(アイルランド系移民とタマニー協会)

「アイルランド系」の人々の、特別な居住エリアというのはマンハッタンに特にない、というのが現在までのfujiyanの見解です。19世紀半ばからは西側の「ヘルズ・キッチン」だ、という考えもあり、確かに多数のアイルランド系の人々が住んでしましたが、彼らの移民の歴史は非常に古く19世紀初頭にまで遡るため、ホントに色々なところに住んでいました。そこで、彼らの宗教的な拠り所である最古の建築物、「セント・パトリック・オールド聖堂」が登場した、この「SoHo/リトル・イタリー」散歩の稿に書き添える次第です。

アメリカ独立前から、彼らは移民していたようですが、飛躍的に増加したのは1830年代から、そしてそれがさらに急増したのは、「The Great Famine:大飢饉」でした。1845年に胴枯れ病に主食のジャガイモが犯され、当時900万人だったアイルランド人のうち、100万人が餓死し、150万人がアメリカに移民したそうです。

彼らは、母国文化に対する愛が強いことで知られています。もっとも大きな特徴は、「カソリック」であることです。アイルランドに、432年?に渡ってキリスト教を布教した宣教者、「聖パトリック」(St, Patrick) を守護聖人として崇めます。その命日である3月17日に毎年世界各国で行われる「セント・パトリック・パレー」(St. Patrick's Parade)は、アイルランド系最大のお祭りであり、NYでのそれは規模の大きさで有名です。

NYでのアイルランド系カソリックの建築物としては、1815年に写真(1)でご紹介した 「オールド・セント・パトリック聖堂」(St. Patrick's (Old) Cathedral) が、そして1878年にミッドタウン5番街に燦然と輝く、「セント・パトリック聖堂」(St. Patrick's Cathedral)が建設されます。

さてアイルランドは、11世紀頃から長い年月にわたりイギリスに侵略され、1800年にイギリスに併合。そのためアイルランドでは、「カソリック」と「プロテスタント」が混在することになり、現在の「南北アイルランド問題」に繋がります。「プロテスタント」としては、2派ありまして、「英国国教会」と、スコットランド生まれの「長老派協会」(プレスビテリアンPresbyterian)。
17世紀頃から、アイルランドに、人種的には同じ「スコットランド人」が、主に島の北部に「入植」してきましたが、その信仰は「プロテスタント」。しかしアイルランド全体でみれば長老派、英国国教を含め「プロテスタント」は圧倒的な「少数派」であり、大多数は「カソリック」でした。

アメリカ独立前にアメリカに移民してきた「アイルランド系」移民とは、スコットランド系と、プロテスタントに改宗した地元アイルランド人を合わせた人々で、「アングロ−アイルランド系」あるいは「スコットランド−アイルランド系」と呼ばれています。ちなみに「カソリック系」の「アイルランド系」移民も当時NYに移民していましたが、彼らはそのカソリック信仰を「隠して」いたようです。

しかし、19世紀からは「カソリック系」の移民が中心となります。現在では、単に「アイルランド系」と言いますと、「カソリック系」であることを意味しています。

「アイルランド系」移民は米国内で、「言語」(現在ではアイルランドはほとんど英語ですが、当時は「アイルランド語」だったそうです)、そして「人種」(ケルト系)から来るそれとともに、宗教的な差別に晒されました。英領植民地時代のNYでは、カソリック信仰が禁止されていましたが、独立戦争当時にカソリック国であるフランスと対英同盟関係になったこともあり解禁、1785年にローワー・マンハッタンに現在の「セント・ピーターズ教会」(St. Peter’s Church)が有るあたりに、アイルランド人のみならず他民族も含んだカソリック信仰の一種の学校?が設立(建物は1839年竣工)したものの、その後も冷淡でした。

「No Irish Need Apply」(アイルランド人お断り)−求人を告げる張り紙に記載されたように、多くの企業が、アイルランド系を、長い間雇用しようとしませんでした。結果、職業としては、単純労働とともに、公的機関が提供する職に従事します。橋などの公共工事、そして教養ある(英語が出来る)アイルランド系は、警官、消防士、教師などの職に携わります。警官、消防士、教師など職は、カソリックという彼らの規範にも合一するせいか、親子代々同じ職業という家も多いそうです。NYの「セント・パトリック・パレード」 に、多くの警官、消防士が参加するのは、その名残です。

