| 地図中の数字付きボタンにて、JavaScriptを使用して写真をご案内しております。 全て新規画面設定ですので、まめに閉じてくださいネ。 |
|||||
| このエリアが、マンハッタンで、どのあたりかお知りになりたい方は、こちらをクリック! | |||||
今回は、「タートル・ベイ Turtle Bay」の散策です。このエリアは、第二次世界大戦後、国際連合(United Nations)の本部が置かれるまでは、低所得層の東欧系移民の街であり、また家畜小屋やビール工場などがあったエリアです。
42St沿いには、(1)(2)(3)ビルが並びます。「都市の中の都市」としての古典とも言うべき(4)複合住宅エリアが見えてきます。 1Aveで(5)国際連合の本部を散策です。 47Stを出て西(地図では上)へ。 (6)日本文化のセンターがあります。(7)(8)NYの歴史建築を2Ave、3Aveの間で見たら、(9)2Aveで北(地図では右)へ。 (10)サットン・プレイスと呼ばれる一角で、イースト・リバーを眺めたら57St、そして58Stとで西(地図では上)に戻っていきレキシントン・アベニューに出ます。(11)名門百貨店、(12)ユダヤ寺院、(13)(14)新旧高層ビルがあります。 パークアベニューへと西へ1ブロック。(15)豪華ホテルを見た後に、(16)パークアベニュー南の風景を眺めたら、お散歩終了です。 「タートル・ベイ」は、南は43St、北は53St、東はイースト・リバー、西はレキシントン・アベニューというエリアです。名前の由来は「タートル」=亀、がたくさんいたからだとか、「タートル家」の土地だったろう、など諸説がありはっきりしていませんが、オランダ人入植の頃、このあたりは「入り江」がたくさん切れ込んで岸はギザギザで、それがナイフの刃=オランダ語で「duetal」のようであり、この「deutal」が英語で「タートル」と訛ったのではないか、というのが有力なようです。南北戦争前(1861-65)までは、ずっと「田舎」の農園でして、エドガー・アラン・ポーも居住していたそうです。 1868年、ギザギザの入り江は埋め立てられました。 19世紀後半は、NYの産業拡大期であり、マンハッタンの西側は広範囲に工場や屠殺場などが建ち並びましたが、東側ではこのタートルベイの辺りのみがが産業集中エリアとなったようです。 ただし「タートルベイ」より北側では、「ヨークビル」に住むドイツ系移民の影響もあり、ビール工場は例外的にまんべんなく存在していたようです。
東欧系低所得者層の住居地帯は、この「タートル・ベイ」から北上し、現在のアッパー・イースト・サイドの東南あたり、60St台で3アベニューより東側-まで広がりました。 (1920年時点の高架式鉄道網はこちら。) 一方、「サットン・プレイス Sutton Place」といわれる一角−南は53St、北は59St、ヨーク・アベニュー沿いは、1920年頃にちょっと例外となりました。この場所は、その以前は「Dead End」(デッド・エンド)と呼ばれる、(川で)「行き止まり」と「究極」の意味を持つスラムで、「デッド・エンド・キッズ」なる非行少年グループ?が登場する映画「汚れた顔の天使 Angels With Dirty Faces」(1938)の設定場所でして、ジェームズ・キャグニー、ハンフリー・ボガード(売り出し前の脇役)らの出演しました。 その環境は、1921年、「鉄道王」バンダービルトの未亡人、そして「金融王」J.P.モルガンの娘であるアンが住居を建設、入居し、その一角は「ファッショナブル」な街へと変化しました。 さて、この主として東欧系の低所得者の居住地であり、屠殺場、工場などがあった「タートル・ベイ」の環境が一変したのは第二次世界大戦後、「国際連合 United Nations」が、この地を本部にすることになったからです。 - 国連がやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ! - アメリカの様々な都市からいわゆる「誘致活動」が行われました。サンフランシスコ、フィラデルフィア、ボストンなどなど。ちなみにニューヨーク市は当時最低の住居土地不足に陥っており、誘致の出足が遅れています。1946年1−2月にかけて、ロンドンで第一回国連総会が開催され、ニューヨークに仮の本部を設置することになりました。開催場所は、ブロンクスの、ハンターカレッジ(現在は「アッパー・イースト・サイド」に移転)のキャンパス。体育館を改造した場所で「安全保障理事会」が開かれたのは1946年3月21日。 ブロンクスの仮住まいにやってきた各国の代表は、マンハッタンの、特にミッドタウンに本部設置を望みます。そりゃそうですよねぇ、仕事帰りにレストラン、バーは充実、ショー観劇まで楽しめますから。この辺は、国連職員も観光客も替わりませんなぁ(笑)。 しかしマンハッタンには、国連本部のための大きな土地がない!!しかも、NY市には金もない!。 1946年11月には、ボストン、フィラデルフィアそしてサンフランシスコが有力候補であり、ニューヨークは落選寸前の情勢。NYの国連誘致委員会のメンバーは、ウィリアム・オドィアー市長、NY市建設部門の「帝王」ロバート・モーゼス、NYタイムス発行人アーサー・シュルツバーガーそしてIBM社最高責任者のトーマス・ワトソンでした。 