虫
[ネオ:君は人間じゃない]
たかがチャットの口論でこんなことを言われるとは。木村拓也は苦笑した。
[ネオ:根拠、君が人間であるというその分不相応な自信には、何か根拠があるのか?]
じゃあ、なんだというのだ。
[ネオ:虫だ。だから君は当然、赤い血は流れていない。緑だ、蝉やバッタと同じ血の色の下等な生き物だ]
拓也は、一瞬、過去を思い出し頭に血が上った。
かつて小学生だったころ、クラスメートは彼を“虫”と呼んだ。
ただ、彼は昆虫採集が好きな少年というだけだった。
ある日、教室に飛び込んできた蝉を若い女教師が叩き潰し、彼はそれを哀れんで、死骸をてのひらに乗せて校庭へ出た。
彼は何故かひどく悲しんでいて、その蝉のためにお墓を作るのは自分の使命のようにさえ思えた。
彼の失敗は、簡単に蝉を埋めた後、手を洗わずに教室に戻ったことだ。
周りがこそこそと何か話していても、彼は気に留めなかった。
しかし、先生が手ずからテストの返却をしていたとき。
答案を受け取ろうと彼が伸ばした手に緑色の汁を見つけた教師は、青ざめて呻き声を洩らした。
「手を洗ってらっしゃい」
硬質な感じの教師の声は、多少、拓也少年の自尊心に傷をつけた。
彼は手洗い場に行き、手を入念に洗い、教室に戻った。
クラスメートから浴びせられた第一声は、、、「虫!!」
わずかな時間で、少年時代の絶望が彼の全身に怖気を走らせていた。
忌わしい記憶から帰還した拓也は、震える唇を噛み締めてキーボードを叩いた。
[木村拓也:お前が虫だ。クズ野郎!!]
返事が無い。
[木村拓也:おい!]
このまま逃げられては、気持ちがおさまらない。
[ネオ:(;^_^A ]
怒りで、頭皮がちりちりと焼けるようだ。
[木村拓也:どういう意味だ]
[ネオ:君は、本当に根拠も無く言葉を発するんだな。君の知能程度の低さに赤面してしまったよ]
拓也はキーボードを叩いた。
[虫じゃない]
拓也は、モニターから離れると洗面台に向かった。
そこには、厚い眼鏡の奥に弱々しい光をたたえた、人間の顔がある。
「見ろ、俺は人間じゃないか、、、」
ーおまえの目は、それほど確かなものか?根拠になるのか?鏡に細工がされてないと保証できるか?ー
甲高い声が背中を叩く。
拓也は、そうっと自分の顔を触った。
ー触覚?五感に頼ろうというのか?なんて論理性に欠けた男だ。君は「おそらく自分は人間だろう」程度にしか自らを認識できていないー
虫、虫。
どうして僕が虫なの?
拓也少年は、どう見ても虫ではない自分がなぜ虫と呼ばれなければならないのか、悩んだ。
ママには相談できない、だってママが悲しむもの。
先生は、そう、誰かが最初に僕を虫と呼んだとき、ひっそり笑っていた。
僕は、僕が虫なんかじゃないって、みんなにわからせなくちゃならない。
その朝も、僕は虫と言われた。
虫じゃないのに。
「僕のどこが虫なんだ!」
顔を真っ赤にして、拓也少年は叫ぶ。
一瞬だけ教室は静まり返るが、クスクスと笑う声で静寂は破られる。
「蝉のグチャグチャ、手につけてたじゃんかよ」
きもちわりー、と残酷に過ぎる合唱が聞こえる。
「緑色の血ぃつけてよ、お前、蝉じゃん」
僕が蝉なら、お前らは蛙だ!口を開いてみんなでゲコゲコ、、、
少年は、教卓の上に乗っていたステンレスの大きな定規を手に取った。
そしてそれを手首に当てると、自分でも予想していた以上の血が教室に飛び散った。
僕の血に驚いて、やつらは動き回る。逃げ惑う。まるで虫だ!
それに、僕の血は赤いぞ!赤い、人間の血だ!虫はお前らの方だ!
2度目の証明だった。
彼の血が、洗面台の鏡を真っ赤に染めた。
自分の小さな瞳に吸い込まれていたのだろうか、鏡に映る自らの姿を鮮血に遮られると、彼は突然、意識を回復した。
驚愕で膝が震える。その膝に血がこぼれる。
大丈夫だ、大丈夫なはずだ。彼は自分にそう言い聞かせた。
あの少年の日、自分は定規で手首を切った。
傷口は目茶苦茶で、治療には非常にてこずったらしい。
それに比べれば、剃刀のような鋭利な刃物による傷などはずっと縫いあわせやすいはずだ。
電話、救急車を呼ばなくては。
彼は積み上げていたコンビニ弁当の空き容器に躓いた。
カレーの臭いが鼻をつく。ああ、ちゃんと洗っておけばよかった。
電話が見つからない。日頃、誰からもかかってこないのだ。
まずは腕を縛ろう、それから電話だ。
しかし血まみれの彼の腕にはタオルはうまく巻きつかない。
ぬるりと、タオルは真紅に染まる。
耳の後ろが冷たくなってきた。
視界に集まる銀色の粒は、一体なんだろう?
ぼろぼろと涙をこぼしながら、拓也はパソコンデスクに向かった。
[木村拓也:僕は、虫じゃない。血は赤かった>ネオ]
[ネオ:Away!ちょっとトイレね]
自動で返されたAWAYメッセージが、白っぽくぼやけていく、、、
木村拓也がひっそりとキーボードを抱えて死んでいるのを発見したのは、異臭の苦情を受けた大家だった。
様々な虫がその部屋を徘徊していたが、大家の老婆は気丈にも正気を失わなかった。
蝿のたかる木村拓也の死骸はいかにも無残だったが、老婆は別に、彼を虫のようだとは思わなかった。
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