--The first of a million kisses--
知らなければ良かったことは世界に沢山溢れている。
それこそ数え切れない。
知ってしまったら、もう知らない頃には戻れないから、こんなに苦しむのに、それでも 知ることの魅力からは逃れられない。
知れば手に入れたいと思う。
手に入れたら壊れてしまうものでも。
それが大きな痛みをもたらすとしても。
痛みを知っても、戻りたくないとすら思う。
それは愚かでしょうか。
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洗面所をのぞき込むと、長身の男は上半身の素肌を晒し、長い足を包むくすんだ色のジーンズはファスナーが半ばまで下りて、首には白いタオルが引っかけられている。
常ならば対峙する相手を萎縮させ、その場に縫い止める瞳は、伏し目がちな睫に翳りを与えられて、艶めかしい。
香は遼のいささか露出過剰のなりに、うろたえつつ、平静を装って声をかけた。
「遼、コーヒー」
「ん」
器用に髭をあたっている。
無骨な指は意外に繊細で、剃刀がなめらかに動く。
連動する腕の筋肉が、その度に形を変える。
その姿に物珍しさを覚えて、香は遼の尖った顎から泡が消えていくのをじっと見つめる。
そういえば兄もこうしていた。
「・・・・・・そんなに見るなよ」
香は頬を赤らめた。
「見てないよ、だ。自意識カジョウ」
いつものシャツとジーンズ姿の香は照れ隠しにシャツの袖を捲り上げる。と、シャツの下に隠されていた骨の尖った肘の白さが遼の目に飛び込む。
・・・・・・。
ハレーションを起こした視界を瞼で閉ざして、剃刀を滑らせた。
「かわいくねぇ言いぐさ・・・・・・って!」
遼が下顎を押さえる。泡はあらかた消えた皮膚の上にちりりと滲み出る血。
ちっと舌打ちして、遼は忌々しげに水を出し、顔を洗う。
「・・・・・・だいじょぶ?」
「あんまり」
皮膚一枚の傷は、神経に障る痛みを起こす。
「見せて」
香は濡れた遼の顎を桜貝色の爪ののる指で上げさせた。すると5ミリほどの赤い直線。
大したことはない。香はほっと息をつく。
「全然平気よ?」
安堵の微笑みを浮かべる香と、遼の視線が真っ正面からぶつかった。
その視線の孕む意味にも気づかずに、彼の顎に滲んだ血を指で拭う。
二人の距離は拳一つ分。隔てるものは頼りなく、肌のぬくもりさえ伝わってくる距離。
白いシャツの下のキャミソールが透ける。
いつもより一つ多くボタンが外されたシャツの胸元からその濃い紫色が覗く。
細い肩紐の下に鎖骨がくっきりと浮かび上がっている。
白く包まれた紫の果肉。
うっすらと開いた花弁のようなフォルムの唇。
熟れた舌先ががちらりと覗いた。
あどけなさに似た蠱惑に一瞬だけ躊躇い、そして衝動に従う。
香の唇に遼の唇が落ちてきた。
しっとりと濡れた感触が香の唇をかすめて、染みついて離れない煙草の匂いだけを置いて離れていく。
大きく目を見開いて遼を見つめる。
驚愕に言葉は出なかった。
その香の唖然とした表情に、遼は虚をつかれたような顔をして、ばつが悪げに視線を逸らす。
その視線に香は必要以上に反応して、嬉しさと困惑と羞恥と、そして悲しみに瞳を潤ませる。
「馬鹿。そんな顔するんじゃねぇよ」
させたのは自分のくせにそう嘯いて、遼は自分の首にかけていたタオルを香の首にかける。
「・・・・・・こういうの初めてか?」
初めてに決まってる。きっと言わなくても知ってるんでしょう?
香はそう思いながら、どんどん熱くなる頬と反対に、ちくりと胸が冷たく痛むのに気づく。
痛みをごまかすためにこくりと頷いた。
「そっか・・・・・・」
ふと香は泣きたくなる。
初めてのキス。
嬉しいはずなのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。
遼は初めてじゃない。
沢山の人とキスをして、ただその中のひとりが自分。
初めてなのはあたしだけ。
「ちゃんとしたキス、するか?」
遼の問いかけは唐突で、香は没頭していた思考から急に現実に引き戻される。
その香の唇にもう一度、遼は触れるだけのキスをする。
遼の鎖骨から喉仏のラインが、初めて見る男のもののようだった。
「・・・・・・ちゃんと、したって・・・?」
「口、開けてみ」
言われたとおり唇をそっと開けようとするけれど、うまくいかない。わななく唇は意志の通りにならない。
どうやって唇を動かしていたんだっけ?
