Fate/stay night alternative story   after“Unlimited Blade Works”

 新学期が始まった。
 それぞれがあわただしい学校生活を送っている。
 俺たちは最上級生になり、教室の話題に進路問題がのぼる機会が増えた。
 一成は生徒会の後輩への引継ぎに腐心している。
 美綴は補佐役として桜に実質的に弓道部を率いる役を仕込みつつある。
 藤ねえはクラス替えした今年度も俺の担任だ。
 さすがに最上級生の担任となるとなにかと忙しいらしく、毎日残業で帰りが遅い。
 夕飯も学校で店屋物を取って済ませる事が多いらしく、ウチにたかりに来るのはこのところ朝だけだ。
 遠坂たちも春休みが終わってからは「生活がだらけるから食事は自宅で摂る」と言って来なくなった。どうせ毎晩一緒に勉強する為に行き来しているのに。完璧主義者め。
 必然的に最近、我が家の夕飯は桜と二人、もしくは俺独りだけ。
 もともとこの家の住人は俺独りなので当たり前なのだが、あの賑やかな食卓に慣れてしまった今では酷く空虚だ。
 大人数用に買った大きな鍋が、台所で虚しく伏せられたまま埃を被っている。
 だから。

「今夜は久しぶりに士郎のごはん食べに行くから、よろしくね」

 下校まぎわにかけられた藤ねえの言葉に、気合が入ってしまった。












おねえちゃんはいつも前のめり
written by ばんざい








『久しぶりに』とは言っても、朝はほぼ毎日ウチで食って行ってる訳だが、単なる栄養補給になりがちな朝食と比べれば、やはり食べる事自体を楽しむ要素が大きい夕食は、特別だ。
 普段以上の賑わいをみせる週末の商店街で献立を考えながら食材を仕入れていると結構帰りが遅くなってしまい、家に帰りついたときには既に日が暮れていた。
 急いで夕飯の支度を始める。
 ――と。

「ひどいじゃないですか先輩!」

 息を切らして駆け込んで来た桜に怒鳴りつけられた。

「――なんでさ?」
「藤村先生が晩御飯食べにいらっしゃるって、どうして教えて下さらなかったんですか?」
「いや、大丈夫だよ。買出しして来たから、桜のぶんもちゃんとあるって」
「なんの心配ですか!」

 桜が珍しく、大きな声を張り上げる。
 自己主張をはっきりするようになったのは、それは、良い傾向だと思う。
 だが、何に対して怒っているのか今ひとつ把握出来ないのは、俺が鈍いせいなのだろうか?

「一声かけてくれてもいいじゃありませんか。わたし、藤村先生に部活終了の報告に行くまで何も知りませんでしたから、今日に限って普段より念入りに道場の掃除なんかして遅くなっちゃいました」
「うん。だから桜は部活があるんだし、ウチの家事は心配なんかしてくれなくてもいいんだ」

 俺は当たり前の事を言ったつもりだった。
 だが固く拳を握り締め目に涙すら浮かべた桜に上目遣いで見詰められ、困惑した。

「先輩。わたし、この家の家族同様に扱ってもらっていると思ってました。けど、それって自惚れ過ぎでしたか?」
「そんなわけないさ。家事を手伝わないと団欒に加わる資格が無いとでも気を遣っているのか? それこそ水臭い話だろ。部活で忙しいときまで無理して家事を手伝わなくても、一緒に食卓を囲んでくれるだけでいいんだ。別に桜をないがしろにしているつもりはないぞ」

 桜はちがう、と、ゆるゆるかぶりを振った。

「わたしだって藤村先生にご飯作ってあげたかったんです。先輩一人だけで用意しちゃうなんて、ずるいです」

 あぁ、そういう事か。

 俺はてっきり、桜が義務感にとらわれているか、あるいは自分にかまってもらえない事で拗ねているものと思ってしまった。我ながら、思慮の浅さが恥ずかしい。

「ありがとな、桜」

 掌を頭にのせて撫でると、桜は少し眉をひそめてむくれた。とたんに子供っぽい表情になったので思わず笑みをもらすと睨まれた。

「先輩。わたし、怒ってるんですよ? どうしてありがとうなんですか?」
「藤ねえのこと、本気で思ってくれる人って実は少ないんだ。人望が無いわけじゃないけど、みんな一歩引いてるからな。だから、藤ねえの弟分として礼を言いたいんだ」
「なに言ってるんですか。先輩が藤村先生の弟分なら、わたしは妹分のつもりですよ。おねえちゃんを独り占めしないでください」
「おいおい。桜には実の姉がいるだろう。遠坂が怒るぞ」
「姉さんは姉さん、おねえちゃんはおねえちゃんです」

 桜は何の迷いも無くきっぱりと言い放った。
 何事につけ酷く遠慮がちで、人と触れ合う事に怯えてすら見えた以前の姿からすると、まるで別人だ。
 それはきっと、良い変化なのだろう。

