第一章
期せずして「創作ノート」の冒頭に書いたことと反対のお話が出て、吃驚しております。偶然とは恐ろしいものです。
「あとがき」不要、というのは無論、書く側だけの美学、それも僕の考える美学と思って下さい。
「あとがき」が嫌いな理由は、もう他で語ってますからいいでしょう。ついでに言えば「解説」もあまり好きではないのです。作者と解説者の個人的な交友関係や思い出話をだらだらと書かれても、困ってしまうことが多いです。要は、僕にとって作者の日常や交友関係がどうであろうと、素晴らしい作品を書いてくれればそれで良いのです。さらに、僕は、素顔の作者と作家の顔を持つ作者とでは別人だと思っていますし、また作者と作品とは出来るだけ切り離すようにして読むようにしています。親切な解説では、作者の私生活や交友関係を暴露するばかりでなく、そこから作品への影響を探ろうとするものもありますが、解説者がプロの作家である場合は特に「お前、こんなこと書いている暇あったら自分の作品に精出せや」と心の中で思ってしまったりするのです。これはいづみさんにだけそっとお話しするのですが。
小説という文学形式は、表現や構成、書くべき内容についてまったく制限のないジャンルであることは既にご承知でしょう。ですから、これも当たり前のことですが、作品に描かれている内容がすべて作者自身、本気で語っているものであるとは限らないのです。私小説の主人公を含む一人称小説の「私」や、三人称小説の語り手は作者と同一ではない、ということを常に念頭に置いて読んでいます。特に僕の好きな、手法が先行する作品では、語り手が信用できない場合が多いので自然と身に付いてしまった習性かも知れません。
ただ、昔ほんの少しだけ精神分析を齧ったことがあるので、作者の読書遍歴や生い立ち、職歴などは興味があります。特に読書遍歴は、書評(もどき)を書く上で重要な役割を果たしてくれます。書評とはすなわち、その作品が文学史上のどこに位地するか評価するものです。当然ながらその作家の過去に読んだ作品が、その作家の作品に影を落している、もっと極端なことを言ってしまえば、過去に読んで感銘を受けた作品の焼き直しをしているのですから、どんな本を読んできたのかがわかれば、下敷きになった作品との比較によって、評価がしやすくなるのです。
こういうところを上手く隠し味にして、「解説」とは名ばかりの実は奇麗なエッセイを仕立て上げる名人は丸谷才一氏ではないでしょうか。
嫌いだなんだと言いながら、ちゃんと読んでいるところがこれでばれてしまいましたね。