雨の記憶

香はめずらしく、自室のソファーに座ってコーヒーカップを手に持ちながら
窓の外をぼーっと眺めていた。
窓には雨があたっている。
6階のこの部屋の窓まであたる雨なんてめったに無い。
ここではあまり雨音はしないけれど、きっと大降りなのだろう。

こんな日にナンパに出掛けたって成功するわけないのに…

いつの間に買ったのか新品の傘をうれしそうに回しながら、うきうきと相棒が出て
行ったのは1時間ほど前になるだろうか。

「ばっかみたい…」
そうつぶやきながら香はお風呂にお湯を溜める。

なんかあまりてきぱき行動できないな…
そのまま香はソファにごろりと寝ころんで、雨を眺めて居た。



雨の日、確かに嫌な事を思い出すけれど、でもそんなに嫌いな日では無かった。
お母さんが買ってくれたまっ赤な雨ガッパは丈が長くて、いつも着ている
洋服は動きやすいものばかりだったけど、カッパを着るとちょっとドレスっぽくて
絵本に出てくるお姫様みたいで実は気に入っていた。
雨が降るとそれが着られるからウキウキしていたんだ。

長靴はアニキが選んだピンク色の靴。
アニキはあたしに女の子っぽいアイテムを良く選んでいた。
ちょっとでも雨が降りそうな天気になると、あたしはいつも玄関脇の物置の前で
いそいそと雨カッパを着ようとしていた。
でも、物置のドアは重く、カッパが掛かっている所には手を伸ばしても
全然届かなかった。

「また、香は外に出ようとしてる〜」
アニキが困ったように玄関からランドセルを背負って帰ってくる。
「かーえり、アニキ」
それでもカッパをとりたくってアニキをみないで背伸びした。
「もう、雨降ってきそうだから、部屋に戻んなさい」
「いやー、かっぱ着るの。ピンクのはくの〜」
アニキは軽くため息を付いて、下駄箱の上にランドセルを置いた。
「母さーん、香と公園行って来る。雨降ったら帰ってくるから」
アニキはそういいながらあたしに赤い雨かっぱを着せてくれたんだ。
「香はホントそのカッパ好きだなー」
アニキは体格に似合わない大きな紺色の傘を引きずりながらあたしの手をとって
公園に連れていってくれたんだ。
「うん、好きー。可愛い?」
「うん、可愛いよ」
アニキが顔をのぞき込んで笑ってくれる。
その笑顔が好きだった。
「あ、雨降ってきたよ、香。もう戻らないとね」
「いやー。水たまり〜入る〜」
アニキは傘を広げるとあたしのカッパのフードを引っ張って、アニキの傘の中に強引に入れたんだ。
つながった手はそのままで。


カチャ

玄関のドアが開く音がする。
「やっと帰って来た。思ったより早いお帰りね」
勢いを付けてソファから立ち上がる。
出して置いたタオルを手に持って玄関に向かった。
僚は雨に濡れたコートを軽く払って居た。
水しぶきがそこらに散った。
「もう、なにやってるのよ。玄関濡れちゃうじゃない」
「さっみー。雨は本降りだぜ〜」
「何当たり前の事言ってるのよ。朝から降ってたじゃない。もう」
香は僚にタオルを渡して、代わりにコートを受け取った。
「お風呂涌いてるよ。そのまま入ってくれば?」
「わお、気が利くのね、香ちゃん」
「バカ言ってないの。あんたに風邪ひかれたら迷惑なのよ」
そのまま僚に背を向けた。
その背中に僚が声を掛ける。
「おい、香」
「何よ」
めんどくさそうに振り向いた香の前に一本のピンク色の傘が差し出された。
「何?これ」
「傘」
「んなの分かってるわよ。なんであんたが女物の傘持ってるのよ」
ナンパした相手の持って来ちゃったんじゃないでしょうね。
「お前の傘、壊しちゃったからな」
「え…」
「これからの季節は無いと困るだろ」
「あ…ありがとう」

ついこの前、僚と買い物に行った帰り僚を狙う連中に襲われた。
街中だったから銃を使うこともできなくて、僚は素手で闘っていた。
最後の一人はナイフ使って向かってきた。
その時に僚は香が持っていた傘を奪い取って、そいつを突いた。
男と傘はそれで最後だった。
香が持っていた傘はお気に入りの傘だった。
黄色だけどそんなに女らしくなくて、自分の雰囲気に合ってると思っていた。
だけど、僚が助かれば傘がダメになったことなんて大した事じゃない。

なのに…

「なんでピンクの傘なのよー。あんたってセンスなーい」
「はぁ、お前に言われたくねーよ」
「げ。だって可愛いすぎるよ、これ」
香は傘をその場で広げた。
大きな花が一面に描かれている。広げただけで気分が明るくなる。
「あ、イイかも…」
「じゃ、俺はひとっぷろ浴びてくるかな」
僚は傘を広げている香の脇を通り抜けた。
「僚!」
「…あん?」
「ありがとー。気に入っちゃったよ。外に出てこようかなー」
「ばーか、風邪ひく気か、おまぁ」
僚のぼやきは聞かない振りをして
微笑みながら、香は新しい傘をくるくると回していた。

ーアニキが選んだ長靴と同じ色のピンクだよ、これー

遠い記憶の色が一致した。
明日、新しい傘を差して、アニキに逢いにいこうかな。


終わり


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