「それより家族といえば、ウチの事なんかより慎二の世話をしてやらなくていいのか?」
「兄さんは最近『衛宮に出来てボクに出来ないはずが無い』なんて言って自分で炊事もやっています。今のあの人は少し独りにしたあげた方がいいんです。ある意味、先輩よりよほど自立心がありますから」
「……俺はずいぶん昔から独り暮らしで自立しているつもりなんだが」

 やや心外に思って抗議すると、桜は三白眼で睨みつけてきた。ちょっと、いや、かなり怖い。

「全然自立出来てません。精神的には藤村先生にベッタリじゃありませんか。先輩はそういう自覚が無いところが、いかにも男の人らしい子供なところなんです」
「ちょっと待て。むしろ俺の方が藤ねえの世話をしてやってるぞ?」
「知りませんか先輩? 『他者に必要とされることで、自分の存在意義を見い出す』そういうのを『共依存』って言うんです」

 なにやら小難しい言葉まで動員してきた。どうやらまだ、何か怒られているらしい。

「俺はただ、否応無く問答無用で世話を焼かされてるだけだ。それを言うなら桜の方がよっぽど積極的に人の世話焼きたがるだろ?」

 俺の反論に、桜の眉がますます危険な角度を形成してゆく。そういう表情をすると少し、遠坂に似ている。今まで見る機会も無かったが。

「やっぱり先輩は判ってません。そんな事だから姉さんに半人前とか不器用とか朴念仁とか甲斐性無しとか愚鈍とか優柔不断とか言われるんです」
「……いや、そこまでは言われてない気がする」
「ならわたしが言ってあげます。先輩は鈍感すぎます」

 えらい言われようだが、反論も出来ない。

「そうかもしれない。正直、桜が今なにに対して怒っているのかもよく判らない。だから、俺にいたらないところがあったら遠慮なくなにが悪いのかはっきり指摘してくれないと、謝りようも直しようもないぞ」

 情けないが、桜まで俺を鈍いと言うなら間違いなくそうなのだろう。やや居直り気味に潔く認めるしかない。
 桜は少し興奮していたのを収め、やや視線を落として言った。

「いえ、ごめんなさい。今のはわたしが駄々こねているだけです。でも、だから、先輩が自分で気づいてくれなくちゃ意味ありません」

 そしてお互い言葉を失い、なんとなく気まずい空気がよどむ。
 ややあって、それを棺桶の蓋が軋むような陰気な声が打ち破った。

痴話喧嘩はもうおわりましたか〜? (Has a lovers' quarrel already been finished ?)

 声の主は廊下にしゃがみ込み、襖から半分だけ顔を覗かせて俺たちを見上げていた。

「うわっ!? 藤ねえ、いつからそこにいた?」

 藤ねえは襖の縁を指でなぞりながら言った。

「久しぶりに温もりある団欒を求めて疲れた身体を引きずって来てみれば、士郎と桜ちゃんは二人だけの世界に浸っていちゃいちゃいちゃいちゃ……。おねえちゃん邪魔? 小姑はカエレってことデスカ?」
「馬鹿言ってないでこっち来て座れよ」

 藤ねえはのそのそ這って居間に入ってくると、そのままいぎたなくごろりと横になった。

「思ったより早かったな。悪い、まだこれからメシの支度するところだから、とりあえず煎餅でも食って待っててくれ」

 お腹ペコペコなのにこれ以上待たせるなんてひどいよぅ――という抗議は、来なかった。

「……お休みですね」

 そう。
 藤ねえは手足を縮め背中を丸めた胎児の姿勢で少し口をあけ、『くかぁ〜』と漫画みたいなイビキをかいていた。

「早っ!」
「ほんとうに、よほどお疲れなんですね」

 桜は痛ましげに眉を曇らせた。

「あぁ。ますます美味いもん食わせてやらなくちゃな。桜もなにか作ってやってくれるか?」
「ですから、作らせてくれなきゃ怒ります」



 藤ねえは、肉食だ。
 いや、もちろん穀類も野菜も魚介類もまんべんなく貪るのだが、肉を喰らっているときがもっとも藤ねえらしい――ように思う。
 そんなわけで俺は豚肉のゴーヤチャンプル。肉体疲労には豚肉のビタミンB1がいいらしい。食欲増進とナトリウム補給を兼ね、あえて塩味を強めにしてみた。
 桜は合い挽き肉のハンバーグ。澄んだ肉汁がいかにも『肉だ。喰え』と主張している。付け合せられたかぼちゃのガーリック炒めもオリーブオイルとニンニクの香りが食欲をそそる。油溶性のβカロチンを摂取するのにも最適の調理法だ。
 飲み物はグレープフルーツジュース。クエン酸とビタミンCが豊富。
 デザートにはプレーンヨーグルトにブルーベリージャム。
 ――あれこれ悩んだわりにはさほど凝ったメニューではないが、手早く調理出来る範囲で味覚的にも栄養価の面でもなかなか悪くない出来だと思う。

「さ、出来たぞ。お待たせ」

 爆睡状態に入っていた藤ねえは揺り起こしてもしばらくもうろうとしていたが、嗅覚が先に再起動したらしく、鼻をひくつかせ料理の匂いを認識するや、とたんに覚醒し眼を輝かせる。

