま、晴明は博雅と共にその場に倒れ込む格好になった。

 仰向けになると、上から晴明の顔を覗き込む博雅の顔が見えた。

 晴明は博雅の頬に右手の指をそわせる。

「もう、お主に何を隠しても通用しないな。そう俺は……本当は、ずっと博雅にそばにいてほしかった。それが本音かもな。」

 博雅は狂おしい感情が心の底から沸き上がるのを押さえ切れなくなった。

 仰向けになった晴明に覆いかぶさるように、博雅は晴明の赤い唇を唇でふさいだ。

 それでも晴明は抵抗しなかった。

 

 気がつけば日はとうに沈み、巨大な月が青白い光で闇夜を照らしていた。

 楼台の細い炎が燃え尽き、二人を照らすのは月明かりのみ。

 月に照らされる晴明の肌はより一層白く、美しかった。

 博雅に完全に身をまかす艶かしいその姿は、どんな女よりも色気が漂っていた。

 博雅は先ほどから気になっていたことがあった。

 晴明がずっと首筋のあたりを気にしていたことである。

 博雅は晴明の襟元をめくり、首元を覗き見た。

 そこに付けられていたのは見なれぬ痕跡。

 頚部だけではない、胸から腹部にかけても…。

 それは屋敷を襲ってきた男から暴行を受けただけでなく、それ以上の恥辱的な行為をされたことを意味していた。

 もっと早く来るべきだった。

 博雅はその言葉を何度も心の中で繰り返し、後悔した。

「晴明、今夜はずっとそばにいるぞ。お前を孤独にはしない。」

 服を少しずつ剥がしながら体の隅々にさぐりを入れる目の前の男に、晴明は我慢しきれない羞恥の反応を示すものの、一切拒まずされるがままに身を横たえていた。

 口にはださぬが、晴明は博雅の優しさにこの上ない悦楽とした喜びを感じていた。

 晴明にとって、博雅は生涯唯一の心の安らぎでもあった。

 肌が重なる感触も、博雅となら苦痛ではなかった。

 その妖し気な抱擁を、覗き見る者は誰もいない。

 二人の世界に、もはや言葉はいらなかった。

 お互いの肌を摺り合わせながら、二人の間に築かれた特別な絆をより深く再確認する。

 満月が妖しい光を放つ中、博雅は狂おしく愛おしい本能をおさえることなく、晴明をかたわらで抱き続けた。

 夜が開けるまで…。





 御簾の向こうから、まぶしい朝の光が差し込む。

 ぼんやりとした景色が博雅の目に映った。

 目を覚ますと、かたわらにいたはずの晴明はいなくなっていた。

 博雅の身体には、綺麗な羽織がかけられている。

 意識がはっきりしてくるにつれて、博雅はハッとした恐怖にかられた。

 自分が昨日行った行為を思い出してしまったからである。

「お…おれは………なんてことをしてしまったんだ。せ、せ、晴明に対して俺は……あんないやらしい目で晴明を見ていたなんて…。」

 なりゆき上そうなってしまったとはいえ、昨晩の晴明に施した行為へ対しての罪悪感が頭を巡った。

「朝帰りどころの問題ではなくなってしまった。俺は晴明に、何て言い訳すればいいんだぁ〜〜!」

 博雅が青くなっているところに、ちょうど晴明がやってきた。

「なにをしている、博雅。さっさと起きて服を着ろ。」

 御簾ごしに、晴明は何ごともなかったように平然とした声で呼びかけた。

 どういうわけか、昨日あんなに荒らされた屋敷であったはずなのに、いつのまにか全てが整えられていた。

 あちらこちらにべったりとついていたはずの血痕も、どこにも見当たらない。

 夢でも見ていたのだろうか。

 何より信じられないのが、晴明の態度。

 完全にいつもの晴明に戻っていた。

 晴明は庭の方へ顔を向けながら、いつものようにうっすらと冷ややかな笑みを浮かべていた。

 やはりとらえどころのない男だ。博雅は心の中でつぶやいた。




 屋敷の外に、いつからそこにあったのか、牛車が待ち構えていた。

「来るか、博雅。」

「どこへ?」

「信田から来たという、例の男の元へだ。去りぎわに、奴に式神を放っておいた。今朝になってようやく居場所が解ったのだ。」

「しかし、平気なのか。お前の術をかわせる程の相手なのだろう。」

「ああ、これが罠である可能性もある。いざとなったら、お前の助けを借りるかもしれない。」

 博雅は息を呑んで牛車に乗り込んだ。

 手には太刀がしっかりと握られている。

「晴明にもしものことがあるならば、俺が命がけで守るからな。」

「たのもしいな。」

 晴明は昨晩の不安が一気に吹き飛んだように、晴れやかな表情だった。

 博雅を見て、なぜか終止うれしそうな顔をしている。

 牛車がどこへ向かっているのかは聞かなかった。

