Fate/stay night alternative tales before any story.
「来た――――――! 来たキタきた! 来たわよおぅ〜!」 真面目に受験勉強に励む俺を、壊さんばかりに引き戸を乱暴に開け廊下を走り階段を駆け上がりドップラー効果で高音シフトして迫り来る奇声が妨げた。 ……そうか。ついに来てしまったのか。 日本の未来を憂いていると、元凶が襖を蹴倒さんばかりの勢いで乱入して来た。 「ほらほらほらほら見なさいよぅ!」 猛り狂った藤ねえは俺の首を抱え込み、広げたA4程度の紙を目の前に突きつけてくる。 「そんな顔にくっつけたら読めないだろ。いいから落ち着けよ」 肩口に押し付けられた胸を意識してしまった自分に猛烈な嫌悪を覚え、俺は出来るだけ無愛想に藤ねえを押し退けた。 「見てやるからよこせ」 大事なものだろうに、思い切り握り締められくしゃくしゃになってしまった一枚の紙には、ワープロでそっけなく、しかし確かに記されていた。 「採用通知」 つまり俺の姉貴分が、彼女の母校であり俺が受験しようとしている穂群原学園の教員となる事が確定したのだ。 ――日本の教育現場は死んだ。
おねえちゃんの艶姿を見れ
written by ばんざい 「そうか。おめでとう」 「なによぅ、そっけないわね。士郎はおねえちゃんが一人前になったの、喜んでくれないの?」 「採用決まっただけで一人前はないだろ。あんまり浮かれるなよ。だいたい俺は、藤ねえは教員には絶対向かないって反対してたはずだ」 不満げに唇を尖らせていた藤ねえは突然くすくすと笑い出し、上目遣いに俺の顔を覗きこみながら脇腹をつついてきた。 「はっはぁ〜ん。士郎、大好きな自分だけのおねえちゃんがみんなの先生になっちゃうから、やきもち妬いてるんでしょう?」 「寝言は寝て言いやがれ。あのな、教員になるってどういうことか判ってんのか? 新任はきっと運動部の顧問とかやらされるから、朝練なんかあって毎朝スゲェ早く行かなきゃいけないんだぞ? 授業だって何十人の生徒の人生に影響与える責任を負うんだぞ? 授業だけじゃなく言うこときかず馬鹿をやる生徒の相手とかもしなくちゃいけないんだぞ? セクハラだってされるかもしれないぞ? 嫌な上司がいたってやたらに殴っちゃいけないんだぞ?」 俺だって、藤ねえが一生懸命がんばって教員免許を取り、さらに必死に勉強して採用試験に臨んだ事くらいよく判っている。 だから本当は素直に祝福してやりたいのだが、うかれまくっている藤ねえを見るとどうしても不安が先に立ち、ついつい水をさすような事ばかり口をついてしまう。 そんな弟分の複雑な胸中を知ってか知らずか、藤ねえは俺の手を握ってぶんぶん振り回した。 「えへへぇ〜。やっぱり士郎はおねえちゃんのこと心配してくれるんだ〜。うれしいなぁ」 どちらにせよ、今は何を言っても頭に残らなそうだ。 「ねぇ士郎。お祝いしてお祝い」 それはまぁ、やぶさかでない。 「おう。なんか食いたいもんとかあるか?」 「今日はわたしがおごっちゃうから、どこか食べに行こうよ〜」 「待て待て待て。藤村の家はどうするんだよ? 親父さんや爺さま達が待ってるんじゃないのか?」 「あ……」 藤ねえは目を丸く見開いてから視線を落とし、通知書を握り締めた。まさか。 「おい。ちゃんと報告したんだろうな?」 「……まだ」 「なにやってんだよ! 育ててくれた親に真っ先に報告するのが筋ってもんだろ!」 「だってこれ見たら最初に士郎のことが頭に浮かんだんだもん……」 思わず本気で怒鳴りつけてしまったが、そう素直に返されるときまりが悪かった。 「ウチに報告してくる。今夜はお寿司でも取るから、士郎も来てね。あとで電話で呼ぶから」 「藤ねえ」 なんとなく勢いを失って立ち去ろうとする藤ねえに罪悪感がわき、思わず呼び止めた。 「おめでとう。それと、わざわざ俺なんかに知らせに来てくれて、ありがとな」 藤ねえは顔全体をゆるませ、満足そうに微笑んだ。 「うん。今度は士郎の番だからね。