百合

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 あなたが生まれた日は春の明け方でした。

 まだ冬は過ぎ行かず、春の気配がしても緩まない寒さに人々は襟を立てて足早に街を歩く。そんな季節のある日でした。
 産院で、あなたが産まれたとき、あなたのお父さんはまだ仕事をしていて、知らせを聞いてさゆりを連れて駆けつけてきた。
「おかぁさん!」
 さゆりが病室に走り込んできて、扉の前で、お父さんと看護婦さんが何やら揉めているの。
 お父さん、私に百合の花を持ってきたの。
 私が百合の花を好きだから、後から聞いたら花屋のシャッターをどんどん叩いてお店の人を起こして・・・・・・質の悪いお客よねえ?
 それで扉の前で、看護婦さんに、
「百合は病院に持ってくるような花じゃないんですよ!」
ってお説教されて。
 お母さん、はらはらしちゃった。
 そしたらいきなりお父さんが入ってきたの。
 お父さんが入ってきた途端にね、百合のいい香りがしたわ。
 よく見るとね、お父さんの真っ白いシャツに黄色いシミが沢山付いてるのよ。
 お父さん、花を持って入れないなら匂いだけでも、って自分の身体に百合の花粉をなすりつけたらしいの。
 それでね、お父さん言ったのよ。
「どうだ、お前の大好きな百合だぞ!」って。
 お母さん、それでもう笑いが止まらなくなっちゃってね。さゆりもつられて笑い出すし、看護婦さんも苦笑してるし。
 それでお母さん、あなたの名前を決めたのよ。
 あなたの名前はお母さんがつけたの。

 お父さんはとても不器用な人で、世渡りが上手い方じゃなかった。
 それでもお母さんを精一杯愛してくれたし、あなたたち子供のこともそりゃあ目に入れても痛くないくらい可愛がっていた。
 別れたときも嫌いになって別れた訳じゃないの。
 お父さんは最後まで別れたくないって言った。
 お母さんも別れたくなかった。
 けれど、その時は別れることがお互いのためになると思ったの。
 おかしいわね、そんなこと無かったのに。

 無理してたのね。だからお父さんはあんなふうになって、あなたとも離ればなれになって。罰が当たったのかも知れない。
 あなたにとっては私は子供を捨てた薄情な母親で、憎まれても当然。

 それでも、やっぱり怖いのね。
 あなたに面と向かって罵られる勇気がないのね。
 だからあなたを見つけることが出来なかったのかも知れない。

 今でも小さなあなたが夢に出てくるわ。
 お母さんのおっぱいを元気良く飲んで、ちっちゃな手でお母さんの指をぎゅうって握って、お父さんの高い高いが大好きで。
 さゆりとも仲良しで、さゆりがいないいないばあってするととっても喜んでた。
 夢の中のあなたはすくすく育って。
 後悔ばかり。
 街に出れば、ああ、あの服を着せてやりたい。美味しいものを食べたら、これをあなたにも食べさせてやりたい。
 さぞ美しい娘に育っただろう。いつもそればかり考えていたわ。

 年頃になったら恋もして。そう、お父さんと私のように。
 お父さんと別れてから、お母さん、誰ともお付き合いできなかった。
 優しい人もいたのに。
 お父さんは馬鹿正直で、女好きで、だらしなくって、本当に駄目な人だった。一家の大黒柱には向いていない人だった。
 それでもあなたが生まれた朝に、あなたに抱えきれるだけの百合を持ってきてくれる人だったのよ。

 あなたはお母さん似の顔だったから、ひょっとしたらお母さんみたいに、お父さんのような人を好きになるかも知れない。さゆりはお母さんには全然似てないのよ。どっちかというと、お母さんのお母さんに似ているの。
 恋をして結婚して子供を作って。
 お母さん、あなたの花嫁姿、見たかったなあ。
 親子二代で駄目な男に引っかかって、なんて結婚式で泣いたりしてね。
 私の娘を泣かしたら承知しないって、きっとお母さん泣いちゃうな。
 そしてあなたは子供を産んで、育てて、お母さんはおばあちゃんになって。
 ああ、お母さん、あなたの子供を抱いてみたかったなぁ。

 お母さん、どうやらもう長くないみたいなんだ。
 だからかなぁ、お父さんと過ごした日々のことばかり思い出すよ。
 貧しかったから結婚式はなくて、もちろんドレスもない。
 安物の指輪だけを交換して、後はふたりでささやかなごちそうを作ってふたりだけでお祝いした。
 幸せだった。
 お父さんと、お母さんと、さゆりと、あなたと、いつまでも4人で暮らせれば良かった。

 伝えたいことが沢山ある。
 お母さんもお父さんもね、あなたが生まれてくれて心底嬉しかった。
 あなたはお父さんとお母さんに望まれて生まれてきたんだよ。
 お父さんはお母さんに何度も言ったのよ。
「生んでくれてありがとう」って。
 ありがとう、ありがとう、って何回も頭を下げて、ちょっと涙ぐみながら。
 お母さん、お父さんと一緒になって幸せだった。
 短い間だったけど、あなたのお母さんで良かった。

 お母さんね、あなたが生まれた朝のこと、全部覚えています。
 お前を取り上げてくれた人の顔も、あなたの産声も、その身体の重みも全部覚えています。
 そしてお父さんがくれた百合の香りも。
 一瞬だってあなたのことを忘れたことはなかった。
 お母さん、いつでもあなたの幸せを祈っていた。

 百合の香りに包まれてお母さんとお父さんとさゆりの元にやってきてくれた。
 お母さんはあなたの幸せを願っています。
 香。
 あなたの幸せだけを。

「おかーさぁーん?」
 寝室を覗くと母はぐっすりと眠り込んでいた。最近眠っている時間が長くなっている。もうそんなに先がないのかも知れない。
 さゆりは母のこけた頬に手を当てた。
 苦労してさゆりを育ててくれた母だ。
 苦労を笑顔で跳ね飛ばしてきた母だ。
 涙が出そうになるのを堪えて枕元に目をやると、白地に小花の散った便せんが置かれていた。
「手紙でも書こうと思ったのかしら?」
 ぱらりと捲るとそこには花模様があるだけ。よくよく枕元を見ると便せんがあってもペンがない。
 さゆりは首を傾げて、それからそうっと足音を殺して寝室を出ていった。
「おやすみなさい・・・・・・」

 いつかこの手紙が届く日を願っています。
 お前が幸せになる日を。

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 千日紅さんからの第二段です〜。
あまり香のお母さんのお話ってないですよね。
とっても優しそうなお母さんに香を感じることができる、これまた
好きなお話です。

 

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