アイルランド系移民は、一般的にフレンドリーな気質であると言われています。良く言えば「気がやさしくて力持ち」、悪く言えば「うすのろで喧嘩っ早い」というステレオタイプのイメージが、文学、演劇、映画、テレビにより押し付けられています。アイリッシュである、ジョン・ウェインの西部劇は、その典型ですね。これも一種の差別と言えるかもしれません。(日本の方々のNY観光談で、「NYの警官は、とってもフレンドリー!」とか、警察官達とご本人らの記念写真等を拝見すると、「フレンドリー」+「警官」=「アイリッシュ」なんだろうな、ってすぐに思ってしまいます。fujiyanも十分、反省しなければいけませんね。)



− 「タマニー協会」:NYを支配する政治マシーン −

ハンデの大きいアイルランド系移民でしたが、その一部の人間はNYで権力を握ります。政治団体「タマニー協会 Tammany Hall」を彼らは掌握することになったからです。

1786年に設立されたこの協会は、もともとは、建設関連の有力者を中心とする親睦会、慈善団体でした。第三代大統領「トマス・ジェファソン」が、ワシントン、アダムスと続く、国権拡大主義+少数エリート政治である「連邦派」政権を打破する選挙(1799)のため、現在の「民主党」(当時の名称は「共和党」)を結成、「草の根」運動を行ったわけですが、その際に「タマニー協会」を利用し政治色が強くなります。
特に1820年、NY州では白人男性の選挙投票資格に財産条項を撤廃したため、新たにアメリカに渡ってきた移民たちを中心とする貧困層の面倒をみて、選挙の時には投票してもらう、という方法が推進されていきました。「民主党」のシンパの政治団体、というわけですね。


(”ボス”・ツィード登場)

Boss Tweed最初にこの「タマニー協会」を支配した「ボス」は、「ウィリアム・”ボス”・ツィード」 (William "Boss" Tweed)でした。
彼の「人種」についてはあまり、正確なところはわからないようで、彼も公開していなかったようですね。彼のお墓はブルックリンの「Green-Wood Cemetry」にあり、ここは無宗派墓地ですので宗派もわかりません。ただ多くのサイトでは「長老派教会」(Presbyterian)であり「アイルランド=スコットランド系」ではないかとしており、fujiyanも基本的に賛成です。しかし彼の「したたかさ」を考えると、元来は「カソリック」だったのだが「都合上」、プロテスタントに「改宗」したのではないか、と大胆に推測してみたくなります。

彼は、1850年代にタマニー協会の理事の1人となり、メキメキ頭角を現します。地域リーダーを組織し、急増するアイルランド系移民の票を狙ったカソリックのサポートや、移民や貧困層への慈善行為により、その権力基盤を築きます。
1863年にタマニー協会のリーダーとなり、"Boss"というニックネームを得ます。その後、NY市出入りの印刷会社や事務用品販売会社を買収し、NY市からの発注に対して実勢とかけ離れた値段を付ける、という具合にして巨額の財を得て、それを不動産に投資するというものでした。

1867年にNY州議員となってからは、不正発行された鉄道会社の株式を合法化させた見返りに大量の当該会社株式を得て当人は経営陣入りするなど、その不正は加速します。選挙・権力基盤の拡大のため、病院、(カソリック系)学校などの建設や福祉事業を推進したり、ブロードウェイの道幅拡大やメトロポリタンTweed Ring - Who Stole People's Money?美術館の敷地をセントラル・パーク内に確保するなどで人気取りを行う一方、その事業の理事長となっていましたのでリベートはガッポリ、ということですね。

不正が頂点に達したのは、彼がNY「州」内部の「市」管轄委員会の責任者であった1870年に訪れました。彼は、NY市の会計監査部門の変更承認をNY「州」が行うときに、そのNY市会計監査部門を、後に「ツィード・リング Tweed Ring」と呼ばれる、自分の息のかかったメンバーに仕切らせます。その後NY市が発行する公債からのお金を、会計をごまかして着服し膨大な財を得ます。その結果、1869年から71年までの間にNY市の借金は3倍に膨れ上がり、地方税も急上昇します。

THE "BRAINS" by Thomas Nastその「ツィード・リング」に対し立ち上がった人々の1人が風刺漫画家のトーマス・ナスト(Thomas Nast 1840-1902)でした。
彼は厳格な「共和党」員でもあり、1871年7月から、「ツィード・リング」の贈収賄を盛り込んだ、上(「誰が皆の金を盗んだか?」:ツィード・リングの批判)、や右(「脳みそ」:ツィードの体型を漫画にして、彼の頭は金で一杯、という批判)などの風刺漫画を発表します。ちなみに、ツィードはこの「オレの支持者は記事を読むことが出来ないから何を書いても良いが、漫画だと理解してしまう」とカンカンだったとか。