「うわぁ、おいしそうだよぅ」
「先生、熱いですから気をつけてくださいね」

 おかずに気をとられ、桜がわざわざ忠告してくれているのに炊き立てごはんの茶碗をまともにてのひらで受け取りお手玉している。そのマヌケ振りも久々に見た気がして、思わずなごんだ。

「いただきま〜す」

 飢えた野獣が真っ先に襲い掛かったのは俺のチャンプル。桜はそれを見て微妙に口惜しそうな顔をしたが、別に箸をつける順番は料理の優劣に関係無いと思う。
 実際、藤ねえは桜のハンバーグやかぼちゃもゆっくり噛み締めて味わい、眼を潤ませている。

「おいしいよぅ。しあわせだよぅ」

 確かに手は抜かなかったが、それほどすごい御馳走というわけでもない。
 だが藤ねえはよほど家庭の味に飢えていたのか、こっちが恐れ入るほど感激している。

「桜にな、藤ねえの為に夕飯作るのに自分に声を掛けないのは何事かって物凄い勢いで怒られたんだぞ。藤ねえの為に料理したいって」
「先輩、余計な事は言わなくていいです」

 藤ねえはついに涙をこぼしながら咀嚼を続けた。

「ぅぐ、桜ひゃんも、士郎も、あいがとぅねぇ」
「なにをいまさら。泣くことはないだろ。だいたい口の中に物が入ったまま喋るな」

 泣きながらメシを食われるというのは、どうにも気恥ずかしい。

「どうした、普段よりペース遅いじゃないか。口に合わなかったか?」
「そ、そんなわけないよぅ。おいしいからゆっくり味わって食べないともったいないじゃない」

 普段の豪快な喰らいっ振りもそれはそれで小気味良いのだが。

「おかわりは?」
「もちろんもらうに決まってるじゃない」

 そして普段より時間を掛けてきれいにたいらげるなり、藤ねえは再び横になった。

「おい、食ってすぐ寝ると胸焼けするぞ」
「う〜ん、食べ過ぎちゃった〜。もう動けないよぅ」

 はて。
 藤ねえの口から食べ過ぎなどという台詞が出てくるとは。さてはウチに来る前にも何か食って来たか。
 食器もさげないうちから食卓の脇に寝そべるとははなはだ行儀が悪いが、疲れているようだし今日のところは大目に見てやるべきか。
 枕代わりに座布団を二つ折りにして頭の下に差し入れてやろうと首に手を掛けると、藤ねえはびくりと肩を震わせた。

「だ、だめ、さわっちゃだめ」
「へ?」

 藤ねえは床に額をつけ何かをこらえるようにぴくぴく震えた後、四つん這いで洗面所へ向かった。

「おい、どうした?」
「来ちゃ、だめ」

 藤ねえは差し伸べた俺の手を力無く振り払い、肩で息をしながら洗面所へ辿り着いた。
 そして、激しく嘔吐した。



 遠からずこうなる事は、考えてみれば当然だった。
 予兆はあったはずだ。
 それに気付かずなんら具体的な対応を取らなかったのは俺の怠慢であり、藤ねえに対する甘えに他ならない。
 嘔吐して苦しむ藤ねえの背中をさするしかない自分の甲斐性の無さがつくづく腹立たしい。

「ごめんね。ごめんねぇ。士郎と、桜ちゃんのごはん、おいしかったのに……もったいないよぅ」
「馬鹿、なに言ってるんだ。いいから無理して喋るな」

 吐くものが無くなって胃液までもどし、涙と唾液と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、藤ねえは俺たちに謝った。

「先生、胃液でのどが荒れますから、うがいして水を飲んでください。先輩、お布団の用意を」

 何も出来ない俺を押しのけ、桜が適切に指示を下す。
 嘔吐が落ち着いてから和室に敷いた布団に寝かせるまで、藤ねえはうわごとのように俺と桜に謝り続けた。

「救急車呼ぶか?」
「大げさだよ士郎。このまま寝かせてくれるだけで大丈夫だよ」

 青い顔をしながら無理に微笑んでみせる藤ねえに俺はかける言葉も無く。
 その場を桜にまかせ、藤村の家に電話して雷画爺さんに事情を説明した。

『あぁ、やっぱりな』
「やっぱり? 前から具合悪かったのか?」
『別に病気じゃねぇよ。ただの過労だろ』
「過労って……確かに最近忙しかったろうけど」

 しかし、ちょっとやそっとで倒れるほどヤワな人間ではないはずだ。

『前から結構夜更かししてやがったけどな、最近なにをムキになってやがんだか二時三時までごそごそやってやがる事が多かったんでな』
「……そんなに何を?」
『英語のラジオ聴いてたり、本読んでたり、竹刀振ったり、色々よ。
 生徒が頑張ってるんだから自分はもっと努力しなきゃとかなんとかぬかしやがって。それで身体壊したらかえって周りに迷惑だってのに、いくら言っても聞きやがらねェ。
 すまねえなぁ、士郎にまで面倒掛けてよォ。一発ガツンと叱ってやってくれや。俺なんぞより士郎に言われた方が、アイツもこたえるだろうからよォ』

 ――なんと返事して電話を切ったか、覚えていない。
 あの藤ねえが、夜更かし? 前から?

