只酒(1999.7.31)
酒を飲むときは身銭を切って飲むのが良い。
自分で好きなものをのみ好きなものを食べるのだから金も自分で払う。こういうのが自然でよろしい。
まず困るのが会社主催の飲み会や記念パーティーで、食べ物も飲み物も用意されたものしか選べない。これが実に味気ない。料理の美味い不味いではなく面白味に欠ける。仕方がないから冷めたオードブルや煮詰まった鍋物に少しだけ手を付ける。会社の人間とはあまり親しい付き合いもないからあとは飲むだけである。
他にすることがないからつい飲みすぎてしまう。どうも会社にたかって飲んだくれているような気がしてならない。
飲みすぎているのがわかってて、だから会が終るとそそくさと行きつけの居酒屋とかバーとかに足を運んでしまう。居酒屋ならつまみを鑑賞用に2〜3品頼んでホッピー3杯、ショットバーならバーテンダーにバーボンを薦めてもらいストレートで2杯。自家製のピクルスをつまむ。それくらい飲むと何となく落ち着いてくる。自腹で飲んだと思えるくらいの勘定になる。
そして翌朝、二日酔いで蒲団から起き上がれない。
結婚式に出席する時も同じことをやる。御祝儀が飲食代だと思えば思えなくもないが、そうすると御祝儀に味も素っ気もなくなってしまうような気がする。式場の出すコース料理の費用を差っ引いたのが御祝儀かと思うと情けなくなる。それなら新郎新婦ご一族のお振舞と思って只酒に徹した方がまだ救われる。
正確には、救われるのは披露宴が済んで一人で居酒屋なりバーに入ってからだが。
何よりも先輩等の年長者から奢られるのは実に困る。
金のない学生時代ならば素直に喜んで只酒にありついたものだが、一応、現在は定職に就き飲み食いに困らないだけの収入は得ている。前もって「今日は俺の奢りだ」言われると、つい飲み物も食べ物も、メニューと相談して安いものを選んでしまう。本当は逆に失礼になってしまうのはわかっているけれどやめられない。会社に入って間もなく、大学の後輩を飲みに連れて行き「遠慮しないで何でも飲んで食ってくれ」と言ったら本当に遠慮の欠片もなく高いものをガンガン注文されて、財布の中身を気に
しながら冷や汗をかいたことがあるのだ。
一番困るのが、適当に飲み食いして、僕がトイレに行く隙に支払を済ませてしま
う先輩だ。必ず二軒か三軒、自分の行き付けの店に連れて行ってくれて、トイレの隙に支払を済まされてしまう。一度、僕は文句を言った。
「奢ってもらって失礼ですけど、俺だって自分が飲んだ分、払えるくらいの収入はあるんですよ。俺にも少し出させて下さいよ」
先輩はここで、きっと真面目な顔になって応える。
「今、僕は奢ったんじゃなくって君に貸したんだ。でも返すのは僕にじゃないよ。君の後輩に返すんだ」
これが困るんだな。残念ながら近頃の後輩は、あまり先輩達と飲みに行くのが好きではないようなのだ。
読者層(1999.9.26)
何を書くにしても特定の読者層を想定するということはない。雑誌を創刊する場合、綿密な市場調査を行って読者年齢を「○歳」まで絞るのだそうだ。そこまでやらないと記事内容がぼやけてしまい、一定の発行部数を確保するのが難しくなるらしい。
僕の場合、まだ職業作家でもないし、ホームページにしろ無料で公開しているから採算など気にする必要もない。従って特定の読者層などということを気にしないで書ける。
話を小説に限ると、やはり最初から特定の読者を想定して書かれた作品は少ないのではないか。というのは小説を書くときには、人間一般に共通する感情を一作に凝縮させようとする力が働くからだ。この力がない限り、私信と変りなくなる。販売側の戦略上、童話とかジュヴナイルとか成人向けとかというジャンルはあるが、どのジャンルに入れられるとしても名作はあらゆる年齢層から支持される(例外として官能小説を幼児・児童が熱烈に指示するということは考えにくい)。
正直な話、読者層は広ければ広いほど嬉しい。読者が多ければ多いほど、嬉しい。幼稚園児だろうが片田舎のじいさんばあさんだろうが、読んでもらえればそれだけで嬉しい。読者を選ぶほど、立派な作品が書けているつもりはない。今はとにかく一人でも多くの人の目に触れて、読んでいただき、忌憚のない批評を頂戴することが僕の一番の栄養になる。
とはいうものの、やはり共感を持って読んでもらいたい、と思う層がないわけではない。筒井康隆氏が『夢の木坂分岐点』(新潮社)を出版した当時「自作を語る」というテレフォンサービスを聴いた。その中で氏は「今時分が作家なのは夢で、現実はまだサラリーマンのような錯覚をすることがある。この作品は、中年のサラリーマンの方に読んでもらいたい」という内容だったと記憶している。
そう、僕にも、僕とほぼ同世代かもう少し上の世代の給与所得者、要するに僕と同じ立場にいるサラリーマンの読者から共感を得たいという気持ちがある。学生時代の夢を捨てて、或いは新しい夢を抱いて会社から新入社員として迎えられた。担当する仕事が何度か換わり、その度に新しい希望と思い通りに進まない挫折とそのせいで陥るルーティン・ワークに退屈する世代。そろそろ自分の将来がおおよそ見える世代。中堅と呼ばれ肉体的には一番酷使される世代。新しい夢に挑戦するにはもう、少し遅すぎると思うようになった世代。多分、僕の書く与太話が身体から滲み出したものであることを理解してくれるのが、この世代ではないかと思う。
しかし、今まで『霧霧迷』で発表した作品の中で、まず黙殺されるであろうと予想した『再開発地域』に高校生の読者から短評を頂いた。ほぼ僕の意図したところをきちんと受け止めてくれた。僕の一方的な見方をすればハプニングに値する出来事だ。こういうハプニングがあると「若い世代には俺らの世代の苦労なんかわかりっこないんだ」などと甘えたことを言えなくなる。そしてどんな世代にも、たとえ部分的にでも構わないから共感を選られるような作品を書いてみたいという意欲が生まれるのだ。