ちゃんと合格してわたしの後輩になってね」 後輩になるのはいいが、そうなれば同時に教え子になっちまうのが確定したわけだ。 ――複雑だ。せめて直接の教科担当に当たらない事を祈ろう。 「いやぁ、まさかこのはねっかえりのじゃじゃ馬がカタギの仕事に就く事になるたぁなァ。しかも学校の先生だってんだからおどれェたね。これもおめェのおかげさな。ありがとよ、士郎」 酔っ払った雷画爺さんは手加減無く俺の背中をバシバシぶっ叩いた。年寄りのクセに馬鹿力め。 「なんでさ。そりゃ本人ががんばったんであって、俺は関係ないだろ」 「いやいや。そのがんばりもおめェがいたからこそできたってもんさ。まァ呑め」 「ちょっと、未成年にコップ酒なんか勧めないでよ」 「おおっと、教育者様に叱られッちまったぜ。うははははは」 俺に日本酒を押し付けようとした雷画爺さんは、藤ねえにたしなめられて肩を揺すって笑った。 「堅気の仕事に就くのがそんなに嬉しいのか? 跡継ぎ居なくなっちまうだろ」 「ケッ。大河みてェな計画性のねェ自堕落な奴ァこっちから願い下げでェ」 「……わるかったですねぇ」 酷評された藤ねえは残っていたかっぱ巻きを三つほどまとめて頬張ってむくれた。 「跡継ぎなんてなァ才覚がある奴がなりゃあいいのよ。心配してくれんなら士郎、おめェがコイツを貰って婿入りしてくれや」 「無理」 「うはははははは! 即答だぜ大河よォ」 「……もぅ。酔っ払いの相手はしてられません。士郎、お散歩行こ」 すっかり出来上がって上機嫌な爺さんや黙ってしみじみ冷酒を飲んでいた親父さんを置いて、俺たちは藤村邸を後にした。 「よかったじゃないか。みんな本当に喜んでくれてて」 雷画爺さんたちだけではなく、藤村組全体が沸いているのが感じられ、俺も少し嬉しかった。 「うん。それはありがたいんだけどさ。あんまり大騒ぎされると、なんだかプレッシャーが掛かっちゃって落ち着かないのよね」 だから散歩なんて言って外に出たのか。 そんなタマかよと言いたかったが、鉄拳制裁確実なので我慢した。 「で? 散歩ってどこまで行くんだよ」 「ん〜? そうだなぁ、新都まで歩いて喫茶店でお茶しようよ」 「こんな時間にかよ。もう九時過ぎてるぜ」 「たまにはいいじゃない。先生と教え子になってからじゃ、あんまりえこひいきするわけにもいかないし。今のうちたっぷり甘えさせてあげる」 「ばーか。甘えてるのはどっちだよ」 二人で並んで歩くうちなぜかだんだん早足になり、やがて小走りになり、冬木大橋に差し掛かる事には本格的に持久走になって二人で競り合っていた。 「や、やめよう。汗かいちまう」 「なによぅ。士郎が先に走り出したんじゃない」 たらふく詰め込んだ寿司がまだ胃で暴れている。 橋の上はやや風が強く、少し汗ばんだ肌には心地好かった。 橋といえば、ここを藤ねえと並んで渡った記憶がなかった。 普段やたらと一緒に居る時間が長いから気づかなかったが、藤ねえと外を一緒に歩いたこと自体めったになかった。 いや、考えて見れば当たり前だった。俺が避けていたんだ。 子供の頃はなにかと俺に干渉したがる藤ねえをしばしばうとましく感じ、逃げ回っていた。 切嗣が死んでからはなおさら気を使われるのが嫌で、意地を張ってぶっきらぼうに接してしまったと思う。 それでも強引に俺の生活に踏み込んできてくれた藤ねえがいたからこそどうにか心が壊れずにやってこれたのだと、今にして思う。 ごめんな。そして、ありがとう。 もちろん口に出せばとどめるところを知らず増長するに決まっているので、胸の内だけで告げた。 「えへへ。夜のお散歩ってちょっとわくわくするね。でも士郎、味をしめて夜遊びしちゃ駄目だからね」 いい歳してこのくらいの時間で夜遊びもないだろうに、藤ねえの方がなんだか浮かれていた。 よく子供がやるようにやたらとくるくる回りながら歩道の幅一杯にふらふら歩くので、俺はしばしば後ろを振り返り自転車などが来ていないか確認しなければならなかった。 そういえば公園の遊具や遊園地の乗り物などは回転系の動きをするものが多いし、映画などでも視界が転回する場面は快感を得やすいという話を聞いたような気がする。