 ウチに来るとところかまわずゴロ寝していた藤ねえ。
 あれは、その反動だったのか?
 それなのに俺は、だらしないとかぐうたらだとか――。
 仕事が終わってからも人知れず勉強したり鍛えたりしていた藤ねえ。
 そんな彼女に、料理の一つも出来ないなんて情けないと――。

 俺は、馬鹿だ。
 自覚はしていたつもりだったが、それどころじゃなかった。
 自分の頭を叩き割りたい。
 泣き喚きたかったが、無論、俺にはそんな資格も無い。
 歯を喰いしばり拳を握り締める俺の肩に、桜の手がそっと添えられた。

「先生、お休みになりました。今夜はわたしも一緒に泊まらせていただきますね」
「そうしてくれると助かる。すまないな、桜にまで迷惑掛けて」

 桜は俺の肩をつねって言った。

「またそんなこと言って。わたしだって先生のお世話焼きたいんです。お電話お借りしますね」

 慎二に電話をかけて断りを入れた桜は、呆然と畳を見詰める俺にお茶を淹れてくれた。

「俺は……藤ねえのことは、何でもわかってるつもりだった。大雑把でだらしない姉貴のフォローを、いつもしてやってるつもりになってた」

 雷画爺さんに聞いた話を伝えても、桜はさして驚きもしなかった。
 つまり、判ってなかったのはやはり俺だけだ。

「酷い話だよな。一番藤ねえの近くに居たはずの俺が、一番理解してなかったんだ。俺は、最低だ」

 自嘲的な自分の言葉もまた醜く、不快だ。
 桜はそんな俺をしばらく黙って見詰め、不思議なくらい穏やかな表情で言った。

「先輩。今の藤村先生、誰かにとってもよく似ているんです。判りますか?」

 何を言いたいのか測りかねて見返すと、桜はきっぱりと言った。

「そっくりです。少し前までの、先輩に。
 いつも張り詰めて、がむしゃらに前だけ見て。いつもなにかを全力でこなして。それはとても素敵でしたけど、いつか壊れてしまいそうで、手の届かないところに行ってしまいそうで……なにかの弾みであっさり死んでしまうんじゃないかって、凄く怖かった。
 そして不安に思っているのになにも出来ない自分が、とても歯痒かった。
 今、先輩が感じている無力感や憤りは、わたしや藤村先生がずっと抱いてきた事と、きっと同じものです」

 ――俺は今まで、何をやってきたのだろう?
 大事な人たちを護りたくて、でもどうしていいのか判らずただ一人でもがいて。
 結局、俺の方が護られ、周りに負担を掛けてきただけではないのか。

「でも最近の先輩は少し変わりました。
 少しだけ自分の周りの事も、先輩自身の事も、ちゃんと見てくれるようになったと思います。
 ……それはきっと、姉さんのおかげ。
 わたしたちがどんなにがんばっても変えられなかった先輩に、姉さんはあっという間に影響を与えてしまった。
 もちろん、いい変化だと思います。
 わたしは先輩を変えてくれた姉さんに感謝して、そして物凄く嫉妬もしてます。
 わたしよりずっとながく先輩を見守ってきた藤村先生は、わたしよりもっと感謝して、もっともっと口惜しい想いを抱いてるんじゃないでしょうか。
 だからきっと、今の先生のがむしゃらさは、その無力感の裏返しなんだと思います」

 俺は、こんなにも恵まれている。
 あの業火で全てを失った俺は、その悲運に酔ってはいなかったか。
 やさしく差し伸べられる手を当然のものとして、意識する事すらなかったのではないか。

「先輩、自分を責めないで。先輩が辛い顔をすると、先生も心配をかけた自分をよけい責めちゃいますから」

 桜は俺の背後に回り、背中からそっと抱き締めてくれた。

「――駄目だ。優しくしないでくれ、桜。俺にはそんな資格は無い」
「やさしくされるのに資格なんてありません。わたしが先輩にやさしくしたいんです。いけませんか?」

 俺が、俺なんかがこんなに恵まれているのは、幸福量の収支が絶対に不釣合いだ。
 魔術師の基本原則、等価交換に反する――遠坂の口癖を思い出し、彼女にも電話を入れねばならない事に思い至った。



 遠坂による魔術と英語の特訓は、俺が遠坂邸にお邪魔させてもらう形でほぼ毎晩続いていた。
 男としてあれだけ酷い仕打ちをした俺を、遠坂は弟子として今までと変わらず扱ってくれる。まったく、俺には頭が上がらない相手が多過ぎるが、遠坂はその筆頭だ。
 その師匠に、今夜は藤ねえがウチで倒れたから行けない旨を電話で伝える。

