マンハッタンを歩く:特別編
< NYを彫刻した男−「ロバート・モーゼズ」 >
−V 川 岸−

モーゼズは、マンハッタン島の東岸、西岸の二つの大プロジェクトを完成させます。
東岸は「トリボロ・ブリッジ」の開通、そして西岸は「ウェスト・サイド改善計画」です。

(マンハッタン東岸:1936年「トリボロ・ブリッジ」開通。)

1936年7月11日、モーゼズにより、「トリボロ・ブリッジ」(Triborough Bridge)開通
建設は、1929年10月から開始されたものの、同月に株式市場が大暴落、「大不況時代」となり、遅々として進んでいませんでした。

そもそもは、NY市、NY州共同の公共事業。「タマニー協会」ジミー・ウォーカー市長の関係者が建設事業を請け負い公金分配の「餌」となってしまったのは、いつもの通りでした(苦笑)。
ちなみにラガーディア市長は開通式典のスピーチで、「この橋は、鉄鋼(スティール)でできています。S-T-E-E-Lですよ、S-T-E-A-L(盗む)ではありません、お間違えないようにお願いします。S-T-E-A-Lにしない為、皆様に通行料の負担をお願いするわけです。」、というジョークを飛ばしたとか(笑)。

1933年の初め、NYの大不況対策たる緊急公共事業部門の責任者であったモーゼズが「トリボロ・ブリッジ公団」(Triborough Bridge Authority)を創設。橋建設を行政予算から分離させ、建設資金調達を連邦政府に仰ぎ、開通後の通行料で負債を返済していくというシステムでした。そして1934年にNY市政府入りしたモーゼズは、自らが創設した同公団の責任者ポストを希望し、就任したというわけですね。

「イーストリバー」に浮かぶ二つの島−ワーズ島、ランドルズ島を足元とし、「ブロンクス」、「クィーンズ」そして「マンハッタン」という、三つ(トリプル Triple)の行政区(ボロー Borough)を4つの橋で繋いだ壮大な橋。

モーゼズは当初の荘厳なデザインを、実用一点張りのものへと大幅に変更し、「橋」自体の建設費用を大幅に節約。そして、「橋」の利用を促すことにより負債返済のための将来通行料収入を大きくしようと、橋へのアクセス構築に多額の費用を回していきました。

マンハッタン島東側モーゼズの「お膝元」の新住宅地「ロング・アイランド」からクィーンズへと来ている既存の「グランド・セントラル・パークウェイ」が橋へと延長
マンハッタンの内部では、南へ現「FDRドライブ」、当時「イースト・リバー・ドライブ」が川沿いをダウンタウンへと走ります。
トリボロ・ブリッジは通行料を予想以上に稼ぐことができ、借入金の返済になんの心配も要らず剰余金が溢れていきました。

ちなみに当時のFDRドライブは、左図の灰色部分である「幅の広い一般道」とオレンジ色の「パークウェイ」、の二つのセクションに分かれていますが、「パークウェイParkway」ってそもそも何でしょうか?
公園と隣接あるいはそこに繋がる、景観が良い道路、ということらしいのですが、運転する人には意味があるんでしょうか?少なくともモーゼズにはありました。「パークウェイ」は彼の「公園局」管轄になるからです。

トリボロ・ブリッジにマンハッタン南側から接続しているFDRドライブのうちオレンジ色の部分、125Stから92Stまでが「パークウェイ」で公園局の当時の管轄であり、その外側の遊歩道を含む川岸も公園局の管轄。

現在、「ワグナー・ウォーク」と呼ばれている、FDRドライブ沿いの遊歩道をfujiyanが歩いているページがこちらです。当該ページの写真のうちでこの場所は、その道路建設資材が荷揚げされ、一時保管される場所でした。NY市公園局の「木の葉」マークがご覧いただけますでしょうか?