つくづく本能に忠実な奴め。 「酒も呑んでないのに酔っ払いみたいな歩き方するなよ」 「なによぅ。士郎も一緒に踊りなさいよ」 藤ねえは俺の手をとり、でたらめなステップでワルツを踊り始めた。 「やめろって。恥ずかしい奴だな」 「あははは。わたしは楽しいよぅ」 ドタドタと不様なステップを踏み二人でグルグル回りながら歩く。橋を渡り切る頃にはいいかげん三半規管が酔っていた。 こんな調子ならいっそ保育園の保母とかの方が向いているんじゃないかと思ったが、人格形成も出来ていない幼児に与える影響を考えたらやっぱり駄目だ。 本当にこんなのが教員になっちまっていいのだろうか。 「あー。士郎、なんか失礼なこと考えてるでしょ?」 耳をつかんで引っ張るのも、握力が半端じゃないのでちぎられかねない勢いだ。 「イテテテ! 暴力禁止。訴えてやるぞ」 「士郎はわたしが責任もっていい男に育てなきゃいけないから特別だもん」 「保護者ヅラすんのは自分が大人になってからにしやがれ」 藤ねえは惑いのない足取りで奥まった路地にある雑居ビルに向かい、二階の喫茶店に入った。 店員は小柄な四十がらみの女主人独りの狭い店だ。 「よくこんなとこ知ってるな」 「穂群原に通ってたころネコと一緒に歩き回ってて見つけたお気に入りなのだ」 奥のテーブルに陣取りコーヒーを待つ間、藤ねえは穂群原学園での思い出をあれこれと語った。 「藤ねえが在学してた頃の教員ってまだ残ってるのか?」 「うん。あそこは入れ替わりが少ないからかなり残ってるよ」 「昔、自分が教えられた教師と同僚になるってやりにくくないか?」 「そうかな? わたしはわくわくしてるけど。だってさ、知らない所へ行ったり今まで経験の無い事をしたりするのって、すごく楽しみじゃない」 この際限のないプラス思考が頼もしくもあり不安の元でもある。 藤ねえが切嗣のマネをしてこの調子で東南アジアやらへふらふら出かけてやがるたび、俺がどれほど気を揉んだ事か。 やがて出てきたコーヒーは特筆するほど美味くも不味くもなかったが、煤けた漆喰塗りの壁に暗い照明だけの殺風景な店内が逆に特徴になっており、居心地は悪くなかった。わかりにくい立地にもかかわらずつぶれずにいるということは、それなりに固定客がついているのだろう。 「ねえあんたたち。ケーキ食べてくれない?」 サラリーマンらしい二人連れが出て行き客が俺と藤ねえだけになると、だしぬけに女主人から声を掛けられた。 「残り物、処分しちゃってよ」 ショートケーキと共に、コーヒーのお代わりまで注がれる。 「うわぁ。ありがとうお姐さん」 「懐かしい顔が可愛い彼氏つきで来てくれたからね」 「えへへ。わたしの弟分なのだ」 女主人は無遠慮に俺の顔を眺め回してニヤリと笑った。 「あんたのねえちゃん、大学入ってからすっかり顔出してくれなくなっちゃってさ。今度からあんたが連れて来てよ」 「は、はあ……」 俺が返答に窮している間に、藤ねえはケーキを頂いてすっかりご満悦だ。 「大口開けてガバガバ喰うなよ。ほら、口の周りにクリームついてるし」 「ん〜?」 指摘してやると口の周りをぺろりと舌で舐め回す藤ねえ。恥ずかしい奴め。あきれてペーパーナプキンを差し出してやる。 「あんた、ホントに変わってないね。なんだか嬉しいわ」 苦笑しながらカウンターに戻った女主人に、藤ねえは口を尖らせて抗議した。 「そんなことないもん。わたし卒業したら学校の先生になるのが決まったんだもん」 「ああ? マジで? そりゃあ、ガキどもにナメられないように気をつけないとねえ」 くわえた煙草をわざとらしく落っことして驚いてみせた女主人に、藤ねえは胸を張って答えた。 「大丈夫だよぅ。やさしいなかにもきびしく教えちゃうんだもん」 「いや、教え方とかそういう以前の問題だろ」 「むぐぅううう〜」 俺が突っ込むと女主人が大声でゲラゲラ笑い、藤ねえはフォークを噛み締めて睨んできた。その顔が愉快らしく、女主人は更に腹を抱えた。 