The story which it may have had, from 月姫 & 歌月十夜 高い鉄柵越し、広いお庭のかなたに見える、浮世離れした大きなお屋敷。 室内から漏れる灯りが消え、間接照明に浮かぶその白い壁の洋館は、幽霊屋敷みたい。 でも、遠野君はここにいる。確かに。 あの窓の向こうに。 遠野君が帰って来てから、ずっと見張っていたから間違いない。 あの窓越しに見えた、遠野君。 会いたいよ。 声を聞きたいよ。 もっとそばで見たいよ。 「――ストーカーだよね、これじゃ」 自嘲してつぶやくと、ますます情けなくなった。 でも、会えるわけがない。 視線を落とすと、固まった血糊でごわごわするブラウスの袖が眼に入る。 会えるわけが、ない。 だってわたしは、人殺しの化物だから。
ずるい女?
written by ばんざい 遠野君の姿を求めて彷徨っていた、あの夜。 黒い何かに襲われたのは覚えている。 でもそのあと自分がどうなったのかすら、よく判らない。 次に気がついたとき、わたしの足元に死体が転がっていて、わたしは血塗れになった自分の手をしゃぶっていた。 ――ワタシガ、コロシタ? 何の為に? わけが判らずパニックを起こし、死体が怖くて離れたいのに腰が抜けて、その場にしゃがみこんでひとしきり泣いたあと、その理由を自分の身体が教えてくれた。 オナカガ、スイタカラ。 得体の知れない激しい飢えと渇き。 それに気付いて、また泣いた。 なんで? どうして? どうして人の血なんか……? わたし、怪物になっちゃったの? 怖い。怖いこわいコワイ。 襲ってきた吐き気と寒さに震えた。 いやだ。いやだよ。 人殺しの化け物なんかになったら、もう誰にも会えない。 なんでこんな事になったの? 誰のせい? わたしがなにか悪い事をしたから? ひどいよ。 こんなの、死ぬよりひどい。 誰も居ない夜の街を、走って逃げた。 でも、血塗れの自分の手からは、逃げられない。 公園の水道で洗っても、洗っても洗っても、ブラウスの袖に染み付いた血糊は落ちなかった。 「遠野君。わたし、どうしたらいいの? 助けてよ。大ピンチだよ」 小さくつぶやいてみたけれど。 遠野君だって、困るよね。 もう、会えない。 遠野君に会えない。 こころが絶望の闇に貪られてゆく。痛い。とても痛い。 こんな身体になって、なんで生きているんだろう? そもそも自分が生きているのかどうかも、よく判らないけれど。 死のう。 こんな化け物になったなんて遠野君に知られたら、それこそ死ぬより辛いもの。 でも死ぬ前にもう一度だけ。 遠くからでいいから、遠野君の姿が見たい。 ‡ ‡ ‡ ‡ ‡ ‡ 遠くからでいいから、遠野君の姿が見たい。 死ぬ前に、もう一度だけ。 そう思って来たけれど。 実際に姿を見ると、欲が出た。 もっと見ていたい。 姿だけでも。いつまでも見ていたい。 なんて未練がましいんだろう。 「遠野君。遠野君……」 会えない。 近くに居るのに。あの窓の向こうに居るのに。 もう二度と会えない。 なんでこんな事になっちゃったんだろう? お別れする覚悟なんて出来ない。 やり場の無い怒りと哀しみがこころからあふれだす。 こみあげる嗚咽を歯を食いしばって堪えると『うぎゅぅうう』とみっともない声が漏れた。 きっと今、わたしすごい顔をしている。 こんなみっともない姿を遠野君に見られたら、恥ずかしくてそれだけで死ねるかも。 ますます惨めになって泣き続けていると、急に何かの気配を感じ、背筋が硬直した。 見られている!? 視線を感じて顔を上げると、塀の上から見下ろされていた。 黒い猫に。 ――怖い。 どちらかといえば小柄で、毛並みもよく手入れの行き届いたとても綺麗な猫なのに、月明かりに光るその眼は、とても冷たく怖かった。 わたしが動けずにいると、黒猫の方が塀の上から飛び降りて来た。 わたしの目の前に。 小さな、黒い服の女の子の姿になって。 「ひぇ?」 間の抜けた声が漏れた。 な、なにこれ? 