第四章

ムーの村

一人の老人が、山間の車道で高級車を止め、それから降りた.普段はお抱えの運転手が走らせる車だが、老人にとって誰にも知られずに来なければならない場所である以上、枯れてやせ細った腕で慣れぬ運転をするより仕方が無い.どうにか辿り着きはしたが、途中で警官に止められた時は肝を冷やした.名刺を免許代わりに通してくれたからよかったものの、もし生真面目な警官だったら、目的も達せられぬまま恥をかくところだった.
そんなことを考えている最中、蝉の声が耳にうるさいほどに響いている.
老人は、或る大きな会社で社長をやっている男だった.

くるりとあたりを見回して、鼻にあいた二つの穴から深く空気を吸い込む.東京ではこうはいかない.東京では、煙草でものんだほうが体のためというものだ.
肺を新鮮な匂いで満たしながら、老人は、景色がほとんど動かないのに驚いた.車やら人やらが行き交わないというどころではない.鳥や虫さえものんびりと過ごしているのだろうか、眼前にゆったりと広がる風景は、一枚の絵の様に変わることなく存在していた.
そのうちに、肺の中を、美しい空気が洗浄してくれたようだ.至高の贅沢に満足して、ゆっくりと息を吐くと、朗らかな自然の中に自分の体が溶け込んでいくような錯覚を覚えた.
同時に、あまりにも不自然で不釣り合いである、気取った背広も脱ぎ捨てたくなった.少しばかり躊躇して、決心を固めて勢い好く上着を脱いだ.ネクタイもゆるめてもう一度、深く空気を吸い込んだ.また少しばかり考えて、今度はネクタイもすっかり外してしまった.ただこれだけのことで、いかにも涼しくなったようである.
黒光りする革靴にも不満があったが、こればかりは脱ぐわけにもゆかず、これからの慣れぬ行軍のお供をする羽目となった.靴にしてみれば、枝や蝉の死骸や土を踏みしめて散々に汚れることになろうとは考えも及ばなかったに違いない.
しかし、本来の使い道などというのは、往々にして守られていないものだ.蒸し暑い東京で、ただ営業まわりを苦しめているだけの立場であるネクタイからしてみれば、まだ革靴の行軍のほうが幸せだと思われる.会社員に汗をかかせるだけの上着にしたって同じことだ.
そんなことを考えている最中もやはり、蝉の声が耳にうるさいほどに響いていた.

繁みに入り草木をかきわけて歩いていると、時折、背の高い木々に生い茂った葉の隙間から、太陽の強い光が射し込んできた.青い葉を割く様にして注ぐ日の光は、心なしか葉と同じ青に染まっているようであった.眩しさが心地よいなどと感じたのは、随分久しぶりのような気がする.ぱきりぽきりと、土を覆う枝を革靴が踏み折った.葉を踏み潰す音も聞こえるようだ.老いた体にまで山の生命力が染み渡っていく様に思え、老人は嬉しくなった.
「そうだよ、帰るにはこうでなきゃ、、、」
村に帰るのだ.老人が幼い日々を過ごした村、鼻の赤い小僧だった頃に住んでいた村、、、村に帰らねばならないのは必然だった.何一つ、村に陰惨な思い出などなかった.思い出に記されなかっただけで、嫌な事も沢山あったのだろうとは思う.しかし、そんな考えは老いた身に不必要なものでしかなかった.ただ、そこにある郷愁.

全身の毛穴から蒸気が吹き出すようだった.ひどく冷房を嫌うから、会社ではともかく自宅で猛暑にあてられたことはある.何しろ一昨年の夏は体が弱って、お粥でさえ食べられないほどだったのだ.しかし、あの夏より汗をかいていても、この暑さにそれほどの不快感はなかった.
おでこにぷつりと浮いた汗が瞼まで滑り落ち、睫毛の先端でやわらかな雫をつくった.
「線香花火が終わる時のようだ」
誰もいない山の中で、なんとはなしに、思った事が口に出た.言ってから初めて、線香花火を頭の中に思い描いてみようとしたが、木漏れ日が目に明るかったために、花火の映像は浮かばなかった.少し顔を下げて、木の根本のくらやみをじっと見詰めると、やっと線香花火の落ち着いた彩りがイメージされた.目をつむればよさそうなものだが、そうすると睫毛の汗が落ちてしまう.老人の目は、根と土と草の入り交じるくらやみに線香花火を映し出していた.
紅だったか、黄色かったか、、、そうこうするうち、弱くなって、、、
さっき声を発したからだろうか、老人の喉の奥はいつのまにか干上がっていて、ごくりと唾を飲み込んだ.その際に、ついまばたきをしてしまったので、睫毛に囚われていた汗の雫はしたたり落ちて、山に染み込んだ.
「、、、いつもこうだ.線香花火という奴は、落ちるか落ちるかと熱心に見ていると落ちないくせに、すこし余所に気を向けたりすると知らぬうちに落っこちてしまう」
老人は、悔しそうに呟いた.あるいは思いをよせた娘と眺めた線香花火のことまで思い出そうとしていたのかもしれない.そして、思い出はそうさせなかったのかもしれない.