「いや、いい店を紹介してくれた」 藤ねえをまともに相手しながら上手くあしらってくれる大人というのに出会ったのは、非常に貴重かもしれない。 あの後もいいようにからかわれてむくれている藤ねえも、それでもどことなく嬉しげだった。 「だけど一人で行っちゃ駄目だからね。保護者同伴じゃないと」 「藤ねえのどこが保護者なんだよ」 「黙れ小僧」 「そういえばあの店、なんて名前だ?」 「『ロシナンテ』――ああ、そういえば士郎にぴったりだね」 そう言って藤ねえは笑いやがった。お返しとばかりに。 じゃああれか。俺はドン・キホーテか。 ――悪かったな。 藤ねえに口で負ける事はめったになかったが、上手く反論できないのもそう不快ではなかった。 藤ねえと別れて家に帰りついたころにはすっかり深夜になってしまっていた。 土蔵で日課の鍛錬だけこなし、今日はもう寝る事にする。 ――明日から今まで以上に勉強せねば。 あの藤ねえでさえ目標をまたひとつ達成したのだ。負けてはいられない。 翌日。 学校から帰ると、鍵が開いていた。藤ねえがいるらしい。 玄関を開けると、なにやらほのかに甘い香り。 それも料理やお菓子のそれではなく、もっとあからさまに人工的な、普段ウチには縁がないこれは――。 誰か客でも来ているのかと思ったが、玄関の履物は藤ねえのサンダルだけだ。 不吉な予感を覚えた俺は、腹に力を込めて居間に向かった。 「藤ねえ。居るんだろ?」 「あ、士郎おかえり〜」 いつもと同じ藤ねえの声。それが一層、俺の警戒心を掻き立てた。 ――この襖の向こうに、何かヨクナイモノが居る。 このまま通り過ぎ自分の部屋に逃げ込みたかったが、問題を先送りにすると事態が悪化する気もした。 しかたあるまい。 覚悟を決めて襖を開けた俺を迎えたのは、さらに濃度を増した甘い香りと。 いつもと同じ虎縞シャツに、いつもと同じジャンパースカートで、いつもと同じ髪型の藤ねえ。 ただ唯一、その顔面だけがなにやらいつもと少々、しかし歴然と違っていた。 ものを喰らうとき以外はことさら大きくもない唇には鮮やかな紅が引かれ、もともと白い頬はほのかに赤みが差し、やや小振りな鼻筋はすっきりとおり、黒目がちで大きな眼はさらに大きくなり、まつ毛は濃く長く整い、前髪の間からはくっきりとした形のよい眉が覗いていた。 「えへへ。なあに士郎、そんなにじっと見て」 藤ねえは両手でスカートを握り締め、上目遣いで俺を見た。 「おねえちゃんがあんまり綺麗になって、びっくりした?」 俺は黙って静かに襖を閉め、きびすを返した。 「待てやコラ! 何だその態度は!」 すぱーんと勢いよく襖を開け放つ音と猛獣の咆哮。同時に、俺は背後から襟首をつかまれ、居間に引きずり込まれた。 手を払おうと振り返った俺の首に藤ねえは右腕を巻きつけ、右肩口を左手でつかみ首投げに来る。 受けようと腰を落とすが藤ねえはかまわず右足で俺を跳ね上げた。払い巻き込み。俺よりやや背が高い藤ねえの体重もろとも背中から畳に叩きつけられ一瞬息が詰まる。 藤ねえはそのまま俺の右腕を顔で押さえつけ、首に巻いた右腕を絞め上げ肩固めを極めに来た。ブリッジして右肩を抜き腹這いに逃げる。 藤ねえはその俺の右腕を逃がさず、頭越しに俺の右脇に回りこみながら脇固めにひねり上げる。 俺は関節が伸びきる前に右腕ごと藤ねえを力で押し込み、あお向けに押し倒した。 「なにしやがるこの暴力女! いいかげんに――」 「うるさいバカ士郎!」 下になった藤ねえは引き込んだ俺の右腕を両脚で挟み込んだ。十字固めか!? 左手で自分の右手首を握り堪えようとすると、藤ねえは右足を俺の左肩と首の間に深く差し入れてきた。スカートがまくれ上がりむき出しになった白い太腿が首に巻きつく。しまった。 絵に描いたように鮮やかな三角絞めで絞め上げられ、あっという間に聴覚を失い視野が赤く染まる。俺は慌てて藤ねえの膝を叩いて参ったの意思表示をした。 この馬鹿女、最近格闘技のTV中継が増えてから異様に絞め技や関節技が上手くなりやがった。 「いきなり何てことしやがる!」 