惑った視界に鏡に映る自分の姿が入る。
潤んできらきらと光る目、紅潮した頬、あまりにも期待しているようで自分の浅ましさに猛烈な自己嫌悪が沸き上がる。
香の視線から、遼はそれを読みとって、鏡にひた、と右手をついた。丁度香の顔の上。
「・・・・・・誰も見てないから」
そう促されて香はやっとの事で唇と唇の間に隙間を作った。
遼がその隙間を確かめるように顎に左手を添え、親指で下唇の腹を押す。
顎を傾けて、唇をあわせた。
香は不意打ちでないキスに戦慄し、身体は逃げようとする。
カーテンの役割をしていた右手は、今度は香の背中を包み、逃げる身体を素肌に押しつける。
想像していたよりも遥かに遼の身体は熱く固かった。
遼の舌が香の唇を辿る。
「ん・・・・・・」
困惑の訴えは遼を煽り立てるだけで、無慈悲な舌は開いた唇から忍び込み、頑なに閉じた歯列を辿る。
熱く濡れた感触に香はますます歯を食いしばった。
「舌、出して」
「・・・・・・え」
固く閉じた目を開くと、至近距離に遼の顔があった。
下向きに涼しげな長い睫と整った鼻梁。濡れた前髪ははらりと落ちて、その隙間から覗く切れ長の目が、香の意識を惑乱する。
ぴったりと合わさった肌は熱く、そこから溶けていきそうだった。
香は求められるままに舌を出した。
伏せた睫が震える。
遼はおずおずと差し出された香の舌に自分の舌を絡め、再び唇を合わせた。
本当のキス…?
香は目をきつく閉じたまま、金魚鉢のなかの魚のように酸素を求めて喘ぐ。
それを端から阻止して、吐息を奪っていく。
阻むもののなくなった鏡は、遼の肩に立てられた香の爪が食い込むところまで、克明に映し出した。
始まりはありふれた日常で、ひょっとしたら遼にとってはこれもありふれたキス。
けれど香には最初で最後の、
遼とする初めてのキス。
これから死ぬまで遼としかキスしない、そんな風に暮らせたらいいのに。
遼は香の額にキスをして、
「コーヒー、入ったんだろ?」
と香を残して立ち去った。
その後ろ姿はいつもと変わらない。
香はぼんやりとそれを見送った。
遼はあまりにもいつも通りで、唇に残る感触も幻かと香は指で自分の唇を確かめる。
肩から落ちかけた紫の細い紐を、唇に触れた指で戻した。
胸がちくちくと痛む。
今まで知らなかった痛みが胸にある。
遼とキスを繰り返せばこの痛みは消えるのかしら。
それともいつまでもこの胸は痛いままなのかしら。
このキスが現実のことかどうかすら不確かなのに、どうして安心することが出来るの?
体も心も確かにここにあるのに、どうしてこんなに不安なの?
始まらなければ終わりはない。
始まってしまえばいつかは終わる。
はじまりは小さなキス。
そして、いつの日か必ず鳴らされる終演のベル。
遼はリビングに放置されて冷めかけたコーヒーカップを手に取った。
「・・・・・・これ、濃すぎだよ、香」
苦く舌を痺れさせる。
長い睫が繊細に縁取る濡れた瞳はこれ以上傷つけないでと訴えていた。
傷つけたいわけじゃない。
そんな顔をさせたいわけじゃない。
濡れた舌、乾いた唇の感触、シャツの胸ぐりから覗く透き通る白い肌、腕の中にあった柔らかで温かいものが壊れたらどうしようと、柄にもなく怯えている自分がいる。
このきれいな生き物を・・・・・・誰の目にも触れないところに隠してしまいたい。
願わくば凶暴な自分の手も届かない遥か高みに。
小さな口づけの思い出だけを胸に残して。
触れた肌の熱さ、その名残りも厭わしく、香は首にかけられたタオルに唇を寄せた。
乾いたタオルは遼の残り香がした。わずかに血のこびり付いた指を唇に運ぶ。
指は鉄錆と、初めて知った遼の味がした。
千日紅さんにいただきました。
閉鎖してしまった千日紅さんの「ライハナ」に飾ってあったお話でした。
とっても好きなお話でして、いただけてうれしいです。
素材は「千日紅」のお花です。
お話に合うかどうか気になったのですが、どうしても使いたくて…(笑)