これほど充実した時間には久しく覚えが無い.睫毛の汗のことにしたって、濃密なひとときだった.しかし、少年時代は、このように素晴らしい瞬間の連続で日々を暮らしていたように思える.
老人は、ひと休みするついでにそこいらの石をひっくり返した.すると、ダンゴムシが驚いたようにいそいそと蠢いていた.山の中にもダンゴムシがいるのだ.指で突つくと、ころりと丸まった.東京でダンゴムシなど見かけても、ただ薄気味悪いだけで触れる気など決して起こりはしないだろう.
考えてみれば、昆虫に胸を躍らせている頃が、人生でもっとも幸せなのかもしれない.興味が無くなった時分には悩みや苦しみが心を支配し、追い払ったり忌み嫌ったりする年になると、悩む事さえない気の抜けた人生が横たわっている.
蟻の行列を見物しつづけた事を思い出した.行列の真ん中に石を置いたり、行く手に穴を掘ったり、様々な方法で蟻達の行進を邪魔しようと試みたが、結局は彼らの団結力の方が勝っていた.そういえば、小便をかけて蟻に大洪水を御見舞したことさえある.よくもまあ、そんないたずらを考え付いたものだ.老人は、子供の頃の自分の想像力に苦笑した.なにしろ、小便をひっかけながら、何かで耳にしたノアの大洪水を思い描いていたのだから.

随分と歩いた.
革靴は無残に土で汚れていたし、シャツは汗を吸って背中に張り付いていた.体が限界を訴え始めた頃、ようやく、老人は目的の場所へ辿り着いた.
それは、途方もなく大きな代物だった.自然と不調和なコンクリートによって作られた巨大な湖、ダムである.腰の高さの手摺の向こうに、100メートルの深さを有した人工的な青い空間があった.
老人の全身から緊張が抜け、一層、汗が噴き出したようだ.コンクリートで出来た淵に腰を下ろし老人は顔を拭った.紺色のハンカチが、染み渡った汗で黒々と湿った.一度絞り、今度は首や脇を拭い、最後に森の闇の中に放り投げた.

しばらく体を休めていると、視界に小さな生き物がうごいていた.
「リスじゃないか」
老人は穏やかな気持ちでリスを眺めた.その仕草の、なんと可愛らしい事だろう.そのうち、リスは老人の二つの革靴の間にちょこんと座った.
「お前さん、鼻がひくひくしているよ」
声に驚く様子もなく、リスは黒く大きな瞳で見上げていた.じっとその黒い瞳をみつめると、奥に、蒼い炎が宿っていた.なるほど、可愛いようで立派に野生なのだ、と老人は感心した.
「ピーナッツでも御馳走してやりたいんだがね、あいにく何も無いんだ」
リスいっぴきにさえ何も出せない自分を、少し恥ずかしく思った.金は無意味なものである.
「これでも、子供の頃はいつも、ポケットに豆菓子を入れていたんだよ」
リスに真っ直ぐ見つめられているうち、老人は不安になってきた.
「行くなというのかい?それとも早くしろと?」
リスの瞳は黒く、そして蒼い.

老人はふいに立ちあがった.リスは、あっという間に森に消えた.手摺に手を載せ、老人は湖を覗き込んだ.それは、想像もつかないくらい深いものであった.表面は空と同じ透き通った美しさだが、奥深くは蒼く燃えるようだ.リスの目に似ている.
そこに、帰る.
腰の高さの手摺を乗り越え、水と自然の境界線であるコンクリートに足をのせた.手摺を握り締める手のひらには、じっとりと汗がにじんでいる.老人が瞼を開くと、先刻のリスが戻ってきていた.
「見送ってくれるのかい?」
リスの小さな体は、微動だにしなかった.小さな足が土を踏みしめ、黒い瞳は老人を見据えていた.
「ありがとう、、、大事なことなんだよ、、、」
とん、と老人は勢いよく手摺を突き放した.
背から恐怖と戦慄が吹き抜けた.
肉体が根こそぎ消失したような、咆哮にも似た感覚.
今、瞬間瞬間に水面へと近づくもの.それはすでに、肉体ではなかった.
意識ですらない、純粋なものだ.
回帰であった.
結晶のように細やかなきらめきだ.
全ての音が白くなり、鈍い、静かな水音が響いた.
すぐに、蝉の声が辺りをつつんだ.

太陽は照りつけていた.
少年は、開けっ放しの玄関に飛び込んで、勢いよく草履を脱ぎ捨てた.
「母ちゃん!」
少年の足はひたすら泥だらけで、綺麗に磨かれた廊下を見るも無残に汚しまわった.洗い物をしていた母親は、その足を見て深くため息をついた.そして、険しい表情になったかと思うと少年を怒鳴りつけた.
「足を洗ってきなさい!家を泥だらけにして!」
少年は首をすくめた.確かに、こんなに慌てて家に帰ることはなかったのに、いったいどうして足も洗わずに家に飛び込んだりしたのだろう.
庭にある井戸からバケツ一杯に水を汲み、縁側に腰を下ろす.バケツの水に足を突っ込むと、ただひたすらに、冷え冷えとした喜びが全身を駆け巡った.乾いた泥は冷たい水に溶かされ、透明なバケツの中を少しづつ濁らせた.
「母ちゃん!スイカ食べたい!」
「はいはい」
母の運んで来た西瓜は、三日月型に切られた大ぶりなものだった.少年はそれに顔を埋めるようにしてかぶりついた.
「母ちゃん」
「なんだい、今日は、さっきから、、、」
少年は、べとべとに西瓜の汁で汚れた口元を拭って、空を見上げた.
「なんだか、蝉が静かだね」
少年は、ぽろぽろと涙をこぼした.

リスは、森のすぐ入り口に落ちていた濡れたハンカチを咥えた.そしてダムの淵にそれを置くと、森の奥に消えていった.
風が吹き、ハンカチが青い鏡の上を舞った.
蝉の声が、やかましく山中に響き渡っていた.
ハンカチは、水面にゆっくりと触れ、静かな波紋がつうっと巨大な鏡を揺らめかせた.
しっとりと水を含むと、ハンカチは水の中に沈んでいった.
ハンカチはすっかり水の中に消え、蝉の声は聞こえなくなった.
ゆらりゆらりと、ハンカチは、少年や母親の住む村に落ちていく.
老人の故郷へ.
水の底の村へ.

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