『おめでとう〜!』
そんな声とそれに合わせたような拍手が、最近馴染みにしているバーの奥で聞こえる。
その集団に給仕をしていたマスターがカウンターに戻ってきた。
奥をちらりとみた俺の様子に気がついたのだろう、空いた俺のグラスに酒を注ぎながら言った。
「すみません…騒がしくて」
「イヤ…。でも珍しいな?」
「えぇ、お誕生日パーティの2次会だそうです」
「誕生日ねぇ〜」
「…久しぶりにデザートなんて作りましたよ」
少し苦笑い混じりにマスターは言って、またグラスを拭きだした。
よほど楽しいのだろう。誕生日の集団の声はだんだん大きくなっている。
俺は万札を一枚をマスターに放って、店を出た。
「申し訳ありませんでした。またお待ちしています」
セリフとはうらはらの少しほっとしたような声色を感じて、思わず苦笑いがでた。
重いドアを開けると、春特有の生暖かい風を頬に感じる。
鬱陶しくて、それを振り払うようにタバコを銜えながら細い外階段を上がっていった。
あと2,3段というところで、月明かりを遮るように立つ気配がした。
いや、気配ならさっきから感じていた。
ただそれは、今のところなにより安全な人物のものだった。
「どーしたんだ、こんな夜中に。可愛い妹が待ってるんじゃねぇーの?」
俺が階段を上りきる前に、槇村がその数段を降りてきた。
「僚っ!!聞いてくれ」
そういった槇村は今までにみたことのないくらい笑顔だった。
「妹が、香が俺の仕事を理解してくれたんだ。わかってくれたんだよ。
これでお前のパートナーを辞めなくてもいいんだ」
俺の手を握って、肩まで抱きしめそうな勢いの槇村にタバコの煙を吹きかけた。
「ごっ、ごほっ…な、何すんだ、僚」
「…べっつにぃ。しっかしまぁよくあのシュガーボーイが納得したこと…」
「うん?なんか言ったか?」
「いんや。おまえそんな事わざわざ言いにきたのかよ」
階段の手すりに身体をあずけ、月を見上げながらまたタバコの煙を吐き出した。
槇村は一瞬口ごもって、でもいつものような口調で言った。
「あぁ。お前にも心配かけたかと思ってな。香も無事に帰ってきたし」
「…良かったな」
「そうだな、昨日は心配で夜も眠れなかったから。ただ…」
「ただ?」
槇村は苦い顔をしながら俺を見た。
昨日連れ回してたのがばれたのか?
「ただ…昨日戻って来た香が、まるでおまえみたいな口の悪さになってたんだよ…一体なにが
あったっていうんだ…」
今度は大げさに肩を震わせて泣きだしそうなジェスチャーをしだした。
「……ナンにもありゃしねぇよ」
まだまだグチを言い続けそうな槇村を軽く小突いた。
「ほら、せっかく弟が帰ってきたんだろう。こんな日くらい家にいてやれよ」
僚のセリフに槇村は今度は勢いよく反論する。
「なっ。お前は知らないだろうがな、香はすっごいすっごい可愛いんだぞっ」
「ハイハイ」
俺は軽く槇村を避けた。
あのシュガーボーイがどんな話をしたのか気にならないわけじゃないが、
今日は槇村を連れ回さずに家に帰してやりたい。
槇村のセリフを背中に聞きつつ、僚は夜の街に足を向けた。
槇村はきっと俺の姿が見えなくなるまでここにいるだろう。
「…おまえ、飲み過ぎるなよ」
槇村の忠告に軽く手を上げ、応えた。
+++
春休みだというのに、いつものように起床して、兄の朝ご飯を用意する。
「さって、新聞もう来てるかな?」
一人つぶやいて香は玄関に向かった。
鍵を開け、ドアノブを捻る。そして香は少し小首を傾げた。
違和感を感じながらドアを開け、新聞をとろうとして、開けたドアにぶつかる
鈍い音を聞いた。
音を立てていたそれは、香が昨日僚の姿を撮そうと、家から持ち出したカメラだった。
「な…んでここにあるの?」
誰ともなく呟く。
そういえば昨日、公園から帰ってくるときにカメラを持ってこなかった。
僚の車においてきてしまったのだろう。
でもだったら…なんでここに?
香はドアノブに掛かっていたカメラを手にとると、そのまま駆けだした。
団地の外まででても僚の姿は無かった。
それでも香には僚の、あの暖かで広い背中が見えるようだった。
end