「――そういうわけで、すまないけど今日は勘弁してくれ」
『大丈夫? そっち行ってあげようか?』

 こっちの勝手な都合でキャンセルして怒られるかと思ったが、電話越しの遠坂の声は儀礼でなく、心底心配してくれている温かみがあった。

「ありがとう。藤ねえは桜が面倒見てくれてるから大丈夫だ」
『そうじゃなくって。アンタは大丈夫かって聞いてるのよ』
「なんでさ。寝込んでるのは藤ねえで、俺は別になんともないぞ。食中毒じゃないんだ」
『あぁ、もぅ、だからそうじゃなくって! しょぼくれた声出してるんじゃないわよ!』

 やっぱり結局、怒られた。
 しかし、思った以上に心配を掛けてしまったようだ。
 つくづく俺は、優しい人たちに囲まれ、護られていたのだと思い知らされた。


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「いいのですか、行かなくて」
「いいでしょうよ、本人が大丈夫だって言ってるんだし、藤村先生は桜が面倒みてるらしいから。シスコン馬鹿が少々落ち込んだくらいで甘やかすと癖になるわ」
「タイガが姉なら、サクラは妹ですね」
「……何が言いたいのよ?」
「いえ、私は別に」
「行きたきゃアンタは勝手に行けばいいでしょ」
「私は、リンの方が心配ですから」
「余計なお世話よ。なんでわたしが心配されなくちゃいけないのよ」
「いえ、別に。甘えるのが下手な人も甘やかすのが下手な人も扱いに困りますね」
「貴女、言い回しがいやみになってきたわね」
「そうでしょうか。誰かの影響かもしれません。気をつけましょう」


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 藤村先生のかたわらは、とても居心地が良い。
 お日様の匂いがして、いつも明るく天真爛漫で、しかしとても強い先生が大好き。
 だから、看病とはいえ自分がなにかしてあげられる事があるというのはとてもうれしい。不謹慎かもしれないけれど。
 その気持ちにまったく嘘はない。
 けれど、役得があったからといって罰があたるというものでもない、と思う。
 少しだけ、欲を出してみた。

「あの、先輩。ひとつ、お願いがあるんですけど。わたし、制服で来てしまって着替えがないんです。申し訳ありませんけど、なにか、パジャマ替わりになるものを貸していただけませんか?」

 わたしのお願いは当然のもののはず。
 であるがゆえ、先輩は困惑する。

「ああ、そうだよな。でもウチは知っての通りもとから男所帯だし、桜に着させられるような物は……」
「なんでもいいんです。失礼ですけど、先輩のトレーナーとかワイシャツだけでも充分です」
「い、いや、それはさすがにマズいだろ。ちょっと待っててくれ。何か探すから」

 紅くなった先輩は、逃げるように二階へ走って行ってしまった。想像してくれたらしい。
 わたしが女であると意識してくれただけで、うれしい。
 やがてドタバタと、藤村先生が寝ているのに足音を殺す気遣いも忘れて戻ってきた先輩は、ジャージの上下を手渡してくれた。

「これでいいかな。ちゃんと洗濯はしてあるけど、こんなものしかなくてごめんな」
「いいえ」

 むしろ洗濯していない方がいいです――とはさすがに言わない。
 ありがたく拝借する。

「そうだ、風呂をいれなくちゃな」
「いえ、そのあいだ先生を独りにするのも気がかりですし、今日はこのまま休ませてもらいます」
「そうか。なにかあったら夜中でも呼んでくれ」
「はい。それじゃ、少し早いですけど、おやすみなさい」

 音を立てぬよう注意を払いながら、藤村先生が休む和室へさがる。
 先に着替えさせた時、先生がこの家に自分用のパジャマを常備していた事を知って少し嫉妬したけれど、先輩の服を胸に抱いて、ちょっとだけ優越感。
 おそるおそる先輩のジャージに顔をうずめると、洗剤の匂いに混ざって、かすかに汗の匂い。先輩の匂い。

「変態〜。桜ちゃんの変質者〜」

 心臓が、一瞬凍りついた。
 眠っているとばかり思った藤村先生が、慌ててジャージを後ろ手に隠した私を半眼で睨め付けている。

「な、なんのことですか?」
「士郎の服の匂いなんか嗅いで悶えて、桜ちゃん倒錯してるよぅ」

 なんで、常夜灯だけの薄暗がりで先輩の服だと判るのか。

「そんなことするくらいなら、直接本人に抱きついて好きなだけ嗅ぎまわってやればいいのよぅ」
「そんなはしたないまね、できるわけないじゃありませんか」
「おねえちゃんが許すのに」
「なんの保証にもなりません」
「桜ちゃんのいくじなし。そんなことだからトンビに油揚げさらわれちゃうのよぅ」

 ちょっと、腹が立った。
 病人だからって、聞き流すわけにはいかない。

「そんなの、先生だって同じじゃないですか」
「違うよ」

 先生はあっさり返し、わたしのスカートの裾を引っ張った。。

「見上げながら話すの疲れるから、桜ちゃんもはやくお布団に入って」

 痛いところを突いたつもりなのに平然としている先生が憎らしくて、見せ付けるように先輩のジャージに着替えて隣の布団に入った。
 同じ痛みを抱えているはずなのに裏切られた気分で睨み付けるわたしの手を、先生は握ってきた。