人の姿になっても、その子はとても、異常な状況を忘れて見惚れてしまうくらい、綺麗だった。 そう、ありえないくらい。 幼いと言っていいくらい小さな女の子なのに、硬く透き通った宝石のような、感情の見えない眼。 その怖い眼をした猫でも人でもない何かは、腰が抜けてその場にへたりこんでしまったわたしを見下ろすと、思い切り両手で突き飛ばしてきた。 ものすごい力で仰向けに倒され、自分の後頭部がアスファルトに当たって大きな音を立てるのを聞いた。 混乱しながら身を起こしたところで、もう一度突き飛ばされて転がった。 理不尽な暴力に、痛みや怒りより恐怖を感じて逃げ出した。 なんなの? あの娘は何者? なんでわたしにこんな事を? 「わかんないよ。もう、いやだよぅ」 泣きながら走る。 今のわたしは、自分でもびっくりするくらいの力持ちで、走るのも速い。 でも、黒服の女の子は、そのわたしを易々と追って来る。 後ろを気にしながら走っていると、いきなり何かに頬を張られて視界がぐらついた。 近くの塀から猫が飛び掛って来たのだと理解したのは、次の肉球パンチを受けてからだった。 あごがぐらつき、足がもつれた。 猫って、意外と強くて怖い。 何かに呼び寄せられたかのように、次々猫が襲って来る。 狭い路地より、広い場所へ。 そう思って公園へ逃げ込んだわたしは、逆に追い込まれた事を悟った。 わたしの行く手を阻むように、猫がわたしを包囲している。 振り返ると、黒服の女の子が息も乱さず、優雅な猫の足取りで近付いて来た。 「あ、あなた何者? わたしに何の用?」 身構えるわたしのかたわらをあっさり素通りし、彼女はベンチに腰掛けた。 「よ、用が無いなら帰らせてもらうわよ?」 ――と立ち去ろうにも、周囲を取り囲む猫たちににらまれて動けない。 しょせん猫なんだから蹴散らしてでもと思っても、どうにも尋常でない操られてるっぽい雰囲気から、ただではすまない予感がする。 立ち往生していると、女の子が自分の隣を目で示した。座れってこと? しかたなく、出来るだけ距離をおいて座ると、彼女を中心に猫の輪が狭まった。 まるで彼女は、猫の女王。 そして女王に謁見する騎士のごとく、一匹のキジ猫が進み出た。 口にくわえた何かを、献上品のごとく女王の足元に置き、誇らしげに彼女を見上げる。 何かと思って見ると――ネズミだった。 しかもまだ生きているらしく、微妙に痙攣している。 思わず腰を浮かせかけると、女の子に袖を掴まれ、ベンチに引き戻された。 彼女はこちらにちらりと視線を向けてから、獲物を持ってきた猫にうなづいて見せた。 キジ猫がネズミの首を噛み折る音が、やけにはっきり聞こえた。 その後も女王への謁見は続いた。 すずめ。 バッタ。 金魚か錦鯉か、観賞魚とおぼしき白赤の綺麗な小さな魚。 色々な猫が、様々な獲物を披露しに来て、その場で食べる。 気持ち悪くなって眼を背けると、女の子に袖を引かれ、にらまれる。 「なんでわざわざ、こんな事を見せつけるのよ……?」 答えは無く、彼女は獲物の息の根を止め咀嚼する猫たちを静かに見つめる。 一体、彼女は何を考えているのか? 「ねぇ、なにしてるの?」 わたしと同じ疑問の言葉が、空から降って来た。 空から? 反応して視線を上げるより早く、白くて大きくてしなやかでふわふわで綺麗な猫が舞い降りて来た。 いや、姿は金髪で白人の女の人だけれど、これは猫だと思った。 少なくともまともな人間は、電柱の上から飛び降りてきたりしない。 猫だってそんなところから飛び降りたりしない、とは思うけど。 その白くて猫っぽい女の人に話しかけられ、黒猫っぽい女の子は一度視線を合わせてから、わざとらしくそっぽを向いた。 「む。照れてるの? まぁいいわ。ねぇアナタ」 わ。こっち向いた。 その白い人は無造作に屈み込み、ベンチに座っているわたしに顔を寄せてまじまじと見つめてきた。 最初は、怖さも忘れてぼぅっと見惚れた。 さらさらの金髪。 ルビーみたいな赤い眼。 白くてすべすべにきめが細かい肌。 