NYタイムズの会計追求記事をきっかけに、1871年10月にタマニー協会の会長再選の直後に、ツィードは逮捕されます。彼は、刑事裁判では1年の実刑でしたが、1876年民事裁判で罰金600万ドルの判決を受け逃亡、フロリダ、キューバそしてスペインまで行き着きます。アメリカに連れ戻され事件の全貌を証言した後、1878年に獄中で病死。ちなみに、ツィードとその一味が着服した金額は、3000万ドルから2億ドルまで推測幅は広いですが、120年前でのその金額は、陳腐な言葉ですが「天文学的」金額と言えそうです。


(ジョン・ケリーから10代に渡り、アイルランド系カソリックのボス)

ツィードの後の1872年に、協会を掌握した「アイルランド系カソリック」の ジョン・ケリー(John Kelly) は、「ツィード・リング」のナマナマしさから反省して?、タマニー協会を洗練された政治マシーンへと変貌させます。協会が、地域リーダーを選び、その近所の住民が急病や火事、法的な揉め事などの時には、地域リーダーに親身にサポートさせ、いざ選挙の際には票の取りまとめを行い、協会の利益に適う候補者を当選させる、というメカニズムです。当選の見返りとしては、公共工事、買収予定地などの法案情報、公務員を含む職の斡旋などでした。とくに買収予定地を先回りして購入すれば、その儲けはデカイことになっていたようです。(どこかの極東の島国が、現在これと同じ状態なのが、なんともはや(苦笑)。もしかすると、某島国のどなたかが、このメカニズムを研究して、本国に持ち込んだのかもしれませんね。)

ケリーを含み以降10代に渡り、「アイルランド系」が、この協会のボスとなります。癒着した政党は民主党です。ユダヤ人とドイツ人も、この政治集票マシーンに認められていました。国会議員、NY州議員、そして裁判官まで、協会が決めているんですから、凄い力です。イタリア系移民は、彼らがあまり政治に興味がないこともあり、無視されていました。黒人居住区については、選挙区としてはバラバラに分割し隣の白人居住区と合併させ、黒人票の影響を低下させ(マサチューセッツ州で行われた「ゲリマンダー」という政治手法」)ます。


(「タマニー協会」そしてNYの「ストリート」が産んだ最大の政治家:「アル・スミス」)

「タマニー協会」出身の最大の政治家は、「アル・スミス」(Alfred Emanuel Smith 1873-1944)です。

彼は「ブルックリン・ブリッジ」のマンハッタン側、現在の「サウス・ストリート・シーポート」に程近い、貧困層のスラム街=「ローワー・イースト・サイド」に生まれた、貧しい「カソリック−アイルランド系」移民の三世です。個人で馬車運送業をしていた父が亡くなると、日本でいえば中学校を中退し働きに出ました。後年、「オレの学位はF.F.M.だ」と答えては笑っていたそうですが、これは「Fulton Fish Market」、つまり「フルトン魚市場」での肉体労働という「ジョーク」です。政治家としての素質を「タマニー協会」に見出され、「魚市場」を「卒業」して雑巾掛ののち、1903年からNY州議員となりました。

当時はNY州知事そして議会は共和党の長期支配が続いており、実は民主党系タマニー協会にとって州議員は「旨み」のあるポストとは言えず、まあ、「閑職」でした。通常の読み書きにも不自由したスミスでしたが、議会に提出された全法案を、法律辞典と首っ引きで読解することを自らに厳しく課した結果、法案知識に最も精通した州議員となります。また共和党政権が長期化するなか肥大化した州政府の行政改革運動にも参加し、民主党のみならず、共和党内改革派の人々からも親交を求められる存在となりました。

彼の転機は、避難設備が劣悪なブラウス工場で働いていた、「ローワー・イースト・サイド」居住者を多数含む145名もの女工さんたちの命を奪った、1911年の「グリニッジ・ビレッジ」「トライアングル社火災」でした。労働環境調査団にスミスも自薦で参加、その悲惨な環境を目の当たりにします。

提出された労働環境改善法案を、「タマニー協会」仕込みの政治テクニックを用いた獅子奮迅の働きで成立させ、その後は経営者寄りの法改正阻止に全力を注ぎ、改革派の政治家/市民は、彼は単なる「タマニー協会」の御用聞き政治家ではない、と見直すことになります。

一方、州議会で民主党が多数派になった、「禁酒法時代」(1920-33年)の、ある一期(当時は一年間)にスミスが州会議長となり、「タマニー協会」贔屓のホテルにだけ酒類販売を許可する法案修正を行い、「派閥」とそのスポンサーへご奉公するなど、今日の日本でも見受けられる「派閥政治家」らしい立ち振る舞いを示しています(笑)。