彼らは、落選から免れるために、NY市が保有する、全米オープンテニス会場で有名な、クィーンズの「フラッシング・メドウ」全部を無料で貸し出す案を国連に提出しますが、当時のリー国連事務総長が答えたのは、もしNY市が当選したいのであれば、もっと魅力的な案でないとダメ、という言葉。 ここでマンハッタンの「ミッドタウン」である「タートル・ベイ」を、という案がを持ち出されます。当時の「タートル・ベイ」は、家畜小屋、屠殺場などの工場がある、あまり良い環境ではありませんで、その土地を一気に買収して国連本部としよう、というプラン。 右の写真は、国際連合のホームページ内に掲載されている、国連本部の土地の、建設前の姿です。確かに、工場などが並んでいるエリアですね。「魅力的」ということを、「無料貸し出し」より優遇なこと、というわけで、土地を「無償提供」できないか、ということになりました。 そこで「ロックフェラー家」にすがろう、ということになりました。ロックフェラー家の、後のNY州知事そしてアメリカ副大統領となる「ネルソン・ロックフェラー」を通じて、ロックフェラー本家への接触を図ります。 ロックフェラー家の当主は、石油王である初代「ジョン・D・ロックフェラー」から、この当時は二代目である「ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア」となっていました。彼は、篤志家であり、国際的な活動に積極的に援助していまして、その財力に期待しよう、というわけです。ちなみに、「ネルソン・ロックフェラー」は、その二代目の次男にあたります。 1946年12月の初め、ボストンから国連へ具体的な誘致案が届き、これで決まりかというムードが流れる中、エエイと、「清水の舞台」ならぬ「リバーサイド・チャーチの尖塔」から飛び降りるかのように?(笑)、「ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア」は12月11日、国連に「タートル・ベイ」を購入する費用として、850万ドルを寄付することを発表しました。前回までのNY市の案は、あくまでも「貸料無料」でのNY市が保有するフラッシング・メドウの提供でしたが、今回は国連に「買取費用」提供です。そして、850万ドルと言えば、現在の為替レートで9億円。60年前と現在のアメリカのGNPは、少なくとも100倍以上、200倍近く違っています。この金額は、「寄付」としてはまさに「天文学的数字」でしょう。 次男坊ネルソンも思わず叫んだそうです; 「なんだって、パパ、最高に寛大だね!!Why, Pa, that's most generous!」。 NY市は国連本部予定地の周辺の整備、そして国連職員の宿舎を建設し低家賃での提供を約束。ロックフェラーの発表から二日後、国連総会はNYに本部を置くことを決定、1947年から建設が開始され、1953年に完成しました。 一方、高架式鉄道が2Ave線は1942年、3Ave線は1955年に廃止されたこともあり、この辺りには国連に派遣された外交官など向けのアパート、ホテルが建つなど急速に環境が改善し、現在に至っています。 ―――― NYで散策をしている際に時々気が付くんですが、NY市の再開発のパターンは、スラム化などをしている場所に大型建築を行い、それを中心として周辺の環境を改善させようとする、というパターンがあります。例えば「アッパー・ウェスト・サイド」の「リンカーン・センター」、「ヘルズ・キッチン」では「ワールド・ワイド・プラザ」などなど。ここ「タートル・ベイ」では「国連本部」、という次第ですね。いずれ、ご紹介する予定ですが、「The Power Broker」と呼ばれた、「ロバート・モーゼス」というNYの建設部門の「帝王」がスラム対策として用いた「手法」でして、後日、ご紹介できればと思う次第です。 さて「国連本部」の土地ですが、ロックフェラーが寄贈する前に、所有者がバラバラであったのを、ある不動産業者が実はすでに「買占め」て、単独保有となっていたそうで、従って、非常に短時間である一ヶ月程度で、ロックフェラー・ジュニアの「寄贈」という決断一つで具体的なプランとして国連に提案できたわけです。 したがって「買占め」ていた不動産業者は、おそらく「ロバート・モーゼス」との関連もあり、行政当局からの補助金は期待していたでしょうが、なんらかの大型事業プロジェクト、おそらく高層ビジネスビル群を考えていたんでしょうね。ロックフェラーの「寄贈」を見越して、先回りして買い占めていた、というのはチョット考えすぎだと思います。「ロックフェラー・ジュニア」は、「ロックフェラー・センター」(1931-39)の開発を手掛けましたが、それは大不況時代(1929-42?)に、投資と雇用を提供したという大きな「公共性」はあったものの、あくまでも「事業」です。 投資資金の回収がリスクはあるものの、ある程度見込める「事業」ではなくて、単なる「寄贈」というのは、次男坊「ネルソン・ロックフェラー」が言うように、さすがに「最高に寛大」で信じられない決断でしょうから。 (約11000文字もある長ーいものですが(苦笑))さらにご興味のある方は、以下をクリック!) fujiyanの添書き:ロックフェラー家 - 「石油王」ロックフェラー
|
| 「マンハッタンを歩く」 のメニューへ |
トップページへ |