屈み込んでいるせいもあって、凄いボリュームの胸。 凄く高い位置でくびれたウェスト。 ――だんだん腹が立ってきた。 世の中、不公平で理不尽だ。 「あなた、志貴の知り合いでしょ?」 神様を呪っていたわたしは、彼女の言葉に我に返った。 「遠野君を知ってるの!?」 思わず彼女の腕を掴んだわたしを、彼女は物珍しげに右に左に角度を変えて覗き込んできた。 「知ってるもなにも、今から遊びに行くつもりだったんだけど」 「ダメッ!」 怖さも忘れ、わたしは反射的に叫んでいた。 「ダメッて、なんでよ?」 「なんでって……」 ――こんな綺麗な人、遠野君に近付いちゃダメ! 状況も忘れてそう思った。 どうせわたしは、二度と遠野君に会えないのに。 口ごもるわたしを気にも留めず、彼女は話を戻した。 「やっぱりあなた、志貴が言ってた行方不明のクラスメートってやつでしょう? 名前は?」 「……弓塚、さつき」 「ふぅん。驚いた。思った通り死徒に襲われたみたいだけど、蘇生していきなりちゃんと自我を保ってるなんて」 「シト?」 「ま、スゴク平たく言えば、吸血鬼」 キュウケツキ? その響きは、頭を内側から金槌で殴られたような感覚。 回りの音が何も聞こえなくなった。 思考が止まり、目の前が文字通り真っ暗になる。 キュウケツキ? だから、わたしは……わたしも? 「……なんで?」 「なんでって、何が?」 わたしの口をついた疑問に、彼女は小首をかしげた。 なんだか、圧倒されるような美人振りなのに、しぐさが子供っぽい人だ。 「なんでそんな事がわかるの、あなたに?」 わたしの問いに、彼女はきょとんと眼を丸くした。 本当に表情が良く変わる人だ。 「そりゃ、見れば判るわよ。だってわたし、もっと偉い吸血鬼だもん。あなた、判らないの?」 なんでそんな事が一介の女の子に判るものか。 あぁでも、この人はまともじゃないとは思ったけど、やっぱりそういう事なのか。 「ふーん。本当に自覚ないのね」 なんの? キュウケツキの? 「本当に、普通に生きてるみたいだわ。こんなの、私も初めて見る」 彼女はわたしの頬に触れ、そんな事を言う。 みたい、って、それじゃ生きてないみたいじゃないの。 やっぱりわたしは、もう人間じゃない? 「おーい。帰ってこーい」 呆然としていると、いつの間にか隣に座り込んできた彼女に耳元で囁かれてのけぞった。 腕に当たっている彼女の豊満な胸の感触に突然物凄い怒りが湧き、信じ難い事が次々起こる事に対しての恐怖を瞬間的に上回った。 発作的に彼女の胸を胸を鷲掴みにしてやる。 「にゃあ!? いきなりなにするのよ!」 「……ずるい」 本当に。 思わず鷲掴んだ形のままの手をじっと見てしまう。 びっくりするくらい大きくて、いい感触だった。 理不尽だ。 「本当に変わった子ねぇ」 あきれたような彼女の声に、改めて疑問が蘇った。 キュウケツキだなんて自分で名乗るくらい得体の知れない人なのに、ヘンに気さくだし、黒猫の女の子みたいな敵意も感じない。 しかも遠野君の知り合いらしい。どういう知り合いなんだろう? そして彼女は、どうしていいのか判らず混乱していたわたしの頭を、さらに混乱させるような事を言ってのけた。 「あなた、家に帰りなさい」 ――え? 「帰る? どうやって?」 「どうやってって、あなた記憶あるんじゃないの? 自分の家くらい覚えてないの?」 「そういう事じゃなくって!」また怒りが湧いてきた。 「吸血鬼なんて化け物になっちゃって、どうして家になんか帰れるのよ?」 「化け物とはご挨拶ね。私は偉い吸血鬼だって言わなかった?」 怒るというより、拗ねた顔でにらんでくる。 怖いと言うより、なんだか可愛い。そこがまた腹立たしい。 「わたしに一体、何をさせたいの? 帰ってどうしろって言うの?」 「別になにも。それだけ普通っぽければ、何もなかったみたいな顔して今までどおりの生活に戻れるでしょ」 帰る? 普通の生活に、戻る? 「そんなこと……出来るの?」 「さぁ? わたしは別に、どうだっていいのよ?」