夏化粧を彼女に

香は買い物から帰ってきてから、ずーっとため息をついている。
いや、買い物に行ってる最中も、帰ってきて戦利品を冷蔵庫に詰めている
時も、落ちるコーヒーを眺めているときも、そしてそのコーヒーを手に
リビングのソファーに座り込んでからもずーっとため息を付いている。

その原因は…いつものエロバカツケ大王の事ではなくて。
コーヒーカップの隣に置かれた、一本のグロスだった。

香はまた、ため息をついて、そのグロスを開けた。

ピンク色のグロス。

唇に載せれば、さらに薄い発色しかしないだろう。
少し逡巡してから、香はそれをこわごわと唇につけた。

そしてまたため息をつく。
「あぁ〜、なんでこんなの買っちゃったんだろ〜」
そのままソファにつっぷした。

「お金。ないのに…」
小さく香は呟いた。

思えばホンの出来心だった。
普段はメイクなんてしない香も夏の紫外線だけは気にしている。
黒くなればかっこいいのだが、色の白い香はすぐに赤くなってしまう。
それを極力避けるために、日焼け止め効果のある乳液だけは欠かさないのだ。
とは言ってもそこはそれ。
万年金欠冴羽商事にお勤めの香はいつもそれは大型ドラッグ店で500円程度のモノを買っていたのだ。
なのに今日に限って……
買い物も済んで家に帰ろうとしたときにふと駅前のデパートが目に付いた。
(暑いから、デパートの中突っ切っちゃおーっと)
家ではまだクーラーを入れていない。
涼しいであろうデパートの中を思うと自然に顔がにやけてしまう。


(う、わーーーーー。やっぱすっずしい♪)
いつもよりも足取りも軽くなる。スキップもしそうな勢いだ。
ふと、視線の先に色とりどりの化粧品が目についた。

(そういえば、日焼け止め、もうすぐなくなりそうだったのよね…)

香は吸い寄せられるように化粧品店に足を向けた。
店先に並べられた「日焼け止め」コーナーに目を向けていた。
ふとそんな香に声を掛ける一人のー店員がいたー
「お客様?色々ご提案させていただきますけど?」
香はどっきり、店員はにっこりとして言った。
香はそのままカウンターの席に引きずられるように座った。

(あ、れーなんでこんな事に…)

香はカウンターに並べられた化粧品を見ながら、固まった笑顔を浮かべた。
店員は香の事など気にとめずに、どんどんとメイクを施す。
次々に塗られる化粧品の数々にだんだんうんざりとしてきた。

(日焼け止め、見たかっただけなのに〜〜)

「はいっ。いかがですか?」
罪悪感など一グラムも持っていないだろう、店員の笑顔と目の前に差し出された鏡。
そっとのぞき込むといつもよりも綺麗には写る、自分の顔。
その後ろに写るニコニコとした店員。
香は一瞬目を閉じ、心を決めた。

目を開いて…

「すみません…これください」
香は目の前に並べられた化粧品の中で一番安いと思われる、リップグロスを指さした。
「はい。ありがとうございます〜」
店員の笑顔が悪魔の笑顔にみえた香だった。

「たーだいまっと」
僚がのんきに鼻歌なんぞ口ずさみながらリビングに入ってきた。
「わっ、なにお前、その顔……なんつか、暑苦しい日にさらに暑苦しいっつー」
僚は後悔でふてくされたままの香を見て、思わず悪態をついた。
本当はいつもよりも女の雰囲気を醸し出している香に戸惑ったのを必死で誤魔化していたのだが。
「しっかも、なにそれ、グロス?そんなん買ったのかよ?俺には金がね〜からってこの暑いのに
缶ビール一晩に一本しか飲ませないくせに?うーわー強欲っー」
香はそんな僚をギッと睨むと立ち上がった。

「う、うるさいわねっ!!あ、あたしだって買いたくて買ったんじゃないわよ。だって
だって断れなかったんだモン。しょうがないじゃない!買っちゃったら似合わなくたって
使わなくちゃ…もったいないし!!もう」

香は目に涙を浮かべながら、僚にソファーのクッションを投げつけ、グロスを乱暴に掴むと
リビングを出ていこうとした。

いつもは香の変化なぞ気づいていない風を装うくせに、たまに自分が女らしい格好など
するこんな時にすぐに自分の変化に気が付き、からかう僚が許せなかった。
とくに自分でも本意ではなかった今日みたいな日はからかわないで放って置いて欲しかった。

「ちょっと待てっ!」
「何よっ!!」

出ていこうとする香の手首を僚は掴んだ。
そのまま強く掴んだままのグロスを僚がはずす。

「似合ってないとは言ってないだろーが」
「え…」
「み、見慣れねーからちょっと驚いただけだ…」

心なしか照れているように香にはみえた。それがとても楽しかった。
「落ちてるぞ…グロス」

僚は香の手首を掴んだまま、器用にグロスを開いた。
香はニコニコしながら僚を見上げた。
「僚が…塗ってくれるの?」
「ばーか。ふざけんな」
そして僚は香のアゴに手を添える。
「なんか、くすぐったいな…」
無骨な男の指に、香の唇は綺麗に彩られた。


end


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