斎藤に抱かれた雪奈が大声を出して、腕の中で暴れていた。
「おい、こら、雪奈。暴れるんじゃない。香先生たちは大事なお話をしているんだから静かにしないさい。ほら」
香は僚に抱かれたまま雪奈を振りかえった。
斎藤はいつまでたってもおとなしくならない雪奈に促されるように香に近づく。
香は僚の腕から離れ、雪奈に手を伸ばした。
雪奈が香の腕に抱かれる。
「どうしたの?雪奈ちゃん」
雪奈はぐずぐずした泣き顔で香に縋りつく。
「いかないで?かおりせんせいずっとここにいて?ね、ゆきなにんじんもたべるから。いじわるもしないでいいこでいるから。ね、かおりせんせい、ずっとっずっといてね」
「雪奈ちゃん……」
雪奈の言葉に香は複雑な表情をみせる。
「こらっ、雪奈。何を言ってるんだ。香先生を困らせたらダメだろう」
雪奈は斎藤の言葉にも嫌々という風に首を振る。
「かおりせんせい、ゆきなきらい?ゆきなのことすきならずっといて?」
香は雪奈の頭をそっと撫でた。
「あたしは雪奈ちゃんのこと好きよ。もちろんみんなのことも好きだけど」
「だったらあのおじちゃんのとこいかない?ここにいる?」
雪奈は僚を指差した。
香は一瞬、僚をみてから雪奈に向き直った。
「…雪奈ちゃん。パパ好きよね?」
「うん。だいすき」
「パパと離れて暮らさなくちゃいけなくなったら、悲しい?」
「うん。ゆきな泣いちゃう」

香は雪奈を抱いたまま、しゃがみこんだ。
「ね、雪奈ちゃん、これは2人だけの秘密だよ」
雪奈はわけのわからないまま、頷く。
「香先生もね、あの人のことが好きなの。だから離れて暮らしていると泣きたくなっちゃうの」
雪奈の耳に口を寄せ、雪奈にだけ聞こえるように香は言った。
香は雪奈と視線を合わせた。
「ね、ごめんね」
雪奈は香の首にぎゅうとしがみついた。香はそのまま立ちあがる。
「またごはんつくってね?ゆきなをわすれないでね」
「うん。忘れないよ。雪奈ちゃんも私のこと忘れないでね」
香は雪奈の髪を優しく梳いた。
「ほら、雪奈、もういいだろう。帰るよ」
斎藤が声を掛ける。その声に雪奈は反応し、斎藤に向かって腕を伸ばした。
斎藤も雪奈を受け取ろうと手を伸ばした。
「あ、ちょっとまっててパパ」
そうしてまた香に向き直る。

「うん?」
「かおりせんせい。ちゅうしよう?ね、ちゅぅ」
そう言って雪奈は香の唇にじぶんの口をくっつけた。
「わーい。かおりせんせいとチューしちゃった〜♪」
「ゆ、雪奈ちゃん、もう」
子供にキスをされても照れている香がいる。
そして今度は素直に父親の腕に抱かれた。
「パパ?パパもチューね」
雪奈は父親の頬に手をそえ唇におなじように口を押しつけた。
それには本気で香もあせった。図らずとも雪奈を通じて斎藤と間接キスをしてしまった。
見ていたギャラリーが一気に囃し立て、からかいだす。
「パパ、かおりせんせいのこと好きなんだもんね」
「ゆ、雪奈っ!」
斎藤はおどおどしながら、言い訳ともつかないことをごにょごにょとみんなに言って、小さくなっていた。
「でもね、かおりせんせいはあのおじさんといっしょじゃないと泣いちゃうんだって」
今度は一斉に僚の方へ皆の視線が向く。
「ゆ、きなちゃん…」
ナイショだっていたのに…という香の声は聞き流されていた。

僚は皆の視線を受けながら苦笑いをした。
「…で、どうする?」
そういいながら小さく手をさしのべた。
香はゆっくりと視線を一週させ皆の顔を見回した。そして涙を拭って僚に飛びついた。
みんなは笑顔でそれを見つめていた。


☆ ★ ☆


「あーーーーぁ。落ち着くわーー」
香は大きく伸びをしながらリビングの窓を全開にした。
冬の冷たい風がカーテンを揺らして室内に入りこむ。
「おぃ、なに窓なんて開けてるんだよ。さみぃよ」
香の荷物を抱えながら僚が入ってきた。
 あの後、どうせ戻るならとアパートから荷物を引き上げ、バスとクーパーに積めこんで来てしまった。
もともとそんなに荷物は置いていなかったのだが、その行動の早さに皆は苦笑いをしていた。
「だってーー。空気淀んでるじゃない。もう入った途端アルコールくさいのなんのって」
言いながら荷物を受け取り、自分の部屋に戻った。 
 僚に憎まれ口を叩いてはいたが、予想よりもずいぶんときれいな室内にびっくりしたのだ。
もともと住処を作るような人間ではないと思っていたが、香が出ていってからも寝にだけ帰っていたのだろう。だから余計なゴミが出ない。それだけだ。
 リビングに戻ると僚はソファに横たわり新聞を読んでいた。
「あ、なんで窓閉めてるのよ。空気の入れ替えしてたのに」
僚は視線だけ香に向けた。
「さみぃつの。僚ちゃん繊細だから風邪ひいちゃーう」
「もう、ばっかじゃない。こんな悪い空気吸うほうが風邪ひくわよ」
そう言って細く窓をあける。僚はその様子を見ていたけれど何も言わなかった。
「コーヒー飲むでしょ?淹れてくるね」
僚の返事を聞く前にキッチンに向かった。