首にからんだ太腿をもぎ離すと、藤ねえは化粧の崩れた物凄い顔で睨みつけてきた。 「士郎こそなによ! せっかく……せっかくがんばってお化粧した顔を最初に見せてあげたのに」 確かにテーブルの上には鏡や化粧道具、マニュアル本などがぶちまけられていた。ここで化粧したのか。 「どうせ他の誰かにゃ見せる度胸がなかったんだろ。何で急に化粧なんだよ?」 「先生になったら人前に立つんだから、今のうちにお化粧覚えとかなきゃいけないじゃない。それに士郎はいつもわたしのこと女らしくないとか子供っぽいとかバカにしてるから、綺麗になってびっくりさせてやろうと思ったんだから。初めてなんだからちょっとくらい下手でもしかたないじゃない。なのに……ひどいよぅ」 歯を喰いしばり眼を潤ませる藤ねえ。しかしここは正直に答えてやるのが弟分の務めというものであろう。 「あー、いや。決して化粧が下手なわけではなくてだな……藤ねえはやっぱ、化粧なんかしてない方がいいよ」 うぎゅぅううう、と色気のない嗚咽を漏らし、ぼろぼろ涙をこぼし始める藤ねえ。 「どうせわたしは女らしいことなんて似合わないよぅ」 「そうじゃなくて。藤ねえは黙ってりゃ下地は悪くないんだから、素っぴんの方が俺は好きだって、ただそれだけだ」 「ふ、ふんだ。いまさらお世辞で媚び売ったってダメなんだから」 「別に褒めてもけなしてもいねえっての」 藤ねえはしばらく咽喉の奥で唸っていたが、やおら俺の頬に手を掛け、真紅に彩られた唇を押し付けてきた。 力一杯。 それはもちろん口づけなどという生易しいものではなく、頬といわず額といわず擦り付けてきて――。 「こら! 人の顔に化粧をなすり付けるな!」 お互いの顔がグチャグチャになってから藤ねえは俺を解放し、クレンジングフォームを手に洗面所へ消えた。 恐らく俺の顔は藤ねえよりもっと酷い事になっているだろう。鏡は見たくない。 急須にお茶を入れお湯を注いでから、むくれたまま戻って来た藤ねえと入れ替わりに洗面所へ。 なすり付けられたファンデーションやら口紅やらを苦労して落とし居間へ戻ると、藤ねえはまだ怒っているらしく、片膝を立てた上に肘と顎をのせ眉間にしわを寄せて睨んできた。やれやれ。 「あのな。藤ねえが女らしさに欠けるのは、化粧とかそういう表面的なことよりもっとあるだろ、イロイロと。もっと慎みをもて。なにかってぇとサブミッション仕掛けてくる女があるかよ。しかもスカートはいて暴れるな。パンツちょっと見えたぞ」 「うるさい。どうせ見てもつまんないとか色気がないとかいうんでしょ」 「バカ。恥ずかしいからやめろって言ってんだろ」 藤ねえは少し考え込んでから慌てて内股に膝を閉じて座りなおし、真っ赤になって叫んだ。 「ば、ばかばか! 士郎のえっち!」 「自分でやっといて人聞きの悪い事を言うな!」 「うるさい! お嫁にいけなくなったら責任とれ」 「嫁の貰い手がないのは藤ねえが粗忽だからだろ。人のせいにすんな」 「ソコツで悪かったわね! もう士郎なんか嫌い! だいっ嫌い!」 藤ねえは座布団を次々俺に投げつけ駆け出して行った。玄関の引き戸が物凄い音を立てて開け放たれ、サンダルの音が遠ざかって行く。 嫁か。アレの旦那が勤まる奴はそうそうおるまい。 だけどもし、万が一、なにかの間違いでそんな奇特でタフで甲斐性のある奴が現れたら。 そのときは熨斗をつけて送り出してやらねばなるまい。 あれだけ賑やかなバカ姉が居なくなれば、きっと俺は猛烈な孤独感に襲われるだろうけれど、藤ねえを幸せに出来る奴がもし居たなら、そいつのところに喜んで送り出してやろう。 ――その可能性は極めて低そうだが。 急にお淑やかになられても怖いが、いくらなんでもハタチ過ぎてるのにあのままではさすがにマズいだろう。 テーブルの上に散乱したままの化粧道具に目をやり、お茶を淹れかけて忘れていた事に気付いた。 飲んでみると、もちろん出し過ぎて渋い。 その渋さが、今の気分にちょうどよかった。 end
補足 「おねえちゃん〜」シリーズ外伝。原作本編より少し前のお話。 |