さて図中「トリボロ・ブリッジ」のそばの、緑の星印は「ランドルズ島」。そこに「トリボロ・ブリッジ公団」の本部が置かれました。モーゼズは多くの役職を兼ねていましたが、彼はこの公団本部を「定住場所」と定め、以降数十年にわたる彼の「基地」となります。

また、「ランドルズ島」と南で隣接する「ワーズ島」は、「ダウニング・スタジアム」などの施設が置かれ「公園」となっていき、「ワーズ島」へ歩行者専用の橋がマンハッタン側から架けられました。

FDRドライブの92Stから南部分、図中で灰色のルートは、トリボロ・ブリッジ開通当時はモーゼズの管轄ではなく、NY市の道路局により、単に幅が広い「一般道」が作られました。しかし、権力を拡大したのちのモーゼズはこの灰色部分のFDRドライブ沿いと、トリボロ・ブリッジに接続する北側へと取り組むことになりますが、それはまたいずれ、ということで。


(マンハッタン西側:1937年完成「ウェスト・サイド改善計画」)

「ウェスト・サイド改善計画」(West Side Improvement)の主体となったのは、モーゼズが責任者となった新設の「ヘンリー・ハドソン・パークウェイ公団」「NYセントラル鉄道」、そしてNY市の道路局でした。

「ヘルズ・キッチン」散歩でも書きましたが、マンハッタン西側ハドソン川沿いは、1825年のエリー運河開通、1851年にはハドソンリバー鉄道、後のNYセントラル鉄道が通り、物資集積、加工業エリアそしてNY市のライフ・ラインでした。その西側をマンハッタン北端から、南は「グリニッジ・ビレッジ」までを一斉に「改善」しようという計画です。

・「リバーサイド・パーク」改造
モーゼズが「アッパー・ウェスト・サイド」に住んでいた若い頃、「リバーサイド・パーク」周辺を崖上から眺めては、それを改造してみることを夢想していた時期があるそうで、いわば「夢」を実現したことになりました。
(ビフォア)
当時の「リバーサイド・パーク」は、地表に「セントラル鉄道」が走り、川沿いは倉庫、石炭貯蔵庫、工場あるいは廃棄物集積所が連なっていました。
また「公園」と称すること出来る部分は半分程度で、残りは泥土。そこでは立ち並ぶ小屋に住むホームレスたちが、昼は生ゴミを捨てに来る車を待っており、夜は彼らのたき火でまるでかがり火が立ち並んでいるようだったとか。一般的に治安が悪いと認識されていたようです。 マンハッタン島
(アフター)
:72Stからマンハッタン北端まで「ヘンリー・ハドソン・パークウェイ」を新設、別公団「ポート・オーソリティ」が管轄する「ジョージ・ワシントン・ブリッジ」(1931開通)へアクセス
:マンハッタン北端から有料橋「ヘンリー・ハドソン・ブリッジ」
(1935着工、36開通)でブロンクスへ。その通行料を計画全体の建設費借入金の返済に充当。
「セントラル鉄道」の地下通行化を含む、「リバーサイド・
パーク」の大改造

・「マンハッタン物資集積、加工業エリア」:
「ヘルズ・キッチン」「チェルシー」「グリニッジ・ビレッジ」そして「トライベッカ」などのハドソン川沿いです。ここはモーゼズの担当外ですが、彼が助言や、「セントラル鉄道」とのアレンジをしたことと、推測されます。
(ビフォア
30Stあたりから南のチェルシー地区では、「セントラル鉄道」の貨物支線が11Ave路面上を「グリニッジ・ビレッジ」まで走っていましたが、「死の道」と呼ばれたほど衝突事故が頻発。
(アフター)
高架式の貨物専用路線、通称「ハイ・ライン High Line」が構築され、一般道と分離します。
図中のピンクの線でご紹介していますが、詳しい路線図がこちら。("Friends of the High Line"より)

そして建設中だった高架式の「ウェスト・サイド・ハイウェイ」が、「ヘンリー・ハドソン・パークウェイ」と接続し、マンハッタンの北端から南端までの、西側を走る自動車専用道が出来あがった次第。
この「ハイ・ライン」は、「物資集積」の役割をマンハッタンが終えた70年代に停止しました。
現在でも一部の高架の残骸?が残っていまして、「チェルシー」散歩で写真をご案内しています。

そして「ウェスト・サイド・ハイウェイ」は高架崩落(1973/12)という大事故があり、57Stまでの全線が封鎖。
その当時財政難にあえいでいたNY市は修理が出来ず、そのまま放置が続き、なんと1995年まで手をつけることができませんでした(苦笑)。2001年に完成した、新「ウェスト・サイド・ハイウェイ」は、57St近辺から南へは、川岸沿いの地上を、12アベニュー、11アベニューそしてウェスト・ストリートという三つの通りが繋がって南下していく形態に、現在ではなっています。

さて実は、マンハッタン北端からブロードウェイに続いて無料の橋があったので、「ヘンリー・ハドソン・ブリッジ」の車両通行量と通行料収入量を危ぶむ声もありましたが、通行量は予想をはるかに上回り収益見通しも明るく、橋に上階を付ける二階建てに改造(1938)した後、順調に借金返済が進んでいきます。


(モーゼズは「大悪人」?)