「わたしはね、桜ちゃんがこの家に出入りするようになってくれて、本当にうれしかった。士郎の事を想ってくれるいい子が来てくれて、よかったって。いつかこのまま桜ちゃんが士郎のお嫁さんになってくれたらいいなって、きっとそうなるって、思ってた」

 なんでいまさら、そんなことを言うのだろう。
 握られた手を引くが、先生の手は離れなかった。

「なのに二人とも煮え切らなくて。どうやって炊きつけてやろうかってジリジリしてたら、凛ちゃんやアルトリアちゃんが来て。女の子に免疫がなかった士郎は、あっさり転んじゃったじゃない。ほんと、さっさと桜ちゃんがしっかり捕まえておけばよかったのにって、思った」

 先生に握られた手が、嫌な汗で湿ってきた。

「でも、それも違うんだよね」

 常夜灯の淡い光のなか、先生の視線を感じてわたしは答えた。

「そうですね。いままでのわたしじゃ、先輩に選んでもらえなくて当然でした。
 先輩の存在にすがってばかりで、先輩さえいてくれるなら、先輩のそばにさえいられるならどんな形でもいいと思ってました。
 わたしにとって全てだった先輩を奪った姉さんと、わたしに振り向いてくれなかった先輩を恨んで……そして、そんな自分が大嫌いで」

 先生はわたしの手を離し、天井を見上げて言った。

「もちろん、凛ちゃんもアルトリアちゃんもいい子だし、わたしも大好きよ。別にあの子達になんの不満もないわ。士郎をとられちゃうのが嫌とか、そういう気持ちは……もちろん無くはないけど、でもそれで士郎が幸せになってくれるんなら、それを認めないほどわがままじゃないつもり。
 だけど……だけどね。それでもやっぱり、このまま黙って見てちゃいけない気持ちになった。
 あなたたちなら、誰が士郎の隣に残っても間違いはないと思う。
 だけど、いままで女の子とお付き合いもした事がない士郎が、相手をちゃんと選んで見極められるのかな。
 いきなりたかが何週間とか何ヶ月とかで、この先何十年も付き合っていく相手を決めちゃって、それで本当にいいのかな。
 誰を選ぶにせよ、それとも誰も選ばないにせよ、士郎もあなたたちも、わたしも、それで後悔しないのかな。
 そんなにあわてて決めなくちゃいけないことなのかな。
 ――そんなわけない。
 みんなでもっと悩んで苦しんで、ぶつかり合って考えなくちゃ。そう思った。
 だから、凛ちゃんたちがわたしや桜ちゃんから士郎を引き離してくれるのは、むしろいいきっかけ」

 やっぱり、このひとは強い。
 ついつい暗い考えにとりつかれがちなわたしまで、強引に引き揚げてくれる。

「先生、お疲れなんでしょう。眠らなくていいんですか」
「桜ちゃんとも話し足りなかったから、もう少し話させて。こんな話、桜ちゃんにしか出来ないし」

 先生はもう一度わたしの手を握ってきた。

「わたしと士郎もね、一度距離を置くべきだったって気付いたの。
 いつもお互いそばにいるのがあたりまえで、いるだけで安心してもたれあってた。
 わたしも士郎も大人になるために、一度離れなくちゃいけないの。
 でもね。わたしと士郎の付き合いは長いから、ただ冬木とロンドンに離れただけじゃ、きっとあんまり変わらない。会えないだけだとただ寂しくて、かえって甘えちゃう」

 なんのてらいもなくそう言い放つ先生がうらやましい。

「だから一度、今までの士郎とわたしの関係をぶち壊してやらなくちゃいけなかった。
 お互い対等の大人の立場にならなくちゃ。
 そのために少々傷付いても、強引で卑怯な手段でも使う。
 桜ちゃん。ごめんね。わたし、もう少し様子見してるつもりだったけど、やめた。
 おねえちゃんはやめないけど、女としても士郎と向き合う」

 堂々と言ってのけるのがこの人らしい。

「やっぱり。いまさらおどろきませんよ」
「だからってわけじゃないけど、桜ちゃんだって誰に遠慮する事もなく自分の想いをぶつけなさい」
「べつに遠慮なんかしてませんよ。
 わたしは、時間が掛かっても先輩に本当に求めてもらえる女になるって決めたんです。
 そして、絶対にあきらめないことにしました。誰が相手でも、わたしがお婆さんになっても、死ぬまで先輩を奪い返すのをあきらめません」
「言うようになったわね、桜ちゃん」

 先生はわたしの手を離し、ごろごろ寝返りをうった。

「そうよぅ。わたしたちみんな不器用なんだから、不器用なりにじたばたもがかなきゃ。士郎をたくさん困らせて、悩ませてやらなくちゃ。士郎のためにも、わたしたちのためにも。
 あっさり結論なんか出すことないし、出させちゃだめだよぅ」