彼女は更にむーっとむくれて言った。 「ただね、志貴がいつまでもあなたの事を気に病んでるのが気に入らないの」 「遠野君が?」 遠野君が。 わたしの事を、気にかけていてくれた。 今でも忘れないでいてくれてる。 絶望にうちのめされていた心に、急に苦しいほど喜びが湧き出して、逆の理由で胸が張り裂けそうになった。 「ちょっと。すぐどっかに行っちゃわないでよ」 肩をガクガク揺すられ我に返ると、わたしの鼻先に人差し指を突きつけて彼女は言った。 「判った? ダラダラ行方不明してないで、帰るなり滅びるなり、はっきりしてよ」 物騒な事をさらりと言われ、胃の辺りが氷の塊を飲み込んだように冷たくなる。 本当に、この人にとってはわたしの生き死になんてどうでもいいんだ。 「それにねー、あんまり夜うろついてると、頭の固い宗教おばさんに狩られちゃうよ?」 そう言った彼女が、突然わたしの頭上で腕を振った。 猫たちが一斉に散り散りになる程の勢いで。 そしてその腕に弾かれた大きな刃物が、アスファルトに食い込んだ。 羊羹に突き立てた楊枝みたいに、深々と。 ソレが飛んで来たと思われる方向を仰ぎ見ると、街灯の上にシスターみたいな格好の女の人。 感情の読めない、でも明らかに友好的ではなさそうな眼でこちらを見下ろしている。 「不意討ちなんて、相変わらずやる事がえげつないわね、シエル」 ――シエル? 「余計な事を。何も判らないうちに滅ぼして差し上げるのが慈悲というもの。今日は貴女と遊んであげるつもりはありません。手出しは無用です」 シエル……先輩? 聞き覚えのある名前から思い出した、眼鏡の似合う柔和な笑みと。 いまわたしを見下ろしている、白磁のような硬い表情。 確かに、同じ顔なのに。だからこそ。 そのあまりのギャップに、足元が傾くような違和感を感じる。 どういうこと? なんで先輩があんなところであんな格好をして、わたしの足元のアスファルトに突き刺さってるのと同じ、ナイフとも剣ともつかない大きな刃物を手にしてるの? 『何も判らないうちに滅ぼしてあげる――』? アレは、わたしを狙って投げられたの? また更にワケが判らなくなる。 あぁ、でも。 なんて神々しく、綺麗なんだろう。 柔らかくて可愛い印象の人だった筈なのに、今は月明かりに蒼く浮かぶ小さな顔が黒い修道服に映えて、侵し難い威厳を感じる。 なにもかも、こころまで見通されるような冷たい視線に見据えられると、その刃物で心臓を貫いてもらう事こそ至上の喜びなのではないかという気がしてくる。 「弓塚さん――でしたね。貴女の境遇には同情しますが、貴女自身、判っているのでしょう? このまま黙って滅びるのが、最も美しいと」先輩は、指に挟んだ大きな刃を頭上に振り被った。厳かに。 「私を恨んで下さって結構です。貴女のような犠牲者を出してしまったのは、一重に私の責任ですから。罪と穢れは私に預け、安らかに眠って下さい」 月の光を青白く弾く刃。 ソレが肋骨の間に差し込まれる硬く冷たい感触を想像してうっとりしかかる。 ――と。 「あいかわらず馬鹿ねー、シエルって」あからさまに挑発的な、嘲りに満ちた声で現実に引き戻された。 「この子が帰らなかったら、志貴は一生、その事を気に病んだままになるじゃない」 ――あれ? 「……さっきアナタ、わたしが死のうが生きようがどうでもいいみたいに言わなかった?」 「えぇ、どうでもいいわよ?」わたしの問いに白い彼女は振り返り、怖い笑みを浮かべた。にっこりと。 「でも言ったでしょう? 志貴に心配させて気を惹いて、記憶に住み着いたまま勝手に居なくなられちゃ困るのよ。だってそんなのずるいじゃない。反則よ。滅びるなら一度普通の生活に戻って、普通に死んでからにしてちょうだい」 「およしなさい、アルクェイド!」シエル先輩の叱責と共に再びアスファルトに大きな刃が突き立ち、何故か激しい炎を上げた。 「言った筈です。それは本来、弓塚さん本人にも、もちろん遠野君にも責任の無い事です。