 前を先導している童子の姿をした式神のみが知っているらしい。

 牛車に乗って小一時間ばかりたった頃、ゴトゴトと音を立てていた車輪がゆっくりと止まった。

「やはり、ここであったか。」

 晴明は牛車の外の様子を用心深く見て、静かにつぶやいた。

「来い。」

 晴明が牛車の外へと降り立つのを見て、博雅も続いて降りる。

 そこは人のいない、静かでうっそうとした森の中であった。

 しかし、どこか見覚えがある。

「晴明、ここはどこなのだ?」

「あれを見よ。」

 晴明が指差す先に、破れ寺があった。

「もしや、あれは…。」

「道摩法師のいる寺だ。」

「なっ!」

 道摩法師、すなわち蘆屋道満。

 安倍晴明に並んで実力のある有名な陰陽師である。

 晴明と博雅は、とても人がいるようには思えぬほど荒れた寺の中へと足を踏み入れた。

 暗い寺の奥に、一人の薄汚い老人が座していた。

「来たか、晴明。」

 ぼろぼろの水干を身にまとい、髪は伸ばしっぱなしのざんばら頭。

 世間でも有名な大陰陽師とはとても思えぬ風貌だが、その黄色く光る妖しい眼光は、常人のそれとはかけ離れたものを感じさせる。

「お久しぶりですね、道満どの。私が何を言いに来たか、もうお分かりですね。」

 道満は口元に無気味なうすら笑いを浮かべた。

「予想を反して、お主に酷なことをさせてしまったようだな。」

「あんなことが出来るのは、あなたくらいだと思っていました。」

「そうだ。お前を襲った者の正体は、これだ。」

 道満は、胸元から細長い竹筒でできた管のようなものを出した。

「管狐…。」

「そうだ。」

 博雅はとっさに刀に手を構えた。

「蘆屋道満!!いったい何のために!!」

「まて!」

 刀を抜きそうになった博雅を、晴明の手が制した。

 道満は相変わらず余裕の様子で笑っている。

「既にわかっているようだな、晴明。そう、全ては俺の退屈しのぎ。悪意の無いイタズラだと思え。」

「悪趣味なことをしますな。」

「お互いさまだろう。安心せい。俺はお前の実の名は聞いておらん。この管狐はな、かつてお前の母に飼われていたものなのだ。それを俺が拾った。」

「そういうことでしたか。」

 道満は手に持った竹の管を床に置き、前に差し出した。

「和解ついでに、お主にこれをやろう。好きにするがよい。」

「よろしいのですか。」

 道満に本当に敵意がないのを見計らって、博雅はようやく刀から手を離した。

「まあ恨むな、晴明よ。お主は思いもよらぬ危機に、一時は自分を見失った。それがお前の悪いところだ。お主は優秀すぎる。優秀すぎるゆえ、計算外に起こった唐突の困難に心がついてゆけぬのだ。このことを忘れるな。でなければ、これから現れるかもしれない本当の敵に、身も心も飲み込まれてしまうぞ。」

「それがあなたでないことを願います。」

 道満はニヤリと黄色い歯を見せた。

 晴明は渡された管を懐にしまい、その場から立ち上がった。

「もうひとつ、教えていただけますか。」

 部屋を出る時に再び、晴明は道満に呼びかけた。

「あなたは私の母を、かつて葛の葉姫と呼ばれていた者の行方を知っているのですか?」

「知らんな。」

 道満の声はそっけなかった。

 晴明は小さくため息をついて、破れ寺を後にした。





「結局、道満どのは何の目的があったのだろう。」

 牛車に乗って帰路についている今でも、博雅の疑問は解けなかった。

「さあ。さっき言っていたように、単なる退屈しのぎだったのかもな。」

「それにしてはひどいじゃないか。」

 博雅にはさっぱり理解できなかった。

 なぜそこまでして晴明を苦しめるような真似をしたのかが。

 しかも、その襲撃を行った張本人である管狐を晴明に手渡すとは。

「あの男は普通の人間が考えないようなことをする。理解する必要もないだろう。」

 晴明は意外と平然とした声で言った。

「だが、あの男の言ったことは、確かに当たっているかもしれん。俺はこれを機会に、己の心の弱さと対峙した。それに気付いただけでも良かったのかもしれない。それに……」

 晴明は博雅の顔をじっと見つめた。

「なんだ?」

 不思議そうに博雅も見つめかえす。

 晴明はフッとふきだすように微笑んだ。

「……なんでもない。」

 晴明は扇で顔を隠し、目をそらした。

「なんなんだよ、まったく。」

 博雅は急になぜか恥ずかしくなって、顔を赤らめた。



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