 抱きつかれ、そのまま一緒に布団の上を転がされた。

「ちょっと先生。具合悪かったんじゃないんですか? おとなしく寝ててください」
「う〜。またちょっときもちわるくなった……」

 まったく、このひとは。
 なにをやっても憎めない。そこが憎らしい。

「今日のことは、ほんとにごめん。士郎がいなくってもわたしはがんばれるってところみせようと思って、かえって心配かけちゃった。だめだね、わたし」
「むしろ、わざと心配させようと思って無茶してませんでしたか?」

 先生はわたしの胸元にうずめていた顔を上げて、力なく笑った。

「そこまで計算高くないよぅ。
 ……でも、そうかもね。
 いつも無茶してた士郎へのあてつけみたいな気持ちも、あったかもしれない」
「それじゃ全然、先輩離れになってないじゃありませんか」


‡    ‡    ‡    ‡    ‡    ‡



 日課の鍛錬も手につかず、竹刀を握る気にもなれず、もちろん眠ることなど出来ず。
 縁側の窓を開け、寝転がってぼうっと夜空を見上げていると、いきなり顔を覗きこまれた。

「こんばんわ」
「うわっ!? と、遠坂?」
「なによ。そんなにびっくりするなんて失礼ね。わたしの顔を見られて嬉しくないの?」
「い、いやそうじゃなくて。どうしてここに?」
「アンタがしょぼくれてるとわたしも面白くないのよ」

 遠坂はさっさと靴を脱ぎ、俺と並んで縁側に座った。

「わざわざ心配して来てくれたのか?」
「だから、心配っていうより不愉快だったのよ。いじけてられると気分がよくないの」

 気位の高い遠坂なりの気の遣いかたなのだろう。

「ごめんな。わざわざ本当に、すまん」
「『ごめん』じゃなくて『ありがとう』でしょ。それとも本当に嬉しくないの?」

 頭を下げると、耳をつかまれ遠坂の膝の上に引き倒された。

「いてててて!」
「ほら、おとなしくして。耳掃除してあげるから」
「と、遠坂? なんで耳掃除なんだよ?」
「うるさいわね。このわたしに膝枕されてなにか不満でもあるの?」

 遠坂は本当に耳掻きを取り出してみせた。
 観念して頭を預けると、遠坂の肉が薄いながらもしなやかな太腿が心地好い。
 彼女はマグライトで手元を照らしながら、本格的に俺の耳掃除を始めた。

「なぁ。なんで俺なんかに、そんなに優しくしてくれるんだ?」
「『俺なんか』って卑下するのはやめなさい。かまってあげてるわたしまでおとしめる事になるわよ」
「だって、な。本当に俺は、優しくしてもらうだけの価値なんかないと思う」
「それを決めるのはアンタじゃないわ。アンタはわたしの所有物なんだから、勝手に過小評価されちゃ困る。
 士郎、アンタはなんでも自分独りで勝手に決め付けて背負い込み過ぎなのよ。
 藤村先生の事だってそう。どうせアンタの事だから、『俺がついていながら』とかいって落ち込んでたんでしょう?
 先生はもういい大人なんだから、体調崩して倒れようがなにしようが、それは本人の責任よ。
 大体、誰だってたまには調子悪くなって寝込む事くらいあるんだから、それを勝手に自分のせいだなんて思い込んで落ち込まれたら、おちおち具合が悪いとも言えなくなっちゃうじゃない。かえって先生が可哀想よ」

 いかにも遠坂らしいきっぱりした物言いが小気味好い。

「遠坂」
「なによ」
「おまえ、いい女だな」
「アンタ、本当に馬鹿ね。いまさら気付いたの?」

 口調とは裏腹に、遠坂の手が優しく俺の頭を撫でた。
 なんだか身体の芯から力が抜けた。
 だからようやく、俺は泣く事が出来た。
 情けなくて、つらくて、申し訳なくて、嬉しくて。
 いろんな感情が溶けて涙と一緒に流れ落ち、遠坂の膝を濡らした。
 遠坂は黙々と耳掃除を続けてくれた。

「右よし。反対向いて」
「ん」

 ごろりと転がって反対を向くと、遠坂の下腹部に鼻先が触れた。

「バカッ! エッチ! なんでこっち向くのよ!?」

 遠坂は板張りの床に容赦無く俺の頭を放り出した。

「身体ごと反対側に移動しなさい」

 あー、そうか。
 弛緩して頭が回らなかった。
 左側頭部を遠坂の右膝に預ける形から、反対に回って今度は右側頭部を左膝に預けた。

「ん、大物発見」

 冷たい金属の感触が耳に挿入され、思わず首をすくめると「動かないで!」と叱られた。
 そして破滅的な剥離音と共に引き抜かれる。遠坂はそのピンセット――そんなものまで持参していたのか――につままれた戦利品を得意げに掲げた。

「見なさい。士郎ってば人の世話ばっかりで、自分の事がおろそかになってるんだから」

 動かぬ証拠を突きつけられた。不潔だと言われるのは、不細工だと言われるよりキツイと思う。
 ――羞恥ぷれいデスカ?