Caro著「The Power Broker」では、「ウェスト・サイド改善計画」に二つの疑問が挙げられています。

左が「南」← →右が「北」
ヘンリー・ハドソン・パークウェイと代替ルート
(疑問1)「インウッド・ヒル公園」と「フォート・トライオン公園」の間を通った方が、自然破壊が少なく、川面からの高さが小さいため橋の建設費用が安価なのに、なぜ自然に富む「インウッド」の森を切り開いて直接的に縦断したか?

(答え1)公園の土地はNY市保有のため値段がタダ。そして通常の道路ではなく公園に隣接する「パークウェイ」とすると、別枠の連邦補助金を得ることができる。そして補助金付き一般道路では許されない、「有料橋」への接続が許される。

(疑問2)リバーサイド・パーク改造後には、16の遊技場、4つのフットボール場、22のテニスコート、そしてローラースケート用道路、自転車用道路が作られたが、125Stから155St間、つまり黒人居住区「ハーレム」では、鉄道が「むき出し」で、工場や倉庫が撤去されておらず、そして遊戯施設などが皆無。

(答え2)予算不足から黒人地域は手抜き。しかし図案上のハーレム・エリアの遊戯施設が、実際には無いことをラガーディア市長に発見されてしまい(苦笑)、小さな公園とフットボール場が一つずつ作られたそうです。


モーゼズを「大悪人」としている「The Power Broker」では、(疑問1)は彼が自然破壊に無頓着であること、
(疑問2)は彼が人種差別者であったこと、の例としています。

前者、すなわち「自然破壊」ですが、当時はあまり自然保護が重んじられていなかった時代だったかもしれませんね。(答え1)で述べましたように、「予算見積り」を満たすために、あえて森の中を突っ切ったんでしょう。モーゼズは、「やってのける力」(Get Things Done)を持つ人物であり、そのためにある程度の「暴挙」は、「世論」が認めていたようです。

一方の後者、すなわち「人種差別」に関してですが、「The Power Broker」は他の部分でも、モーゼズを反有色人種主義者として描いています。

前節「U公園」の頃、モーゼズはNY市内に公衆衛生と健康面としての社会改革の一環として、公園とともに「水泳プール」もいくつか建設しています。黒人居住区「ハーレム」にもプールが一つ建設されました。
「The Power Broker」が問題としているのは、「イースト・ハーレム」に作られたもの。当時の「イースト・ハーレム」は、多数を占めていたのはイタリア系、ユダヤ系などの「白人」でしたが、のちにエリアの多数を占めることになる、プエルトリコ系の、小コミュニティが誕生していました。マンハッタン

イースト・ハーレムのプールの監視員全員を白人とし、プエルトリコ系が来づらくするとともに、プールの水温を低めにしたと「The Power Broker」は述べています。科学的根拠があるかは不明なのですが、一般論として有色人種は白人と比して低温のプールが苦手とされていてからだそうで、その甲斐あってか(苦笑)、イースト・ハーレムのプエルトリコ系の人々は、遠い「ハーレム」のプールに通うようになったとか。

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さて、こうしてモーゼズは、NY市の他部門の力を借りたとはいえ、マンハッタン島を取り巻く現在の道路網の原型を作り上げました。

そして上述の東西川岸のプロジェクトを完成させ、「トリボロ」そして「ヘンリー・ハドソン」の両橋は、通行料収入を順調以上にあげる大成功となり、「やってのける力」(Get Things Done)は大賞賛を得ます。

その巨大な業績を引っさげて、彼は更に大きな権力を求めた「闘争」へと向かいます −狙う獲物は、「トンネル」と「公共住宅」
(2003/4/6)


−U公 園− −W闘 争−



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