vollmond


静かな月の光だけが優しい夜、

全身にその光を浴びて海堂は走っていた。

艶やかな黒髪が舞う度にのぞく、まっすぐ前だけを見つめる鋭い眼と、

鍛え上げられたしなやかな躰で駆るその姿は、さながら「獣」のようだった。



いつも海堂は家から公園まで走る。

そこで基礎トレーニングをして、また家まで走る。

公園までの距離は軽く5qを越している。

つまり、10q以上走ることになる。

海堂はこれを朝・夕、毎日こなしている。


この類い希なる精神力は、彼にとってとても大きな「武器」だった。



ひたすら走る海堂の目に見知った影が映った。

海堂の「武器」に誰よりも早く気付き、導き続ける人物。


乾貞治だった。


「センパイ?」

海堂が声をかけると、乾はゆっくりと振り向いた。そして、

「やぁ 海堂。こんばんは」

柔らかく微笑って応えた。


乾は普段、抑揚のない話し方をする。

笑顔を見せることが少ないばかりか、度のキツイ眼鏡のせいで表情を読みとることが出来ない。

しかし、海堂の前でだけはいろいろな表情を見せる。

海堂はそれがとても嬉しかった。



「ッス。何してんスか?」

真夜中というわけではないが、こんな時間に乾が外にいることは珍しいと思った。

自分も外にいるのだが、このメニューを作ったのは乾なので、説明の必要はない。

まぁ、海堂が自分から自分のことを話すことなどあまりないのだが・・・

「あー うん。あんまりいい月夜だから、散歩したくなってね」

「月?」

「あぁ。人の躰は月の満ち欠けに関係しているからね」

乾はやわらかい笑顔で答えると、視線を上に向けた。

「はぁ・・・」

海堂も乾にならった。

見上げると月が輝いていた。


よくわからないという顔をしたまま月を見る海堂を、

乾は優しく見つめていた。

「せっかくだから公園で月光浴しないか?」

乾が誘うと、海堂は少し嬉しそうに「ハイ」と答えた。



本当ならば走る公園までの道のりを、今日は二人で歩いた。

こんな夜もたまにはいいかと思えた。

『センパイには何か特別な〈力〉がある』

海堂はそう思っていた。

他の誰かと同じ言葉でも、乾がいうと素直にうなずけた。

乾のいうことならば良く聞く自分を知っていた。

悪く言えば、海堂は乾には逆らえなかった。

(と言っても、嫌がることをさせるわけではなく、寧ろいいことなのだが・・・)

海堂は自分が素直じゃない事もわかっていた。

その自分が素直になったり、乾の行動で嬉しいと感じたりするのは、

乾が何かの〈力〉を使っていると思っていた。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



もう二人の他には誰もいない静かな夜の公園。

いつも来ているこの場所も、何か神秘的な感じがした。

乾はベンチに向かわずに芝生に向かった。

海堂は一度ベンチに視線を送るが、すぐに乾の後を追った。

乾は芝生に座ると、自分の隣を「ポンポン」と叩いて微笑みかけた。


―――――ここに座りなサイ―――――


海堂が隣に座ると、ここに来たわけを話した。

「ベンチだと近くに灯りがあるだろ?せっかくいい月なのに見えなくなっちゃうからさ」

”なるほど”と海堂は思った。

月光浴などしない、と言うよりも、ゆっくりと月を愛でることなどしない海堂は、

灯りの有無が美しさに関係するなど知らなかった。

乾は自分を見る海堂から視線をはずし、空へと向けた。

「見てみなよ海堂・・・満月だ・・・」

言われて海堂も空を見上げた。   


そこには白銀色の満月が、眩しいくらいに輝いていた。


先刻、乾に会ったときに見た月と同じだと思えなかった。

人工の灯りに邪魔されない月は、今まで見た中で一番美しかった。

海堂は初めて『本物の月』を見たのだと思った。

奪われるようにその美しさに魅せられてゆく・・・

乾は言葉を失くしてただ一点だけを見つめている海堂の横顔を見てクスリと微笑うと、

また視線を月へと戻した。

暫く二人は何も言わずに月の光を浴びていた・・・


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


雲も、人工の灯りも、何も月の光を遮るものはなかった。

ずっと続くのではと思われる心地よい沈黙は、乾の優しい声で終わった。

「あのね、海堂。さっきに話だけどね、

人の躰は月と密接に関係してるから、適度に浴びるのはいいことなんだ」

海堂は何も応えない

「・・・でもね。あまり浴びすぎると『ルナシー』に襲われるよ・・・」

「・・・ルナシー?」

海堂は月を見たままだった

「・・・そう・・・『狂気』・・・」

そう言うと乾は海堂の唇に自分のそれを重ねようとした。

月から離すことの出来なかった視線を乾の顔が遮った。

眩しかった視界が急に暗くなり、海堂は我に返った。

あと数pの距離だった。

「あ・あのっ オレッ まだトレーニングの途中だからっ」

海堂はあわてて走り去った・・・

「月ではなくお前に魅せられて狂いそうだよ・・・

なぁ・・・海堂・・・」

乾は走り去る海堂の背中を愛しそうに見つめていた。


海堂はいつ気付くのだろうか。

乾がいつも『好きだ』という気持ちを込めて、海堂を見つめていることを・・・



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



公園を出た海堂は家まで走った。

走って何も考えないようにした。

シャワーを浴びて部屋に戻り、大きめの布団に俯せた。


―――――まだドキドキする―――――


「ぜったいセンパイが〈力〉を使ったんだ!」

顔が近づいてくることにドキドキした。

唇が重なり合いそうになることもイヤじゃなかった。

「センパイの〈力〉は『ルナシー』ってヤツだ!」

だからこんなにも乾に狂わされる・・・

海堂はムリヤリそう思うことにした。

特別な〈力〉が『好きだ』という〈力〉だと気付くには、

もう少し時間がかかりそうだった。

二人の「月」が満ちるまで・・・もう少し・・・



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月の満ち欠けが人体に関係あるのか、

水月には解りません。

以前読んだ本に、そんなのがあった気がしたので・・・

水月「自身」は関係あると思っています。

「月の魔力」ってゼッタイにありますよね!

水月はそう信じています。

作中の「白銀」は

「はくぎん」と読んで下さい。

くれぐれも「しろがね」と読んで下さいませんよう・・・