「そういう遠坂はどうなんだよ。見せてみろ」
「ナニ言ってんのよ馬鹿! 変態!」

 頭をひっぱたかれた。なんでさ? 理不尽だ。
 ――そして優しく綿棒で仕上げて俺の耳掃除を終えた遠坂は、本当にそれだけで帰ると言う。お茶も飲まずに。

「それじゃ今日遅れた分、明日しっかりしごくから、ちゃんと寝ておきなさいよ」
「あぁ。ありがとう」

 遠坂に対する莫大な負債がさらに増えてしまった。
 どういう形で返済すればいいのか今はまだ見当もつかないが。どうせ一生掛かるのだ、ゆっくり焦らず考えよう。
 とにかく素直に感謝だ。
 ありがとう。
 俺はもう一度、心の中で遠坂に礼を言った。




 ――しっかり眠れるのはよい事だ。
 だからといって、あれだけ悩んで落ち込んだ翌日、桜に起こされるまでぐっすり眠っていた俺はどうかしていると思う。
 居間に下りると藤ねえまで起きて座っていた。

「おなかすいたよぅ」

 パジャマのままテーブルに突っ伏していたが。

「藤ねえ、無理に起きてこなくていいんだぞ」
「だっておなかすいたんだもん。それに土曜日だって授業は休みだけど部活はあるし、学校行かなくちゃ」

 食欲が復活したのは大いに結構だが――。

「何言ってんだよ。無理して週明けに倒れたらそっちの方が問題だろ」
「そうですよ先生。部活は他の先生の許可を頂けば大丈夫ですし、ゆっくり休んでください」

 俺と桜の言葉に、藤ねえは不満げに頬を膨らせた。

「なんだよぅ。藤村先生は名前だけの顧問って事かよぅ」
「普段の先生の指導がしっかりしているから、たまにわたしたちだけになっても後輩への抑えも利きますし、きちんと活動できるんです」

 言葉巧みな桜のフォロー。藤ねえの眉間のしわがゆるんだ。

「でぇ〜もぉ〜、月曜日の授業に使うプリントの用意とかもしなくちゃいけないのだ」
「いくら段取りしても、肝心の藤ねえが授業出来なくなったりしたら意味ないって」

 頬もゆるんだ。自尊心をくすぐるのに成功したらしい。判りやすくて助かる。

「今日明日は休養日だ。働くの禁止」
「先輩、それじゃわたしは一度家に戻ってから部活に行きます」

 桜は藤ねえが納得したとみて、鞄を手に席を立った。

「今日だけは先生を思い切り甘やかしてあげてください。今日だけ、ですよ」

 桜が立ち去ると、藤ねえは再び不安げに眉を寄せた。

「みんながんばってなにかやってるのに、わたしだけさぼってていいのかなぁ」
「まだそんなこと言ってるのかよ。
 頼むから。俺たちの方が落ち着かないから、休みの日ぐらいゴロゴロしててくれ」

 藤ねえはのっそりテーブルから身を起こした。

「じゃあ、わたしもう帰るよ」
「なんでさ? ここで寝てていいんだぞ?」
「だって士郎はどうせ、遠坂さんのお家にお勉強に行っちゃうんでしょ? ゲロ吐いた年増より学園のアイドルの方がいいもんね」
「――そりゃ、勉強には行くけどさ。どうせ寝てれば俺が居ようが居まいが関係ないだろ?
 うん、だから、好きなところで好きなようにしててくれればいいけど、朝飯は俺に作らせてくれ。っていうか、どうせ遠坂のところに行くのは午後だから、昼も一緒に食ってけよ。
 さぁ。腹減ったんだろ? なんでも好きなもん作ってやる。ただし、消化がいいモンな」

 藤ねえはぶつぶつ呟いて真剣に悩んでから、上目遣いでおそるおそる言った。

「じゃあ……ホットケーキがいいな」
「よし。すぐ作ってやる」

 立ち上がりざま頭を撫でてやると、藤ねえは満面の笑みを浮かべてごろりと転がった。

「こら。パジャマのまま寝るんなら布団に行け」
「ふーんだ。好きなところで好きにしろって言ったのは士郎だもーん」

 座布団を枕に幸せそうに丸まって眼を閉じる藤ねえを見ると、怒るに怒れない。
 でかい猫を飼っているみたいだ。
 思わず頬をゆるめて眺めていると、突然眼を見開き吼えた。

「ホットケーキ食べたいなんて子供っぽいとか思っただろー!?」
「思ってねぇよ」

 やっぱり虎か。
 喰いつかれないうちに、御所望のホットケーキを焼こう。

 ――桜。人の為に何かしてやるって、嬉しいよな。
 そう思うこと自体は、悪い事じゃないよな?

 俺はテフロン加工のフライパンにひくのはサラダオイルかバターか、あるいは何もひかずに焼こうか、少し悩んだ。



end

The original work 『Fate/stay night』  ©TYPE-MOON
Secondary author ばんざい 2004.8.18

補足

 愛され方が下手な人は、愛し方も下手だと思われる。


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