 香は麻理絵のことが気になっていた。以前、僚が「身内が見つかった」とは言っていたので保護者が見つかったのだろうけれど、僚が父親だったのかどうかは聞いてはいない。
 それがどうだったのか自分から聞くことができなかった。
聞いて素直に僚が教えてくれるとも思えない。そうなると真相は闇の中だ。
ただ僚が戻ってこいと言ってくれた。それだけでいいと香は思った。
麻理絵の父親であろうとなかろうと香は僚と共に行くと決めたのだから。
 
 さすがにキッチンのテーブルもうっすらと埃がかぶっている。
香はやかんを火にかけ、コーヒーを取り出す。
コーヒー缶は湿気を吸って使い物にならなくなっていた。
「確か買い置きを冷凍庫に入れておいたはず…」
缶の粉を空にして冷凍庫の扉に手をかけた。
ふと、冷蔵庫の扉に付いているマグネットが目に入った。
(出て行く前に、全部はずしていったと思うんだけど…)
不審に思いながらも香はそれを手に取った。
そして手に取った途端、驚いて落としそうになった。
それは小さな小さな紙片だった。
(これ…麻理絵ちゃんのペンダントの中に入っていた…僚の…)
冷蔵庫にマグネットで張りつけれら手いたのは写真だった。
「おいおい、吹き零れるぞ」
いつのまにかキッチンの入り口に持たれかかって僚がいた。
「僚…これ…」
香が写真を見せると僚は照れくさそうな、なんともいえない表情をしていた。
「麻理絵がお前にって…」
「な、なんで…」
「ペンダントには本当の父親の写真入れるんだと…」
「え…あ…」
コーヒー早くしてくれよ…そんな僚のつぶやきと遠ざかる足音が聞こえた。
 香はその言葉をかみ締める様にして、写真を大事そうに掌で包んだ。
そして祈る様に胸に寄せた。
 その後、その小さな写真は香の部屋にある兄の写真の裏にひっそりと飾られた。


☆ ★ ☆


朝起きて、ストレッチしつつ着替える。
洗濯機を回すと、朝ごはんの準備をする。
下ごしらえが済んだら、ゴミ捨てに行って、ついでに新聞をとってくる。
階下から上ってくる時は勢いをつけて、6階まで一気に駆け上る。
新聞からチラシを抜いて、新聞はリビングにおいて、チラシだけ持ってキッチンへ。
キッチンに入ると、ごはんが炊き上がろうとしている良い香りがする。
そのまま、朝食の準備を始める。
並べ終わると同時に、ごはんが炊き上がったことを知らせる炊飯器の音が鳴る。
行儀は悪いけれどチラシで本日の特売をさがしながら、朝食をする。

食べ終わって片付ける。
かごを洗濯の山にして、リビングのベランダに向かう。
テレビをつけて、ワイドショーの話題を聞きながら洗濯物を干していく。
何回か往復して干し終わった時には結構良い時間。
新聞を読みながらテレビも見て、ひと段落ついたらテレビを消して、リビングと廊下と客間をざっと掃除機をかける。
そろそろ、僚を起こさないと。

「こらーーーーっ!!僚!!いつまで寝てれば気が済むんだーーーっ!!」

ドスンッ

いい音がサエバアパートに響き渡った。

「か、かおりちゃん…今日も絶好調ね…」
「おかげさまで、ねっ」
僚はそんな笑顔の香の鼻を弾いた。
「なにすんのよー、もう。あ、そうそう、園長先生からはがきが届いたんだよ」
「あん?…つかお前、ここどうしたの?」
僚は自分の首筋を指で指した。香も自分のその場所をみる。
香の首筋には小さなシップが貼ってあった。
「あぁ、これ…なんかぶつけたみたいであざになってるのよ。痛くないんだけど念の為」
「ふーん」
そう言うと僚は少し笑いを堪えた表情でタバコを取り出し、火をつけた。
香はそんな僚に首をかしげながらも続けた。

「それでね、はがきなんだけど。幼稚園、整備して公園にするんだって。あと大きな池も作るらしいのよ…」
 僚はタバコの煙に咽た。あの落とし穴はどうやら有効利用がされるようだ。
「もう、なに一人で笑ってるのよ、きもちわるい」
「なんでもねーよっ、さってナンパでも行って来るかなー」
「なにぉう」

新宿にいつもの風景がもどったようだ。

「あーん、僚。教授からすっごい金額の請求書がきてるわよ〜!」

 


END

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*終わったーーー!!
言い訳したいことは数あれど、とりあえず完結したことにほっとしています。
皆さんのカキコやメールに励まされ、なんとか終わることができました。

書きたかったのは33巻かな?で言っていたでしょう?
「手放そうかこのままでいいか悩んだ」と。でも本気で手放そうとしてたのって
銀狐の時(浦上さんのときもか?)くらいな気がしたのでもう一回くらいあっても
いいんじゃないかと思って書いてみました。
だから結構あっさり香を出て行かせてるのですよ。
結局もとさやに落ち着いてしまいましたが。

よろしければ感想をお聞かせください。
もっともっと精進しますのでこれからもよろしくお願いします。

ありがとーございました。