遠野君の心の傷も含め、後の事は私が責任を持って処理します。貴女が心配する事ではありません」 「はん? 勝手な事言ってるんじゃないわよ。シエルごときに何の責任が取れるって言うのよ? 何様のつもり? 大体、アンタみたいな陰気な女がそばに居たら、ますます志貴が滅入っちゃうじゃない。お呼びじゃないからすっこんでなさいよ」 「お黙りなさい! そもそも貴女たち真祖の存在こそが全ての元凶じゃありませんか」 街灯の上と下、険悪な雰囲気で怒鳴り合いはじめた二人に、遠巻きに様子を窺っていた猫たちの輪が更に広がる。 けれど。 わたしのこころからは、何故か急に怖さが抜け落ちた。 「なぁんだ……」 私が漏らしたつぶやきに、二人の視線が集まる。 またちょっと腰が引けかけたけど、かまわず感じたままを言葉にした。 「要するに、二人とも遠野君を独り占めしたいだけじゃない」 ――気まずい沈黙。 風に紙くずが舞う乾いた音が、やけに大きく響く。 こういうのを『天使が通る』って言うんだったっけ? 「なッ……そういう低俗な話では――」 「独り占めしたがってるのはシエルと妹だよー。わたしは心が広いから、志貴が誰と遊んでも別に気にしないもん」 「嘘をつくんじゃありません! いつもいつも遠野君を拉致監禁してるくせに、この泥棒猫!」 「だってシエルのそばにいたら、志貴に教会馬鹿がうつりそうだもん」 我に返って反論を試みるシエル先輩と、にぱっと明るく相好を崩す白い人――シエル先輩はアルクェイドって呼んでたっけ? どっちにしても、彼女たちにさっきまでの神々しいまでの近寄り難さは、もうなかった。 ヘンな親近感と反発とが、同時に生まれた。 ずるいよ、後から出て来て。 わたしの方がずっと前から、遠野君のこと――。 お腹に力を入れて、ぎゅっとこぶしを握って。 深呼吸をひとつ。 そして、覚悟を決めて。 よし。 わたしの事そっちのけでにらみ合う二人に向かって、宣言。 「わたし、帰る。帰ります」 家へ。 そして、遠野君の前に。 「待ちなさい、弓塚さん。貴女、判っているでしょう? 残念ながら貴女はもう人ではないんです。貴女は人を――」 それは。 それを言われたら―― でも、シエル先輩の言葉は、アルクェイドが片手で投げつけたゴミ箱でさえぎられた。 躱わして宙を舞う修道服の影が、一瞬月をよぎる。 街灯から飛び降りざま放たれる刃。 叩き落された刃がアスファルトに突き立ってからしばらくして、鉄製のゴミ箱が潰れる音が遠く聞こえた。 「なんて事をするんですか貴女は! 無闇と物を壊すんじゃありません。本当に野蛮なんだから」 確かにわたしもそう思う。びっくりした。 でも先輩に人の事は言えないと思います。 「うるさい。だからシエルは馬鹿だって言うのよ。自分で言ったじゃない、この子には責任ないって」 「責任の有無はこの際問題ではありません。彼女は既に死徒なんです」 「それが普通じゃないって事くらい、馬鹿シエルだって判るでしょ?」 「浅はかな貴女に馬鹿呼ばわりされる覚えはありません。普通であろうがなかろうが死徒は死徒。その存在を認めるわけにはいきません」 アルクェイドはやれやれと肩をすくめた。 「サツキ、だっけ? シエルってばこの通り融通の利かない石頭だから話すだけ無駄よ。ここはわたしが引き受けてあげるから、早く行きなさい」 先輩の事も不可解だけど、この人も何を考えているのか全然判らない。 「あなたはどうして、そこまでしてわたしをかばってくれるの?」 遠野君の件は聞いたけど、それだけなら『やっぱりとっくに死んでた』とでも言えば済む気がする。 「んー? なんでだろ?」 ――真剣に首をひねってる。 訊いてるのは、わたしの方なんだけど。 「ま、あなたは珍しいサンプルとして、興味は無いではないしね。それに第一、にぎやかな方が楽しいじゃない? 今度一緒にあそぼうよ。わたし、トモダチ少ないし」 屈託のない笑顔が眩しい。 ほら、早く行きなさいとお尻を叩かれた。 子供扱いされてるみたいでなんだか不満もあったけど、今は我慢。 