大きな鼻で、口には葉巻を絶えず咥え、ツバを吐きまくるその姿は、まさにNYの「ストリート」が産んだ政治家でした。その姿でどういうわけか(笑)、ご婦人の支持を得たようです。婦人投票権がNY州で認められた初の、州知事選挙で事前予想を覆し共和党候補に1918年に勝利、州行政改革へと乗り出すものの失敗し、1920年には僅差ながら落選(当時、任期は二年)。

1922年に再当選し、28年までに二度再選され、その間に州行政改革をようやく達成する一方、社会改革者として、一般大衆のために多数の大型「州立公園」を建設しました。

アル・スミス行政・社会改革者としての成功から、1928年民主党の大統領候補となりましたが、共和党フーバーの前に地滑り的な落選を被ります。
選挙人の数では、87名対444名、勝利した州はわずかに8州、お膝元のNY州も僅差(47.4%対49.8%)で失いました。

1920年代後半は経済的に大好況であり、その当時の共和党政権を特に否定する理由が無かったことにが主要因ですが、スミスが反「禁酒法」姿勢を示したことに加え「カソリック」であることが、反感を買ったためとされています。カソリックへの差別感は、未だ全米を覆っていた時代でした。

その後、政治の表舞台からは姿を消し、「エンパイア・ステート・ビル」社の社長となります。大不況発生(1929)によりカソリックであることが論点から外れると読んで、再度1932年の大統領選に出馬しようとしますが、民主党候補選で敗退。その後、1944年に亡くなりました。

ストリート出身の、政治マシーン「タマニー協会」が生み出したスミスは、社会的弱者の味方であり、しかも改革を実現させた業績は否定のできないところです。ちなみに後年、彼の生家の周辺に、スラムを撤去し建てられた低所得者向け集合住宅は、「アル・スミス・ハウス」と命名されました。


(タマニー協会の衰退:改革派ルーズベルト大統領とラガーディアNY市長)

アル・スミス引退後、協会に落日の時が訪れます。協会の基盤であるアイルランド系、ユダヤ系そしてドイツ系住民の選挙区外への転居も多くなり、選挙への投票コントロール能力が低下していきます。まず、民主党の大統領候補選(1932)でフランクリン・ルーズベルトを落選させることに失敗します。元協会の有力メンバーであったアイルランド系のエド・フリン(Edward J. Flynn)がルーズベルト陣営に付き、ルーズベルトは、民主党の大統領候補選に勝利し、その後大統領となります。結果、タマニー協会を使わなくとも、フリンを通じて、民主党そしてホワイト・ハウスに陳情できる訳ですので、協会の影響力に陰りが見え始めます。

ユニオンスクエアそばの旧「タマニー協会」本部「タマニー協会」の権力に終わりをもたらしたのは、名物NY市長ラガーディアでした。彼は、共和党を母体とする改革派の統一候補としてNY市長に当選、1933年から1945年の三期に渡りその座にありました。

公職に従事する人間に試験や経験などを課したため、「タマニー協会」の息のかかった人間は次第に排除されていき、結果、彼の就任期間である12年は、協会にとって一種の「兵糧攻め」となります。協会は、1943年に本部ビルの住宅ローン金利が払えず、ビルを売却するまでに追い込まれます。

1945年に再度、民主党がNY市長の座を掴みますが、既に「タマニー協会」は実質上、その運営を終わっていました。

「タマニー協会」は、政治的な不正・癒着の象徴として、現在にもその悪名が伝わっています。しかし、差別を受けていたアイルランド系移民を中心として、その権力構造が出来あがったわけであり、差別を受けていた側が、そのハンデを乗り越えるために作り上げたシステムという部分もあるのではないか、とfujiyanは思っています。

「タマニー協会」のアル・スミスが届かなかった大統領の座に、「カソリック−アイルランド系」である「ジョン・F・ケネディ」が就き(1961)、アイルランド系アメリカ人への差別は、ようやく終わりを告げたと言う事ができそうです。


−参照サイト、文献−
-エールスクエアへようこそ -
アイルランドの歴史が簡潔にまとめられています。。
-The Political Graveyard -
政治家の、「お墓」の場所のデータベース!!。便利。
-The Power Broker -




2001/08/29 「Tweed Ring」関連テクストを追加
2002/10/30 アイルランドの歴史、ツィードのプロフィールを追加。
2003/2/2 アル・スミス、そしてプロテスタント−アイルランド系を追加。

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