「ありがとう。――先輩、また学校で」 返事代わりに飛んで来た刃を飛び退って躱わす。 なんでこんな事が出来るのか。 走って逃げる。 耳元で風が鳴る。 靴がばらばらになりそう。 おかしい。なんでこんなに速いのか。 そんな事、わたしは知らない。 公園の出口近く、あの黒猫の女の子が立っていた。 目が合うと、ツンと視線をそらされた。 でも、視界の隅でわたしを見ているのがわかる。 結局、彼女は何を伝えたかったのか、よくわからない。 よくわからないけれど、あれはもしかすると、励ましだったのかもしれない。 敵意は感じるけど、悪意はなさそうだし。 一応手を振って、彼女の側を駆け抜ける。 走れ。 走れ、さつき。 走って帰るんだ。 あったかい布団のある家へ。 遠野君や、みんながいる学校へ。 面倒な事は、後でまた考えよう。 今は、わたしもずるくなってやる。 ‡ ‡ ‡ ‡ ‡ ‡ 「感謝しなさいよ、シエル。逃がす口実を作ってあげたんだから」 答えは黒鍵の横薙ぎ一閃。 身を沈めて躱わし、懐に飛び込んで右貫手を突き上げるアルクェイド。 シエルは身を反らしてやり過ごし、密着したアルクェイドの脇腹に膝蹴りを入れた。 「すっかり私を悪役に仕立てておいて、よくもそんなあつかましい事を」 「あーもぅ、素直じゃないなぁ」蹴られた肋骨を痛くもなさそうにさすりながら、アルクェイドは無防備にシエルに背を向けた。 「あーあ、せっかく志貴と遊ぼうと思ってたのに、すっかり遅くなっちゃった。ラーメンでも食べて帰ろうっと」 シエルはうつむいて眉間を指で揉む。 「無責任にやりたい放題。さぞ気持ちいいでしょうね」 「そう思うならシエルもそうすればいいじゃない」 「貴女みたいな人がたくさん居たら、あっという間に世界の破滅です」 「別にシエルが世界を支えてるわけじゃないのに。シエルごーまん」 「――で、どこへ行くんですか?」 「んにゃ?」 「貴女を放っておくとまた何をしでかすか判りませんからね。ちゃんと帰るまで監視します」 「あぁ、ラーメンか。なんだシエル、奢って欲しいなら素直にそう言えばいいのに」 「誰が貴女になんかたかりますか。自分の分は自分で払います」 「カレーラーメンは無いかもよ?」 「私はカレーしか食べないわけじゃありません」 ‡ ‡ ‡ ‡ ‡ ‡ ――えーと。 どうしよう? 草木も眠る、丑三つ時。 懐かしい自分のお家を前にして、途方にくれた。 まさか、普通に『ただいま』って帰るわけにはいかないよね。 悩んだ末、玄関のドアにもたれて眠る事にした。 こうすれば、朝、お母さんが見つけてくれるだろう。 あれ? それより新聞配達の人が先か。 それはどっちでも問題ない、と思う。 いや、ちょっとした騒ぎにはなるだろうけど。 そして、失踪中の事は都合よく記憶喪失。 ――もう少しマシな案は浮かばないのかと自分でも思うけど、冷たい床に腰を下ろしてドアに背中を預けた時点で、もうどうでもよくなっていた。 硬い金属のドアなのに、自分の家のだと思うだけで安心出来るのは、我ながら単純だと思う。 いいもん、単純で。 また普通の生活に戻る事を考えるとどきどきして眠れないかと思ったけど、余計な心配だったみたい。 もう、まぶたが重くなってきた。 疲れてたんだ、わたし。 目が覚めたら、なにもかも元通り―― そんなに都合よくいかないのはわかってるけど。 お巡りさんとかに事情聴取とかされるのかな? 面倒な心配事がたくさん。 でも、遠野君に……また、会える……よね? 続く……よね?
補足 君の事、忘れてないよ。 ――その想いを形にしようと思った彼女の誕生日(8月15日)。 書き上げるまで一ヵ月以上掛かってしまいましたil||li _| ̄|● il||li 設定がどうとか言うような話ではありませんが、一応、時系列的には「ベッドでさつきは〜」の少し前のつもりです。 じゃあレンが出てくるのはどうかとかいうツッコミは無しの方向で。この世界では居るんです。 |